豫州陳国 長平 ある時、泣く子も黙る曹魏の大剣 夏侯惇将軍が俺にひとつの問いを向けてきた。「ところで北郷、ひとつ訊きたいことがあるんだが」「は、なんでしょうか、夏侯将軍?」「とんでん、とは一体なんなのだ?」「お前はいったい何を云ってるんだ?」 思わず素で「お前」とか口走ってしまった。それくらいびっくりした。 その途端、左右のわき腹を同時に肘でつつかれる。右は司馬懿で左は徐晃である。 失言に気づいた俺は慌てて咳払いする。「ぐおッほん! し、失礼しました。しかし、将軍。屯田とは今まさに将軍が指揮をとっておられる作業のことなのですが」「むろん、それはわかっている。中々順調に進んでいるな」「将軍さま自らもっこを担いで作業してますからね。下も張り切らざるを得ないでしょう」 下の人間の士気をあげるために責任者が現場で汗を流す。手法としては決してめずらしいものではない。ひねくれた見方をすれば責任者の自己満足だろう。 しかし、たとえそうであっても、河南で知らぬ者とてない夏侯惇将軍がすすんで農作業に精を出している姿を見れば、部下たちは発奮せざるをえない。しかもこの将軍の場合、一日二日だけのポーズというわけではなく、普通に毎日働いているのである。おまけに怪力を利した作業速度が尋常ではない。 通常、もっこの作業は二人一組で行われる。二人で一本の棒を担ぎ、そこにもっこをぶらさげて土やら石やらを積み、必要な場所に運んでいくわけだが、夏侯惇の場合はちょっと違う。 まず両肩に一本ずつ棒を担ぐ。そして、二本の棒の両端にそれぞれもっこを下げて運搬作業を行うのだ。他の人夫は二人で一つを運んでいるのに対し、夏侯惇は一人で四つを運ぶ。一人当たりの作業量で考えれば、他の八倍の働きである。 さらに、夏侯惇はこれをほとんど息も切らせずに繰り返すものだから、まわりの人間はおちおち休憩することもできなかった。 今回、夏侯惇の下に配されたのはただの農民ではなく、訓練された正規兵である。基礎的な体力はあり、規律を守る心構えも持っている。中には農作業をやらされることに不満を持っていた者もいるかもしれないが、彼らを率いる夏侯惇が進んで鍬を振るい、もっこを担いでいる以上、文句など云えるはずもない。 上に立つ夏侯惇が他者の数倍働き、下の人間も将軍さまばかりに働かせては名折れとばかりに任務に精励する。そりゃ堤防づくりも開墾作業も順調に進むだろ、というのが俺の本音であった。 その夏侯惇が「とんでんってなんだ?」と訊いてきたのである。お前呼ばわりしてしまっても仕方ないのではなかろーか。 こっそりと自己弁護する俺の傍らでは、夏侯惇がなおも首をかしげていた。「私たちがやっているのはただの畑仕事だろう? 最近では畑仕事をとんでんと云っているのか?」「ええと、ですね。やっている内容は確かに畑仕事なのですが、それをやる人間が変わると呼び方も変化するのですよ」 慎重に言葉を選んでみたのだが、夏侯惇は今ひとつピンと来ないようであった。苛立たしげにバンバンと卓を叩く。卓を支える四隅の脚が軋む音が聞こえた。「意味がわからん! もっとわかりやすく説明しろッ」「……むう、そうですね、では将軍に馴染みのある軍事でたとえてみましょう。将軍のいらっしゃる城に河北の袁紹が攻めてきたとします」「敵襲だなッ!?」「はい。敵襲です。では、この相手が領内の民衆だった場合――」「きっさまーッ! 華琳さまの統治に不備があるとぬかすのかッ!?」「たとえばです! た、と、え、ば!」「華琳さまの領内で民衆が反乱を起こすことなど万に一つもない! あるとしたら、食い詰めた野盗が自棄になって騒ぎを起こすくらいだ!」「じゃあ、それでいいです!」「じゃあとはなんだ、じゃあとは! もっと真面目に考えろッ」「精一杯頭をひねってるんですけどね!?」 などというやりとりを経て、俺はなんとか夏侯惇に言わんとしていることを伝えた。 同じ戦いであっても、相手によっては名称が「敵襲」になったり「反乱」になったりする。それと同様、同じ農作業であっても、それを行う人間が農民か兵士かで呼び方がかわるのだ、と。 ――うん、わかっている。ぶっちゃけ例えとしてはイマイチ、というか、はっきりと間違っている。一口に屯田といっても、兵士が行う軍屯のほかに、農地を失った農民を移住させて行う民屯というのもあるし。 だが、前提として「夏侯惇にわかりやすく」という条件がついているので、俺にできるのはこれが精一杯であった。 本音をいえば司馬懿に助け舟を出してもらいたかったのだが(民屯等の知識を俺に教えてくれたのは司馬懿と陳羣)、その司馬懿は先の肘鉄以来つつましく沈黙を保っている。夏侯惇も司馬懿の方には目もくれていない。 一見、夏侯惇がことさら司馬懿を無視しているように見えるが、さにあらず。単にまだ名前を覚えていないので、話し相手の選択肢に入っていないだけである。徐晃や、今はここにいない鄧範も同様で、どうも夏侯惇は他人の名前を覚えるのが苦手らしい。 ならばどうして俺の名前を覚えているのかというと、以前、何かの折に曹操が俺を誉めたことがあったらしく、以来、ライバル心を燃やしていたっぽい。 はじめて言葉を交わしたとき、開口一番『他家の臣の分際で華琳さまに誉めていただけるとはなんてうらやまし――もといけしからん奴だッ』と怒鳴られた時は何事かと思いましたよ、ほんと。 まあそういった人物だからこそ、司馬懿がここにいることも出来ているわけで、悪いことばかりではない。 現在、この地で行われている屯田はざっと次のような体制で行われている。 基本構想 陳長文(陳羣) 地形計測 鄧士則(鄧範) 木材伐採 徐公明(徐晃) 実施計画 司馬仲達(司馬懿) 現場監督 夏侯元譲(夏侯惇) このまま漢中から蜀まで攻め取るぞー、とか云われても違和感ない面子である。 ただ、それはあくまで俺から見ての話であって、夏侯惇が丞相の権力を笠に着るような人物であれば、陳羣はともかく鄧範と司馬懿、徐晃は役を降ろされていただろう。 ちなみに俺の役割はと云うと―― 監督補佐 北郷一刀 となる。別に正式にそう定められたわけではないのだが、いつの間にかそんな感じになっていた。なんかいたるところで補佐役ばっかりやっている気がするのは気のせいだろうか? この補佐役、具体的な役割は定められていないが、たとえば今のように夏侯惇からの諮問に応じることも役割のひとつといえるだろう。 他にも以下のような事をこなしている。 某月某日「おい、北郷」「は、なんでしょうか?」「今、ふと思ったのだが」「?」「私は汚名挽回のためにこの地に来た」「汚名は挽回するのではなく返上するものです。はい、それで?」「しかしだな、ここでの任務は農民に扮して国境を守ることにある、とお前は言ったな。よく考えたら、それでは私がいくら頑張っても名誉返上にならないではないかッ!」「名誉は返上するのではなく挽回――」「ええい、さっきからチクチクとうるさいわ! それはともかく、ここでいくら頑張っても私は華琳さまに誉めていただけないのではないかッ!? さては貴様が姦計をめぐらして私をこんなところに連れて来たのだなッ」 ここで「そんなことしてませんよ!?」と悲鳴をあげるのは二流の補佐役である。 一流はこうさばく。「このたわけものッ!!」「――ぬあ!? な、なんだ、なんで私が怒鳴られているんだッ!?」「確かに、ここでいくら田を耕そうが、もっこを担ごうが、夏侯元譲の武名はあがるまいッ」「そ、そうだろう! やっぱり貴様が――」「だがしかし!」「!?」「丞相閣下は世に五万といる凡夫どもと同じ眼しか持ち合わせておらぬであろうか!? 否、断じて否! あの御方は世人の目に隠れた、秘めた功績を確実に見抜く慧眼の持ち主であらせられる! 汝、夏侯元譲よ、まさかこのことを否定するのか?」「ひ、否定などするものか! 華琳さまは万里の果てまで見通す慧眼をお持ちでいらっしゃる! ――む、ということは……」「そのとおり! その慧眼の主が、どうして自らの一の配下の勲功を見逃すことがあろうか。世の誰が気づかずとも、丞相閣下だけは必ず気づく! 汝にとってはそれで十分であろうッ!?」「そ、そのとおりだ! 華琳さまに誉めていただけることこそ我が喜び、それ以外の人間にどう思われようと、私の知ったことではない!」「ならば迷う必要なし! ただ一心不乱に働いて働いて働きぬくことこそ丞相閣下の御意にかなう唯一の道であるッ!!」「そうだ、そのとおりだ!」「――というわけで、将軍。午後も頑張りましょう」「おう、まかせておけ、北郷!」 他日。「おい、北郷。次はどこに行くんだ?」「東の川から水を引く作業ですね」「終わったぞ、次は?」「西の平野を耕した際に出てきた邪魔な大岩を捨てにいきます」「終わったな。よし、次だ!」「北にいって補給の物資を受け取った後、南にいって仲の領土の偵察です――というか将軍、朝に全部仲達が丁寧に説明してくれたでしょう?」「うむ、実にわかりやすい説明だった。だが、どれだけわかりやすくても、一度に説明されたら覚えきれるはずなかろうッ。自慢ではないが、私はいつも桂花に『三歩あるけば何でも忘れる鳥頭』だといわれているのだ!」「……それは本当に自慢でもなんでもないですが、ふむ……」「おい北郷、なんだこのちっこい紙の束は?」「『メモ帳』です」「目も蝶?」「口も鼻も蝶なんですか? いや、そんな化け物の話はどうでもよくてですね、これは聞いた話を忘れないようにメモして――ではない、書き取っておくためのものです。竹簡や木簡ではかさばりますので、陳県令から紙をいただいて用意してみました。将軍のお役に立てば幸いでございます」「ほう、私のために殊勝なことだ。誉めてやるぞ、北郷」「ありがたき幸せ。向後、部下から聞いた話はこちらのメモ帳に記すようになさってください。さすれば、たとえ一度は忘れてしまっても、すぐに思い出すことができるでしょう。武芸に長じた将軍が文事にも通じるようになれば、丞相閣下もさぞお喜びになることと存じます」「うむ! 華琳さまに喜んでいただくため、頑張らねばなるまい!」「……おい、北郷。めも帳がどこかにいってしまったのだが」「こんなこともあろうかと予備を用意しておきました」「おお、さすがだな!」「……あの、北郷?」「む、どうなさいました、将軍?」「その、めも帳がだな、二つともどこかに……」「ふ、皆までいわずとも結構です。こんなこともあろうかと! なんとここにあと三つもメモ帳を用意してあります。この際なので全部さしあげましょう」「おお、これならいくら私でももう忘れん! 礼をいうぞ、北郷!」「……すまん、北郷」「まさか五つ全部忘れたんですか!?」「いや、今日は忘れたのは一つだけだ! 他の四つはちゃんと持ってきている。持ってきているのだが……肝心のめもを書いたのが、忘れたやつだったらしくてな」「……そうですね。これからはどれか一つのメモ帳に書くのではなく、五つ全部に書くようになさればよいのではないかと」「ふむ、そうするか」「……ふえーん、ほんごー」「さあ、今度はなんだ!?」「めも帳は五つとも持ってきたし、朝に聞いた話も五つ全部にちゃんと書いた」「何の問題もないですね」「しかしだな、昼間は土埃が凄かっただろう? それで身体がじゃりじゃりして気持ち悪かったので、服を着替えたのだ。そうしたら――」「服と一緒にメモ帳も置いてきてしまった、と」「……うん」「ところで将軍、この後の作業予定は何でしたっけ?」「ん? 県庁にいって県令どのと話し合いをしてから、戻って堤防づくりの仕上げだろう。それが終わったら、堤防の完成と兵たちの精励を賞するために小宴を設けるのだったな」「そこまで覚えていれば、メモ帳がなくても何も問題はありません」「おお、そうか!」(話を聞いた直後に五回も内容を書き記せば、嫌でも頭に残るよな) 計画どおり! 他日。「うおりゃああああッ!!」「ぬおああああッ!」 開墾地から少し離れた広場において、夏侯惇と北郷は木剣で激しい斬り合いを演じていた。 当然というべきか、形勢は夏侯惇が優勢なのだが、北郷も守るだけでなく、時折鋭い反撃を繰り出しては夏侯惇に後退を強いている。 司馬懿と鄧範、徐晃の三人は、そんな二人の上官の様子を少し離れたところから見守っていた。「ふむ、さすがは曹家きっての猛将と名高い夏侯元譲どの。得物が木剣であっても、その武威は凄まじい」 鄧範が感心したようにうなずくと、徐晃もこくりと同意した。「そうだね。その夏侯将軍とうちあってる一刀もすごいと思うけど。ほとんど怯んでないよ」「北郷さまは劉旗の下で幾多の戦いを目の当たりにし、淮南での戦い以後は自ら剣をとって仲、匈奴、河北の精鋭と刃を交えてきました。夏侯将軍といえど、木剣で北郷さまを怯ませることは難しいでしょう」 その司馬懿の言葉を聞いた鄧範は、からかうような視線を徐晃に向ける。「仲達さまの仰るとおりですね。経歴だけ見れば驍将どのはもはや歴戦の士。聞けば、怒り狂う公明の本気の剛撃も数合は凌いだことがあるとか。それに比すれば、木剣の相手をするなど大したことではないのでしょう」「そ、それはさておいてさ! なんで休みの日に稽古なんてしてるんだろうね、二人とも!?」 額に汗を浮かべた徐晃の精一杯のゴマカシに優しく応じたのは司馬懿であった。「農作業ばかりでは身体がなまる、と夏侯将軍が北郷さまを連行していきました」「……一刀ってもう指揮官の補佐とかじゃなくて、夏侯将軍のお世話係だよね」「従卒ともいうな。ところで公明、それは驍将どのの前で云ってやるなよ。けっこう気にしているようだから」「他の誰にもできない仕事、という意味ではとても大切なお役目なのですけれど」 と、三人の会話が一段落するのを待っていたように、夏侯惇の木剣が北郷の胴に吸い込まれ、膝をついた北郷がうめき声をあげた。「ぐおおぉぉぉぉ……」「ふ、修行が足らんな、北郷一刀!」「しょ、将軍には加減が足らないと思います……」「それでうまいこといったつもりか、バカモノ! 訓練に加減を求める者が、どうして戦場で生き残ることができるのだ!?」「……ぐ、それを云われると何も反論できませんが」「そうだろう、そうだろう。ではもう一本だ! さっさと立てぃ!」 そういって人差し指で天を指す夏侯惇。たぶん「立て」というジェスチャーなのだろうが、なんだか北郷がそのまま天に送られてしまいかねない迫力であった。「……止めなくて大丈夫かな?」「止められるものなら止めた方が良いだろうが、どうやってあの夏侯将軍を止めるのだ?」「本当に限界ならば北郷さまがそう仰ると思います。それまではだまってみているべきでしょう」 さらっと断言する司馬懿を見て、徐晃はそっと隣に声をかけた。(……ねえ士則、仲達さんって実はすごい厳しい人?)(……先代さまは厳しい方だったからな。とくに伯達さまと仲達さまはかなり厳格に育てられたと聞く。仲達さまにとってはあれくらい普通のことなのかもしれない) 司馬懿はなにやらこそこそしている二人を見て、不思議そうに声をかける。「……あの、二人とも、どうかなさいましたか?」『いえ、なんでもありません』 そろってかぶりを振る徐晃と鄧範を見て、司馬懿は小さく首をかしげた。◆◆◆ 揚州盧江郡 皖(かん) 盧江郡の西方には潜山という名の山が聳え立っている。別名を天柱山ともいうこの山は、東に揚州を望み、西は荊州と接する枢要の地にあり、荊州の劉表、揚州の袁術、共に目を離すことのできない地域であった。 もっとも、潜山一帯は険しい地勢が広がっているために大軍を動かすには向いておらず、両国の激突はもっぱら長江ないし荊州北部の南陽郡で行われた。そのため、自然と両国の目はこの地から離れていき、いつかこのあたりは両国にとって緩衝地帯の役割を果たすようになっていた。 二国の狭間にあって、二国の支配が行き届いていない地域。 それは言葉をかえれば、賊徒や無頼漢にとって格好の根城になる場所、ということである。 先に窄融が盧江太守の劉勲と共に討伐した賊将のひとりである張多は、潜山周辺に巣食っていた山賊の頭目であった。 張多は仲軍によって撃殺され、主だった配下もことごとく刑死の憂き目にあったが、仲軍の討伐の手を逃れた者たちも少なからず存在する。 そういった者たちは潜山に逃れ、街道を行く旅人や隊商を狙って小規模な襲撃を繰り返した。これまで略奪で蓄えてきた財貨や食料があらかた仲に奪われてしまったため、彼ら自身が生き延びるためにもそうせざるを得なかったのである。 そういった事情もあり、現在の盧江郡の治安はかなり悪くなっていた。特に潜山がある西部から南西部にかけては、夜間はもちろん昼間に街道を往来するのも注意を要するような状況が続いている。 これに対し、劉勲は潜山の南に位置する重要都市 皖に仲軍を集めて治安の回復に努めており、この行動は着実な成果をあげていた。が、なにぶんにも盧江郡は広い。仲軍が駐屯する城市から少し離れれば、賊徒は依然猖獗を極めていた。 その皖の北、潜山の南麓をはしる街道を、ひとりの旅人が足早に歩いていた。 地味な灰色の外套で身体を覆い、同色の帽子を目深にかぶっているため、年齢はおろか性別さえ定かではない。 ただ、それでも大体の背丈だけはわかる。男性であればやや小柄、女性であればやや長身、そんな評価を受けるだろう。 旅人は人目を気にするように、あるいは何かを警戒するように時折周囲を見回している。 今現在、街道を行くのが危険だということはわかっているが、どうしても行かねばならない用事があり、警戒しつつ旅している――この旅人の様子を見れば、十人が十人、そう考えるに違いない。少なくとも、この旅人を見つけた三人組の山賊はそう考えた。 腕に自信があればコソコソする必要はない。これだけ警戒するということは、危急の際に対処する術がありません、と白状しているようなものだ。 貧相な格好から推して金目のものは期待できないが、ああいう貧相な奴ほど大金を隠し持っていたりする。なにより、あれだけ外見を隠すということは女性である可能性が高い。であれば、稼ぎにはならなくても別の楽しみ方がある。 三人組の山賊は小声でささやきあった。 より正確にいえば声を発したのは二人だけで、もうひとり、明らかに他の仲間よりも年が若い賊徒は、黙って二人の後ろに従っているだけだったが。「一日歩き回って獲物が無しじゃあお頭にぶん殴られる。やっちまおうぜ」「だな。日が落ちる前に片付けよう」 彼らは斥候であり、隊商などの獲物を見つけたら、それを本隊(といっても十人たらずだが)に知らせる役目を負っていた。 だが、治安の悪化にともなって街道を往来する人の数は激減しており、今日は朝から獲物らしい獲物が見つかっていない。このままでは叱責を免れない、と案じていたところに一人旅の(おそらくは)女性を見つけたのである。逃がすわけにはいかなかった。「で、女だったら当然俺が一番な?」「ここで俺に一番を譲ったら、昨日の賭けの負けは忘れてやってもいいぞ」「ち、わかったよこんちくしょう!」 そんな言葉と共に二人は動き出し、少年も慌てて後に続いた。 途中までは足音を潜めて近づき、ある程度まで近づいたら一気に駆け出して距離を詰める。 その足音を聞いて慌てたように振り返った旅人は、自分に向けて殺到してくる三人組を見つけた。 咄嗟に走り出そうとするも、走ったところで逃げ切れないと観念したのだろう、すぐに足を止めてしまった。 こうして山賊たちは労せずして旅人に追いついた。旅人が警戒するように身を縮める中、一人が反対方向の道を塞いで逃げ道を奪ってしまう。「さて、これで逃げられないぜ」「俺たちは天柱山にその人ありといわれた張多さまの配下だ。このあたりを通る旅人には通行料をはらってもらわないといけなくてね」 こういう時、脅し文句が個性的である必要はない。わかりやすいくらいでちょうどいいのである。そうした方が相手は状況を理解しやすい。 その証拠に、旅人は小さな声でこう云った。「……通行料を払えば、通してくれるのデスか?」 それを聞いた賊たちは顔を見合わせて下卑た笑みを交す。聞き間違いようのない女性の声だったからだ。「もちろんだ。だが、その前に顔を見せてもらおうか。ついでにその外套もとってくれ。最近はこのあたりも物騒だからな。お前さんが俺らの敵じゃないという保証はない」 その言葉に旅人はかすかに躊躇したように見えた。 だが、ここで拒絶しても無理やり剥ぎ取られるだけであることは理解できているのだろう。ひとつ溜息を吐くと、最初に帽子をとった。 途端、ふわりと広がった髪が賊たちの目を釘付けにする。明るい栗色の髪は見るからに柔らかそうで、あらわになった顔もそこらの村娘では太刀打ちできないほど上玉だ。 これはもしかすると大当たりであったかもしれない。期せずしてそう考えた三人は、その少女が外套を脱いだ瞬間、その思いを確信にかえた。 少女の服は動きやすさを追求しているようで、両肩はむき出しになり、形の良い胸部や細く引き締まった腰、すらりと伸びた脚などが一目で見て取れる。それでいて、色を売るような爛れた雰囲気はまったくない。健康的な色気というものがあるならば、この少女はまさしくそれの持ち主であろう。 ――ただひとつ、腰の左右に差さった双剣だけが異質であった。 しかし、一人旅をする女の護身道具だと思えば、別段不審がることではない。山賊たちはそう考えたが、とはいえ、これをもって暴れられたら面倒だ。せっかくの上物に傷でもつけたら一大事。 そう考えたひとりが、ずいっと一歩前に進み出た。「おい、腰のものを寄越せ。妙なことを考えるなよ?」「通行料を払えば通してくれるのデスよね? この武器は関係ありません」「ほう、俺らに逆らうということは、やはりお前、何かよからぬことを企んでいるのだな。これは砦にかえって入念に取り調べる必要がありそうだ」 それを聞いた少女が小首を傾げた。 一見、無邪気にも見える仕草。だが、つっと目を細めた少女の雰囲気は、寸前までのものと少しだけ異なっていた。 しかし、山賊たちはこの変化に気づけない。気づいたところで何が変わることもなかったろうが。 栗毛の少女は、自分を取り囲む三人組を見回して問いかけた。「砦、デスか? つまりアナタたちは行きずりの盗賊ではない?」「ふん? 何を証拠に我らを賊だとぬかす?」「先に偽帝の軍に蹴散らされた潜山賊の頭目の名前は張多。その配下であるというアナタたちが賊以外の何であるというのデス? まあ討伐された者の配下だと誇らしげに名乗るくらいデスから、おおかた食い詰めた流れ者が適当に騙っているだけだと思っていたのデスけど」 そう口にする少女の顔に恐怖など微塵もない。 人影のない街道で三人の男に取り囲まれながら、平然としているその姿に、ようやく賊徒は不審を覚えた。それでもまだどこかで「まさか」という思いがあったのだろう、ひとりがからかうように云った。「俺たちが行きずりの盗賊でないとしたら、どうするというのだ?」「それはもちろん決まってます。一人より二人。二人より三人。三人よりたくさん。山賊、盗賊、湖賊、江族、およそ賊と名のつく人たちはたくさん殺した方が良いのデス。大は世の為、人の為、小は私の路銀のために」 歌うようにそう云うと、少女の桜色の唇に好戦的な笑みが浮かぶ。 陰惨さのない、それでいて確かに此方を貫いてくる殺意。 賊たちは少女の言葉よりも、むしろその表情に怖気を覚えて後ずさった。 だが。「がッ!?」「ぎ……!」 抜く手も見せずに腰の双剣を抜き放った少女は、一瞬後には双剣を前後に投擲していた。 宙を飛んだ双剣は、それぞれが狙いあやまたずに賊徒の喉笛を刺し貫く。二人の賊徒は喉にささった剣を抱えるようにして、そのままドウと前方に倒れ込む。二度、三度と痙攣した後は、もう呻き声さえ聞こえなかった。 それはまさしく瞬殺だった。前方はともかく、少女は後方をちらとも見なかったはずなのに、狙いは正確無比といってよい。 ひとり残された少年は剣こそ抜いたものの、斬りかかることも逃げ出すこともできず、その場に立ち尽くしていた。 今、少女の手に武器はない。斬りかかるか、逃げ出すか、どちらを選んでも成算は十分にあるはずだったが、何故だか少年は思ったのだ。どちらを選んでも殺される、と。 少年がかかしのようになっている間、少女は殺した賊徒の身体を仰向けにさせて武器を引き抜き、先の言葉どおり懐を漁って金品を奪っていた。 それを二度繰り返した後、少女はようやく少年に向き直る。 賊の服の切れ端で刃についた血を拭った少女は、双剣を鞘におさめながら云った。「さて、それでは案内してもらいましょうか」「……あ、案内?」「さっき云っていた砦への案内デスよ。そのためにアナタを生かしておいたのデス」「……あ、案内すれば、おれは助けてくれるのか? お、おれは好きで賊になったんじゃない。生きるためには、こうするしかなかったんだッ、殺さないでくれ!」 今さらのように身体をがくがくと震わせて哀願する少年を見て、少女は思いがけないことを聞いたように目を瞬かせた。 そして、心底不思議そうに首をかしげながら、こう云った。「助けるわけないでしょう? 賊の事情なんて知ったことではないデス。ここで死ぬか、案内してから死ぬか。好きな方を選んでください」 ◆◆ 数日後、少女の姿は皖の城内にあった。 すでに日は落ちており、城内であっても外出は禁止されている。そのため、少女はおとなしく飯店兼宿屋の一階で、ちびちびとなめるように酒を飲んでいた。「当面の路銀は確保できましたけど、贅沢できるほどじゃないデスからね。食料だけは山のようにありますが」 山賊たちが云っていた砦というのは潜山の麓にある村のひとつだった。その村から(この世からも)山賊を追い払った少女は、感謝の証として村人から背負いきれないくらいの大量の食べ物をもらったのである。 これからどこに向かおうと餓死の心配だけはない。 だが、少女がどれだけ頭をひねっても、次に行くべき場所は浮かび上がってこなかった。 少女の身上は複雑だった。為すべきことは忘れていない。しかしながら、それを為してはならない理由も抱えているのである。 しかも、為すべきことの方は今の自分ではまだ力が足りない、という自覚もある。 もともと、少女は酒を飲むと盛り上がるのではなく盛り下がるタイプだった。本人にはあまり自覚はなかったが。 とつおいつ考えていくにつれて段々と侘しくなってきた少女は、手慰みに宿の主人から琴を借り受け、ゆっくりとそれを弾き始めた。 夢寐に忘れぬ母の顔 篤き貴き君の恩 孝を想いて孝ならず 忠を望んで忠ならず 天柱山を仰ぎみて 涙数行こぼれ落つ 不孝不忠をいかんせん そんな少女の姿に各処から戸惑ったような、どことなく迷惑そうな視線が寄せられる。 彼らははじめこそ少女の容姿や琴の腕前に感心していたのだが、なにしろ曲調も内容も心愉しくなるものではない。とてもこの曲を肴に楽しく飲もうという気にはなれなかった。 場合によっては罵声のひとつも浴びせられたであろうが、飯店でひとり酒を飲みつつ、涙ぐんで琴を弾いている少女の姿はどう見ても普通ではなく、酔客たちも声をかけかねた。 色々な意味で酔いが冷めてしまった客たちは、改めて酔いなおす気にもなれず、それぞれの部屋に引き上げるために腰をあげる。 宿の主人は頭を抱えたが、今さら少女を止めても手遅れだろう、と諦めた。それにあの少女からは気前よく多めの宿賃をもらっているので、文句を云うこともできなかったのである。 と、不意に琴の音が止まったので、主人は少女の卓を振り返った。 もしかしたら少女が状況に気づいてくれたのかもしれないと思ったからだが、主人の視界に映ったのは少女を取り囲むように立ち並ぶ数人の男たちの姿だった。いや、よく見れば彼らの真ん中に立っているのは髪を短く切った女性であるようだ。 どちらにせよ、なにやら剣呑な雰囲気が立ち込めてきたことは間違いない。まだ残っていた客たちは、面倒事はゴメンだとばかりに足早に階上に姿を消す。主人はというと、一旦は勇を奮って止めようとしたのだが、男たちに凶悪な眼差しで睨まれてあわてて奥へと引っ込んだ。 どうか騒ぎになりませんように。そんな儚い願い事を呟きながら。 当然というべきかどうか、少女と、少女を取り囲む者たちに主人の切なる願いは聞こえていない。仮に聞こえたとしても、双方とも一顧だにしなかっただろう。 両者の会話は、はじめから刃の気配を漂わせていた。「率直に訊く。貴様、馮則だな?」「率直に云いますが、今すぐワタシの前から消えてください。無礼者の相手をする気分ではないのデス」 互いにゴミでも見るような目つきで相手を睨む。「もう一度訊く。先に長江にて江夏の黄祖を討ち取った暗殺者は貴様だな?」「もう一度云いますが、みずから名乗りもせずに相手の名を問う無礼者の相手はしたくないのデス」 ぶつかりあった双方の視線が火花を発し、両者の間で音をたてて空気が軋む。 このままでは埒が明かないと見たのか、あるいはこの状況で怯みもしない相手の正体に確信を持ったのか。 男たちを束ねる詰問者が自らの素性を明かした。「俺の名は于麋。仲国虎賁校尉 窄無碍さまの一の配下だ。喜べ、馮則。無碍さまは貴様のごとき下賎の者を配下として召抱えてやろうと仰せだ。俺たちと共に来い。そうすれば、富貴を望むなら富貴、漁色を望むなら漁色、欲しいものを欲しいだけくれてやるぞ」 それを聞いた少女――馮則は目を丸くし、次の瞬間、耐えかねたように大声で笑い出した。 それを見た于麋の眉間に紫電がはしる。于麋には嫌いなものが幾つもあったが、他者から笑われることは、その中でも一、二を争うほどに嫌いであった。「貴様、何がおかしい!?」「ふふ、ふ、何が? それはもう全部、何もかも、デスよ。将軍ですらない、たかが一校尉の分際で『欲しいものを欲しいだけ』とは大きく出たものデス。おまけに、ワタシに仲に仕えよとは……ふふ」 馮則はそこまで云うと、耐えかねたようになおもくすくすと笑い続けた。そのうち段々と笑いの衝動をこらえきれなくなってきたようで、しまいにはお腹を抱えて笑い始める。 その姿を于麋は歯軋りせんばかりに睨みつけていたが、不意に表情を改めると、その口から低く、冷たい言葉が発された。「――では、無碍さまの誘いは断る、と。そう解して良いのだな?」「あはは、もちろんデス。考慮する必要さえ認めません」 上体を折った体勢で律儀に返答する馮則を見て、于麋はこくりとうなずいた。「わかった。無碍さまにはそう伝えよう」 貴様の首と一緒にな。 内心でそう付け加えると、于麋は懐から抜き放った懐剣を逆手に構え、馮則めがけてためらいなく振り下ろす。 腹を抱えて笑い転げていた馮則にはかわしようのない必殺の一撃は、しかし。「くッ!?」 素早く上体を起こした馮則によって、あえなく受け止められていた。 するりと伸びた馮則の左手が于麋の右手首を掴みあげる。体格からは想像もつかない、万力のような圧迫感を覚え、于麋の顔が苦痛で歪んだ。 相手の手をふりほどこうと後方に下がりかけた于麋に対し、馮則は逆に于麋を自分の側に引き寄せようとする。 短くも激しい力比べの軍配は馮則の方にあがった。咄嗟に踏ん張ろうとして踏ん張りきれず、于麋はよろめくように馮則に向かって倒れこんでくる。 座ったままの馮則と、そこに向かって倒れこむ于麋。一瞬、ふたりの顔が口づけせんばかりに近づいた。 その瞬間、囁くような馮則の声が于麋の耳にすべりこんでくる。「文台さまの仇デス。死になさい、仲賊」 その言葉の意味を于麋が理解する寸前、今度は冷たい刃が于麋の下腹部に突き立てられる。刃の冷たさはたちまち激痛の熱へと変じ、于麋の口からは苦痛の声と共に紅色の液体が吐き出された。