長門国勝山城。
毛利軍を率いる毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三将は、戸次勢の参入によって大友側に傾いた戦の形勢を覆すべく、入念に作戦を組み立てていた。
その中で隆元が気にしていたのは、門司城からの知らせの中にある一項である。
小倉城から逃げてきた兵は、攻め寄せた大友軍は八千の大軍であったと報告したらしいのだが――
「それはないよ。筑後の戦いが終わったばかりの今の大友に、そんな余力はない。筑前の国人衆が動いたって報告も来てないしね」
隆景は敗兵の妄言だと切って捨てる。事実、門司城からの書簡にも、その旨は併記してあった。小倉城を陥とした大友軍は多くても二千を越えることはないだろう、と。
だが、と隆元はなおも首を傾げる。
「戸次様は千か二千の兵で小原様の軍の後背を塞いだって、隆景は言っていたよね?」
「うん。それで、鑑元殿は香春岳城の包囲を解いてしまったって」
「つまり、小倉城を陥とした戸次様は、ほとんど全軍を東に向けて、小原様の後方を塞いだってこと、だよね」
その隆元の言葉に答えたのは元春であった。
「おそらくそのとおりかと。しかし、我らにそれを察知されれば、自らが後背を衝かれるか、あるいは手薄になった小倉城を苦もなく奪還されてしまう。それを防ぐために、自軍を実数より過大に喧伝した――いや、あるいは報告をした敗兵も道雪殿の息がかかっているのかもしれませんな」
小倉城が空だと知られれば、門司の叛軍と毛利の軍勢に行動の自由を与えてしまう。そう考えた道雪が、両軍の動きを掣肘するために策を施したのだろう。
無論、掣肘するといっても、精々数日程度である。斥候を放てば、敵軍の多寡を確認することは難しくない。
だが、この切迫した戦況にあって、数日であれ、時を稼げれば大きな成果といえる。しかも、偽報を流すなど大した労力を必要とするわけでもないのだ。
元春がそう口にすると、同意するように隆景はこくりと頷いた。
「自軍を実数より多く喧伝するのは戦の常套手段だしね。ただ、八千はちょっと大げさかな。ここまであからさまだと逆効果だよ。そんな小手先の策を弄しなければならないほど、今の大友家が切羽詰っているって白状したようなものだし」
だから、と隆景は続ける。
「こっちは下手に策を弄する必要はないと思う。隆姉が率いてきた援軍と、春姉の軍を合流させて、正面から小倉城を奪還する。その後、軍を東に向けて、鑑元殿の軍勢と対峙してる大友軍を挟撃すれば、この戦は勝てるよ」
「姉上の率いてきた八千と、私の率いる三千、すべてを小倉城に向ける必要があるのか? たしかに豊前は敵地、兵力の分散は避けるべきだとは思うが、一時的にとはいえ、小原殿が孤立するぞ」
元春の反問に、隆景は小さくかぶりを振った。
「一万以上の兵を率いて、しかも門司城と松山城を確保して、それでなお鑑元殿が敗れるようなら、所詮その程度の人たちだったってことじゃないかな、春姉。確かに鑑元殿をはじめとした他紋衆の人たちをそそのかしたのはぼくだけど、主家に謀叛するって決断したのはあの人たちなんだ。ぼく達は援軍、いわば添え物としてここに来たんであって、他紋衆の人たちを手取り足取り勝利に連れてってあげる義理はないと思うよ」
小原鑑元を筆頭とする他紋衆がここで敗れるなら、それはそれで良い。毛利軍は小倉城を陥とした後、小原勢と戦って疲労しているであろう大友軍を急襲しても良いし、とってかえして門司城を確保しても良い。どちらにせよ、漁夫の利を得る毛利軍の勝利は約束されている。
もっといえば、毛利家が豊前を得るためには、ここで他紋衆側が敗れてくれた方がありがたいくらいなのである。
――だから『一時的に』小原鑑元が孤立したところでかまわないのだ、と隆景は刃物のように薄く、鋭い笑みを浮かべるのだった。
その笑みを目の当たりにした隆元と元春は顔を見合わせ、どちらからともなく口を開く。
「……あの、隆景。とってもいいにくんだけど」
困ったように首を傾げる隆元に、隆景は表情をかえずに先を促す。
「なに、隆姉?」
応えたのは、隆元ではなく元春だった。嘆息まじりに隆景の両手を指差す。
――隆景の両の手は、しわになるほどに強く服を握り締めていた。しかも、ちょっと震えてたりする。
「……顔だけ見れば冷酷な策士なのだがな。それでは『ぼく、今、無理してます』といっているようなものだ。小原殿らに責任を感じているのなら、素直に松山城に援軍に行きたいと言えばよかろうに」
「にあッ?!」
姉二人に指摘され、慌てて両手を服からはなす隆景。
冷徹を装っていた仮面を、一秒にも満たぬ間に姉たちにはがされてしまい、頬がかあっと赤らんでいる。
そんな妹の姿を、姉二人は実に微笑ましそうに見つめる。
「まったく。見ているこちらがこそばゆくなってきますね、姉上」
「ふ、く、う……だ、駄目だよ、元春、そんなこと言ったら隆景がかわいそう」
「……どちらかといえば、私の言葉より、なんかとろけそうな笑みを浮かべつつ、必死にそれをこらえている姉上の姿の方が、隆景には堪えているようですが」
「だ、だって頑張って悪ぶってる隆景が、もう可愛くて可愛くて……ああ、是非、義母様と広爺にも見せてあげたいッ」
「だそうだ。良かったな、隆景」
「なにがどこがどうして良いの春姉いまはずかしくて倒れそうなんだけどぼく?!」
「皆に愛されて結構なことではないか。末姫殿は人気者だ」
そう言ってからからと笑う元春に対し、毛利の末姫は顔どころか首筋まで真っ赤に染めて、うーと唸ることしか出来なかった。
そんな妹の姿に、さすがにからかいすぎたか、と姉たちは表情を改める――若干一名、まだちょっと蕩けてたが。
「まあ、末姫殿の微笑ましい演技はともかく」
「……まだ言うの……?」
「ともかく、だ。別に策の根幹を無理に毛利家の利に据える必要はない。大内、尼子、陶らに脅かされていた頃の我らではないのだ。今の毛利は、利でなく情を策に組みこんだところで、小揺るぎもせん」
「そうだよ、隆景。義母様が当主の座に就いた時、毛利はとても小さな家だった。義母様が情を押し殺して策謀を駆使したのは、そんな毛利の家を――そして、私たちを守るため。その結果として、あの優しい義母様が『謀将』なんて似つかわしくない名で呼ばれるようになってしまった」
隆元の言葉に、二人の妹は姿勢を正す。誰に命じられたわけでもなく、自然と。
「あなたがそんな義母様を尊敬しているのは、私も元春も知ってる。あなたが、義母様の負担を取り除きたいって、一生懸命頑張ってるのも知ってる。けど、今のあなたが、昔の義母様を真似る必要なんてないんだよ。誰よりも義母様がそんなことを望んでない」
そう言って、隆元はそっと隆景の髪に手をのばし、幼い頃、そうしていたように優しく撫で付ける。
「無理に冷酷な謀将になる必要なんてないの。あなたは、あなたのままに成長していけば良い。小原様を助けたいと思ったら、それを策に組み込んでかまわない。その策が間違っていると思ったら、私も元春もきちんと言うし、それでも隆景が納得できなかったら、何度でも話し合おう。元春が言うとおり、それが許されるくらいには、毛利は大きくなったんだから」
今の毛利は、かつてのように一手を誤れば滅亡してしまうような小豪族ではない。安芸国内の統一に奔走していた当時の元就は、専横をはたらく重臣を一族もろとも滅ぼすなどの苛烈な策を断行し、出雲の『謀聖』尼子経久に迫る策士であると恐れられたが、毛利の領域が広がるにつれ、策謀の数と質に明らかな変化が見られるようになった。
それは近年、元就の二つ名として定着しつつある『有情の謀将』という評によく現れている。ようやく、元就の情けを知る為人が他国にも知られた結果であろうと隆元たちは喜んでいるのだが、それでもなお謀事多き人であると警戒されていることに変わりはない。
実際、毛利家は謀略の多くをいまだ元就一人の才覚に頼っている状況なのである。
隆景としては、そんな義母の負担を少しでも減らしたかった。
そのために自分が出来ることは何なのか。
長女の隆元は、自国と他国をとわず、多くの人々から、戦や策略において妹たちに及ばぬと侮られている(これとて隆景からすれば業腹ものなのだが、本人が全然気にしてないので怒るに怒れない)が、その誠実な為人だけは各処で評価されていた。毛利家が背負った謀事多き家、という評は隆元が家督を継げば跡形もなく消え去るに違いない。
武の面でいえば、次女の元春がいれば何の問題もない。すでにその力量は他国にまで轟いている。
であれば、隆景が受け持つべきは策略、計略といった謀事の面しかない。今の時点からそちらに特化しておけば、一に義母の負担を減らすことが出来るし、二に隆元に代替わりしてからも、汚い部分は自身が受け持つことができる。より正確に言えば、辛辣な策を弄したとしても、人々の不審の目は当主である隆元ではなく、隆景の方に向けられるだろう。
家の信用という面から見ても、策謀多き人物が当主に立っているのは好ましくない。隆元はあくまで清廉潔白な為人でいてもらう必要があり、汚れ役は自分が引き受ければ良い、と隆景は考えていた。そこまで考えた上で、今回もあえて酷薄な策謀を用いるつもりだったのだが――
「……全部お見通しだったんだ」
ごしごしと目に入ったゴミを拭う隆景。
それに対し、元春は軽く肩をすくめるのみ。
隆元もまた、あえて言葉を紡がず、隆景の髪を梳くのであった……
あけて翌日。
満を持して軍を動かそうとした三姉妹のもとに、急使が訪れる。それは対岸の豊前の地に布陣する味方からのものだった。
報告はただ一事。しかしそれは雷鳴さながらの轟音をともなって毛利軍を震撼させる。
――門司城陥落。
それは毛利軍の戦略を根底から覆す重大事であった。
◆◆
「門司城が陥ちたって……本当なの、春姉?!」
「降参した門司城の守備兵は、皆、武装を解かれた上で解放された。半ばは野にまぎれたようだが、毛利の陣地まで落ち延びてきた者たちが三百人あまり。その彼らからの情報だ。真偽のほどはわからないが、おそらく間違いないだろう。関門海峡に布陣する我が軍に、大友軍が三百もの人員を費やして偽報を送る余裕などなかろうしな」
「小倉城を陥としてまだ何日も経っていないのに……速いね。さすがは戸次様」
突然の事態に、さすがの毛利の三姫も驚愕を隠しきれていなかった。
落ち延びてきた城兵は、門司城が落城に到った経緯まで詳細に話してくれたらしい。第一報が届いてから、ほとんど間を空けずに訪れた使者は、事細かに戦況の推移を口にした。
「……なるほど、小倉城の敗兵に自軍の手勢を紛れ込ませたのか。元はといえば同じ大友軍、紛れるのはさして難しくはあるまい」
元春が腕組みしつつ述懐すると、隆元も頬に手をあてながら口を開いた。
「小倉城を陥としたのも奇襲なら、門司城を陥としたのも奇襲。戸次様の軍は、十日に満たない時日で信じられないくらいの距離を踏破して、その上で二つの城を陥としている。正しく疾風迅雷――私たちも急がないといけないね」
隆元の言葉に、二人の妹は同時に頷いた。
元春が隆元に向かって口を開く。
「私はすぐに豊前に戻ります。門司の道雪殿がすぐに寄せてくることはないでしょうが、門司が敵の手に渡ったと知られれば将兵の動揺は避けられないでしょう」
隆元が頷き、隆景も同意する。
「うん、春姉、お願い。隆姉の言うとおり、向こうはこの短期間で尋常じゃない距離を戦いつつ移動してる。門司を陥とした大友がそのままの勢いで毛利軍を強襲しなかったのは、それだけの余裕がないからだと思う」
「うむ。あえて捕虜をこちらに放逐して情報を流したのは、毛利が敗兵に疑いを持つよう仕向けるためか」
「多分ね。落城の様子を聞かされれば、また同じ手を使うんじゃないかって心配になるもの。その不安がある限り、毛利は敗兵に武器を持たせることが出来ない。かといって追い払うことも出来ない。そんなことをすれば、毛利が他紋衆を裏切ったってことになっちゃうからね。大友軍にしてみれば、捕虜を食わせる必要がなくなった上に、相手に重荷を押し付けることができるわけだから、一石二鳥だよ」
言っている間に、状況の厄介さを改めて思い知ったのだろう。隆景は小さくため息を吐いた。
「合理的というか、なんというか……立て続けに少数での奇襲を行うことといい、なんか話に聞いている鬼道雪の戦いぶりと随分違うような気がするんだけど、ぼく」
「そうだね。戸次様、というより大友軍の戦いは、他国から抜きん出た国力で大軍を編成して、それを的確に運用して勝利を得る正攻法。それに九州探題という名分が加わった今、まさに鬼に金棒だから、他国の軍がまともにぶつかっても勝機は薄い」
隆元の言葉を、元春が引き取って続ける。
「だからこそ義母上が手を打ち、そのおかげで我らは互角以上の兵力で戦うことが出来ていたのですが……そのために道雪殿も策を用いないわけにはいかなかった、ということなのでしょうか」
「そう、なのかな? たしかに戸次様ほどの方だもの。大軍を手足のように操るのと同じように、小規模の部隊を操る術を心得ていて当然だけれど……」
なにかしっくりいかない、とでも言うように隆元は小首を傾げた。
だが、長考するだけの時間の余裕がないのも事実。
門司という拠点を失えば、毛利軍はもとより、松山城の小原鑑元の作戦にも重大な支障をきたす。くわえて彼ら他紋衆の配下の将兵も動揺を禁じ得ないだろう。
最悪の場合、蜂起は失敗だと考えた兵士が大量に脱落し、一気に勝敗が決まってしまう恐れがあった。
それを防ぐためには、なによりも勝利することが肝要なのだが、敵は難攻の門司城に立て篭もるはず。いかに疲労が蓄積しているとはいえ、一日二日で城が陥ちるとも思えない。
問題はそれだけではない。勝山城に集結している八千の軍勢を対岸に渡すためには、かなりの数の舟が必要になる。毛利水軍の主力は松山城の援護に向けられており、速やかな渡峡のためには、彼らを一度、引き返させなければならないのである。
無論、時間さえかければ、今、海峡に展開している舟だけでも軍勢を移動させることは可能だが、その場合、全軍を渡すのに一体幾日かかることか。
「いずれにせよ、相手に貴重な時間を献ずることにかわりなし、か」
元春がうめくように言うと、隆景はこくりと頷いた。
頷きつつ、しかし、その顔は元春ほどに切迫してはいなかった。
「うん、そう。ならいっそのこと、目先を変えてみよう」
「目先を変える?」
「そう。報告じゃあ戸次殿の軍は千以上。ほとんど全軍を率いている小倉城を出たことになる――今、小倉城はほとんど空だよ」
それを聞いた元春は、思わず膝を打った。
「なるほど、目先を変えるとはそういうことか。我らが小倉城を押さえ、小原殿が今のまま松山城を保てば、退路を失うのは大友軍の方だ。無理に門司城を攻める必要もなくなるな」
大友軍が奇策を縦横に用いるのは、常のような正攻法を用いるだけの余力がないからである。その分、今の大友軍には穴が多い。戦況を見渡せば、乗じるべき隙は幾つも見出せるのである。
元春と隆景の二人は、決断を仰ぐように隆元に視線を注ぐ。
隆元は基本的に戦に関しては余計な口を挟まない。二人が決めたことに対し、了承を与え、その責任をとるのが自らの役割だと考えているためである。
が、今日はいつもと少しだけ違っていた。
今、隆元は何事か考え込むように腕を組んでおり、妹たちの視線に気付いてから腕組みを解き、口を開く。
その口から発せられた言葉は、二人の妹が予期していたものとは異なるものだったのである……
◆◆◆
豊前門司城。軍議の間。
俺は傍らにいる吉継に対して、地図上の一点、門司半島の付け根にある城を指し示してみせた。
「一番望ましいのが、毛利軍が小倉城に攻め込んでくれることです。我らが門司城を確保している以上、陸ぞいに進めば後背を突かれる恐れがありますから、攻めるとすれば、おそらく水軍を用いるでしょう。この誘いの手に乗ってくれれば、この戦はほぼ間違いなくこちらの勝ちです」
戦術の大枠については城を陥とした日にすでに話しているため、これは確認のようなものである。
あの日の吉継は明らかに平静を欠いていたので、念のため、こうして説明しているのだ。
幸い、吉継はもう、寡黙で落ち着きのあるいつもの吉継に戻っていた。
ただ、こうして席を並べていると、先日の吉継もあれはあれで良いなあ、などとつい思ってしまう俺だった。
「――なにか私に言いたいことがおありですか、雲居殿?」
「い、いえ、なにもありません、はい」
なにやら不穏な気配を漂わせながら詰問してくる吉継。
どうも、先日のあれは、吉継にとって痛恨事であったらしい。あの時は俺も混乱の極みに達してしまったのだが、あの吉継も十分可愛らしいんだけどな――
「……雲居殿」
「何も考えていませんし思いだしてもいませんからご安心を」
だから今にも鯉口を切りそうなその動作はやめてくださいお願いします。
吉継との間に、なにかとても微妙な空気が流れてしまったので、あわてて軌道修正をはかる。
つまりは説明に逃げ込むことにした俺だった。
「えーと。そうそう、こちらとしては毛利軍が小倉城に目をつけてくれれば幸いだ、という話でした」
「わざわざ捕虜を解きはなったのは、敵にその選択肢を与えるためでもあった、ということですか」
「そうです。聡い将ならば間違いなく気付くはずです。毛利軍を率いているのはあの毛利の三姉妹だとか。気付くのは間違いないと思います。問題はそこからです」
「問題、ですか?」
「はい。あちらが、俺の予想以上に賢明な人たちだった場合ですね。私が一番恐れているのは、毛利軍がこう動くときなんです」
そう言って、俺は地図を指し示しながら、俺が考える最悪の戦況を説明する。
吉継は食い入るように地図を見つめながら、俺の言葉に耳を傾けるのだった……