司州河南尹 洛陽 洛陽宮で李儒を捕らえ、方士を退けた後、俺たちは城内を掌握するべく行動を開始した。 具体的にいうと、街の住民に対して積極的に敵対行動をとらないようにとお願いしてまわった。 情けないというなかれ。 荒廃と混乱は当然のように人心に影響し、洛陽にはガラの悪い連中がそれこそいたるところにたむろしている。中には洛陽政権に加わっていた兵も少なからずいるだろう。 彼らが許昌の朝廷に好感情を持っているはずもなく、官軍が支配者面で指図をした日にはまず間違いなく過激な反抗に出てくる。そんな事態は避けなければならなかった。 かといって、あまり下手に出れば侮られてしまう。そのさじ加減が難しいと考えていたのだが、結論から言ってしまうと、俺の目論見はおもいがけずあっさりと達成された。 司馬懿が八面六臂の活躍をしてくれたのだ。 洛陽には確かに荒くれ者が多かったのだが、その彼らも司馬懿の前だと借りてきた猫のようにおとなしくなってしまい、それどころか、各種作業に積極的に協力してくれる者もいる有様で、北部尉を務めていた頃の司馬懿がどれだけ人々に慕われていたのかがよくわかった。 ――まあ中には司馬懿の顔を見て、本気でおびえている様子の者もいたので、一概に慕われているというわけでもなさそうだったりするのだが。 取り締まりや刑罰が厳しかったりしたのだろうか。そう思って司馬懿に訊ねてみたが、特にそういったことはしていないとのこと。というわけで原因は不明――と思っていたら、元司馬懿配下の吏のひとりがこっそり教えてくれた。 なんでも洛陽で北部尉を務めていたころの司馬懿は、司馬懿自身が言明したように特別に厳しい罰則を用いたわけではなかったが、一方で格別に規則を緩めたということもなく、重罪に値する無法者たちには容赦なく相応の罰を与え、報復を目論む者たちの計画はことごとく未然に潰してしまったという。 そんなことが繰り返されれば、取り締まられる側の者たちも否応なく司馬懿の実力を思い知る。無法者たちが若すぎる北部尉に恐れを抱くようになるまで、そう時間はかからなかったそうな。 なるほど、それであの態度か、と俺は深く納得した。 こちらとしても洛陽の住民に対して金銭や食料を差し出せとか、兵として戦えなどと強いるつもりはない。戦況が落ち着くまで大人しくしていてくれれば十分であり、後のことは朝廷なり曹操なりが何らかの手を打つだろう。 そんなわけで、ヘタすると数日がかりになると考えていた面倒ごとは、司馬懿のおかげもあってあっさりと片がついた。それでも諸々あって半日近くかかったが、これなら鍾会に後を任せ、明日にでも洛陽を出ることができる。 虎牢関から――より正確にいえば許昌の張莫から使者がやってきたのは、俺がそんなことを考えていたときであった。◆◆ 夜半。 仮の宿舎とした簡素な建物――往時は宮殿を守る衛兵が使用していたと思われる――を出た俺は、運悪く不寝番にあたってしまった兵たちに差し入れを届けてから、中庭へと足を運んだ。 中庭といっても手入れされた庭園が広がっているわけではなく、だだっ広いだけが取り得の更地で、おそらく訓練や朝会などに用いられていたのだろう。 その分、周囲に視界を遮るものはなく、盗み聞きを気にせずに済むのも取り得に含めていいかもしれない。 その中庭の中ほどに、夜空と同色の旗がたてられている。 翩翻とひるがえるこの無地の黒旗、実は許昌の張莫から俺へと送られてきたものであった。「――張太守が動いてくれたのはありがたいんだが、これはどうしたもんか」 司馬孚を通じて提案した俺の作戦を諒とした張莫が、その返答と一緒に送ってよこした褒賞を見上げながら、俺は困惑を隠せずにいた。 これがただの旗ならば、別に困惑する必要もない。ありがとうございます、と受け取ればよかった。先に張莫の下で西涼軍と戦った後、俺の功績を称揚した張莫が軍旗を与えようと言ってくれたことは覚えていたからだ。まあ、俺はあのやりとりはただの冗談として、もうほとんど忘れかけていたのだけれど。 ともあれ、繰り返すが、これがただの旗ならば問題はないのである。 しかし、あの張莫が普通の物を送ってくるはずがない。一見したところ、ただ黒一色の味気ない旗とみえるこれ、出すところに出せば一財産を築ける代物であった。なにしろ絹だから。総絹地だから。イッツオールシルク。 一口に絹といってもピンからキリまであるが、この旗と一緒にやってきた旗作りの職人さんいわく「文句のつけようもない最高級品」とのことで、その価値がどれほどのものかは語るまでもない。これを戦場に持っていった日には、自分より旗の安否を気遣ってしまいそうだった。「……まあ『宇宙』とかデカデカと記されていないのは幸いだった」 安堵の息を吐く。 張莫の書簡によると、あの方、本気で俺に例の称号を与えようと曹操に願い出たらしい。幸い、曹操が一蹴したことでその話は流れたらしいのだが、それを読んだ瞬間、丞相グッジョブ、と思わず口走ってしまった俺はきっと悪くない。 それはさておき、望み叶わず失意の張莫は、さすがに曹操の許可を得ずに軍旗に将軍名を記すわけにもいかず「お前の好きなようにつくるがいい」と職人さんとセットで旗を送ってきたという次第である。 そんな理由で政情不安な洛陽に派遣された職人さんこそいい迷惑だと俺は呆れたのだが、聞けば危険手当込みで張莫から結構な額をもらっているらしく、当の本人はほくほく顔だった。「どのような難しい模様でもかまいませぬぞ。それがしの手技に不可能はありませぬ!」とのことで、実にたくましいというか頼もしいというか。 命令した側とされた側が問題視していないのなら、俺が文句をいうのもおかしな話――なのだろう、たぶん。 ともあれ、いつまでも職人さんを洛陽にとどめておくわけにもいかないから、早めにどんな旗をつくるのか考えないといけない。褒美の品を売り払うわけにはいかず、しまいこむ府庫もない以上、素直に軍旗として用いるしかないのである。 まあ変に目立つ必要もないので、普通に『北郷』とするか、あるいは実家の『北郷十字』でいいだろうと考えている。 すでに時刻は深更、ほとんどの人が疲れ果てて眠っている中、俺が中庭で旗を見上げている理由は二つある。ひとつは張莫からの書簡に記されていたことについて、改めて考えをめぐらせるためだった。 張莫によれば、すでに司馬孚は温に向かっており、それに李典、于禁の二将が同道しているらしい。河内郡の張楊にも協力を願う使者を差し向けてくれたとのことなので、張莫はほぼ全面的に俺の作戦案を受け容れてくれたと思っていいだろう。 そう考えると、拳を握る力もおのずと強くなる。これで袁紹軍に返り討ちにあった日には張莫にあわせる顔がない。弘農勢の動向は未だ不明だが、予定どおり明日にも早速、楽進、衛茲らの追撃部隊に合流し、張恰を叩かねばなるまい。高幹、高覧にくわえて張恰まで逃がしてしまえば、その分、河北での戦いが厳しいものになるのは自明の理である。 そしてもう一つ。張恰と決着をつける前に、ここ洛陽でやっておかなければならないことがある。 それは方士から聞いた真実を踏まえ、徐晃と話し合うことだった。方士の狙いが俺にあったと知った以上、これはどうしてもやっておかなければならない。『俺が裁かれるべきだとしても、裁くべきは方士でも李儒でもない』 方士と対峙した時、俺はそう断じたが、では、裁くべき者とは誰なのか。それはあの争乱で母親を失った徐晃に他ならない――「一刀、お待たせ」「うおうッ?!」 考え事に没頭していた俺は、いきなり背後から聞こえてきた声に驚き、思わずその場から飛びのいてしまった。 慌てて振り返ると、今まさに考えに出てきた当人が驚いたような顔で目をぱちくりとさせている。「ご、ごめん、一刀。驚かせちゃったかな」「や、こっちこそすまん。考えに集中してて、まったく気づいていなかった」 俺が正直に応じると、徐晃は眉を曇らせた。「む、それは危ないよ。一刀を狙っている人たちがいるってわかったんだから、普段からちゃんと警戒しておかないと。今、わたし、別に足音をひそめたりしていなかったんだからね?」 腰に両手をあてて注意してくる徐晃を見て、俺は言葉もなく頬をかくしかなかった。 言うまでもないが、玉座の間に隠れ潜んで機をうかがっていた徐晃は、あの方士と俺のやりとりをすべて聞いている。俺と徐晃がこれまでどおりの関係を保てるかどうかは徐晃の気持ちひとつにかかっていた。 俺もこれで少しは徐晃の為人をわかったつもりでいるので、徐晃がすべての恨みを俺にぶつけてくるとはさすがに思っていない。実際、あの後、俺に対する徐晃の態度にとくに変化はなかったし。 だが、人間、理屈ではわかっていても感情が納得しない、ということはままあるものだ。徐晃の性格からすると、たとえ俺にわだかまりを持っているとしても、無理にそれを押し殺している可能性は十分に考えられる。その無理が徐晃に良い影響を与えるはずもない以上、確認は早いに越したことはない。 結果として、この場で徐晃と袂を分かつことになるかもしれないが、それでも方士の言葉を気にしないフリをして表面上の友好を保つよりはずっとマシだろう。 ――まあ、目の前で俺の身を案じてくれている徐晃を見ると、自分の心配がものすごい的外れなものなのではないか、と思われてならないのだが。 反応の薄い俺を訝しそうに見ていた徐晃が、気を取り直したように口を開いた。「それで一刀、わたしに話っていうのはなに?」「ああ、実はだな――」 いまさら口ごもるような薄弱な意志で徐晃を呼び出したわけではない。 俺は単刀直入に本題を切り出そうと口を開いた。より正確にいうと、開こうとした。 ところが。「――まさかと思うけど、方士の言葉で母さんのことに責任を感じた挙句、俺を恨んでいないかとか訊いたりしないよね?」 問題です。この状況に相応しい言葉を次の三つの中から選びなさい。 ①機先を制される ②出鼻をくじかれる ③気勢をそがれる 正解 どれでも可 などという思考が脳裏をよぎってしまうほど、俺は思いっきり動揺した。「……………………いや、その、ですね。あ、あれ?」 正直なところ、徐晃にここまで精確に内心を読まれるとは想像だにしていなかった俺は、言いつくろうことさえできずに硬直するしかなかった。 そんな俺の反応を見て、自分が図星を指したことを察したのだろう、徐晃は深い深い溜息を吐くのだった。「なんでわかったんだろうって思ってる?」「……ああ、思ってる」「人目のない時間に、盗み聞きのしようもない場所に呼び出されれば、いくらわたしでも察しはつくよ。あんなことを聞いたすぐ後ならなおさら。それがなくても、一刀のことだから、顔には出さないでもこっそり気にしているんじゃないかなって心配はしてたんだけど……」 そういうと、徐晃はどこか恨みがましい目で俺の顔を見つめた。「あの方士の言葉を聞いて、わたしが一刀のことを恨んでいるかもって思ったんだ?」「う、む。その可能性もなきにしもあらずではないかなと思ったことは否定できないような気がしないでも――」「思ったんだ?」「…………はい。あ、いや、ほら、俺にとってもけっこう衝撃的な事実だったから、公明にとっても色々と思うことがあったんじゃなかろうかと心配で、それでそのあたりを訊いてみないといけないなと思ったわけだが」 徐晃の答えは簡潔だった。「それってわざわざ訊かなきゃいけないことなのかな?」 その顔は、なんというか、いじけていた。そんなに信用してくれていないとは思わなかった、と。 俺、素で慌てる。「い、いや、待つんだ、待とう、待ちなさい、待つべきだ。確認、そう、あくまでも確認だから! 公明が方士の言葉を聞いて、俺を恨んでいるに違いないと考えていたわけじゃないから!」「でも、ちょっとはそうかもしれないって考えてたから、確認しなきゃって思ったんでしょ……?」「ぐッ?! いやほら、人間、なんでも理屈で動くわけじゃないし。理屈では納得できても、感情では納得できないということも多々あるわけで! 今後に禍根を残さないためにも、公明にわだかまりがあればそれを解いておきたいと思ったんだッ」 いや、たしかに話がこじれてしまうと、ここで徐晃と袂を分かつことになるかもしれない、とは考えたが。しかし、それはあくまで予測されうる最悪の事態を想定しただけであり、きっとそうなるに違いないとはまったく思っていなかった。 ――しばし後、とうとう語彙が尽きた俺は、ぜいはあと荒い息をはきながら口を閉ざした。 それを見て、それまで俺の釈明(?)を黙って聞いていた徐晃は、こころもち厳しい顔を俺に向けてくる。「一刀。それじゃあ、今から言うのが一刀が確認したかったわたしの気持ち。ちゃんと聞いててね」「お、う?」 そういう徐晃の顔には、寸前までのいじけた様子はどこにも見当たらなかった。真摯な眼差しで、軟らかく言葉を紡ぎはじめる。「母さんは誰にも自分を譲り渡したりしなかった。母さんの生き方は母さん自身が決めたこと。方士なんか関係ない。だから、一刀が責任を感じる必要なんてどこにもないんだよ」 そう語る徐晃の言葉は淡々としていて、にも関わらず、こちらを思いやる気持ちがはっきりと伝わってくる。 声もなく立ち尽くす俺に向かって、徐晃は小さく微笑んだ。「わたしが――徐公明があなたに抱いている気持ちは感謝だけ。方士の言葉を聞く前も、聞いた後も、それはかわらない。恨みなんてこれっぽっちもありはしないから、だから、わたしがほんの少しでもあなたを恨んでるかも、とか考えないで。お願いだから。それは、その……すごく寂しい」 ひたと俺を見つめて訴えてくる徐晃の顔を、俺は一言もなく見つめ返すことしかできなかった。最後の部分はややゴニョゴニョとしていたが、聞きおとすほど俺と徐晃の距離は離れていない。 ややあって、俺は慌てて頷いたが、やはり言葉はでなかった。なにか謝罪の言葉を言わなければと思うのだが、どんな言葉も今の徐晃を前にしては軽すぎる。 徐晃の言葉に込められた信頼が嬉しくもあり、こんな言葉を言わせてしまった自分の不覚悟が申し訳なくもある。そして、あまりにもまっすぐな信頼と感謝の念を向けられたことがめちゃくちゃ気恥ずかしくもあった。 錯綜する感情に翻弄されて悶えていると、徐晃はさらに言葉を重ねてきた。「それとね。この際だから言っておくんだけど」「あ、ああ、なんだ?!」 この状況から脱する話題ならなんでもかまわん、と飛びつく俺。 だが、その内容は俺を更なる混乱に陥れるものだった。「母さんと別れたあの日、あなたが握ってくれた手の暖かさをわたしは今も覚えてる。きっと、死ぬときまで忘れない。一生かけてもこの恩を返そうって、あの時に決めたんだ。だから、この戦いが終わった後も、わたしは一刀についていくよ」「――う、ええッ?! いや、ちょっと待て、それは……」 さすがにこれは、はいそうですか、とうなずくわけにはいかない。 慌てて口を開きかけた俺に向け、徐晃はすっと指を伸ばした。 その指先が、俺の唇を塞ぐ。「むぐ?!」「この戦いが終わって、許昌を離れられるようになったら、一刀はひとりで寿春にいくつもりでしょう? 色々なことに決着をつけるために」「……ぬ」 ――今日の徐晃は本当に鋭かった。それとも、俺がわかりやすいだけなんだろうか。 実際、俺はこのまま劉家軍に戻るわけにはいかないと考えている。今の玄徳さまの力はまだ弱く、伝え聞く荊州の内情を考慮すれば、内外に敵も多いことだろう。 そんなところに俺が戻れば、方士たちがまたぞろ動き出す可能性が高い。俺を狙う人間ではなく、玄徳さまを狙う人間を使嗾するという形で。 また、韓世雄が名前を出した于吉が一連の事態の黒幕であるのなら、方術ではなく権力をもって他者にそれを強いることも考えられる。許昌を襲うことに反対する仲の廷臣は多いだろうが、標的が新野になればその限りではあるまい。 その事態を避けるためには、どうあれ于吉と相対しなければならない。黒幕である于吉を除かなければ、俺はこれから先、ずっと方士や仲の影を警戒しなくてはならず、それはどう考えてもうっとうしい。ついでにいえば腹立たしい。なんで理由もわからず襲われて、しかもこの先ずっと逃げ隠れしなければならんのか。 追い詰められれば、ネズミだって猫に噛み付くものだ。連中の目論見を知った今、俺が受身でいなけれならない理由はどこにもなかった。 相手は一国を牛耳る権力者、ひとりで挑んで何とかできるとは思っていないが、それでも方士が俺に固執する理由は探っておきたかった。そこから打開策が見つかるかもしれないし、そこまでいかずとも、現在の仲の情勢を我が目で確かめることには意義がある。 于吉が俺を狙うために劉家軍を敵とする者たちを動かすというのなら、于吉を狙う俺は仲を敵とする者たちを動かせばいい。俺にとっては幸いなことに、現在の仲はかなり内部でゴタゴタが起きている様子だった。仲を倒すという共通の利害を持つ者と協力するのであれば、何の問題もない。 徐晃が今後も俺についてくるというのなら、否応なしにこの争いに巻き込んでしまう。恩返しの一語で付き合うには危険が大きすぎた。徐晃だって仲や方士に対して思うところはあるだろうが、守らなければならない弟妹たちがいる身で、危険きわまりない敵地に乗り込むのは無謀に過ぎる。 ――と、徐晃の指先から逃れた俺は、そんな風に事を分けて話してみたのだが、当の徐晃はあっさりとこう仰せになりました。「それは一刀が決めることじゃないよね?」「ぐむ……」 それを言われると返す言葉がないのですが。 押し黙る俺を見て、徐晃は悲しげにうつむく。「もちろん、一刀がどうしてもわたしについてきてほしくないっていうなら、無理やりついていくことはできないんだけど……」「いや、そんなことは断じて思わないどころか、むしろ公明がいてくれればありがたいくらいなんだが、しかしだな――」「よかった、じゃあ何の問題もないね!」 都合のいいところで俺の言葉をさえぎり、にっこりと微笑んで結論づける徐晃。今泣いた烏がもう笑ったどころではない。この切り替えの早さ、どう見ても作為的。徐晃なりの照れ隠しなのかなと思いつつも、俺は言わずにいられなかった。「……おかしい。いつのまに公明はこんな性格になったんだ? 相手を正論で追い込んでから搦め手でしとめるような性悪――もとい周到な子ではなかったのに……ッ」 一生懸命に丁寧語を駆使して俺と話していた草原の少女はどこに消えたのか。俺がそう嘆くと、徐晃は腕組みして考え込んだ後、うん、とひとつ頷き、真剣な表情で言った。「人間、朱に交われば赤くなるものなんだね」「つまり張太守のせいということですねわかります」「ちが――あれ、あんまり違わない? でも、半分以上は一刀のせいだと思うッ」「……ですよねー」 身から出た錆の味が苦すぎて、ほろりと涙がこぼれそうになる俺だった。◆◆ その後、俺たちは特にこれといった話はしなかった。 徐晃が俺にわだかまりを抱いていないことがわかった今、そのほかのことについてはすぐ結論を出す必要はない。すべてはこの戦いが終わってからのこと、まずはこの戦いを無事に切り抜けることを最優先で考えるべきであろう。 これを専門用語で先送りというのだが、実際問題として、曹操が今回の件を聞いた後でどういう判断を下すのかがわからない今、あまり先のことまで考えても仕方ないのは確かだった。 徐晃も同じようなことを考えているのか、俺に確たる返答を求めることはしなかった。 ただ、言うべきことがなかったわけではないようで、そろそろ部屋に戻ろうかと考え始めた俺の耳に、徐晃の静かな声がすべりこんできた。「一刀、最後にひとつだけいいかな?」「いいけど、まだ何かあるのか……?」「そ、そんなに切ない顔をされると困るんだけど、うん、ひとつだけ。といっても、わたしのことじゃないんだけどね」「ぬ?」 俺が首をかしげると、徐晃は先にも劣らない真剣な表情でこの場にいない少女の名を挙げた。「仲達さんのこと。口には出さなくても一刀のことをすごく心配してるよ。気づいてる?」「ああ、もちろん」 李儒の呪いじみた言動を目の当たりにした司馬懿が、俺を心配してくれていることにはとうに気づいていた。 言葉にして、あるいは態度にあらわして、ということは特にないのだが、司馬懿の言動の端々に気遣いを感じるのだ。洛陽の住民との折衝も、俺が手を出す隙がない勢いで片付けてくれたし。 徐晃と違い、俺と方士のやりとりを知らない司馬懿にしてみれば、洛陽宮での出来事は要領を得ないことも多々あったろう。李儒の言動も看過できるものではなかったはずだ。 それでも、司馬懿はただの一度も俺に事情の説明を求めようとしなかった。それが俺の心情を思いやってのことなのは明らかである。 俺の返事に、徐晃はほっと安堵の息を吐いたようだった。「そっか、気づいているならわたしが口を出すことじゃないね。ただ、いちおう釘をさしておくけど、さっきみたいに自分が恨まれているかもっていう考えは捨てておかないと駄目だよ!」 徐晃の指先が勢いよく俺の鼻先に突きつけられる。 方士の狙いが俺にあった以上、俺は連中の行動と無関係ではいられない。それは間違いのないことだ。 ただ、それを知ったすべての人間が俺を恨み、あるいは憎むわけではない。徐晃はそう教えてくれているのだろう。 大げさな動作はやはり照れ隠しなのか、それとも照れ隠しに見せかけた本心の発露なのか。 いずれにせよ、徐晃の言動が俺の中に溜まっていた重苦しいものを払ってくれたのは確かであった。 俺は心からの感謝を込めて徐晃に言う。「肝に銘じる。それと、ありがとうな、公明」「どういたしまし――って、え? 一刀、わたし別にお礼を言われるようなことは言ってないよ?」 注意しているだけなのに、と不思議そうな顔をする徐晃に対し、俺はもう一度繰り返す。「それでも、ありがとう」「あ、うん。どういたしまして……?」 明らかに戸惑いながらも律儀に応じる徐晃を見て、俺は思わず笑ってしまった。 たぶん、今日はじめての、心の底からの笑いだった。 ◆◆ 明けて翌朝。 東の空がわずかに明るむ頃に目を覚ました俺が中庭に出ると、そこには黒旗の傍でたたずむ司馬懿の姿があった。 なにか考え事でもしているのか、身じろぎひとつせずに旗を見上げている。曙光はいまだ洛陽城内を照らすにはいたらず、黒髪黒衣の司馬懿の姿は、ともすれば黎明の暗がりに溶けてしまいそうに映る。 俺はつい足を止めて、その姿に見入ってしまった。 儚げな姿に見とれたというのもあるのだが、今の司馬懿はそれこそどこか妖精じみていて、夜の精が朝露と共に姿を消す瞬間を見るような、そんな奇妙な心地にさせられてしまったのだ――うん、我ながら何いってんだかよくわからないが、ともかくどこか幻想的な感じを受けたのである。 と、こちらの気配に気がついたのか、司馬懿が俺の方を向いた。 声をかけるでもなく立ち止まっている俺を不思議そうに見ている。そんな司馬懿を見た瞬間、今の今まで俺を捉えていた奇妙な感覚は霧散した。「おはようございます、北郷さま」「ああ、おはよう。早いな、仲達」 戸惑いを振り払って司馬懿に返答した俺は、そのまま司馬懿のところまで歩み寄ると、並んで旗を見上げた。 旗の向こうに広がる空は、いまだ夜の勢力が大半を占めている。どうも本気でかなり早起きしてしまったらしい。ただ、寝不足という感覚はまったくない。昨日は色々とあって精神的にもけっこうきつかったのだが、心身の調子はきわめて良好だった。やはり最後に徐晃と話し、気持ちよく床に入れたのが大きかったのだろう。 ――扉の外で不寝番をすると言い張る徐晃の説得は大変だったけど。 そんなことを考えていると、司馬懿がいつもと変わらない声音で問いを向けてきた。「北郷さま、軍旗はどのようになさるおつもりなのですか?」「今のところ、無難に姓か家紋をいれようと思ってる」 それを聞いた司馬懿は怪訝そうに俺を見る。「姓はわかりますが、かもん、とは何でしょうか?」 ああ、家紋って言っても通じないのか。俺は足で地面に十字紋を書いてみせた。丸の中に十字を書くだけなので簡単簡単。「俺の国では、その家独自の紋様みたいなものがあってね。それを家紋っていうんだが、これがうちの『北郷十字』。これを黒で縫い取ってもらおうかと考え中だ」「なるほど、家独自の紋様、ですか――しかし、北郷さま、これでは見た者に北郷さまの旗ということが伝わらないのではありませんか? それに、黒地に黒の縫い取りでは、あまり用を為さないように思います」 司馬懿の疑問はしごくもっともである。 この世界で北郷十字を知るのは俺だけだし、黒旗に黒の縫い取りでは、遠くからではただの黒い旗としか映らないだろう。つまり俺が脳内デザインした旗は、軍旗としての役割がまったく果たせていないのである。 だが、それでかまわない、と俺は考えていた。 たとえば真紅の呂旗が敵を脅かし、味方を勇気付けるのは、その旗を掲げる呂布個人の武名があってこそ。今の俺が立派な軍旗を掲げても、あんまり意味はないだろう。派手なのは軍旗ばかり、見掛け倒しの凡将よ、と敵に嗤われるのがオチである。 俺個人の武名があがれば、簡素な黒旗それ自体が俺の存在を示すものとして周囲に認識されるようになる。 それに、正直に白状すると、やっぱり自分だけの軍旗というのは男心をくすぐるものがあるので、俺の趣味としてシンプルかつ個性的なものが望ましかったりするのだ。 無地というのもそれはそれでシンプルでいいが、せっかく洛陽まで来てくれた職人さんに無駄足を踏ませるのも申し訳ない。姓をいれてしまうと、個性的の部分がいまいちになる。 というわけで、俺の心の秤は家紋の方に傾きつつあった。黒地に黒の十字紋、あれぞ北郷十字なり、と敵に認識されるだけの武将になってみせる、という遠大な目標込みで。 俺の説明を聞いた司馬懿は、なるほど、とうなずいた後、こんなことを言い出した。「五行説において北は玄にして黒。北郷さまの軍旗として、黒ほど相応しい色はないのかもしれません」 司馬懿に言われて思いだす。そういえば東の青竜、南の朱雀、西の白虎とならんで北を守る神獣は玄武だった。 仲と戦うのならば、白衣白甲の告死兵とも必ずぶつかることになる。対抗して、こちらも黒衣黒甲の玄武兵なるものを組織してみようか――うん、間違いなく名前負けですね。はい却下却下。 というか、俺は一軍を組織して戦う能力も資金も人脈もない上に、淮南に赴く際にはこの黒旗さえ置いていかないとまずいのだ。俺ひとりではこんなかさばるものを持っていけないし、仮に徐晃がついてきてくれるとしても、こんな高価な代物を持ち運びながら目立たず潜入とかできるわけがない―― と、そこまで考えたとき、俺は不意に気がついた。 実は今って司馬懿と話をする絶好の機会ではなかろうか、と。 時間といい、場所といい、今ならば人目もないし、盗み聞きをされる恐れもない。 正直なところ、司馬懿にすべてを話すことが最善なのかどうか、その点について迷いはあるのだが、だからといって黙したまま別れの時を迎えるのは最悪である。 俺は意を決して口を開いた。『あの』 何故か声が重なった。 見れば、司馬懿も口を開きかけた状態で、驚いたようにこちらを見上げている。「む、すまない。どうかしたか?」「こちらこそ申し訳ありません。何かご用でしたでしょうか?」「用というか、うん、今のうちに話しておきたいことがあってな。長くなるかもしれないから、仲達の用件から先に聞くぞ」「私の話も手短に済ませるのは難しいのです。他聞をはばかることも申し上げねばなりませんので、今がよい機会と思いました」 どうやらふたりして同じようなことを考えていたらしい。 となると、内容についても似通っているのではないか、と推測するのはさして的外れなことではあるまい。 もしそうであれば、ここは俺から切り出すべきだろう。そう考えた俺は、ゆっくりと口を開いた。「俺の話は昨日の洛陽宮の件だ。仲達には詳しいことを話しておこうと思ってな」 それを聞いた司馬懿は身体ごと俺に向き直り、こくりとうなずいて聞く姿勢をとるのだった。◆◆「――そういうことだったのですか」 北郷の話を聞き終えた司馬懿は、呟くようにそう言った。 長くなる、という言葉どおり、司馬懿の頭上で空がゆっくりと白みはじめている。 だが、司馬懿の目に空の変化は映っていなかった。司馬懿の意識は、いま聞いた事実にのみ向けられていたからである。 ただ、その考えるところは北郷の予測とはかなり異なっている。 司馬懿は方士の存在と目的についてはほとんど関心を払っていなかった。司馬懿にしてみれば、自分は巻き込まれた側ではなく、巻き込んだ側である。ある意味、方士と等しいとさえいえるのに、どうして北郷のことを責めることができるのか。 方士とは何なのか、どうして北郷を狙うのかについて気にならないわけではないが、それは今かんがえても仕方ないこととして、司馬懿はばっさりと思考から切り落としていた。 司馬懿の関心は方士にはなく、方士の目的を知って北郷が何を考えたのか、その一点にあった。 先日、北郷が話してくれた戦う理由が思い出される。 洛陽宮で李儒が口にした数々の雑言を、北郷はほとんど気にかけずに受け流していたように見えたが、それでも気にしなかったはずがない。 李儒と方士を退けた後、北郷が何を考えたのかはこれまでの言動を見れば容易に察せられたし、その推測が正しいことは今しがたの北郷の様子からも明らかである。 みずからに責ありとする北郷の考えが間違いである、と断じるつもりは司馬懿にはない。だが、それがすべてであると思ってほしくはなかった。 くしくも先夜の徐晃と同じ結論にいたった司馬懿は、まっすぐに北郷の目を見据えて口を開く。「お訊ねしたいことがあります」「なんだ?」「どうして北郷さまは、もうひとつの可能性について目を瞑っていらっしゃるのでしょうか?」「ぬ?」 司馬懿の問いに、北郷は戸惑ったように目を瞬かせた。「もうひとつ?」「はい。方士の目的が北郷さまにあり、その策謀が北郷さまのお命を狙ったものであるということは理解しました。北郷さまは仰いました。自分の存在ゆえに死なずともよい人が死んだかもしれない、と。それはひとつの可能性だと私には思えます。その可能性を否定するためには二つのことを明らかにせねばなりません」 北郷がこの地に来なかった場合、乱が起きたのか否か。 起きたとすれば、その際の死者はどれほどであったのか。「ですが、現に北郷さまがこの地におられる以上、この二つは知りようがないことです。ゆえに北郷さまが口にされた可能性を否定することは誰にもできません。ですが――」 ここで、司馬懿ははっきりと語気を強めた。本人が意識してのことではなかったが。「それならば、もう一つ――すなわち北郷さまがこの地にいらっしゃったゆえに、本来なら死んでいたはずの人が救われた、という可能性を否定することも誰にもできないはずです」 常になく力強く言い切る司馬懿に対し、北郷は顔にかすかな困惑を浮かべたまま答えようとはしなかった。 どうしてその可能性に目を瞑るのかをお訊ねしたい、とはじめに口にした司馬懿であったが、実のところ、訊ねるまでもなく理由はわかっていた。自分が思い至る程度のことに、北郷が気づかなかったとは思えない。ただ、あまりに北郷にとって都合の良い解釈であったから、あえて考えないようにしていたのだろう。 己を厳しく律することは疑いなく北郷の美点である、と司馬懿は思う。ゆえに、その考えを改めるように、というつもりはない。 ただ、自分の考えをここで北郷に伝えておきたかった。恩ある人のことを思って考えた理屈ではない。司馬懿自身が心からそうだと信じていることを、である。「北郷さま、方士の目的は北郷さまのお命だと仰いましたね?」「ああ。少なくとも韓世雄はそう言っていたぞ」 いまさらとも思える司馬懿の問いに、北郷は戸惑いながら答えた。 司馬懿は小さくうなずいて言葉を続ける。「では、なぜ方士は北郷さまのお命をつけ狙うのでしょうか? 言葉をかえれば、北郷さまを除いた後、方士たちは何をするつもりなのでしょう?」「それは……正直わからない、な」「はい。私にもわかりません。きっと、それを知るのは方士たちのみなのだと思います。ですが、内容はわからずとも、それが中華にとって善きことなのか、悪しきことなのか、それくらいは推測することができるのです」 司馬懿はそう言うと、洛陽宮の奥深くで甲高い叫びをあげていた李儒の姿を思い起こした。「――北郷さまを討つ。ただそのためだけに李儒のごとき者を使い立てし、策謀のかぎりをつくして混乱を招く者たちの目論見が、天下の万民に益するものであろうはずがありません。彼らの目的に理があるとしても、その理は彼らだけのもの。そのことは火を見るより明らかではないでしょうか? 北郷さまの存在が彼らの目的にとってどのような意味を持つのかはわかりませんが、彼らが本気で北郷さまを討とうとしている以上、北郷さまを除かぬかぎりその目的を果たすことは不可能なのでしょう。それはつまり、北郷さまがこの地にいらっしゃったがゆえに、中華に害を為す方士の目論見が阻まれたということです。そして、北郷さまが生きてこの地におられるかぎり、彼らの目的が果たされることは決してないということです」 確証など何もない。推測に推測を重ねただけのもろい断定。 にも関わらず、どうしてその言葉に力が宿るのか。「北郷さま。あなたがこの地にいらしゃったゆえに、すべては良き方向に向かったのです。中華に汚泥をなげかける方士の目論見は阻まれ、起こるはずだった惨劇は防がれ、落ちるはずだった城は落ちず、本来なら戦乱の中で散っていたであろうたくさんの命が救われた。北郷さまは良い人で、あなたの存在は善きものです。そのことは誰にも否定させません。これを否定し、北郷さまを中華より逐わんと欲する者がいるのなら、私は、私のすべてで叩き潰します」 答えは簡単だった。 それを口にした者が、心の底からそう信じていたからである。 北郷が司馬懿から顔をそむけるように空を見上げたのは、気恥ずかしさに耐えかねたからだろう。くわしく観察するまでもなく、頬も首筋も真っ赤であった。「…………まったく。俺のまわりにいる子は、俺を買いかぶりすぎだろう」「それは違います。北郷さまがご自分を過小に評価しておいでなのです」 きっぱりと断定する司馬懿に、北郷は降参をつげるように両手を軽くあげてみせた。 そして、おそらくは話をそらすためだろう、やや急いた口調で確認の言葉を口にする。「そういえば、最初に司馬懿が言っていた他聞をはばかることっていうのは、今の件だったのか?」「そう、ですね。そう考えていただいて結構です。その他にもうひとつ、先ほどの軍旗の件で提案したいことがありました」「提案?」 司馬懿の言葉に、北郷が不思議そうに首をかしげる。「はい。さきほどうかがった北郷十字の紋、この――」 と、司馬懿はその場にしゃがむと、足元に描かれていた北郷十字の丸の部分を指差した。「ここの部分、鳥の羽根に見立ててはいかがかと思いまして。こうすることで家紋として用をなさなくなってしまうというのであれば、お忘れください」「いや、そのあたりは別にかまわないぞ。親父から正式に家を継いだわけでもなし、勝手に家紋をつかう方がむしろ問題かもしれない。ふむ。『丸に十字』ならぬ『羽根に十字』か。ただの丸よりはそっちの方が雅だな。黒地に羽根だから、つまり黒い鳥か?」「はい。さきほど、北は玄にして黒と申し上げました。黒い鳥はすなわち玄鳥を指します」「玄鳥……ええと、燕のことだっけか?」 不安そうに答える北郷を見て、司馬懿は静かにうなずいた。 ほっと安堵の息をはく北郷に向け、司馬懿は進言の理由を説明する。「中華帝国において玄鳥は縁起の良い鳥です。穀物を食さず、穀物を害する虫のみを食することから、民にも大切にされてまいりました。その在り方は、北郷さまや、伝え聞く劉玄徳さまの志と等しいのではないか、と愚考した次第です」 それを聞いた北郷はおおいに感銘を受けた様子で、何度もうなずいた。 今しがたの気恥ずかしさをごまかす意図がなかったわけではないだろうが、司馬懿の提案に本心から感心しているのも事実であったのだろう。 その証拠に――「なるほど! 民を害さず、民を害するものを除く軍隊か! 燕っていうところも身分相応というか、身の丈にあった感じですごく良い。よし決定、それでいこう!」 即決だった。 提案した司馬懿の方が戸惑ってしまうほどに、北郷はいたくこの案が気に入ったらしい。北郷十字ならぬ玄鳥十字だな、などとはしゃぐ北郷の反応に、はじめこそ戸惑いを隠せなかった司馬懿だが、軍旗という武将として重要なものに関して自分の進言が容れられたわけだから、嬉しくないはずがない。その顔はいつか自然にほころんでいた。 ただこの時、司馬懿は自身の考えのすべてを口にしたわけではなかった。 北郷も司馬懿の進言の後半に気をとられ、前半部分はあまり気に留めなかったらしい。 司馬懿は言った。中華帝国において玄鳥は縁起の良い鳥だ、と。 その理由は古く殷(商)王朝以前にまでさかのぼる。殷王朝の遠祖 契(せつ)の母親である簡狄(かんてき)は、あるとき水浴に行き、そこで玄鳥が卵を産み落とすのを見て、その卵を飲んだところ、妊娠して契を産んだという。 契は後に聖王 禹の治水事業を援け、その功績で商の地に封じられる。この契の子孫に天乙(てんいつ)がおり、彼の諡号を湯という。 すなわち、暴虐の夏王 桀を討ち、諸侯に推挙されて王朝を開いた殷の湯王である。 戦国時代を終結させた秦にも玄鳥の伝説は存在する。 秦の始祖 女脩が機織しているとき、玄鳥の卵を飲んでうまれたのが子の大業である、というものだ。 視点をかえて伝説の最古にまでさかのぼれば、黄帝が蚩尤との決戦で苦戦した際、西王母の秘策をもって駆けつけた九天玄女は、人の顔をもった玄鳥であったともいわれている。 いずれも真偽を確かめる術はなく、またその必要もない。 世が乱れたとき、天より瑞祥を運んでくる鳥。玄鳥にはそういった側面がある。司馬懿が重要視したのはその点であった。 ――中華に生きる人々を守護する者にして、瑞祥を運ぶ者 ――其は遙か東の地より来たりし天の御遣いなり 司馬懿は北郷の黒旗にそんな願いをかけたのである。 北郷の負担にならないようにこっそりと、けれど誰にも譲れない確信を込めて。