豫州汝南郡 汝陽「それで、于麋(うび)、于茲(うじ)。何が起きた?」 自室に戻った窄融は、劉基に酒の用意を命じながら二人の配下に問いかける。 窄融の前にひざまずいていた于家の姉妹は同時に顔をあげた。 この姉妹、外見上の差異は髪の色くらいであり、顔の造作も体型もほとんどかわりがない。姉の于麋は黒髪、妹の于茲は灰褐色、いずれも髪を短く切りそろえ、紺色の瞳は酷薄な光を放っている。褐色の肌は江南の人間によくみえる特徴であり、むきだしの手足は鋭く引き締まって、見るからに俊敏そうであった。 双子と間違われることもめずらしくない二人であるが、外見が似通っている一方で、中身は外見ほど似ていなかった。 姉は饒舌であり、妹は無口。姉は大胆であり、妹は緻密。姉は戦いを娯楽として楽しみ、妹は戦いを義務として遂行する。 敵に対する容赦の無さだけは共通していたが、それは彼女らに敗れた者たちにとって何の慰めにもならないだろう。 窄融に促され、姉の于麋が口を開く。 前述したように于麋は本来多弁な性質であるが、主の気性は知り尽くしており、こういう時に余計な前置きは口にしない。いきなり結論を告げた。「海昏(かいこん)が落ちました。孫策の仕業です」 途端、窄融の口から鋭い舌打ちの音がした。「それで、海昏を落とした後、連中はどう動いた? 上繚(じょうりょう)の塞(とりで)に向かったか?」「いえ、海昏を落とした孫策は、そのまま余汗に向かいました。まずは播陽湖一帯を押さえる心積もりかと思われます」「まだ上繚を落とせるだけの兵は抱えていない、ということか……」 窄融の呟きを聞いた于茲が小さな声で注意を促す。「無碍さま。孫策は豫章太守の華欽(かきん)と結びつき、兵を動かす名分を得ました。虎が翼を得て、人肉の味を覚えたのです。遠からず上繚も襲われるでしょう」「わかっている。華欽だけであればどうとでもなったのだがな。孫家の亡霊め、余計なことをしてくれる」 室内に再び舌打ちの音が響いた。 揚州豫章郡は長江の南に位置し、荊州と境を接する要地である。 豫章郡の太守は華欽、字を子魚といい、若い頃から令名が高い人物だった。性格は潔癖で、財を軽んじ義を嗜み、政治手法は公正無私という得がたい良吏であったが、豫章郡は多数の蛮族が盤踞し、邪教の宗徒が跋扈する難治の地であり、徳行だけで治めるには限度があった。 この地を平定するにはどうしても武力が要る。だが、朝廷から派遣された太守である華欽には固有の武力がなく、また華欽自身、戦場に出て矛を振るう才略を持ち合わせていなかったため、豫章各地の豪族は華欽の命令を軽んじ、その統制に服そうとしなかった。結果、豫章の混乱は深まるばかりで、紛争解決の目処さえ立たない状況が続いていたのである。 窄融はこの混乱に目をつけた。 実のところ、豫章で策動しているという邪教の一部は、窄融が密かに差し向けた仏教集団であった。彼らは混乱に乗じて勢力を拡大し、海昏県などで信者を増やし、上繚という塞を築いて公然と豫章各地を劫略していた。 むろん、これは袁術の命令ではなく窄融の独断である。目的はいうまでもなく豫章郡を手にいれ、江南における窄融の権力を確固たるものとすることにあった。 豫章の混乱を見れば、その計画が成功する日は遠くない。 窄融はそう考えていたのだが、ここで予期せぬ勢力があらわれて窄融の計画書に無粋な墨をなすりつけてきた。 かつて寿春で袁術に粛清された孫家の残党が、豫章で勢力を広げ始めたのである。 淮南で壊滅的な打撃を被った孫家の兵力は、当初、一万はおろか一千にも届かなかった。これではとうてい勢力の回復は望めないと思われたが、孫策は何の成算もなしに豫章に進出してきたわけではなかった。 豫章には播陽湖(はようこ)という中華帝国でも屈指の規模を誇る湖がある。孫策はこの播陽湖を拠点としたのである。 水戦に長けた孫策軍は播陽湖に軍船を浮かべて兵数の不利を補った。軍船を用いて湖のいたるところに姿をあらわし、一撃離脱の戦法を繰り返して周辺の賊徒を平らげて勢力を蓄えていく。 勢力の拡大は順調であったが、ただ、このとき孫策はひとつ無視できない問題を抱えていた。 この時期、孫策には何の地位も名分もなく、豫章で勢力を広げる孫策の立場は、よくいって「強大な賊徒」でしかなかった。あるいは「仲の二番煎じ」であろうか。孫策が力ずくで豫章郡を奪う行為は、漢朝に対する叛逆とみなされても仕方ないものだったのである。 許昌から豫章にいたる道筋には仲の強大な勢力圏が広がっている。ゆえに朝廷が軍を動かして孫策を討伐する、などという事態は起こりえない。しかし、だからといって名分なき戦いを続けていては孫家の名が廃ってしまう。 くわえて、名分の有無は兵の集まりや、士気にも関わってくる大事である。早く手を打つに越したことはない。 そう考えた孫策は、ここで豫章太守の華欽に使者を差し向ける。 武力はあるが名分のない孫策と、名分はあるが武力のない華欽。 何者かがあつらえたように互いの存在を必要としていた両者は、こうして結びつくに至ったのである。 この間、窄融も手をこまねいていたわけではなかった。 豫章で孫策の存在が確認された際、窄融は豫章と隣接する荊州に使者を差し向けている。使者が向かった先は江夏郡の太守 黄祖の居城。 黄祖は精強な水軍を有し、長江を遡上して荊州を窺う江東勢力から長きに渡って荊州を守ってきた東の番人である。袁術の麾下にあった孫堅とは幾度も矛を交えており、互いに将を討ち取り、討ち取られて怨恨を重ねている。 孫策が江東で再起して勢力を拡大すれば、遠からず荊州を襲うのは自明の理。その際、最初に孫策の標的となるのが黄祖であることもまた明白。窄融はそのことを指摘して、孫家再興を座して眺めていていいのか、と黄祖を唆したのである。 この窄融の使嗾に、黄祖は乗った。 もっとも、仮に窄融が使嗾しなくても黄祖は動いたであろう。黄祖は決して凡将ではない。孫家の再興が荊州に何をもたらすかは十分に理解していた。また、孫策の麾下には黄祖を裏切った甘寧という武将がおり、黄祖にとって孫策の勢力を潰すことは、自分を裏切った人間に目に物を見せてやる好機でもあった。 公私いずれの事情も出兵を肯定した以上、これをためらう必要はどこにもない。 黄祖は自身の水軍を動員して長江に軍船をならべる一方、長沙太守の韓玄に使者を派遣し、陸路からも兵を差し向けるよう願い出た。 韓玄はこれに応じ、長沙郡攸県(豫章郡と境を接している城市)を守備していた黄忠、劉磐の二将に豫章への出兵を命じる。 ここに荊州勢による水陸両面からの豫章侵攻が始まった。 これを聞いた窄融は、ひとまず豫章はこれでよし、と判断する。今の孫策の勢力では荊州勢の侵攻に対応しきれまい。逆に黄祖らに豫章をとられてしまう恐れもあるが、孫策とてそう易々と敗れはすまい。 精々必死に生き足掻け、と窄融は冷笑する。 窄融が江北(長江の北)の権力を掌握するまで、豫章は今しばらくの間、混沌に包まれていてもらわねばならないのである。 ――が、案に相違して孫策はあっさりと海昏県を落としてしまった。 荊州の奴らは何をやっているのか、と窄融が考えたのは至極当然のことであったろう。 そして、この疑問に対する于麋の答えを聞いたとき、窄融はめずらしく表情を動かした。常は能面のごとく動かない窄融の右眉が大きく吊り上ったのである。「……黄祖が討たれた?」「はい。長江を下っている最中のこと。自身の船に馮則(ふうそく)なる者の侵入を許し、あえなく討ち取られたとのことです」「知らない名だ。孫家の奇襲か?」 窄融はそう呟き、すぐに自分で答えを見出してかぶりを振った。「いや、名分を得たとはいえ、今の孫策に兵を分ける余力はない。すると黄祖の部下が謀反を起こしたか」「いえ、無碍さま。信じがたいことですが、馮則なる者、単独で黄祖の船に潜入し、名乗りを上げて黄祖を討ち取った、とのことです」 于麋の言葉を引き継ぐように、于茲が小さく囁いた。「……そして、長江に飛び込んで逃げ去った、と」 それを聞いた窄融は、ことさらゆっくりと確認をとった。「――つまり、于麋、于茲、おまえたちはこう言うのだな? その馮則とやら、場所によっては対岸すら見えない長江を泳いで黄祖の軍勢に近づき、ひとり警戒厳重な旗艦に乗り込んで大将を討ち取った後、再び長江に潜って姿を消した、と……?」 それは甘くとろけるような響きを帯びた声だった。問いを向けられた部下二人は蒼白になって額を床にこすりつける。于麋の面上にははっきりと、于茲の面上にはかすかに、恐怖の表情が張り付いていた。 窄融がこの声を出すのは、極めて機嫌が良いときか、反対に極めて機嫌が悪いときかの二つにひとつ。そして、報告の内容を考えれば、窄融の機嫌が良くなる理由がない。必然的に、いま窄融は激怒しているということになる。おそらく、報告のあまりのありえなさに立腹しているのだろう。 実のところ、姉妹も主の心情は理解していた。 于麋にせよ、于茲にせよ、はじめにこの報告を聞いたときはまったく信用しなかったからである。 広大な長江を泳いで渡るだけでも至難であるに、戦闘態勢にある軍船の列に入り込み、正確に旗艦を探り当て、その最奥にいる黄祖を見つけ出すなど不可能に近い。百歩ゆずってそれが出来たとして、遠方から弓矢で仕留めたというならまだしも(それとて揺れる軍船の上では限りなく不可能に近いが)名乗りをあげて斬りかかり、これを討ち取った後、怒り狂う敵兵の手を逃れ、長江に潜って悠々と逃げ出すなど、とても人の身で可能なこととは思えない。 江夏水軍の兵は例外なく水練に長じている。襲撃者が長江に飛び込んで逃げようとしたところで、たちまち追いつかれてしまうに違いない。それをすら振り切ったというなら、その馮則とやらはきっと竜の化身か何かだったのだろう。 むろん、人の世に竜などいるはずがない。ゆえに、この報告は偽りである。于家の姉妹はそう判断した。 于麋にいたっては「くだらぬ噂を拾ってくるな、無能が」と密偵を斬り捨てようとしたほどである。于茲にとめられて我慢したが。 しかし、である。 その後も報告の内容はかわらず、江夏水軍は大混乱の末に豫章から退却してしまった。ここまで来ると、少なくとも黄祖の身に変事があったことだけは疑いない。 しかも、水軍の退却を知った黄忠、劉磐の二将も長沙に兵を返してしまった。この決断の速さから推して、おそらく二人ははじめから今回の侵攻に否定的だったのだろう。 そして、この荊州勢の動きを肯定するように、孫策によって海昏県が落とされた。事ここにいたり、どれだけ信じがたくとも報告が事実であることを于麋たちは認めざるを得なかったのである。 平伏する姉妹の頭上に、愉しげな窄融の声が降って来た。「……ふふ、ふふふ、面白い。面白い」 于茲は予想と異なる窄融の反応に、いぶかしげに視線をあげた。「……無碍さま?」「馮則。話のとおりだとしたら天性の暗殺者だな――――欲しい」 それを聞き、于麋の口がわずかにひきつった。「無碍さま。闇討ちなら俺でも茲でもお役に立てますが」「手駒はあればあるだけ良い。捨て駒になって消えるか、おまえたちのように有用な駒となって残るかは別として」 駒扱いされた于麋たちであったが、姉妹の顔に不満はなく、むしろ喜びの色があった。 おまえたちは他の配下とは違う。窄融のその一言で于家の姉妹は満たされる。 頭を垂れた于麋たちを冷然と見下ろした窄融は、姉妹にそれぞれ別の命令を与えることにした。「于麋、おまえはもう一度長江に向かえ。配下と共に馮則を見つけ出し、私の下に連れて来い。富貴を望むなら富貴、漁色を望むなら漁色、私に従うのなら欲しいものを欲しいだけくれてやる」「御意。拒絶したら殺しますが、よろしいですか?」「言うにや及ぶ。于茲、おまえは陳に潜入し、我らを引き入れる手はずを整えろ」「……はい」「蚩尤が拾ってきた素体はしばらく使い物にならぬ。喬才が戻るのを待って予行演習を行うつもりだったが、ちょうど良い、ここで馮則の力も試す。この意味はわかるな、于麋?」「は! ただちに出立し、早急に馮則を連れて参りますッ」 叫ぶように返事をすると、于麋は本当にそのまま立ち上がって部屋を出て行ってしまった。 その背を見送る于茲の目には、かすかに姉を気遣う色合いが見て取れる。 窄融はそんな于茲に声をかけた。「心配か、于茲?」「……少しだけ。姉さんは張り切れば張り切るほど裏目に出る。戦いの時だけは別ですが」「ならば告死兵も動かそう。于麋は不要というだろうから密かに。これで安心できるか?」「……感謝いたします、無碍さま」◆◆◆ 荊州南郡 襄陽 蔡瑁、字を徳珪。 蔡家は古くから荊州に割拠していた一族であり、蔡瑁はその当主として今日まで荊州の統治に力を尽くしてきた。特に、劉表が州牧として荊州に入国してから、その忠実な臣として文武両面で主君を支え、彼の統治を安定させた功績は特筆に値する。 荊州は南陽郡をのぞいて劉表の統治下にあるが、これらの地域が中原の動乱を他所に平和を保てている理由は、劉表の優れた政治手腕のほか、襄陽の蔡瑁や江夏の黄祖といった荊州豪族の力によるところも大きかった。 蔡瑁の権勢は荊州でも随一といってよい。その権勢は蔡瑁の姉が劉表の後妻に迎え入れられたことで一層強化されたが、しかし、その基となったのは蔡家の力と蔡瑁自身が積み上げた功績である。 蔡瑁が握っている権勢は、姉の美貌を利して劉表に取り入り、その結果として投げ与えられたものなどでは断じてない。 その蔡瑁の目には、劉備一党は荊州の安寧を脅かす存在として映っていた。 徐州においては官軍(曹操)と戦い、淮南においては仲(袁術)と戦う。これを荊州に受け容れるということは、朝廷と仲を二つながら敵にまわしてしまう危険を孕む。 袁術だけを敵にまわす分には別にかまわない。相手は所詮偽帝であるし、もともと劉表と袁術は犬猿の仲である。劉備一党を北に配し、対袁術の盾とするのも一つの戦略であろう。 だが、朝廷を、曹操を敵にまわすことは断じて避けなければならない。 そう考えた蔡瑁は劉表に対して劉備一党を受け容れないように進言し、劉表が「同族を見捨てることはできぬ」として劉備たちを受け容れた後も、事あるごとに排除を進言した。 幸いというべきか、朝廷は劉備に対する朝敵の扱いは取り下げたが、朝廷を主宰する曹操が劉備に敵意を抱いているのは明らかであり、劉備が荊州にいるかぎり危険は去らぬ。 それだけではない。 劉備が身の程を知って大人しくしているならば見逃しようもあったかもしれないが、あろうことか劉備は劉琦に接近しはじめた。それを知ったとき、蔡瑁は劉備の排除を不可避のこととして決断せざるを得なかった。 病弱ゆえに継承権を放棄したとはいえ、劉琦はれっきとした劉表の長子。そこに劉備という武力集団の長が近づいたとき、何が起こるかは火を見るより明らかである。 この際、劉備と劉琦の野心の有無は関係ない。ふたりの接近を見た他者がそれをどう見るのか、それこそが問題なのである。 蔡瑁にとって劉備の行動は平地に乱を起こすものだった。 野心をもっていようがいまいが関係ない。道義の上では罪にならずとも、政治の上では罪になる行動というものがある。もし劉備がその程度のこともわきまえていないのであれば、なおさら排除しなければならない。そんな人物が武力をもって荊州をうろつくなぞ、蔡瑁にしてみれば悪夢以外の何物でもなかったのである。 荊州の繁栄は、蔡瑁をはじめとした荊州人の長年にわたる汗血の結晶。権力のなんたるかも知らぬ余所者に踏みにじらせるわけにはいかない。 しかし、一度は客将として迎え入れた劉備を後から討てば、劉表や蔡瑁の声望がかげってしまう。しかも、淮南戦で最後まで偽帝と戦い抜いた劉備軍の評判は荊州でもそれなりに高まっており、ここで劉備を処断すれば人心の混乱を招くだろう。 おまけに、どうも劉表自身も劉備を気に入っている節があり、蔡瑁の献言にもうなずいてくれない。もし蔡瑁が武断的な解決をはかれば、劉表との間に隙が生じる恐れもあった。 どうしたものかと頭を抱えた蔡瑁は、荊州の智嚢ともいうべき人物に相談してみることにした。 解越、字を異度。明晰な頭脳と優れた智略で知られる荊州屈指の賢人である。くわえて、解越は雄偉な身体の持ち主としても知られていた。蔡瑁も武将として身体を鍛えているのだが、解越と向かい合うとどっちが武将なのか分からなくなる。 その解越が提案したのが劉備を北部国境に送り込む策であった。 解越は言う。 確かに劉備の行動は荊州を脅かしかねないものである。だが、それは彼女を襄陽に置いておくから発生する問題であって、国境に配置すれば忠実な番人として荊州の役に立ってくれるだろう。 劉表からの命令であれば劉備は否とは云うまいし、もしも否と云うようであれば、それこそ野心がある証である。改めて劉表に劉備の危険性を説けばよい。 解越は蔡瑁ほどに劉備を敵視していなかったが、その行動が荊州の安定を損なうものであることは同意であった。 ゆえに、劉備と劉琦を物理的に引き離す。 この解越の策に蔡瑁は幾度もうなずき、ただちに実行に移す。 結果、劉備は新野の城主として南陽郡に赴くことになった。 その後、蔡瑁は李儒からの密使を利用して劉備軍の勢力をそぎ落とすべく策動を重ねていたのだが――「まさか、こうもたやすく数に優る南陽軍を打ち破るとはな」 襄陽城の執務室で蔡瑁は苛立たしげに呟いた。 蔡瑁の手にあるのは新野に赴いた張允、文聘らの諸将から届いた報告である。 蔡瑁と向かい合う席に座っていた解越は感じ入ったように深々とうなずいた。「聞きしに優る、というべきですな。南陽軍が洛陽に赴くのを優先していたという有利はあったにせよ、それでも倍以上の兵力差を覆すとは凄まじい」「異度どの、感心している場合ではなかろう。許昌からの報せでは、曹丞相は河北軍と飛蝗の対処で忙しく、南陽には手を出せそうにないという。このままでは劉備めが南陽を制してしまう。それはまずいのだ」「玄徳どのが丞相閣下とぶつかった際、逆賊としてその背を襲って憂いを断つ、という計略も使えなくなりましたかな?」 からかうような解越の言葉に蔡瑁はぎくりとした顔をする。 慌てて表情を押し隠したが、すでに時おそしであった。 解越は蔡瑁をなだめるように優しい語調で続けた。「玄徳どのの資力では宛の住民を養うことはできませぬ。ゆえにあの御仁が独力で南陽を制することは不可能。蔡将軍であれば、この程度のことは拙生が口にするまでもなくおわかりになるでしょうに」「む……だが、宛の財をもってすれば不可能も可能になるやもしれぬ」「宛は豊かな城市ですが、無限の財があるわけではございません。かねてより李文優が宛の富を洛陽に注ぎ込んでいたのは周知のこと。急遽かき集めた財で救えるのは宛の民の一部のみでしょう」 すべてを救うには足りず。かといって一部だけを救おうとすれば、そこからあぶれた者たちが不満を抱く。「玄徳どのがいずれを選んでも、宛の民は玄徳どのへの信を捨てます。信なき者に民は従いませぬ」 それを聞いた蔡瑁は口に手をあてて考え込む。「ふむ、とするとこちらはどう動くべきか」「玄徳どのに使者を出し、宛の住民はこちらで引き受ける旨を伝えればよろしい。襄陽の府庫には金子も糧食も十分に蓄えられています」「そうすれば民の声望も、荊州の人士の称賛も、劉備に向くことはないか」「南陽軍を打ち破った武勲以上のものが玄徳どのに積まれることはないと心得ます。その武勲とて、このまま蔡将軍が兵を進めて南陽郡を奪ってしまえば霞んでしまいましょう」 曹操が動けず、袁術が国内の叛乱で身動きとれない今は絶好の機会。この機に一挙に南陽郡を奪ってしまえ、と解越は云う。 それが成功すれば、劉備の武勲など気にかける必要さえない、と。 この解越の献言に蔡瑁は乗り気になった。 空になった宛は劉備に任せ、その間に南陽郡の各拠点を制圧してしまえば、蔡瑁の驍名は一気に高まるだろう。 だが、この計画は実行に移される前に中断される。 江夏太守 黄祖戦死の報せが届いたためであった。 数十年の長きに渡り、共に劉表を支えてきた僚将の死を知った蔡瑁はしばらく呆然として声も出なかった。 我に返った蔡瑁は慌てて劉表に報告にあがったが、劉表もまた驚愕のあまり数瞬の自失を余儀なくされた。長年にわたって東部国境を守ってきた重鎮が死んだ。それも病死や戦死ではなく、暗殺されたも同然の最後であったという。この件が荊州に与える影響は計り知れない。 だが、劉表たちはいつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。 黄祖が死亡した今、江夏の守りはきわめて不安定なものになっているはずだ。一刻も早く後任を選定しなければ他勢力の侵入を招く恐れがある。 また、江夏南部には荊州最大の、というか中華帝国最大の銅鉱山が存在する。江夏の混乱は一地方の混乱というに留まらず、荊州の軍事、経済を崩壊させる引き金になりかねないのである。 黄祖には黄射という成人した息子がいる。この息子を後継者として黄祖亡き後の江夏の守りを委ねるのが最善であろうか。 しかし、劉表も蔡瑁もこの人事は迷わざるを得なかった。 黄祖配下の水軍は「江夏蛮」という江夏周辺の異民族が主力となって編成された部隊である。彼らは黄祖が長であればこそ素直に荊州軍に従っていたが、黄祖の息子である若輩の指揮に従うだろうか。最悪、叛乱を起こすかもしれない。 新野から張允なり文聘なりを戻して江夏に差し向けるか。 蔡瑁は真剣にそれを検討した。 しかし、彼らを戻せば南陽郡を制圧する戦力に不足を来たす。それに黄祖が死んだ今、これさいわいとばかりに蔡瑁の息のかかった人間を送り込めば、黄祖の遺臣や他の廷臣が反発するかもしれない。 蔡瑁と黄祖の間にはさしたる怨恨はないが、自分が嫉視される立場にあるという自覚は蔡瑁も持っていた。 黄祖の死は、一歩間違えれば一大事になる危険を孕む事態である。 だが、と蔡瑁は考えた。 なにも自分の手で火中の栗を拾う必要はない。この役に相応しい人間が荊州にはいるではないか。 武威もあり、智略もあり、そして荊州のために尽力する誠心もある、そんな者が。 蔡瑁は自身の着想に満足し、劉表に向かってゆっくりとその案を口にした。 ◆◆◆ 豫州陳国 長平 綺麗な黒髪を腰の後ろで一つに束ねたその女性を見た瞬間、俺は咄嗟に駆け出していた。 俺より五歳ほど年上に見えるその人の顔に見覚えがあったからだが、もう一つの理由は、相手の方も俺に向かって駆け出そうとしているのが見えたからである。 この人を走らせてはならない。早足もダメ。何故なら、何もないところでも転ぶ人だから。 陳羣、字を長文という女性はそういう人だということを、俺は良く知っていたのである。 俺と向き合った陳羣は上体を九十度近く折り曲げて再会の挨拶を口にした。「北郷どの、お久しぶりでございます」「お久しぶりです、陳た――げふん、陳県令。ご壮健そうで何よりです」 思わず以前のように陳太守と呼びそうになり、俺は咳払いしてごまかした。今の陳羣は長平県の県令である。 陳羣はじっと俺の顔を見つめた後、ほっとしたように胸に手をあてた。「北郷どのこそ、お元気そうで安堵いたしました。徐州での戦の後、ろくにご挨拶にうかがえず、心苦しく思っていたのです」 再び頭を下げようとする陳羣を、俺は大慌てでとめた。「陳県令、そのように何度も頭を下げずとも結構です。徐州の動揺をしずめるべく、各地の県令を歴任しておられたことはうかがっていますから」 そう、俺や関羽が許昌にいる間、陳羣や孫乾は主に徐州で働いていたのである。聞けば糜芳や曹豹といった旧陶謙軍の将兵も、主に徐州での治安維持を命じられているらしい。 それを知って俺は安堵の息を吐いた。彼らとは仰ぐ旗がかわってしまったが、それでもかつては同じ陣営で戦った者同士、その無事を聞いて嬉しく思ったのである。 と、その時だった。 俺はいきなり背後からどやしつけられた。「おい北郷! いきなり駆け出して陣列を乱すとは何事だ! この夏侯元譲、軍律を乱す者に容赦はせんぞッ」「ぬお、申し訳ございません、夏侯将軍。緊急事態だったもので」「緊急事態? 何がだ? 別に何も起こっていなかったろうが」「……それは、その、ここでは非常に説明しにくいのですが」 陳羣がこけるのを未然に防ぐためだった、なんて本人の前で云えるわけがない。 だが、このはきつかない返答はいたく夏侯惇の機嫌を損ねてしまったらしい。 曹魏の大剣どのは、その異名の由来となったであろう業物『七星餓狼』を振り回してお怒りあそばされた。「ええい、わけのわからないことをしたと思ったら、今度はわけのわからないことを言いおって! さてはキサマ、少しばかり手柄をたてたからといってわたしをバカにしているなッ!? 勝負だ、北郷ッ」 癇癪を起こした子供のような言い草であったが、この人がこれを本気で云う人だということは、ここ数日で――否、最初の一日でしっかりと思い知らされている。放っておけば本当に大剣を振り下ろしてくるだろう。 俺は大慌てで釈明した。「俺が将軍に勝てるはずないでしょう!? そもそもバカになんてしてませんよッ」「……本当か?」「本当です!」「本当に本当か?」「先回りして言いますが、本当の本当による本当のための本当です」「ならばよしッ」 我ながらわけのわからない釈明であったが、夏侯惇はすっきりした様子で大剣を収めてくれた。 やはりこの人を相手にする時はノリと勢いが大切であるらしい。俺は頭の隅にこのことを銘記しつつ、びっくり眼で立ち尽くしている陳羣と陳羣の部下、さらに俺と夏侯惇の後ろで控えていた将兵を眺め渡した。ついでに溜息も吐いた。 陳羣に恥をかかせまいとする目的は達成された。代わりに俺と夏侯惇が恥をかく羽目になったような気がするが、これはきっと気のせいだろう。 気のせいだと思いたかった。 さて、ここで説明しておかねばならないだろう。 どうして俺が夏侯惇と一緒に陳羣の治める長平県にやってきたのか。 理由は単純といえば単純で、張莫から命令されたのである。 正確にいえば、陳羣から派兵の要請を受けた張莫が俺にその役割を振って来た、ということになる。 陳国は許昌がある豫州潁川郡のすぐ東に位置する。 ここでいう陳『国』とは『郡』とほぼ同義で、郡は皇帝の直轄地、国は皇帝から皇族に与えられた領地を指す。郡を治める者を太守、国で太守に相当する地位を国相と呼ぶ。 豫州には他に梁、沛、魯といった国があるが、これは余談。 陳国の王を劉寵といい、陳の国相を駱俊(らくしゅん)という。この両者は国名と同じ陳という名の城市にいるのだが、陳羣が県令に任じられた長平県はこの陳の西方にあった。 曹操がいる潁川郡、劉寵がいる陳、そして仲の領土である汝南郡と境を接する重要拠点である。 この長平県の南方に汝陽という城市があるのだが、最近、そこを中心として仲の兵馬が不穏な動きを見せている、というのが陳羣からもたらされた報告であった。 仲軍の主力はいまだ寿春から動いてはいないが、汝南にも相当数の仲兵が駐屯している。これが北に動けば厄介なことになるだろう。 そうなる前に援軍を、というのが陳羣の要請であった。 むろん、陳羣も現在の情勢は把握している。今、曹操軍に仲軍と戦う余力はない。ヘタにこちらが守備兵を増強すれば、仲もそれに応じて兵を増やしていき、この張り合いは遠からず両軍の激突という結果を招くだろう。あるいは、仲はそれを狙って盛んに兵馬を動かしているのかもしれない。 それとわかれば誘いに乗るのは愚かなことなのだが、かといって誘いを無視し続ければ、こちらに余力がないことを見抜かれて、やはり仲の侵攻を招くかもしれぬ。 そこで陳羣が考えたのが――「屯田の要請、というわけだな。国境に民に扮した兵を配置し、田を耕させる。こうすれば仲としては次の行動に迷うだろう。もし仲が攻めてくるようなら兵としてこれを防ぎ、仲が動かなければそのまま田畑を増やして蝗害に備える。どちらに転んでも我が方の不利にはならん」「対抗して向こうも屯田してくるかもしれませんよ?」「そうなったら、どちらが広大な田畑を拓くかで競えば良い。実に健全な争いだ」 そんな会話を交わした後、俺は張莫の命令にうなずいた。屯田のシステムやノウハウには興味があったし、どこそこの砦を落として来いとか、どこそこの城を死守せよとかいう命令よりはよっぽどマシだ。 もちろん、俺の脳裏にはつい先日の張莫の言葉があったことは云うまでもない。 ここまでは特に問題はなかったのだが、出発当日、何故か長平に向かう兵士たちの先頭には見慣れぬ武人の姿があった。 見慣れてはいないが、見たことはある。さすがに曹操の宿将の顔は忘れられない。「……で、どういうことですか?」 俺が訊ねると、張莫はあさっての方向を見やりながら頬をかいた。「いや、どうも春蘭のやつ、今回の決戦で華琳の役に立てなかったとしょげ返っていたらしくてな。ずっと青州に張り付いていたので無理もないんだが。何か名誉挽回できることがあれば良かったんだろうが、今、華琳は白馬城で麗羽の動向を睨みながら蝗害対策をやっている。秋蘭ならともかく春蘭では何の役にも立てん」 何気にひどい言い草であった。まあ事実なんだろうけど。 そんなことを考えながら、俺は張莫に応じた。「そこに仲の動きが伝わり、ちょうど良いから行って来いと丞相閣下に送り出された、とそんなところでしょうか」「うむ。本来なら許昌でいざという時に備えるべきなのだが、今の春蘭に待機してろといっても聞くはずがない。華琳からもよろしくしてやってくれと言伝が届いている。それに、これが一番重要な点なのだが、そもそも春蘭が青州に赴くことになったのは、私が汜水関に出張ったせいでな。私としても春蘭の希望をかなえてやりたいのだよ」 それを聞いて俺は眉をひそめた。面倒ごとを押し付けられたと思ったから――ではない。「仰りたいことはわかりましたが、こちらとて戦うと決まったわけではないでしょう? むしろ戦わずに終わる可能性の方が高いと思いますが」「確かにな。だがまあ、お前がいるんだ。何か起こるだろ」 ……今、さらっとひどいことを言われた気がした。「それはどういう意味で?」「いやなに、先の虎牢関でも、たぶん敵は来ないだろうと考えてお前に後を任せたら、待ってましたとばかりに敵が攻め込んできた。今回も同じようなことが起こるかもしれんだろ?」「いや、それなら俺を出すのはまずくないですかね!?」「許昌に置いておいたところでまずいのはかわらん。なら、あの白面(李儒のこと)の言葉を確かめる意味でも試してみる価値はある」 俺は、ああ、なるほど、とうなずいた。至急戻って来いというのは、そういう含みもあったのか。今さらながらに気づいた俺は小さく肩をすくめた。「仲が動いてから文句を言わないでくださいよ?」「案ずるな。仮にお前を狙って仲が動いたのなら、それはそう仕向けた私の責任だ。きちんと尻拭いはするさ」 その張莫の言葉に俺が応じようとした時だった。「おい貴様、北郷一刀!」 いきなり背後からどやしつけられ、俺は思わず背筋を伸ばしていた。「は、はいッ!?」「先ほどから聞いておれば、貴様、黒華さまに対してなれなれしいにもほどがあるッ! 黒華さまは陳留太守にして華琳さまのご親友であらせられれる! 礼節をわきまえよッ」「春蘭、れが一個多いぞ」「は、お任せください、黒華さま! 此度の任の間に、この無礼者の性根、しっかりと叩きなおしてご覧に入れますッ!」「誰もそんなことはいっていないんだが……まあその、ほどほどにな?」「ははッ! どうぞ大船に乗った気持ちで、吉報をお待ちくださいますようッ」 見るからに気合の入りまくった(そして空回りしまくった)夏侯惇を前に、張莫はすこしばかり気遣わしそうに俺を見た。「一刀も、まあなんだ、しっかりやってくれ。先に言ったことは必ず果たすから」「……承知いたしました。前途に暗雲が漂っているような気がして仕方ありませんが、精一杯務めさせていただきます」 俺はそういって張莫に頭を下げた。 この時点で気づいてはいたのだ。前途に待ち受けるのが暗雲などといった生易しいものではなく、紫電の閃く雷雲であることは。 だが、世には言霊というものもある。あえて不吉を口にして不幸を招き寄せることもなかろうと、俺はできるだけ楽観的に構えることにしたのである。