肥前国蓮池城。
信胤と昌直の四天王二人と共に城を訪れた俺は、その翌日の夕刻に城を出た。
竜造寺家の本城である佐賀城に赴くため――ではない。用件は済んだので、さっさと筑前に帰るためである。
吉継は筑前に帰ることには驚かなかったが、ただ到着した翌日に城を出るとは思っていなかったらしく、頭巾の中から発される声には少なからぬ戸惑いが感じられた。
「用件は済んだとのことでしたが、この短時間で竜造寺を説き伏せることが出来たのですか?」
その問いに、俺はあっさりと首を横に振る。
「別に説き伏せてはいないぞ。多分、これから筑前を攻めることはないと思うが、それはあくまで筑前の戦況を睨んだ上での竜造寺家の判断だ。俺は別にそのことに口出ししに来たわけじゃないからな」
「……では、わざわざ道雪様に請うてまで肥前にいらしたのは何のためなんですか?」
その問いに、俺は肩をすくめて応じた。
「内緒」
「……お義父様」
明らかにむすっとした声が返ってきたので、俺はからからと笑った。
「はっきりいえるのは、竜造寺との和議とか同盟とか、そういうことではないってことだけだな」
そもそも、一介の客将が一国の外交に口を差し挟めるはずもない。道雪殿は加判衆筆頭ではあるが、大友家の外交を一存で決められる権限など持っていないのである。
それに、だ。
仮に宗麟の同意を得て和議なり同盟なりを求めても、おそらく竜造寺は応じないだろう。名目はどうあれ、大友家と竜造寺家では根本となる国力が違う。筑前を奪還した宗麟は、いずれ必ず肥前に圧力を加える――そのことを竜造寺家は承知しているだろうから。
元々、竜造寺家が大友家と袂を分かったのは、その圧力に抗するためである。筑前の戦線で機を失ったくらいで、大友家の下風に立つことを肯うはずがなかった。
もし大友家に余力があり、肥前侵攻が可能であれば、時間稼ぎの意味でも直茂は話くらいは聞いてくれたかもしれないが、二度の叛乱――筑後のそれもいれれば、三度の叛乱の後の大友家にそんな余力がないことは子供でもわかる。
もっと言えば、現状でも竜造寺家が総力をあげて筑前に攻め込んでくれば、大友家は苦戦を免れないのである。
直茂の話によれば、立花山城を囲む大友軍はかなり大胆に肥前方面を空けているようだが、これは精一杯の虚勢といっても良いだろう――無論、そんなことを口にはしなかったが。
俺と吉継がそんな会話を交わしていると、それまで黙っていた長恵が参加してきた。
「ですが師兄。鍋島直茂といえば、竜造寺家にあって随一とも言われる切れ者。それが素直に大友の思惑に乗せられるとは、ちょっと思えないんですけど?」
「乗せられた、というわけではないな。多分、というかほぼ確実に見抜いているだろ。今の大友に余力がないなんてことは、ちょっと情報を集めれば誰にでもわかるしな」
では、何故竜造寺が動かないと思うのか。長恵がそう問うてくると思った俺は、問われる前に答えを口にする。
「まずいのは、あくまで竜造寺家が『総力を挙げて』攻めこんできた場合だ。筑後に蒲池鑑盛殿がでんと構えている以上、総力を挙げて筑前に攻め込むのは至難の業だろう。それに平戸の松浦隆信や日野江の有馬義貞といった肥前国内の反竜造寺勢力も健在という話だしな。そういった四方の情勢に対処する兵を残した上での攻勢であれば、今の大友軍でも凌ぐことくらいは出来る」
ちなみに松浦や有馬の情報は、酒に酔った木下昌直から聞きだした話である。信胤はころころ笑いつつ、肝心要の情報は何も口にしなかった。その一方で俺が昌直から情報を聞き出すのを特に邪魔立てする様子もなかったから、正直、何を考えているやらよくわからん人だった、というのが信胤への主な印象である。
そんな俺の感慨をよそに、長恵が感心したように頷いている。
「――なるほど。恐るべきは大友家の底力ですか。国内が散々乱されているにも関わらず、なお竜造寺家が全軍をあげて攻め込まねば、筑前を取れないとは」
長恵の言うとおりだった。
北九州全域に影響力を持つ大友家と、肥前一国すら掌握しきれていない竜造寺家の、ゆるぎない優劣はここにきてなお生きているのである。
もっとも。
逆に言えば、筑前の戦況次第では、それだけの差があってなお勝利しえると直茂が考えるくらいに、両家の差は縮まっているとも言える。
毛利家や謀反人の存在があったにせよ、両家の勢力を考えれば、これがどれだけまずい状況なのかは誰の目にも明らか――と言いたいのだが。
俺の視線が、少し離れたところにいる誾に向けられる。
俺の意を察した吉継が小さく嘆息し、長恵が小首を傾げる。宗麟を直接に知らない長恵に、大友家の現状を正しく把握するのは難しいだろうから、これは仕方ない。
まあ長恵がこのまま俺の近くに居続けるなら、近いうちに嫌でも知ることになるだろう。
それよりも、と俺は頭を切り替える。
今のうちに二人に言っておかねばならないことがあった。
南蛮神教――ことに吉継の身の安全について。
◆◆
俺の話を聞き終えた吉継は、低く静かな声で確認をとる。
「――それはつまり、南蛮神教が私目当てで再び動く、ということですか、お義父様?」
「正確には、その可能性がある、というあたりか」
俺が答えると、吉継は押し黙ってしまった。吉継にとっては、過去の悪夢を指摘されるようなものだから、落ち着いてはいられないだろう。
俺としても確たる証拠もなしにこんなことを言いたくはないのだが、俺の予測が当たっていた場合、吉継が危難に遭う可能性がかなり高いと思えたのである。
「……何故、今この時に、そう思われたのですか? 石宗様の元に引き取られて数年、あれらが私目当てで動いたことはなかったというのに」
「だからこそ、というべきかな」
「だからこそ?」
吉継は怪訝そうな表情を見せるが、これは一言では説明しづらいことだった。
なので、俺は順を追って説明することにする。
「南蛮神教の役割――俺は宗教に関して門外漢だから、その教えが良いとか悪いとか言うつもりはない。何を信じるかはその人の自由だけれど、それはあくまで個人に限ってのこと。宗教がひとたび権力と結びつくと、ろくなことがないのは事実として知っている」
その害悪は、時として一つの時代すら赤黒く塗りつぶす。
無論、その罪は宗教になく、それを利用する人間にあるわけだが。
そんなことを考えつつ、俺は話を続ける。
「南蛮神教は異国の教え。当然、それを奉じる国が大陸にはある。大海をものともせずに領土を拡げるその国にとって、布教は侵略に先立つ教化でもあるわけだ――もちろん、すべての宣教師がその意図を持っているわけではないだろうがな」
真摯に神の教えを広めたいと願う人がいることは間違いない。むしろ、大半はそういう人たちなのだろうと思う。
だが、彼らの思いがどうあれ、広められた教えが侵略と、その後の統治を容易にするという一面は否定しえない事実である。少なくとも、俺はそう考えていた。
吉継が悪魔と罵られ、大友家を放逐されて、紆余曲折の末、再び石宗殿の元に引き取られた。
あえて口にするつもりはないが、それは石宗殿にとって、南蛮神教側に弱みを握られたに等しいことだったのではないだろうか。
なにせ相手は主君と直接つながっているのだ。宗麟は吉継に同情的だったというが、悪魔という言葉で煽り立てれば、再び吉継の身命に手を伸ばすことは十分に可能だったことだろう。
石宗殿にしてみれば、南蛮神教のやることに手や口を出せば、いつ向こうがその行動に出るかわからないという恐れがあったはずだ。必然的に、南蛮神教を掣肘する行動に限界がうまれる。
連中が吉継に手を出さなかった数年は、南蛮神教が石宗殿の掣肘を受けずに自由に(無論、まったく傍観していたわけではないにせよ)布教を進められた数年でもある。
その結果、今の大友領内でどれだけ教徒が増えたかはしらないが、その数、一万や二万は下るまい。
南蛮神教の勢力を支えるのは、当主である宗麟だけではないのだ。幾万とも幾十万とも知れぬ数多の信者を背景としているからこそ、大友家譜代の重臣たちすら南蛮神教を憚ってきたのである。
大友家の内外に強い影響力を有するようになった南蛮神教。しかし、あのカブラエルという布教長は決して愚かではない。それは、一度、石宗殿の屋敷で向かい合った俺の確信であった。
おそらく、カブラエルはあまりに過ぎた力は、反発を招くことを承知していたのだろう。他の家臣たちが南蛮神教を憚る程度ならば問題ないが、さらに進んで脅威を感じ、ついには危険だから排除しよう、などと考える者が出てくれば、大友家そのものが危うくなってしまう。
大友家の当主と領民に強い影響力を持つ南蛮神教だからこそ、大友家そのものが揺らぐことは望まない。その隙に他国の侵攻を許せば、これまでの苦労がすべて水泡に帰してしまうからである。
それを承知していたカブラエルは、巧妙に反対派との間で権力の綱引きを行っていたのではないか。だからこそ、ここ数年の大友家は、内実はどうあれ、表立った混乱は起きていなかったに違いない。
しかし。
筑後の国人衆の叛乱にはじまる一連の動乱は、宗麟の南蛮神教への傾倒を危惧する者たちの蜂起であり、それは大友家の屋台骨すら軋ませるほどのものだった。
もし、カブラエルが大友家の倒壊を望んでいないのならば、重臣たちのうらみつらみを逸らすために、宗麟に何らかの働きかけをしたはずである。しかし、今回はカブラエルは動く様子を見せていない。石宗殿の法要ではちょっかいを出してきたが、あれは石宗殿の死に乗じて布教を更に押し進めるためのもので、実際、それ以降はまるで動きを見せなかった。
それどころか、豊前の乱後の発言を聞けば、更なる騒乱を望んでいる節さえ見て取れる。
カブラエルが現在の南蛮神教、および大友家を取り巻く状況を理解していないとは思えない。理解した上で、あえてその動きを止めるどころか、加速させているのだとしたら、その理由として考えられるのは――
「南蛮神教は、もう大友家の庇護を必要としていない、と……?」
それが意味することに気づいたのか、吉継の声がわずかな震えを帯びる。
対して、俺は頷くことでそれに応えた。
「権力者の庇護は、つまるところ武力と、それを行使する正当性だ。その二つを得られる目処が立てば、カブラエルたちは別に大友家がどうなろうと知ったことではないだろう」
無論、連中は大友家に恩義を感じて粛々と出て行ったりはしないだろう。可能なかぎりの財と権力を毟り取ってから去るに違いなく、当然、家中の反南蛮勢力は抵抗する。
であれば、あらかじめそんな家中の力を殺いでおくに越したことはない。今回の一連の騒乱に連中が利を見ているのだとしたら、その一点しか考えられないのである。
そして、俺の考えが正鵠を射ていた場合、問題は二つ。
ひとつ、南蛮神教が手にした武力とは何か。
ひとつ、大友家を必要としない正当性とは何か。
前者は単純に信者の数かと思われる。着の身着のままの農民であっても、彼らが農具を手に取って立ち上がれば、それは立派な軍勢となる。中世、イスラム教世界を震撼させた十字軍とは比べるべくもないにせよ、国の一つや二つ征服することは不可能ではあるまい。
あるいは、考えたくないが、今の宗麟であれば、宣教師たちが異国の軍勢を引き入れれば受け入れてしまうかもしれない。これが南蛮神教の武力である可能性もあった。
――まあ、さすがに宗麟でも異国の軍勢を、家臣に諮らずに受け入れたりすることはないだろうとは思うのだが。それに、仮に宗麟が肯ったとしても、普段は南蛮勢力を憚っている家臣たちも、こればかりは黙って承服することはないだろうから、現時点でそこまで考える必要はないように思われる。
ただ、気になる点がないではない。そして、それは次の正当性にも絡んでくるのだが……
南蛮神教が獲得する大友家に拠らない正当性とは何か。それを考えるとき、俺は一つの歴史的事実を想起せざるを得なかった。
俺の知る歴史において、晩年の大友宗麟がキリスト教の理想郷を夢見て日向の地に建国したという宗教国家 『無鹿(ムジカ)』である。
その正否や目的はさておいて、この世界の宗麟であれば、耳元で南蛮神教の、南蛮神教による、南蛮神教のための国家をつくりなさい、とカブラエルあたりに囁かれれば乗り気になるのではないか――そんな気がしてならないのだ。
無論、そんな真似をすれば大友家は間違いなく分裂する。それどころか、その新たな宗教国家は九国中を敵にまわすことになるだろう。
これまで南蛮神教が行ってきた布教と、それに伴う異教の排斥――寺社仏閣の破壊などは、あくまで大友家の領内に限定されていた。平戸の松浦隆信なども、領内に南蛮神教を広めるに際し、強硬手段を用いたとも聞く。両家が行った破壊の規模は大きく異なるが、いずれの破壊も自国内に限定されていたという一点で共通している。だからこそ、その影響は国内に留まっていたのである。
しかし、南蛮神教の布教、異教排斥を名分とした『他領への』侵攻は、すなわち南蛮神教を奉じない大名、領主すべてに対しての宣戦布告に等しい。そして、九国はおろか日の本全土を見渡しても、南蛮神教のみを奉じている地域など存在しない。
すなわち、無鹿建国は、日の本全土を敵にまわすことに等しいのである。
この暴挙を黙って見過ごす者などいるはずはない。日向一国のみならず、九国全土の大名が南蛮神教――ひいてはそれを奉じる大友家を追討するための兵を挙げる。その包囲網には四国、中国の大名も間違いなく加わるだろうし、最悪、京の将軍家さえ動くかもしれない。
そして、その先頭に立つのはおそらく島津家。現在でも南蛮神教を敵視している島津が、宿願の地(日向は古くは島津領)に異教の国家が建てられ、あまつさえ他の信仰を押し潰そうとする様を座視しているとは到底考えられない。
島津は薩摩一国を制圧したばかり、周辺にはいまだ敵も多いだろうが、その敵対勢力とて、南蛮神教に国土を蹂躙されるよりは島津と手を結ぶ方を選ぶに決まっていた。
形こそ違え、これはある意味「耳川の戦い」の再現。
現状の島津家では余力を残して事にあたるほどの国力はないだろうから、おそらく全力出撃になると思われる。他国と異なり、薩摩は日の本の最南端。その後背を衝ける勢力は国内には存在しないから、動員自体は可能であろう。隣国の肥後はつい先日、手痛く叩いたばかりなので尚更だった。
ここで、先に挙げた『気になる点』が絡んでくる。
大友家と南蛮神教を討つために出撃する島津軍
空になる薩摩。
『国内』に、その背後を衝ける勢力は存在しない。
――では『国外』ならば?
◆◆
――筑後川の流れに目を向けながら、長々と語ってきた俺は、ここでようやく一息ついた。
正直に言って、考えすぎなのではないか、と自分でも思う。そもそも仮定が多すぎるし、南蛮側が船団を派遣しているという確証などどこにもない。くわえて、元の時代の知識さえ流用しているので(さすがにこれは言わなかったが)俺以外の人にとっては推論と呼ぶにも値しない暴論、妄想の類に聞こえてもおかしくはない。というか、もし俺が知識なしに他人から聞かされたら、そう思うだろう。少なくとも全面的に信用しようとは思わなかったに違いない。
ただ、一つの可能性として――最悪の未来の一つとして、そんな状況があり得るということは、幾度確認してもし過ぎるということはない。俺はそう考えていた。
ここで、俺はようやく本題に立ち返る。
「南蛮神教が大友家そのものから離れようとしているなら、もう道雪様を憚る必要もない。連中が吉継を教会の敵としてみているのか、それともそれ以外の理由があるのかはわからないが、いずれにしても吉継の身柄を狙ってくる可能性はあるわけだ。だから、これからはなるべく一人では行動しないようにしてくれ。それで、出来れば丸目殿に吉継の護衛をお願いしたい……って、ん?」
そこまで言って、俺はようやく吉継たちの反応が薄いことに気づいて、視線を二人に戻す。
すると――
そこにはいつもどおりの頭巾姿の吉継と、ぽかんと口を開けた長恵がいた。雰囲気から察するに、おそらく吉継も頭巾の中で長恵と同じ表情をしているものと思われる。
「どうした、二人とも?」
「…………どうした、と言われましても……」
「…………師兄の頭は、どうなっているんですか……?」
いぶかしんで訊ねる俺に対し、二人からは何とも言いがたい言葉が返ってくる。
吉継はわからないが、長恵の表情はどこか薄ら寒そうですらあった。
しばしの沈黙の後、どこかおずおずとした感じで吉継が口を開く。
「……お義父様の言ったことが真実かどうかはわかりません。でも確かにそういう可能性もあるのだということは、理解できます。理解できないのは……」
吉継は言いよどむように言葉を止めたが、訊ねたいという衝動に耐えられなくなったのだろうか、すぐに言葉を続けた。
「理解できないのは、今、この場所で、この時点で、そこに思い至ってしまうお義父様のこと……お義父様が筑前での戦絵図を描いたときにも思いましたが、一体どうやったら、ここまで精緻にこれから先に起こるであろうことを推し量れるのですか……?」
吉継の疑問は、そのまま長恵の疑問でもあったらしい。長恵は吉継の言葉にこくこくと頷きつつ、返答を求めるようにじっと俺を見据えている。無論、吉継の視線も、頭巾の中からまっすぐに俺に向けられていた。
それに対し、俺は小さく肩をすくめてみせる。
「どこも精緻なんかではないだろう。証拠もなく、こうなるかもしれない、ああなるかもしれないって言っているだけのことだぞ?」
「でも、お義父様はそうなると思っておいでなのでしょう? だって、そうでなければ、私の前で南蛮神教に関することを口にしたりはしないはずです、お義父様は」
「……む……いや、やはり愛する娘の安全には万全の注意を払いたいと思うわけで、どれだけ可能性が低いとはいえ、出来る限りの手を打つべきと思うわけだ」
「万が一に備えてのことで、別に確信なんて持っていない、ということですか?」
「うむ、さようでござる」
そういって何度も頷く俺の表情に何を見たのか、吉継の口から小さなため息がこぼれた。
「……では、そういうことにしておきましょうか」
「……若干気になる言い方だけど、まあ納得してもらえたなら、よしとしよ――」
「まったくもって納得はしてませんが、訊いたところで、どうせはぐらかそうとするのでしょう? なら無駄な時を費やさず、いずれ話して下さる時を待つのが双方にとって最良だと考えただけです」
吉継の言葉に、俺は一言もなく頭を下げるしかなかった。うーむ、この思慮深さでまだ十五、六か。我が娘は長ずればどれだけの大物になることか、楽しみなことである。
「……お義父様、何を笑ってるんですか?」
「いや、娘の将来に思いを馳せていたら、自然と笑みが」
「……今の話から、どうして私の将来に話が繋がるんです? 一応つけくわえておきますが、半分の半分くらいは秘密主義の誰かさんへのあてつけですよ?」
「そのひねくれ具合も含めて可愛いなと思うわけだ」
「……めずらしく真剣な表情を見られたと思ったら、もういつものお義父様に戻ってるし……」
「む、何か言ったか?」
「いいえ、なにも」
何やらぶつぶつ呟いている吉継に問いかけたら、そっけない返答が戻ってきた。
どうも機嫌を損じてしまったようだが、しかしまさか今の話の大部分が別の歴史を元にしているなんて言えないしなあ……冗談を言うな、と怒られる程度なら良い方で、下手したら狂ったと思われかねん。
俺がそんなことを考え、さてどうやって機嫌を直してもらおうか、と考えていると、すぐ近くから何やら楽しげな声が聞こえてきた。
「あは、師兄と姫様(ひいさま)は仲が良いのですね」
「ひ、姫さ――?!」
長恵の思わぬ呼びかけに、吉継がめずらしく狼狽したような声をあげる。
「はい、師兄のご息女ということですから、そうお呼びしたんですけど、まずかったです?」
「い、いえ、まずくはない、ですが。その呼び方をされたのは、久しぶりだったもので……」
わずかに吉継の声が低くなる。おそらく、そう呼ばれていたのは吉継の両親が健在だった頃なのだろう。
長恵は吉継の生い立ちを知らないが、それでも吉継の声音に感じるところがあったのだろう。あえてそれ以上、言葉を続けようとはしなかった。
しばしの間、あたりに沈黙が満ちる。
吹きすさぶ風が、筑後川の河岸の草をそよがせる。その忙しない音に耳朶をくすぐらせながら、俺たちは期せずして、同時に馬の足を速めるのだった。
◆◆◆
蓮池城内。
城の一室から、去り行く大友家の一行を見下ろしながら、円城寺信胤が口を開く。
「軍師殿の目には、大友家の方々はどのように映りましたの? わたくしは、随分と愉快な方々とお見受けしましたが」
「たしかに、気さくな人たちではありましたね。しかし、いずれも尋常の人物ではない。後々のことを考えるなら、あるいはここで討っておいた方が、竜造寺にとっては良かったかもしれません」
いつもどおり鬼面に顔を隠しながら、鍋島直茂は言う。その口調は間違っても冗談といえるものではなかった。
だが、それを聞いた信胤は表情一つかえず、まるで今日の天気の話でもしているかのように気軽に応じる。
「あの方々が筑後川を渡るまででしたら、いかような手も打てますけれど、どうなさいますの?」
「やめておきましょう」
鬼面に隠れていない直茂の口元が、苦笑を刻む。
「正式の使節ではないとはいえ、大友家の将士を謀殺などすれば、竜造寺の威信が地に落ちてしまいます。いずれ戦場でまみえる日を楽しみにしておくべきでしょうね」
直茂の言葉に、信胤は小さく首を傾げた。
「あら、てっきり和議の打診かと思っていたのですけど、大友家の申し出を断られたんですの? それとも用件が違ったとか?」
「雲居という御仁の口からは、和議のわの字も出ませんでした。そもそも雲居殿が肥前に来たことも、大友宗麟殿はあずかり知らぬとか。加判衆筆頭の戸次殿の許可を得て来たと言っておいででしたよ」
それを聞いた信胤は、おとがいに手をあて、むむ、と考えこむ。
「あの方はどれだけ飲んでも決して用件を口にはされませんでしたし、よほどに重要な用件のようですわね」
「胤殿、確か以前にも一度申しましたが、今一度、苦言を申します。仮にも他家の使いの方を酔い潰すのはやめていただけませんか?」
直茂の厳しい言葉に、信胤はしゅんとうなだれた。
「す、すみません、家中の方はわたくしとちっとも飲んでくれないので、ついつい他家の方をお誘いしてしまって……」
「……まあ、それは」
直茂は再び苦笑する。
円城寺の弓姫が、その実、円城寺の蛇姫(うわばみ的な意味で)であることは、竜造寺の家中ではつとに有名だったりする。
この場にはいない木下昌直(途中参加)が、いまだ寝所でうなされているあたりからも蛇姫のいかに恐るべきかは瞭然としていよう。
「――ともあれ、今回に関して言えば戦機は去ったと見るべきですね。筑前との国境に兵を出している兄者と四天王を呼び戻し、次の機を待つとしましょう」
「成松さんたちはともかく、殿がおとなしく言うことをきいてくださいますかしら? 『今回こそ大友に一泡吹かせてくれるッ!』」
そう言って、信胤は高々と両手をあげる。いわゆる「がおー」の格好である。
「っていって、意気揚々と城を出られましたから、一矢も放たぬうちに退却して、なんて伝えたらぷんぷん怒っちゃうかもしれませんよ?」
「確かに兄者は一度振り上げた拳を、黙って下ろせる方ではありませんね。ならば、拳の落とし所を用意するのが軍師の務めというものです。幸いというべきか、そのあてはありますし、今回に関しては後背もあまり気にせずに済みます。胤殿をはじめとした四天王の皆々には、兄者にお話しした後に改めて伝えますので、今しばらくお待ちを」
直茂の言葉に、信胤はにこりと笑う。
「事の軽重はわきまえておりますわ。ご心配なく。では、わたくしは木下さんに秘伝の酔い覚ましの薬でも持っていってさしあげましょう。一口飲むだけであら不思議、どんな二日酔いも一瞬で治る優れものですの。あいにくわたくしは一度もお世話になったことがないんですが、飲んだ方はみな泣いて喜ぶ一品ですわ」
……しばし後。蓮池城中に何やら騒々しい男性の絶叫が響き渡った。
しかし、城中の将兵は誰一人として、その詳細を知ろうとはしなかったそうである。
そしてもう一つ、城内の人々が知らなかったことがある。
城内の一室で政務を執っていた直茂は、件の絶叫を耳にしてかすかに苦笑をもらした。
だが、その時、直茂の耳は、ほんのかすかな別種の音を捉えていた。
鬼面の下で訝しげな表情を浮かべた直茂は周囲を見渡し、怪訝そうに呟いた。
「鈴……?」
だが、その言葉を証明するものは部屋のどこにも見当たらず。
肥前の才人は、小さく首をかしげた後、何事もなかったかのように再び政務へと立ち戻っていったのである……