武士の道とは、すなわち弓馬の道。
戦国の世を生き抜く武士にとって、弓と馬の扱いは欠かせぬものといってよい。
しかし、俺に関して言えば、馬の方は段蔵の猛特訓のお陰で不自由はなくなったものの、弓に関してはまったくといっていいほど手付かずだった。
理由は幾つかあるが、一番の理由は、他にやることが多すぎて、弓にまで手がまわらなかったのである。それに馬と違って、早急に身につけねばならない理由もなかったのだ。
これまでは俺自身、特にそのことを気にしていなかったし、周囲から問題とされることもなかったのだが、おれが筑前守に補任されてから、多少風向きが変わってきてしまった。
某筆頭重臣曰く「殿上人の端に連なる者が、弓馬の道すら踏んでいないなどと知れたら、我が上杉の恥だろうッ」とのことで、これは確かに説得力がある言い分だと俺にも思えた。
それゆえ暇を見つけて練習しようと思ったのだが、そもそもその暇というのが一向に見つからない。
武田家との締盟に備え、それこそ東奔西走しているわけだし、それ以外にも通常の政務を処理しなければならないのだ。率直に言って、弓なんぞ引いている暇があったら、もうちょっと睡眠時間を増やしたいくらいであった。
しかし、そんな俺でも例外的に時間ができる場合がある。
それは俺が武田家に赴いた時だ。この時ばかりは外交上の務めを終えれば、あとは特にすることもなく、本を読んだり、温泉に入ったりとゆっくり出来るのである。まあそれだって、ほんのわずかな時間でしかないのだが。
ともあれ、この時間を利用して、少しでも弓に習熟できないものか。とはいえ、武田と上杉の盟約はいまだ途上であり、上杉の重臣(一応いっておくと俺のことである)が弓も扱えないと知られたら、小さからざる影響が出てしまう。率直に言えば、上杉家を侮る者が確実に出てくるに違いない。
武田家の家臣の目に触れることなく、気兼ねなく練習でき、かつ懇切丁寧に教えてくれる師匠がいる場所はないものだろうか――って、そんなところあるわけないか。
と、我ながら間抜けなことを考えていたら、思いがけない声がかかった。
◆◆◆
この時代、弓は戦のための術であって、道を云々するものではない。
だがその一方で、古来から弓矢には霊妙な力があると信じられており、神事や祭事などで弓が用いられることも多い。
それゆえ、弓道ならぬ弓術であっても、そのうちには確固とした道が存在した。
つまり何が言いたいかというと、弓を引く虎綱の姿は、思わず見とれてしまうほど美しいということである。
「……あ、あの、天――ではない、颯馬さん。そのように凝視されると……」
あまりに俺が強い視線を向けていたせいか、弓道着姿の虎綱が、困惑したように言った。
弓を持っていない方の手で身体を隠すように身を縮める姿は、つい先刻まで堂々と射をおこなっていた人物とは思えない。
「……と、すみません、あんまり見事だったもので、ついじっと見入ってしまいました」
「そ、そうですか? そう言ってもらえると心強いです。射にはそれなりに自信がありましたから」
そういって、ほっと息を吐く虎綱。以前の虎綱だったら、もっと自分を卑下するような物言いをしたかもしれないが、今の虎綱はそうではない。それはもちろん良いことだと思うのだが――
「『颯馬さん』?」
俺は不思議に思って問いかける。これまでは普通に「天城殿」だったのだが、なんで急に呼び方を変えたのだろうか。
「あ、や、やっぱり不躾でしたでしょうか……すみません」
「いえ、別に不躾というわけではありませんし、構わないのですが、なんでまた急に、と思いまして」
「あの、それは、御館様が……」
……なんとなくその言葉だけでわかったような気もするが、ここはあえて黙っておこう。
「武田と上杉の締盟は間もなく成ります。ですが、まだ両家の臣は戸惑いを覚え、敵意を消せない者も少なくないでしょう。そういう中で、私とあ――颯馬さんのように、交流を持つ臣がいることは、両家の家臣にとって良い影響を及ぼすとのことで……」
「まずは呼び方を改め、周囲にはっきりと親交を知らせるように――というあたりですか?」
「は、はい。あの、もちろん天城殿がお嫌であれば、無理にとは……」
恐縮しきりの様子の虎綱に、俺はあっさり首を左右に振る。
「いえ、今いったとおり、別に構わないですよ。で、その代わりというわけでもないんですが、ちょっとお訊ねします」
「は、はい、なんでしょうか?」
「いきなり春日殿のお屋敷にお招きいただき、あまつさえ弓の修練までしていただいているのも、やはり信玄様の?」
それは問いかけというより、ほとんど確認だった。
案の定、虎綱はこくりと頷いている。
まあ明らかに都合が良すぎる流れだったからそうだろうとは思ったのだが、なんでまた信玄は知っていたんだろう。弓のことなんて口にしたことはなかったはずだが。
その疑問には虎綱が解答をくれた。
「なんでも幸村さんから話があったとか」
「真田殿……?」
なんで幸村が――って、まさか兼続経由か? 以前、俺と共に兼続が甲斐に来た折、二人が不思議なくらい意気投合していたのは知っていたが、そんなやり取りまでするようになってたのか。
「……まあ、別にいいか。お陰で武田屈指の弓の使い手に教えを請えるわけだし」
俺の言葉に、虎綱は困ったように頬をかきつつ微笑む。そんな姿もまた新鮮だった。
まあ要するに虎綱の屋敷にある弓練場で稽古させてもらっているのです。
虎綱は武田家屈指の弓の腕、と言ったが、随一と言い換えても良いかもしれない。そのくらいに虎綱の射は流麗であり、放った矢はそのことごとくが的の中央を射抜いていた。
で、一方の俺なのだが。
矢を番え、弓を引き、放てばまっすぐに矢が的に向かって飛んでいく、などと思っていたわけではないのだが、実際、考えていた以上に難しかった。というか、普通に弓を引くだけで結構体力を消耗する。
それも当然で、弓は戦において敵を射殺すためのものだからして、軽々とひけるようなやわな造りでは物の役に立たないのだ。
俺でも引くのに苦労するような強弓を、ほっそい身体つきの虎綱がよくも軽々と、しかも連続で引けるものだと思う。
「童の頃から、何百、何千と繰り返してきた動作ですから、慣れもしますよ。それに、私のはこれでも軽い方ですよ。真に強弓と呼ばれるものの使い手であれば、甲冑ごと胴を射抜くことも出来るんです」
俺の賛嘆の言葉にくすぐったそうな顔をしつつ、虎綱はそう教えてくれた。
なるほどと頷いた後、的を見据え、虎綱から教わった基本を踏襲しつつ矢を射放つ。
虎綱の矢が宙空を切り裂く征矢ならば、俺のは何と例えるべきか。
的のはるか手前で力尽きて地面に落ちていく矢を見るに、俺が弓術を身につけたと胸を晴れるようになるまでの道程は、千里の彼方にあるようだった。
◆◆◆
寒気が足元から忍び寄ってくる季節に食すほうとうは至高である。まして作ったのが美少女であるならなおのこと。
「び、美しょ――?! え、あ、お、おからかいにならないで、ください……」
そう言って、顔を真っ赤にして俯くのは、かつて一国の守護職の座についていた人物――冨樫晴貞だった。
現在では虎綱の屋敷に住んでいる、というか屋敷の内向きのことをほとんど取り仕切っているらしく、春日家の家臣たちとの関係も良好だとか。よかったよかった。まあ、上洛の最中であってさえ親衛隊(俺命名)が出来ていたくらいだし、なにより虎綱が傍にいるのだから、家中でのけ者にされているのでは、なんて心配はしていなかったけれども。
「からかっていると思われたなら残念です。ほうとうが美味いのも、晴貞さ――晴貞殿がお美しいと思っているのも事実だというのに」
「うぅぅ」
何やら唸りつつ、やたら鍋をかきまわしている晴貞の姿が微笑ましい。ただ煮崩れが心配なので、あまりかきまわさないでほしかったりもするのだが。
そんなことを考えていると、不意に腕が軋むように痛んで、思わず顔をしかめてしまう。
普段使い慣れていない筋肉を酷使した影響だろうが、これは明日あたり、壮絶な筋肉痛になりそうな予感がひしひしとするなあ。
しかも、あれだけ弓を引いたのに、ほとんど上達らしい上達がみられなかったのだが口惜しい。まあ、一日やそこらで目に見えるだけの成果を出せると思っていたわけではないにせよ、自分なりの手ごたえが欲しかったのも事実なのである。
しかし、虎綱師曰く「千里の道も一歩から」とのこと。やはり修練を積み重ねる以外に上達への道はないのだろう。
そんなことを考えながら、俺は黙々とほうとうを食べ続ける。
虎綱と晴貞は自分から会話を広げる性格ではなく、俺はといえば食べるのに忙しく――というか、本気で美味いので、しゃべっている時間がもったいなかった――結果として、室内は物を食する音だけが響くことになってしまうのである。
とはいえ、別に気詰まりな沈黙というわけではなかった。
むしろ晴貞にしても虎綱にしても、俺の食べっぷりを見ながら時折笑みを零しているくらいである。
「やっぱり、男の方がいると鍋の減りが段違いですね」
「お見事です。私と晴貞さんだけでしたら、三日は保つ量が、一食で綺麗になくなりました」
とは晴貞と虎綱の、俺の食いっぷりに対する感想である。
実際、鍋の中身は七割方、俺の胃に入ったような気がする。一応言っておくが、二人にかまわず貪り食ったわけではない。きちんと良く噛んで、味わって食べ、椀が空になると晴貞がはかったようによそってくれて、またそれを食べ、と繰り返しただけである。
「俺としては、むしろ二人が小食すぎるんじゃないかと心配なくらいなんだが」
特に虎綱は、俺に付き合って厳しい弓の修練をした後だというのに、よくあれだけの量で満足できるものだ。
俺がそう言うと、虎綱は小さく首を傾げる。
「特に食を控えているつもりはないのですが……そこはやはり、殿方と女子の差なんでしょうね」
「そうかな? 弥太郎は俺に負けないくらい良く食べるけど」
あと、段蔵も弥太郎ほどではないにせよ、あの小柄な身体のどこに入るのかと思うくらい、結構食べるのである。
俺がそう言うと、虎綱は思わず、という感じに苦笑をもらした。
「育ち盛りのお二人と比べられると、少し困ってしまいます」
「む、そういうものですか。だが、とすると、二人と同年代の晴貞殿はもっと食べるべきですね」
「そうですね、晴貞さんはこれからが伸び盛りなのですから、確かにもうすこし食事の量を増やすべきだと私も思います」
「……え、え?」
いきなり話の矛先を向けられ、晴貞は戸惑ったようにきょろきょろと俺と虎綱を向後に見やっている。
給仕をしていたことを差し引いても(というか今きづいたが、加賀守護に給仕をさせてたのか俺は)晴貞は明らかに小食すぎた。それが気になっていたのだが、どうやら虎綱も気にしていたらしい。
晴貞は困惑気味に口を開いた。
「あ、あの、わたしは、食事を用意している時に、味見を兼ねて少しお腹にいれてますし、それにわたしはあまり身体を動かすのが得意ではないので、食べすぎちゃうと、その……あ、でも、これでも昔よりは随分とたくさん食べるようになったんですよッ」
拳を握り締めて力説する晴貞。どうも身体のラインが気になるお年頃であるらしい。
それはともかく、晴貞が過去のことを口にしたので、嫌なことを思い出させてしまったか、と一瞬ひやっとしたのだが、表情を見るに特に厭わしいものを感じている様子はなかった。
とはいえ、何も感じていないわけではあるまい。俺は内心で慌てつつ、話題を変えるべく口を開いた。
「そうでしたか、なら結構結構――というか、自分が鍋を空にしておいて、もっと食えとか、何を言ってるんでしょうね、俺は」
「いえ、天城さ――ではなかった、颯馬さんがたくさん食べてくれたのはとってもうれしいです。頑張ってたくさんつくった甲斐がありました」
「美味いものをたくさん食べて、礼を言うならともかく、礼を言われるというのはなんとも珍妙なものですが――それはさておき、まさか晴貞殿にも信玄……様からのお達しがまわっているんですか?」
「あ、あはは」
困ったように頬をかいて笑う晴貞。本当にまわしてるのか妹よ。
周到すぎる信玄の行動に戦慄せざるを得ない俺であった。
まあ、それはともかく、頬をかく晴貞の仕草が虎綱のそれに似ていることに気づき、なんとなく微笑ましくなる。上洛の最中に出会った頃は、こんな風に楽しげに笑う晴貞の姿は想像できなかった。それを思えば、今、眼前にある晴貞の微笑みの価値もわかろうというものである。
だが、それを意識してしまえば、話が過去に戻らざるを得ない。
俺は短く微笑むと、意識を切り替えることにした。
晴貞に気を遣って――というわけではない。折角の機会なので、もう少し弓に触れていたかったのである。
「無論、虎綱殿が良ければ、なのですが」
俺の請いに、虎綱は微笑んで頷いた。
「もちろん喜んで。かがり火を焚けば日が落ちても修練は出来ますし、どうせなら今日は屋敷に泊まっていってください。御館様には使いの者を出しておきます。色々とお話ししたいことや、お聞きしたいことがありますから。さっきの話ではないですが、弥太郎さんたちがどうしているのか、とか」
虎綱の言葉に、晴貞も両手を叩いて賛意を示す。
「ああ、それはわたしも是非お聞きしたいです。越後の冬は厳しいと聞いていますが、皆さま壮健でいらっしゃいますか?」
「それはもう、元気すぎるくらいに。この前など……あ、いや、これは後の楽しみにとっておきましょうか」
「ふふ、わかりました。では、お酒の用意をしておきましょう。修練の方、頑張ってくださいね」
晴貞の励ましに背を押され、俺は再び春日屋敷の弓練場に足を運ぶ。
この日、俺は日が落ちてからも虎綱の指導のもと、弓の練習に励み――多大な疲労と、かすかな成果を得ることが出来たのである。