荊州南陽郡 宛 その部屋は一言でいって最低だった。 窓がなく、採光や風通しを良くする工夫も為されていないため、室内の空気は常に重く淀んでおり、床や壁面は湿り気を帯びたカビでびっしりと覆われている。部屋の隅に置かれた寝台の布は黄色とも黒ともつかない色に染まり、その反対側には絶えず不快な臭気を放つ小さな穴が掘られていた。その周囲からはカサカサと何かが蠢く音も聞こえてくる。 外の景色を見ることができないため、天候はおろか時間の経過を知る術もない。くわえて、部屋の出入り口は頑丈な鉄格子で塞がれており、その向こうから昼夜を問わず監視の目が注がれているのだ。気の弱い者であれば一晩を過ごすことさえ耐えられないだろう。 最低の環境であるのも道理、その部屋は一般的に地下牢と呼ばれる場所であったから。 南陽郡の首府たる宛城。その地下深くにつくられた牢には、今、一人の少女が投獄されている。 その少女の名は蒋欽(しょうきん)、字を公亦(こうえき)といった。◆◆「…………んゅ?」 寝台で寝入っていた蒋欽の目がゆっくりと開かれる。その眉根が不快げに寄せられているのは、自分の身体を包み込むじめっとした布の感触のせいだろう。 しばしの間、寝ぼけ眼で室内を見渡していた蒋欽だったが、まもなくその瞳は急速に焦点を結んでいった。「ああ、そうでした……」 自らが置かれた状況を思い出し、蒋欽は小さくため息を吐く。 すると、その動きにあわせて、じゃらり、という耳障りな金属音が室内に響いた。蒋欽の首にはめられた鉄環から伸びた鎖の音である。その鎖は壁面に据えられた金具に結び付けられており、ただでさえ狭く汚らしい地下牢の中で、さらに蒋欽の動きを束縛していた。「……これから、どうしたものでしょうか」 鎖につながれたまま、狭い牢の中央を円を描くように歩く。足が萎えてしまわないようにするためで、ここに閉じ込められて以来の蒋欽の日課だった。 そうやって牢内を歩き回りながら、これからどうするべきかを模索する。傍から見れば滑稽であったかもしれないが、当の蒋欽は真剣そのものだった。もっとも、どれだけ真剣に考えようとも、今の状況を打開する良案が浮かんでくることはなかったが。 そも、どうして蒋欽が牢にいれられることになったのか。 蒋欽は仲帝国の臣下であり、袁術が皇帝を称する以前からその配下として様々な役目を命じられ、それらを忠実にこなしてきた。 その功績が認められ、武官のひとりとして南陽太守である李儒の下に配されたのは、淮南征服戦が終わった後のことである。 袁術からその命令を受けたとき、蒋欽の胸裏には単純な喜びと、単純ならざる戸惑いが併存していた。 孫家が粛清される以前、蒋欽は袁術に対しても、その配下である李儒に対しても素直に尊敬の念を抱いていたのだが、その後に寿春城で起きた粛清劇が蒋欽の小さな胸に大きな疑念を残す。孫家一行と直接言葉を交わした蒋欽は、あの孫堅たちが陰謀を企んでいたとはとうてい信じられなかったのである。 その後に行われた淮南侵攻戦では、蒋欽は使者として徐州に赴いていたので直接戦闘に参加することはなかった。しかし、仲軍が広陵をはじめとした多くの場所でたくさんの血を流したことは知っていた。その中に兵士ではない者たちが多く含まれていたことも。 そういった幾つかの出来事を経て、蒋欽は仲帝国に対し、これまでのように無垢な忠誠心を抱くことはできなくなっていた。 ただ、それでも貧困に喘いでいたわが身や家族を救ってくれた恩は忘れようがない。 だからこそ、仲に対して不穏な言動を繰り返す李儒にたびたび諫言をおこない、結果として地下牢に投獄される身となってしまったのである。 李儒としては、ひとまず蒋欽を牢屋に入れて反抗の気力を削ぎ落とすつもりであった。 蒋欽のような少女が不潔きわまりない地下牢で何日も過ごせるはずがない。牢で心を折った後、自分に仕えるならばそれでよし。あくまで従わないというのであれば、その時はあらためて処刑してしまえばいい、と考えたのである。 李儒の計算違いは、貧家でうまれ育った蒋欽が不潔さに対する強い耐性を持っていたことであった。 蒋欽の髪は角度によっては蒼く見えるほど艶やかで、その瞳は空の色を映したような碧眼である。目鼻立ちもととのっており、外見だけみれば良家の子女といっても十分に通用する。 しかしてその実態はといえば、黒光りする油虫程度ならば顔色ひとつ変えずに踏み潰せる女の子であった。異臭なぞ否応なしに慣れてしまうものだし、凍える恐怖に比べれば汚い布でもあるだけマシ。そんな風に考える少女が地下牢に入れられた程度で心を折られるはずもない。 おそらくもう少しこの状況が続いていれば、李儒は蒋欽の処刑に踏み切っていただろう。 だが、李儒はみずからの策謀を成就させるために多忙を極めており、蒋欽ひとりにかかずらっていることはできなかった。 そうこうしているうちに洛陽起義は実行に移され、李儒は宛の放棄と住民の強制移住を命じるに至る。 これにより宛の内部は凄まじい混乱に包まれた。 その話を牢番から聞いたとき、蒋欽は内心で覚悟を決めざるを得なかった。李儒が蒋欽を洛陽へ連行する手間をかけるとは思われない。おそらく、もう一度自分に協力するかを確認し、否といえばその場で斬られるだろう、と。 結論からいえば、この蒋欽の予測の前半はあたり、後半は外れた。洛陽へ連行する手間をかけないという部分はそのとおりだったが、李儒はあらためて蒋欽に協力を求めることをせず、牢屋に閉じ込めたまま放置したのである。 罪人とはいえ、それまでは最低限の水や食べ物は与えられていた。しかし、宛を放棄してしまえば、それを行う者たちがいなくなる。そうなれば、鎖につながれた罪人を待ち受けるのは餓死しかない。 自分に従わない者がどれほど惨たらしい死をとげようと知ったことではない。そう考えた李儒は、そのことを指示する時間さえ惜しみ、蒋欽に関しては具体的な指示を出さなかった。 これより少し後、袁紹軍が参戦してきた際、李儒は蒋欽を投獄したことをわずかに悔やむことになるのだが、この時期の李儒は洛陽政権の宰相として得意の絶頂にあり、蒋欽のことは反抗的な小娘程度にしか見ていなかった。だからこそ、あえてその死を命じることもしなかったのである。放っておけば勝手に死ぬだろう、それが李儒の考えだった。◆◆ 不意に、カタン、という乾いた音が牢内に響いた。 蒋欽がそちらを見ると、牢番が鉄格子の隙間から椀に入った水と粥を置いている。「……あ、ありがとうございます」 蒋欽が礼を言うと、ボロをまとった牢番は面倒そうにうなずき、片足を引きずるようにして鉄格子から離れる。そして、みずからも貪るように粥を食べ始めた。片方しかない目で蒋欽をじっと見据えながら。 通常、牢番を勤める者の多くは社会的身分が低い者たちであった。それは奴隷であったり、罪を犯して罰された者であったり、病気や戦で身体に障害を負った者であったりしたが、蒋欽を見張る牢番がどれにあたるのかは判然としない。口数が少なく、蒋欽が何かを訊ねても返事がかえってくることはほとんどないのである。牢番という職務を考えれば、それは当然のことなのだろうが。 それでも、この牢番が頑迷なほど職務に忠実であることはよくわかる。 なにしろ、宛の放棄が実行された今なお「新しい命令が来ていない」という理由で、毎日のように蒋欽に食事を持ってきてくれるのだから。 この行動が蒋欽に対するある種の下心でないことは明白だった。牢番はこれまでどおり食事を差し入れはするものの、蒋欽の首の枷を外したり、牢から出そうとはしなかったからである。 あくまで当初の命令どおりに動く牢番の姿を形容するには「頑迷」よりも「盲目的」という表現の方が相応しいかもしれない。 あくまで命令に従う。そして命令以外のことは決してしない。 こうしておけば、仮に李儒が復権したとしても罰されることはない。蒋欽の味方が救出にあらわれたとしても、命令に従っただけの牢番を害することはないだろう。まったく別の第三者があらわれたところで、あえて無害無価値な牢番を傷つける必要はない。 誰に賞されることもないが、誰に敵視されることもない。それがこの牢番の処世術なのだろうと思われた。 宛が放棄された当初、当然のように城も略奪の対象になった。むしろ真っ先に荒らされたのが宛城である。 その対象はなにも金目の物だけではなく、何らかの理由で城に残っていた官吏の多くは、怒り狂う暴徒の手によって文字通り八つ裂きにされた。女官の場合、男性よりもわずかに長生きできたが、死んだ方がマシという状況を味わわされた挙句、やはり死なねばならなかった。 このとき、蒋欽が彼らの目に触れていれば無事では済まなかっただろう。 蒋欽が無事だったのは、皮肉なことに地下牢に閉じ込められていたためである。せっかく略奪に来たというのに、好き好んで薄汚い地下牢をのぞく者なぞいるはずがない。 しかし、人が来ないということは、牢を出る機会がないということでもあった。 結果、蒋欽は住む者がいなくなった城の地下牢で、枷に繋がれたまま、陰気な牢番に見張られて過ごすことを余儀なくされる。 ただ、この無口無感動な牢番も、蒋欽のような年端もいかない少女が長く牢に閉じ込められていることに対して思うところはあるようで、稀にではあるが外の様子を話してくれることがあった。 それによれば、今、宛の治安は最悪といえる状況であるらしい。 李儒によって強制的に移住させられた住民の多くはなんらかの財産を持った者たちであり、それ以外の人間は半ば放置された。そういった者たちの中で、頼るあてがある者は他州に流れたが、そうではない者たちは宛に留まり、焼け落ちた家々を漁って、少しでも金目の物を得ようと目を血走らせているという。 火事で焼け落ちた家から溶けた銀でも見つかった日には、それをめぐって当たり前のように人が死んだ。少ない食料をめぐる流血沙汰は、もはや日常茶飯事の様相を呈しているらしい。 そんな中、少ないながらも自分と蒋欽の食料を確保してくる牢番の存在は、蒋欽にとって枷であると同時に命を繋ぐか細い糸でもあった。 牢番が持ってきてくれた粥は、わずかな穀物とわずかな野菜、そして何のものとも知れないかたい獣肉が一片入っているだけで、粥というよりは煮汁というべきかもしれない。 だが、現在の情勢を考えれば食べる物があるだけ幸運といえる。寝台に腰掛けた蒋欽は、かみ締めるように粥を味わいながら、これから先のことを考える。 蒋欽がこの牢を出るには牢番の協力が不可欠だが、牢番にそのつもりはない。お礼は必ずするからと解放を求めても、牢番はまったく聞く耳をもってくれなかった。 となると、考えられるのは力ずくで何とかすることだが、この牢番は食料を差し入れる際、常に蒋欽の位置を確認している。つまり、蒋欽が反抗に出ることを警戒しているのだ。であれば、万一のことを考慮して鍵は別の場所にしまってあるに違いない。 そう考えた蒋欽は、それとなく牢番の動きに目を光らせつつ、無抵抗の日々を過ごしてきた。 ある意味で漫然とした日々であったが、蒋欽の中には一つの予測がある。 宛は南陽郡の中心であり、南陽郡は一州に匹敵する人口を抱える天下の要地。この地を失って袁術が黙っているはずがない。遠からず奪還の軍を催すはずであり、仲軍が城を取り戻せば幽閉の日々も終わりを告げるだろう、という予測である。(問題があるとすれば……) 蒋欽は内心で呟く。 それは袁術以外の群雄にとっても南陽が垂涎の地である、という事実だった。許昌の曹操や襄陽の劉表が兵を動かす可能性は非常に高い。李儒があえて南陽郡を捨てたのも、この地を諸侯の争奪の的とすることで、洛陽にいる自身の安全を保とうと考えたからだろう。 曹操なり劉表なりが宛を奪ったとき、仲の配下である自分がどう処されるかは容易に想像できる。そうなればなったで潔く斬られるつもりではあるが、郷里の母に何の恩返しもできないことが心残り―― と、蒋欽がそんなことを考えた時だった。「……誰か大物でも閉じ込められていないものか、とわざわざ足を運んでみれば」 甲高い、それでいて奇妙に冷めた声が地下牢に響く。 声がした方に目を向けた蒋欽は、姿を現した少年を見て、思わず唖然としてしまった。 おそらくは絹地と思われる服にはふんだんに金の刺繍がほどこされ、腰に差している剣は鞘も柄も金細工で覆われている。頭にかぶった額冠も、両耳につけた細工物も、とにかく身につけているものすべてが金、金、金一色。この少年、日の光の下で見たならば、さぞ光り輝いて見えたことだろう。 そんな蒋欽の内心を知る由もなく――というより、蒋欽が何を考えているのかなどまったく一顧だにせず、金色の少年は一方的な感情を叩きつけてきた。「いるのは痩せた小娘ひとりだけ。とんだ無駄足だ」 少年は不快そうに蒋欽を睨みつける。ほとんど言いがかりに等しい物言いであったが、少年の仄暗い眼差しからは蒋欽に向けた本気の憎悪が伝わってきた。 少年の容貌は秀麗といってよかったが、なまじ非の打ち所がないだけに、憎悪に歪んだ顔は他者のそれよりも一層醜悪に見えた。 少年の眼光をまともに浴びた蒋欽の背を氷塊がすべり落ちていく。 相手の表情に気圧された、というのもある。だが、それ以上に蒋欽を怯えさせたものがあった。 自分の意思で地下に足を運んだはずなのに、求めていたものがないからとて、そこにいた他者に本気の憎しみを抱けるその心。その歪な為人が蒋欽は恐ろしかったのである。 しかも、常ならば知らず、今の蒋欽は枷につながれ、獄に投じられている身である。牢番には蒋欽を守る責務はない。つまり、今このとき、蒋欽の生殺与奪の権を握っているのは眼前の少年なのだ。その認識が蒋欽の全身を急激に冷やしていった。 と、ここでようやく、蒋欽は少年がひとりではないことに気がついた。 少年の背後には白い仮面で顔を覆った人物が三人従っている。それを見た蒋欽の口から、思わずという感じで驚きの声がこぼれでた。「告死兵……?」 すると、それを耳ざとく聞き取った少年が目を細める。「それを知っているということは、ただの罪人ではないな。仲の臣か。さもなくば仲に敵対していたヤツか。試みに問う。名はなんという、小娘?」 一瞬、蒋欽は答えるべきかどうか悩んだ。 告死兵を連れているとはいえ、目の前の相手が味方だとは到底思えなかったからだ。 だが、ここで黙っていても相手の機嫌を損じるだけで意味はないと判断し、素直に自分の名前を告げた。「私は蒋欽、字は公亦。仲国の臣下として、ここ南陽郡で働いていました」「蒋公亦……知らないな。もとより李儒の配下に知った名前などひとりもいないが」 そういって、少年は蒋欽から興味を失ったように何事か考えはじめる。 蒋欽はそんな相手を注意深く観察した。(呂布将軍が淮南戦の不始末で任を解かれ、長を失った告死兵は陛下の直属になっていたはずです。新しい指揮官が就任したとは聞いていない。ということは、この人は陛下から勅命を受けて告死兵を預かっている、ということなのでしょうか?) さきほどこの少年は「誰か大物でも閉じ込められていないものかと思って足を運んだ」といった。その言葉は、李儒の虜囚となった者たちを救出しにきた、という意味に受け取れる。それが袁術からの勅命であるのなら告死兵を連れていることもうなずけた。 しかし、蒋欽の言葉を聞いても眉ひとつ動かさなかったところを見るに、この可能性は低いといわざるをえない。 いったい少年は何をしに宛にやってきたのか。 蒋欽がその疑問をおぼえたのとほぼ同時に、少年の口が再び開かれた。「――まあいい。小娘でなければ試せないこともある。銅銭一枚でも、無手で帰るよりはマシだ」 少年がそういうや、背後に控えていた告死兵の一人が動いた。 といっても、別に牢番から鍵を奪ったわけでもなければ、剣で錠を叩き斬ったわけでもない。 その告死兵は無言で牢の前に歩み寄った。 蒋欽を閉じ込めている鉄格子のつくりは非常に単純で、鉄の棒が縦に等間隔で据えつけられているだけである。他には出入り用の小さな扉があるほか、食事などを牢の中に入れるための四角い隙間が設けられているが、この隙間は蒋欽の頭も通らないくらい小さいため、ここを利用して外に出ることはできない。当然、外から中に入る手段にもならない。 告死兵はその隙間にも、扉にさえまったく関心を見せなかった。 縦に並んだ鉄棒を右手で一本、左手で一本、それぞれ握り締め、一気に両腕に力を込めたのである。 目に見えて膨れ上がる告死兵の腕の筋肉を見て、蒋欽はまさかと思った。 だが、次の瞬間、そのまさかは現実のものとなる。 鉄が軋む異音が地下牢に響き渡り、鉄格子は告死兵の膂力によってあっさりと――ありえないくらいにあっさりと捻じ曲げられたのだ。 蒋欽はもとより、それまで蒋欽と少年のやり取りに我関せずを貫いていた牢番さえ驚きを隠せず、片方しかない目を見開いていた。 二本の鉄棒が捻じ曲げられたことで、鉄格子には小柄な蒋欽であればなんとか通り抜けることができる隙間がうまれる。 だが、怪異はそれだけでは終わらなかった。 鉄格子を捻じ曲げた兵は、ついでとばかりにさらに力をこめる。 その膂力に最初に耐えられなくなったのは、鉄格子それ自体ではなく、床と天井で鉄格子を支えていた留め金だった。 上下の留め金がほぼ同時に悲鳴のような音をたててはじけとび、支えを失った二本の鉄格子は、告死兵によって苦もなく取り外されてしまう。 あとに出来たのは、蒋欽どころか大のおとなでも楽に通れるであろう大きな隙間であった。 蒋欽の目が張り裂けんばかりに見開かれる。「そ……んな」 自分の目で見たことが信じられなかった。 確かに告死兵は仲軍でも随一とうたわれる精鋭だが、今、目の前で繰り広げられた光景は精鋭だの力自慢だので説明できる範囲を大きく逸脱していた。 やったのが筋骨隆々の大男であれば、まだ納得できないこともない。しかし、その告死兵はよくいって中肉中背というところで、とてものこと、ここまでの怪力の持ち主には見えなかった。 世の中には、彼の飛将軍 呂布のように、少女の姿で常軌を逸した力を持つ者も存在する。眼前の告死兵がそうした一人である可能性は否定できないが、それにしても……「その程度で何を驚いている。いっておくが、こちらの二人の力はそいつを越えるぞ」 少年はそう言って、後ろにひかえている二人の告死兵を指し示す。 その二人も決して大柄な体躯ではない。もはや一言も発することができず、口をぱくぱくと開閉させる蒋欽を見て、少年は心地よさそうに笑った。どうやら驚愕する蒋欽の顔を見て、優越感を心地よく刺激されたらしい。◆◆「このオレ、楊喬才の秘術をもってすれば雑作もないことだ。といっても、愚鈍な者は往々にして我が目で見ないかぎりは信じられぬという。キサマも同様だろう?」 だから、実際に見せてやろう。 少年――楊松はそう言うと、それまで目もくれていなかった牢番に歩み寄った。 不穏な気配を感じたのだろう、牢番は怯えたように後ずさるが、その身体はたちまち告死兵に取り押さえられてしまう。 楊松は、無理やりひざまずかされた牢番の顔を薄笑いと共にのぞきこむ。「片目がふさがり、今みたかぎりは片足も損なっているな。喜べ、今日はオマエにとっての黄道吉日だ。このオレがその足を治し、その目に光を取り戻す機会をくれてやろう」 そういうと、楊松は懐から一本の鍼を取り出した。当然というべきか、その鍼も金色である。 それを見て牢番がくぐもった悲鳴をあげる。蒋欽も制止の声をあげた。これから何が起こるかはわからなかったが、ロクでもないことであることは間違いない。二人ともそう思ったのだ。 だが、これも当然というべきか、楊松は二人の制止など聞く耳もたなかった。「心配無用。キサマは木偶のように黙って膝をついていろ。小娘、よく見ておけよ。古臭い五斗米道より離れ、やがては真に人体の秘を解き明かすに至る我が秘術をな!」 言うや、楊松は何かに祈りを捧げるように高々と鍼をかざす。「偉大なる神農大帝よ、その御力を我が鍼に宿したまえ……」 静かな声が地下牢の中に響きわたる。蒋欽の耳には静かなだけではなく、ある種の真摯な響きさえ伴っているように聞こえた。 不思議なことに、蒋欽の視界の中で楊松が持つ金色の鍼が輝きを放ち始める。驚いて目を瞬かせたが、その輝きは衰えるどころか、ますます強くなっていく。 そして。「万病覆滅ッ!」 そんな大喝と共に楊松は無雑作に、そして無慈悲に、鍼を牢番の膝へと突き立てた。 それを見た蒋欽は我に返り、非難の声をあげる。「なッ、なにをしているんですか、あなたはッ!?」 鍼治療というものを知らない蒋欽にしてみれば、楊松の行為はただ牢番を傷つけるものにしか見えなかったのである。 楊松は鍼を引き抜いてから、不快そうにじろりと蒋欽を見据えた。「黙れ。わめく前に目の前の光景を良く見るがいい。もういいぞ、離せ」 後半の台詞は牢番を押さえ込んでいた兵たちに向けられたものだった。 兵たちが命令に従うと、牢番はしりもちをついた。その格好のまま、壁まで後ずさっていく。両足で――不自由だったはずの足をも動かして。 背中が壁にぶつかった後、ようやくそのことに気づいた牢番は愕然として自らの足に視線を向けた。 そして、慌てたように膝を曲げ、伸ばし、あるいは足の指を動かすなど、これまでは思うに任せなかった動作を試みてみる。 そのすべてが成功した。 何が行われたかを悟って凍りつく蒋欽に向け、楊松は得々と語りはじめた。「これでわかっただろう。我が秘術をもってすれば、動かない足を動かすなど簡単なこと。間違うことなどありえない。さあ、次は目だ」 そう言うと、楊松は先ほどと同じように囁き、先ほどと同じように鍼を突き立てた。 先ほどと違ったのは、鍼を突き立てる場所が膝ではなくこめかみであったこと。 そしてもうひとつ。鍼を刺された牢番の反応だった。 牢番の口から濁った絶叫が発される。 その身体は二度、三度と跳ねるように激しく震え、塞がれた目からは血涙のようなものが滲み出した。無事であるはずの目さえ紅色に染まっていく。 牢番は髪をかきむしりながら床に身を投げ出した。絶叫が止んだのは、単に息が続かなくなったためだろう。その身体は床に倒れてなお細かい痙攣を繰り返している。どう見ても激痛をこらえているとしか思えなかった。 蒋欽は息をのみ、楊松は小さく首を傾げた。「ふむ……目が見えない者に対して視力を奪うツボを突くとこうなるのか。効果が反転すれば面白いと思ったが、なかなかどうしてそんな単純にはいかないか」 その言葉を聞いた蒋欽がキッと楊松を睨む。「……待ちなさい。今のはどういう意味ですか?」「聞いてのとおり、盲目の者に奪明のツボを突いただけだ。まあ、結果はわかりきっていたが、万に一つ、予期せぬ効能があらわれるかもしれない。だから、念のために試してみたのだ」 ツボ、という言葉の意味は蒋欽にはよくわからなかった。だが、それでも楊松が牢番の身体をつかってよからぬことを試したことだけは疑いない。蒋欽はそう確信し、激昂した。「試す!? 人の身体をつかって何を試したというのですか、非道なことをッ!」「非道? ふん、今の世で薬として知られるものと毒として知られるもの、先人たちはその違いをどうやって見分けた? 決まっている、実際に試してみたのだ。わが身で試した者もいれば、他者で試した者もいようが、いずれにせよ試行と錯誤の繰り返しによって詳細を探っていった。オレはそれと同じことをしただけだ」 楊松は唇を曲げ、さらに続ける。「言っておくが、先に施した膝の治癒とて多くの者たちの犠牲を経て完成に至った術なのだ。本来ならば万金を支払ってはじめて受けられる治癒術を、ただ一度の試行と引き換えに受けることができた。これは感謝されてしかるべきことではないか?」 その詭弁を、蒋欽は正面から切って捨てた。「そういう台詞は、あらかじめ危険があることを説明した上で、当人の諒解を得て行ってから言いなさい。何一つ説明せず、当人が望みもしないことを強制し、挙句に失敗してから感謝されてしかるべしとうそぶく。非道と言わずして、他に何と言えというのですかッ」「ふん、笑わせるな! どうしてオレが賎民ごときにいちいち行動の許可を求めなければならないんだッ」 苛立たしげに吐き捨てた後、楊松は今はじめて蒋欽の存在に気がついた、とでもいうようにじっと蒋欽の顔を見据えた。「蒋公亦といったか。ただの小娘と思ったが、キサマずいぶんと口がまわるな……?」 舐めるような、ねっとりとした視線が蒋欽の顔から首へ、首から胸元へとゆっくりと下っていく。たちまち蒋欽の全身に鳥肌が立った。 楊松はぞっとするほど酷薄な表情を浮かべながら、なおも蒋欽を観察し続ける。「小生意気な娘に言うことを聞かせる術。反抗的な女を意のままに従わせる術……世の中にはそういった下らぬことに大金を払う者が多くてな。五斗米道では暴れる患者をおとなしくさせる場合にのみ使用を許される禁術だが、今のオレにその縛りはない。キサマの身体で試してみるのも一興ではある。痩せこけた小娘にこそ興趣を覚える者もいないわけでは――――ん?」 と、不意に楊松は口を閉ざした。 鎖に繋がれた蒋欽の恐怖をあおるように、ことさらゆっくりと紡がれていた言葉が途切れる。かわりに聞こえてきたのは、楊松のものでも、蒋欽のものでもない声。その声は地上と地下を結ぶ階段から聞こえてきた。◆◆ それは、こんな声だった。「おい鈴々、本当にこの下から悲鳴が聞こえてきたのか?」「だからそういっているのだ! ぐぎゃーって、すっごい痛そうな声だったのだ! 星は鈴々の耳を疑うのか!?」「疑ってはおらん。疑ってはおらんから不思議なのだ。鈴々も見ただろう。今の宛は街も城も荒れ放題だ。牢番などとうの昔に逃げ去り、罪人がいたとしてもとっくに逃げるか飢えるかしているだろうに、その地下牢から悲鳴が聞こえてくるとはなんとも摩訶不思議なことではないか。ふむ、あるいは罪科なくして牢で殺された者の怨念が生者を呼び込んでいるのだろうか? これは是非とも確かめずばなるまい。ぬかるな、鈴々ッ」「確かめて、愛紗が戻って来たら話して驚かせようって魂胆が丸見えなのだ。愛紗はお化けが大きらいだからなー。星はひどいやつなのだ」「なんという邪推。鈴々よ、この趙子竜、真名を許した友の怯え惑う顔を見たいからとて怪談を集めてまわるような悪趣味なことは断じてせんぞ。ましてや、我が目で怪奇現象を目撃し、それをもとにこの手で粋を凝らした怪談をつくりあげてみせようなどという不逞な野心を抱いたことは生まれてこの方一度もない。誤解してくれるな」「うん、鈴々、ぜったい誤解してないのだ」「そうか。わかってくれたようで何よりだ――と、そろそろだな。さて、鬼が出るか蛇が出るか」 明るく澄んだ、おそらくは女性のものと思われる二つの声音。暗く淀んだ地下牢にこれほど似つかわしくない声もめずらしい、と蒋欽は思う。 内容については本気なのか、ふざけているのかわからなかったが、それでも蒋欽はその明るい声音から、声の主たちの人柄を察せたように思えた。 だからこそ、歯噛みした。楊松がこの場にやってきた者たちを見逃すとは思えない。告死兵の膂力は今しがた目の当たりにしたばかり。とても常人のかなう相手ではなく、抵抗すれば命が危ういだろう。だからといって大人しく従ったところで、牢番のように邪術の実験台にされるだけだ。 そう考えた蒋欽は大声で「逃げて」と叫ぼうとした。 だが、直後に姿を見せた二人の姿を見て、知らずその声を飲み込んでしまう。 柳眉柳腰の佳人と、幼い顔に何故か呆れたような表情を浮かべた女の子。 とてものこと告死兵にかないそうもないこの二人連れから、蒋欽は言い様もない迫力を感じ取ったのである。 それが錯覚でも幻想でもないことは次の瞬間に明らかとなった。 すなわち、蒋欽が二人を確認したように、蒋欽たちの姿を確認した二人が表情を一変させたのだ。「――ほう、これはこれは。状況はさっぱりわからぬが、その悪趣味な仮面には見覚えがある」 佳人の顔に好戦的な表情が浮かび上がり、そして―― 佳人の連れと思われる女の子は、おそらく年齢だけ見れば蒋欽よりもさらに下であろう。 だが、その女の子が告死兵に向かって一歩を踏み出した瞬間、蒋欽の口からは畏怖にも似た声がこぼれおちた。 野生の虎にも似た、圧倒的なまでの威圧感。 蒋欽よりも小さな身体からあふれ出た戦意は、蒋欽のそれとは比べるべくもないほどに巨大であった。自身に向けられたものでないにも関わらず、身体の震えが止まらない。 女の子の口から吼えるような声が迸った。 「星、星! こいつら、お兄ちゃんたちをいじめた奴らッ! やっつけるのだッ!!」「うむ。音に聞こえた仲の精鋭が、捨てられた都市の地下牢で何をしていたのか、これはじっくりと聞かせてもらう必要がありそうだ」「じゃあ鈴々があの白いのやっつけるのだ! 星はそこの金ピカ!」 佳人は金ピカ――楊松をちらりと見やると、少しだけ声を低くした。「……案外、適材適所かもしれんな。わかった、こちらは任せよ。だが鈴々、目的は話を聞き出すことだ。あまりやりすぎるなよ?」「うがー!」「聞いておらんか。ま、仕方あるまい」 佳人はそう言うと、あらためて楊松に向き直った。「さて、そこな少年。我が名は趙雲、字は子竜という。荊州は新野を治める劉玄徳に仕える者だ。そちらの名を聞かせていただけるかな? 名乗る気がないのであれば、以後金ピカどのとお呼びするが」 それを聞いて楊松は小さく舌打ちした。「誰が金ピカか。オレは楊喬才。しかし、覚えてもらう必要もなければ、キサマの名前を覚えるつもりもない。ここで死ぬ者の名前など覚えたところで詮無いことだ」「ふふ、虚勢にしても良くいった。幼いながらに恐れ入った心意気よ」 趙雲が感心したように言うと、馬鹿にされたと思ったのだろう、楊松が唇を曲げて言い返した。「劉備など配下を捨石にして荊州まで逃げ延びた臆病者に過ぎない。その臆病者に付き従う無能を相手に、オレが虚勢を張る必要がどこにある? 身の程を知れ、女」 趙雲は、たとえば関羽のように飛将軍と一騎打ちを繰り広げた等の派手な活躍とは縁がない。先の徐州撤退線でも仲軍と矛を交えることはついになかったため、楊松は、そして蒋欽もだが、趙雲の名前を知らなかった。 つけくわえれば、趙雲と張飛が告死兵の存在を知っていたのは、他者から話を聞いていたことと、関羽と共に高家堰砦に赴いた際、戦死した告死兵の姿を我が目で目撃していたからである。 楊松の反応を受け、趙雲はかすかに苦笑した。「ふむ。我が主への妄言は論外として、この身を無能という指摘は正直耳が痛いな。たしかに徐州でも荊州でもロクな働きができておらん」 趙雲はそう言うと、わずかに腰を落とした。 その手に愛槍 龍牙は握られていない。蒋欽らは知る由もないことだが、趙雲と張飛は軍師たちに頼まれて密かに宛に潜入し、内部の情勢を探っている身であった。ゆえに二人とも、人目をひく愛用の槍は持ってきていないのである。 むろん、服の中に小刀の一本二本は忍ばせているが、それはあくまでいざという時に備えるためのもの。趙雲の勘は、眼前の少年から何か常ならぬものを感じ取っていたが、武芸の腕前自体はそう大したものではない、と見てとった。刃物を出すまでもなく取り押さえることができるだろう。「というわけで、汚名を返上するべく励むとしよう」 趙雲がそう口にするのと、楊松が告死兵のひとりにアゴをしゃくるのはほぼ同時だった。「おい。片付け――なッ!?」 言葉半ばに楊松は慌ててその場を飛びすさる。 その眼前を白い物体が音をたてて通り過ぎていった。直後、重いものが叩きつけられる鈍い音と共に壁面が大きく揺らぐ。「弱っちいのだ!」 それは掌底ひとつで張飛に壁まで吹き飛ばされた告死兵の身体だった。 あまりの瞬殺っぷりに蒋欽の目が点になり、楊松の視線が倒れた告死兵と張飛との間をせわしなく往復する。 その楊松のすぐ傍で、趙雲の声がした。「そら、よそ見をしていて大丈夫か、喬才とやら」「ちィッ!?」 楊松が目を離した一瞬の隙に、趙雲は素早く楊松との距離を詰めていた。「何をしている、早くこいつを片付けろッ!?」 楊松の命令、というより悲鳴に促されて、告死兵のひとりがふたりの間に割って入ってくる。 だが、趙雲はその動きを予測していたようだった。飛び込んできた告死兵の腕を掴みとるや、素早く足を払って相手の体勢を崩し、腕をひねりざま思い切り床に叩きつける。 そして、そのまま腕をねじり上げた趙雲は、瞬く間に告死兵を取り押さえてしまった。 ほとんど一瞬で二人の告死兵が無力化されるのを見て、楊松はようやく眼前の二人がタダ者でないことを悟ったらしい。 素早く後ずさったが、そこには壁があるだけだ。階段に逃げようにも、楊松と階段の間には趙雲と張飛の二人がいる。残った告死兵はただ一人。その告死兵も張飛と相対しており、楊松を助けることはできそうにない。 趙雲が口を開いた。「勝負あり、というところかな。念のためにいっておくが、そこの者たちを人質に、などと考えぬ方が身の為だぞ。そんなことをすれば、こちらも話を聞くなどといった悠長なことを言っていられなくなる」 その涼やかな声が、この場の勝敗を決した。 決したかに思われた。◆◆◆ 司州河南尹 洛陽「ところで士則、ふと思ったんだが」 ゴットヴェイドォォォ、ではない、五斗米道の閻圃と出会った翌日のことである。(いかん、ちょっとうつってる) そんな戦慄を覚えつつ俺が声をかけると、鄧範は怪訝そうに応じた。「なんだ、驍将どの?」「五斗米道の人たちが医術に優れているっていうなら、士則の怪我も診てもらえばいいんじゃないか?」「……道中、あの者たちからもその申し出は受けたのだがな、オレが断った」「どうしてまた?」 首を傾げると、鄧範は小鼻をふくらませながら次のように断言した。「あの者たちには悪いが、オレは医者などというモノは詐欺師でなければタカリの類だと思っている。そんな輩に自分の身体をあずける気にはなれん」 あまりといえばあまりな答えを得て、俺はどう返したものか本気で悩まなければならなかった。鄧範の顔を見るかぎり冗談半分という感じではなく、限りなく真剣に言っているっぽいから尚更である。 もう少し聞いてみると、これまで鄧範が見てきた医者というのは、貧乏人から高い金をむしりとり、効くかどうかもわからない呪い札を家々に貼り付けるか、さもなくばもったいぶった祈祷を繰り返し、それで病が治れば我が手柄、治らなければ病人のせい、と開き直る者ばかりだったそうな。 そして、病が治らないのは病人のこれまでの悪行のせいであり、これを祓うためにはもっとお札(祈祷)が必要です、といってさらに金銭をせびりとっていくらしい。 なるほど、そりゃ詐欺師だ。 後でそれとなく閻圃に聞いてみると、ものすごいげんなりした顔で色々と教えてくれた。 なんでもこの時代、医者の社会的身分は非常に低く、それこそ詐欺師とさしてかわらない扱いを受けているそうだ。 その原因は何かといえば、他でもない、医者の質の低さに求められた。 なにしろ体系的な「医学」というものが未発達なので、一口に医者といっても様々な者たちがいる。 公的な資格や免許があるわけではないので、極端な話をすると「俺は医者だ」といえばその人はもう医者なのである。しかも、そういった者たちの大半が怪しげな祈祷師とか方士といったヤブ医者ときては医者の質を保てるはずがない。 なるほど、と俺は内心でうなずいた。 鄧範が格別ひどい医者ばかり見てきたわけではない。たんに世間にいる医者の大半がひどいのである。これでは鄧範が医者という職業を毛嫌いするのも仕方ないことかもしれない。 閻圃は深々と溜息を吐いた。「もちろん、我が教団に限らず、真面目に、真摯に医術に取り組んでいる方々はたくさんいらっしゃいます。そういった方々の努力と献身が、最後の線で医者の信用を保っているのです。しかし、大半の医者はいま申し上げたような者たちばかり。これではなかなかに評判の回復は望めません」「それは厄介な問題ですね……」 俺が高家堰戦で負った怪我は宮中の医者が治療してくれたわけだが、これは俺が考えていた以上に運が良いことだったのだ、と今さらながらに思い至る。 それにこの医者の問題、今回の蝗害とも無縁とは言い切れない。 これから混乱が拡大していけば、騒ぎの中で負傷する人も増えていくだろう。他にも疫病の発生等、医者が必要になる事態はいくらでも考えられる。そこを妙な者たちにかき混ぜられると、要らぬ混乱が引き起こされる可能性があった。 そのあたりの対処は曹操や張莫、あるいはその下の丞相府の人間がやるだろうが、俺としても良医とヤブ医者を見分ける手段は持っておきたい。 俺がそういうと、閻圃は快く応じてくれた。「それでは我が教団に伝わる医術の歴史をお教えいたしましょう。先にも申し上げましたように、それがし、氣を操る腕はさっぱりですが、こちらの方面はそれなりに修めております。これをご記憶しておいていただければ、今後、医者の良否を見分ける一助となるはずです」 たとえば、と閻圃は言う。「『自分はあの名医 華佗の弟子だ』などと称する者が閣下の前にあらわれた場合、これをお訊ねになってみてください。答えられなければ、その者は間違いなく偽物です」「おお、それは是非ともお聞かせ願いたい!」 俺は勢いこんでうなずいた。華佗の名を利用しようとする者は確かに多そうだ。まあ五斗米道の場合、教団名を叫ぶか否かで簡単に騙りを判別できそうな気がしないでもないが、それは言わずにおきましょう。 謹んで閻圃の教えを聞くことにした俺は、徐晃や鄧範、司馬懿といった面々にも声をかけた。 草原で暮らしていた徐晃や貧しかった鄧範はともかく、司馬懿は医術に関する知識も持っているかなと思ったのだが、黒髪の少女はさして迷う様子もなく俺の誘いに応じた。 かくて五斗米道祭酒 閻圃先生による医史の授業が始まる。 ぱちぱちぱち、と拍手する俺たちを前に閻圃はコホンと咳払いして、どこから持ってきたのか、角が尖ったメガネをくいっと持ちあげてみせる。案外ノリが良い人らしい。ま、ノリが良くなければ、あの歌は歌えなかっただろうけれど。「さて、まずは基本の基本です。我が教団に限らず、中華の民に医術をもたらしたのは神農大帝だと伝えられています」 いきなり聞き覚えのない名前が出てきました。「神農大帝?」「炎帝神農、と申し上げた方がわかりやすいでしょうか。かつて中華を治めた三皇五帝のおひとりにして、医術以外に農耕の技術をもたらしたのもこの御方であるといわれています」 首を傾げた俺に向かって、閻圃は丁寧にそう説明してくれた。 炎帝神農ね、たしかに聞き覚えはある名前だ。何をした人か、とか言われるとかなり困るけど。それに三皇五帝って誰だっけ? 伏義(ふっき)、黄帝、尭、舜あたりしか知らないぞ。あたふた。「当然ながら、氣を操る教団の医術も神農大帝より賜ったものです。我が教団は数千年の長きにわたり、この術を磨き上げてまいりました――」 内心で冷や汗をかく俺をよそに閻圃の講義は進んでいく。 人体の仕組みと、それに作用するツボの効能とか、あと神農大帝とはいかなる御方か、というあたりについて。ここは割愛するが、一つだけ例をあげると、神農さまは身体が透き通っていて、毒草を食べると、その毒が身体のどの部位に作用するのかがすぐわかったという。こうやって毒とそうでないものを見分け、人々にそれを教えていった。なんでも神農さまは日に七十回中毒になったそうである。誰か止めてさしあげろ。 そういった諸々の話の最後は、五斗米道の医術とはどういったものなのか、という具体例で締めくくられた。「もちろん鍼一本で万病が癒えるわけではありません。というより、基本的に治療で鍼を用いることは少ないのです。我が教団でも、けが人に対しては傷口に薬草を塗る、挫いた足に添え木をあてて固定する等、皆さまが当たり前にやっているであろう手当てと同じことをするだけです。これは病人に対しても同様となります。我々が鍼を用いるのは、特に症状が重い場合に限るのです」 閻圃はそういってから例を挙げた。「傷口からの出血が激しいとき、鍼を用いて一時的に筋肉を収縮させ、身体の血の管の流れをせきとめて出血をおさえる。あるいは身体の感覚を鈍らせて痛みを軽減する。さらに患者が傷の痛みに耐えられないような大怪我を負った場合、強制的に意識を失わせることもございます。もっとも、ここまで行くと教団の中でも出来る者は限られて参りますが」 それを聞いて、俺は納得したようにうなずいた。「なるほど。そんな効き目がある治療を安易に行えば、皆がそれに慣れてしまいますね。だから滅多なことでは使わないようにしている、ということですか」「閣下の仰るとおりです。もう少し正直に申し上げますと、祭酒の中でも鍼による治癒術に通じている者は多くないのです。皆が皆、鍼の治療を求めて教団に押し寄せれば、祭酒たちはたちまち過労で倒れてしまうでしょう。その意味でも必要な措置である、と申し上げておきます」 決して出し惜しみをしているわけではない、ということか。 俺は閻圃の言葉にうなずいた。まあ正直、ほんとにそんなことできるのか、という疑念はあるのだが、閻圃がここで俺に偽りを言ったところで何の得もない以上、本当のことなのだろう。 しかし、だとするとずいぶんとまあ便利な技もあったものである。血の流れを止めることができるのであれば、流れを加速させることもできるだろう。併用すれば人間の薄い血管などたちまち破れてしまいそうだ。ほとんど「ひでぶ」「あべし」の世界である。 そんなことを考えた俺は、なんとはなしに訊いてみた。「するとあれですか。一時的に身体の力を倍以上に高めたりもできるわけですか? 聞いた話では、人間は本来持っている身体の力を三割ほどしか発揮できずにいるそうですが、特定のツボを押すことでこの限界をとりはらってしまったりとか――」 俺がそう言った瞬間、それまで穏やかだった閻圃の顔色が一瞬で変わった。 そして、怖いほど真剣な眼差しで俺を見据えながら、低い声で訊ねてくる。「…………閣下、そのようなこと、どこでお聞きになったのですか?」「――さて、どこだったか。しかし、別段おかしなことは言っていないでしょう? 鼠とて追い詰められれば猫を噛むもの。追い詰められた者が普段は出せない力を出すことはままあることです」「それは、そのとおりかと思います。しかし、人間が本来持っている力の半分も使いこなせていない、などという話はそうそう出回るものではありません。しかも閣下は三割という値まで口になさった。それをいったいどこで――」 閻圃が血相をかえ、俺に詰め寄ろうと身を乗り出してくる。 それを制したのは俺ではなく、それまで黙って閻圃と俺の会話に耳を傾けていた司馬懿だった。「閻祭酒」 短い、それでいて鋭い制止の声。 司馬懿の声は、俺への非礼は許さない、と言外に告げていた。 さらに、声音に負けず劣らず鋭い少女の眼光に射抜かれた閻圃は、慌ててもとの体勢に戻った。まるで冷水を浴びせられたように、その顔からは寸前までの狼狽が消えている。「も、申し訳ございません。聞き捨てにできないことでしたので、少々逸ってしまったようです。閣下に対して無礼な物言いをしてしまったこと、謝罪いたします」「教えを請うた身とはいえ北郷さまは一軍の長。物を問うにしても、守るべき礼節があるはずです。以後、お控えください」「は、はいッ」 司馬懿の静かな迫力にあてられた閻圃は、湧き出る額の汗を何度も拭っている。付け加えると、俺もだらだらと冷や汗をかいていた。 いや、別に俺が怒られたわけではないのだが、いつも物静かな子が怒ったりすると、それだけで周りの人間にすごいプレッシャーがかかるのです。徐晃は顔をひきつらせており、もう一人の鄧範は表情こそ動いていなかったが、微妙に腰が引けているのがわかる。 司馬懿にしてみれば別に怒ったわけではなく、強めに注意を促しただけなのかもしれないが、それでも十分怖い。この子は絶対怒らせたらあかん、と胸に銘記しておく。びびっていたせいか、なぜか関西弁だった。 ともあれ、閻圃が詫びたことで司馬懿も納得しただろう、と俺は思った。 だが、予想に反して司馬懿はさらに言葉を重ねた。「閻祭酒。私からお訊ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」「は、はい、ど、ど、どうぞなんなりとッ!?」 かわいそうに、ビビリまくっておられる。俺はとりなしのために口を開きかけたが、すぐに思いとどまった。 司馬懿は謝罪した人をさらに追い詰めるような無体なマネをする子ではない。本当に何か訊きたいことがあるのだろう、と思ったからである。「ありがとうございます。それではお訊ねしますが――」 そういうと、司馬懿はじっと閻圃の顔を見据えた。「ただいまの北郷さまの問い、一時的に身体の力を増す施術があるのかという問いですが、閻祭酒のお言葉から判断するに、これは存在するのですね?」「――は、たしかにございます。もっとも、祭酒の中でも上位の者しか扱えない秘術ですが……」 一瞬のためらいの後、閻圃は司馬懿の問いにうなずいた。 閻圃の様子から察するに、おそらくそれは安易に口外して良いことではないのだろう。常であれば閻圃はごまかしていたに違いない。 しかし、寸前までの自分の態度をかえりみれば、ここで口先だけ否定しても意味がない。五斗米道の祭酒はそう判断したものと思われた。「神農大帝は医農の神。医術と農業を事とする五斗米道の方がその御名を称えるのは当然のことと心得ます。そして、五斗米道が神農大帝を称える教団なのであれば、その末裔といわれる『蚩尤』の名をご存知ないということはないでしょう」 司馬懿がその名を口にした瞬間、閻圃の顔色は再び蒼白になった。◆◆ 蚩尤。読みは「しゆう」。 もとはれっきとした天界の神様(の子孫)であったというが、黄帝に反乱を起こして敗れた後、時代を下るごとに悪神としてその姿を歪めていった。 曰く、銅の頭に鉄の額を持ち、鉄と石を食べる。 曰く、亀足蛇首である。 曰く、八つの肘、八つの足、双頭を持つ。 曰く、五つの兵器の発明者である。曰く、人身牛首である、曰く、牛種の長でもある。曰く、凄腕暗殺者の別名であるエトセトラエトセトラ…… まあ最後の方は冗談であるが、ともかく中国における最初の『反乱者』、それが蚩尤であった。 人外の能力を備え、非常に忍耐強く、恐れを知らぬほど勇敢であり、同じ姿をした八十一人の兄弟がいた、ともいわれている。 外見の描写が化け物じみた――というか、化け物そのものであるのに比べると、このあたりは奇妙に人間くさい。 その蚩尤が炎帝神農の末裔である、と司馬懿はいう。言われてみれば、そんな話を聞いた覚えがないことはない。俺が炎帝神農の名前に聞き覚えがあったのはこれのせいかもしれん。 ともあれ、司馬懿がいい加減なことを言うはずはないし、司馬懿が知っているのであれば、炎帝神農を称える五斗米道の閻圃が知らないとは思えない。実際、閻圃の反応を見るかぎりは知っていたのだろう。 問題は、どうして蚩尤の名前を聞いた途端、顔面が蒼白になるほど閻圃が動揺したのか、である。 もっといえば、先の俺の発言に対して、閻圃があれほど動揺したのは何故なのか。荒唐無稽だと笑い飛ばせば、それで済んだはずなのに。 そんなことを考える俺の耳に司馬懿の静かな声が滑り込んできた。「蚩尤の外見に関しては諸説あります。いずれも信じがたい内容のものばかりですが、その反面、蚩尤の性格――性質、というべきなのかもしれませんが、それは私たち人間にくらべてかけ離れているとはいえません。苦境に対する忍耐強さ、恐れを知らぬ勇敢さ、そういったものは人の身でも得ることができるものです。今の閻祭酒のお話を聞いたかぎり、五斗米道の秘術をもってすれば、他者に強制的に植えつけることもかなうのではありませんか?」 司馬懿の問いかけに閻圃は答えない。 答えるつもりがないのか、それとも答えられないのか。「たとえ剣もろくに振ることのできない弱兵であったとしても、常の二倍の力を引き出せばたちまち強兵に変じます。あらかじめ感覚を鈍らせる術を施しておけば、傷の痛みなど意にかけない忍耐強い兵となるでしょう。負傷を恐れる必要のない兵士が戦場で恐れ怯えるはずがありません。それは敵から見れば、恐るべき勇敢さだと映ることでしょう。八十一人の兵にそれらの処置を行い、同じ仮面をかぶらせ、同じ軍装をさせれば、それはもう伝説の蚩尤となんら異なることのない存在です。あなたがた五斗米道は、望めばそんな軍団を作り出すことができる。いつでも」 淡々とした声音で、恐ろしいことを口にしていく司馬懿。 その静かな威圧に抗しかねたのか、あるいは司馬懿の言葉の中に黙っていられない部分があったのか、ここで閻圃が叫んだ。「い、いや、お待ちください! 我々はそのようなことは断じて――」「はい、あなたがたはおこなってはいないでしょう」「おこなって――あ、え?」 閻圃の否定を、司馬懿はあっさりと受け容れる。 祭酒さんの目が点になった。「あの、我々を疑っているのではないのですか?」 閻圃の問いに対して、司馬懿ははっきりとかぶりを振った。「いま申し上げたことがたやすくできる方々であれば、漢中の地で苦戦するようなことはないでしょう。そもそも士則に救われるような事態にもならなかったはずです」 それを聞いて、俺と鄧範は同時にぽんと手を打った。「なるほど」「道理ですね」 確かにそんな戦力が用意できるのであれば、賊から逃げる必要はない。 ついでに、俺はもうひとつ付け加えておいた。「それに、身体の力を引き出すといったって、力だけ引き出しても肝心の身体が耐えられないのではありませんか?」 それをきいた閻圃は、わが意を得たり、と言うように力強くうなずいた。「は、はい、そのとおりです。力を増せば、その分、身体にかかる負担もはねあがります。よほど屈強な身体を持ち、衆に優れた武を修めている方でもないかぎり、骨や筋が耐え切れず、砕き折れてしまいます」 それはぞっとしないな、と俺が身体を震わせると、閻圃は懸命な顔つきで言った。「くわえて、これは我が教団の名誉のために断言いたしますが、我らがそれを為さぬのは、それに耐えられる者がいないからではありませぬ! たとえ信徒の中に施術に耐えられる者がおり、そしてその者がそれを望もうとも、鍼の力を争いのために用いることは五斗米道にとって絶対の禁忌。決して私利私欲のために蚩尤を生み出したりはいたしません。ましてや、他者にそれを強いて教団の戦力にするなど、決して、決してありえぬことでございます!」 その声には悲痛なまでの真摯さが込められており、それを聞いた者は誰もがその言葉を信じたくなるだろうと思われた。少なくとも、進んで疑おうとは思うまい。 司馬懿もまた閻圃を疑ったわけではないのだろう。ただ、別の角度から見た事実を口にしただけで。「――それが教団の信念だということは理解します。けれど、その信念をよしとしなかった者もいる。これも事実なのではありませんか?」 ここで、俺はようやく先日閻圃が口にした名前を思い出した。 五斗米道の教えに背き、教団を出奔した楊松、字を喬才。そいつのことを語るとき、閻圃の口が奇妙に重かった理由はこれか。 俺たちの視線が閻圃に集中する。 疲れ果てた顔をした閻圃は、力なく口を開いた。「……ここで否定しても意味はありませんね。仰るとおり、喬才は旅人や罪人を用いて、教団の禁忌である蚩尤を生み出そうとしました。その咎により、先代さまに裁かれたのです。喬才の目的は苦境にある教団、なかんずく師君の母君を救うことだったのですが……目的が正しいからとて、あらゆる手段が正当化されるわけではありませんからね……」 それを聞いた俺たちは、知らず顔を見合わせていた。 今の話に直接的な脅威があったわけではない。楊松とやらが蚩尤を完成させたと決まったわけではないのだ。仮面をかぶった兵団というと告死兵が思い出されるが、俺がかつて矛を交えた連中は、錬度こそ高かったが、そんな化け物じみた兵ではなかった。 だから、心配することはない。少なくとも、心配しすぎる必要はない。そのはずなのに、俺の胸中からは嫌な予感が消えなかった。