洛陽宮殿 玉座の間 帝衣をまとい、玉座に座した白面の人物の顔を見た瞬間、司馬懿の眉が急角度につりあがった。 司馬懿は玉座に座っている人物を知っていた。南陽郡太守にして、弘農王劉弁の下で実質的に洛陽政権をつかさどっていた李儒、字を文優。 その李儒が、着てはいけないものを着て、座ってはいけない場所に座っている。 咄嗟に叱声を発しかけた司馬懿は、しかし、寸前であやうく思いとどまった。この場でそれを口にするべきは自分ではない、と考えて。 沈着な司馬懿にとって、怒声をこらえるために意思を振り絞るなど滅多にないことだったが、この時の司馬懿は疑いなく心身を怒気で染めていた。こらえることが出来たのは本当に偶然に過ぎない。 司馬懿が李儒を知るように、李儒もまた司馬懿を知る。李儒にしてみれば、司馬懿もまた自身の権勢を突き崩した敵のひとりであろう。 だがこのとき、李儒は司馬懿にちらと視線を向けただけで、その視線はすぐに別の人物に据えられた。 そして、李儒はその人物――北郷一刀に向けて、嘲弄じみた言葉を発する。「久しいな、北郷一刀。この地で再び貴様と相まみえることになろうとは思わなかったぞ」(え?) その言葉に、司馬懿は内心で驚き、そっと北郷の横顔をうかがう。北郷と李儒が知り合いであった、という話は聞いたことがない。 だが、この李儒の言葉は当の北郷にとっても意外なものであったらしい。応じた声は明らかに怪訝な響きを帯びていた。「……その顔、その態度。察するに、南陽太守の李儒か? お前に旧知のように呼ばれる覚えは――」 覚えはない、と続けようとしたであろう北郷の言葉は、李儒の激昂によって遮られた。「貴様ごときに名を呼ばれる筋合いはないッ! 分際をわきまえよ、下郎ッ!!」 甲高い声は金属を引っかく音にも似て、聞く者の耳朶を責め立てる。北郷は思わずという感じで眉根を寄せて口を閉ざした。 それを見て、相手が自分の威に怯んだとでも思ったのか、李儒は寸前までの激昂が嘘のように、静かな面持ちで満足げにうなずいた。 一介の廷臣が帝衣をまとい、玉座に座る。治める国はなく、従う臣民もいない、蜃気楼の椅子に執着する姿勢と、今垣間見せた感情の落差。李儒の心の均衡がすでに崩れていることを司馬懿は悟った。 だが、この偽帝と称することもためらわれる迷妄の人物が、完全に狂ってしまったと断じることは司馬懿にはできなかった。荒廃した都の無人の宮殿で、なお傲然とこちらを見下ろす人物の顔に明確な悪意があったからだ。 悪意は相手あってこそのもの、李儒はいまだ誰かを憎むだけの理性を保っていることになる。 では、その悪意が向けられた人物は誰なのか。それは李儒の態度がはっきりと示している。司馬懿たちが玉座の間に足を踏み入れてから、李儒が相手にしているのは北郷だけなのだから。 司馬懿は嫌な予感を覚えた。 この状況で李儒に何が出来るのかはわからない。今の李儒に伏兵や刺客を潜ませる余力があるとは思えないし、李儒自身が襲い掛かるには北郷との距離が開いている。階をのぼった先にある玉座からでは、何をしても届くまい、 ゆえに李儒にできることなど何もないと思えるが、為人に問題があるとはいえ李儒が水準以上の能力を持っていることは疑いない。李儒が何かを企んでいるのなら、それは未然に防ぐべきであった。「北郷さま、ご命令を」 李儒を捕らえよ、あるいは斬れという命令であっても、司馬懿は即座に従うつもりだった。兵の力を借りるまでもなく、それは司馬懿ひとりで為しえるだろう。 だが、北郷が返答するよりも早く、李儒が再び口を開いた。「我が名を呼んだ無礼は許しがたい。だが、一度だけは許してやろう。なにしろ、お前は私――いや、朕の命を救ってくれた恩人ゆえな」「命を救った?」 北郷の声は先にもまして色濃い戸惑いに染まっている。 その反応を見て、李儒の口元がはっきりと歪んだ。なまじ秀麗な外見をしているだけに、悪感情が表に出た李儒の顔は、見る者の心に寒風を呼び込む。 くつくつとこちらをあざ笑う声は清爽の対極に位置していた。 それを見て、これ以上ふたりに話を続けさせるとまずい、と司馬懿は直観した。李儒ははっきりとした意図をもって言葉を紡いでいる。その意図が北郷に害をなすことにあるのは明白だった。「北郷さまッ」 司馬懿は咄嗟に北郷の袖を握り、無理やり注意をこちらに向けようとする。 だが、北郷は司馬懿の方を見ようとはしなかった。 かといって、李儒の言葉に気をとられていたわけでもない。 その視線は、これまでとは違う色合いで李儒の面上に据えられていた。 ややあって、北郷の口からしぼりだすような、うめきにも似た声がもれる。「……………………ああ、もしかして。あの時、洛陽に火を放とうとしていたやつか」「……思い出したか。いや、朕の名を聞いてすぐに思い至らなかったということは、忘れていたのではなく、本当に知らなかったのだな。あのとき、朕の名は教えてやったはずなのだが」「そういえば、後ろの方で何かわめきたてていたな。雑音にしか聞こえなかったけど――そうか、お前が……」 北郷の声が沈痛なものにかわる。 それに乗じるように、李儒は声に力を込めた。「そう、朕が李文優だ。北郷一刀、改めて礼を言うぞ。あのとき、貴様に命を救われたがゆえに、朕は今こうしてここにいられる。ここに来るまでたやすい道のりではなかったがな。礼がわりに教えてやろう、あの後、朕に手を差し伸べたのは于吉なる方士だ」「于吉……?」「そう、貴様も知っていよう。仲帝袁術の股肱、方士于吉だ。朕は一時的に于吉の下で働き、仲のために多くの功を積み上げた。たとえば、そう、虎牢関で貴様の上役であったという陳留の張莫。彼奴の妹である張超と朝廷の反曹操派を引き合わせたのも朕よ。そして、事破れ、すべてを曹操めに打ち明けようとした張超とその側近を冥土に送ってやったのも朕だ」 応じる北郷の声は硬かった。「……兌州の動乱はすべて自分たちが引き起こしたことだ、とでも言いたいのか?」「そのとおり。むろん信じる信じぬは貴様の随意だが、いかにも信じられぬと言いたげだな。あるいは信じたくない、か? 貴様にしてみれば、自分が見逃した人間があのような大事を引き起こしたなどとは思いたくないであろうからな。だが、この際だ、もう少し朕の話を聞くがよい。聞けば、貴様も信じざるを得なくなるだろうよ――」 そう言うと、李儒は語り始めた。まるで演説でもしているかのように、滔々と自分が行ってきた所業を口に出していく。 途中、司馬懿はもう一度北郷の袖を引いた。 李儒の語る内容は、仲のために行われた謀略と殺人の繰り返しであった。それが事実か否かはわからない。ただ、それを誇らしげに語る李儒の姿が司馬懿の脳裏に警鐘を鳴らす。北郷が黙って聞き入っている意図はわからなかったが、それでもこれ以上続けさせるべきではない、と思えた。 その司馬懿の意図は北郷に通じていただろう。 だが、北郷は李儒の独白を止めようとはせず、のみならず、はっきりと首を横に振って、司馬懿が動くことを禁じた。 そうしている間に、李儒の話は徐州における曹家襲撃から淮南の戦いへと及んだ。「――朕が于吉の目論見を悟ったのはこの時期であった。その目論見とは何だろうな? いうまでもない、北郷一刀、貴様を殺すことだ。そのために于吉は曹家を襲って許昌と徐州を争わせた。ここで貴様が死ねばそれでよし、かなわず逃げてもかまわぬ、逃げる先は我らが支配する南方しかないゆえな。貴様は悪運強く生き延び、そして我らの思惑どおり南へと逃げてきた。淮南でも貴様はしぶとく仲軍の矛先から逃げまわったが、今度は逃がすわけにはいかぬ。于吉はそのために広陵を嬲り、略奪で荒廃せしめた後、陳羣を逃して貴様を高家堰に封じ込めた。そして、仲の全軍をもって砦を囲んだのだ。これがあの戦いの真相だよ」 愉しげに語を重ねる于吉は、うつむくばかりの北郷を嘲弄するように、耳障りな笑い声をあげた。「貴様とて疑問に思わなかったわけではあるまい。どうして、戦略的にも戦術的にも価値の薄い砦が、あのような大軍に取り囲まれたのだろう、と。その疑問も今日こうして解かれたわけだ。かの地で行われた戦いと謀略、これすべて貴様ゆえに起こったことであった。ふふ、いまさら言っても詮無いことだが、貴様がいなければ、淮南の戦いはどのように推移していたのだろうなぁ? 案外、劉備めが勝つ目もあったかもしれぬぞ」 李儒はそういって、こらえきれぬとばかりに高々と哄笑した。 この間、北郷はなにひとつ言葉を発さなかった。目を閉じ、俯き、ただ黙って李儒の哄笑に耐えている。北郷の身体は凍りついたように身じろぎひとつせず、袖を握り続ける司馬懿の手には震えひとつ伝わってこなかった。 対する李儒の舌は滑らかさを増す一方であり、その内容はついに司馬懿自身が関わることにまで及んだ。「その後のことは語るまでもない、と言いたいところだが、そこな司馬の小娘も無関係ではないゆえ、聞かせてやろう。于吉は寿春で、朕は南陽でそれぞれ力を蓄えた。先帝を許昌からお連れする際も、解池での狂女の騒動も、朕はみずから出向くことはしなかった。もっとも、知恵と金と人は出したがな。朕がみずから赴いていれば、あそこまで無様な結末にはならなかったろうが、ふん、部下に朕と同じだけの能をもてといったところで無益であろう」 李儒はそこで言葉を切ると、黙ったままの北郷と、その傍にいる司馬懿を睥睨した。 そして――「朕は今日、貴様に討たれることになろう。だがそれは、貴様が朕に勝ったのではない。朕が天に負けたのだ――そう言いたいところだが、しかし認めようではないか、北郷一刀。朕は貴様に、北郷一刀に敗れたのだ、と」 その言葉に込められた感情がどれほど陰惨であったのか。司馬懿をして背に氷塊を感じるほどのそれは、いうなれば極彩色の悪意であった。 言葉の上では素直に負けを認めている。だが、ここまでの話の運びを見れば、ここで李儒が北郷に敗北を認めるはずがない。何を言わんとしているのか。どんな悪意を吐き出そうとしているのか。 もし、先ほど北郷がはっきりと首を横に振っていなければ、司馬懿はここで握っている裾を離し、玉座への階を駆け上がって李儒を斬り捨てていただろう。北郷のためを思ってというより、司馬懿自身が負の感情を奔出させる李儒の言動に耐えかねていた。 李儒を指して壺毒と称した方士の言動を、もちろん司馬懿は知る由もない。だが、知れば無言のうちにその言葉の正しさを認めただろう。今の李儒は人の形をした毒そのものだった。「道半ばで果てるは無念のきわみだが、しかし、相手が貴様ではさすがの朕も諦めるしかない。姿形こそ平々凡々たる貴様だが、その実相は覚悟を知らず、己を知らず、それゆえに戦乱と流血を招きよせる無知の猛悪よ。貴様が中華に撒き散らした災禍は、古の四凶をすらしのぐだろう。四凶をしのぐ貴様に、どうして人の身で打ち勝つことができようか。貴様のせいで果ててきた無数の屍の上に、朕の身体も積み重なる、ただそれだけのことだ」 だが、と続ける李儒の目には、隠し切れない愉悦の色があった。「それでも朕はまだ恵まれた方なのかもしれぬ。何故なら、朕は最初から最後まで貴様の敵であったのだから。敵に敗れるは道理。ゆえに、朕は諦めることができる。ゆえに、真に哀れなるは朕にあらず」 そう言って天を仰いだ李儒は、両手で顔を覆い、甲高い叫び声をあげた。「そう、真に哀れなるは朕にあらず! 真に哀れなるは劉玄徳! 彼奴は敵ではなく、味方に敗れたのだから! 己が内に元凶あるを知らず、元凶と笑い、元凶と泣き、元凶と共に戦場を駆けたのだから! ああ、どうしてそれで災いを避けることができようか。しかして彼奴はいまだその事実を知らずにいる。ああ、なんたる悲劇、おお、なんたる無様! これを知ったときの彼奴の無念と苦痛、察するに余りある。偉大なる高祖よ、果敢なる光武帝よ、どうして御身らの末裔にこのような無残な結末を用意したもうた? 雄敵と競い、敗れて夢果てるならばいざしらず、獅子身中の虫に夢を貪り食われるとは、死んでも死にきれまい!」 真実、劉備を悼むように痛哭した李儒は、顔を覆っていた手をどけると、玉座から立ち上がって、階下の北郷を指差した。 その表情に名前をつけるならば、嗜虐、が一番相応しかっただろう。 そして、李儒はとどめの言葉を放つ。まるで歓喜するように、両の眼を陶酔で染めながら。「そうだ、北郷一刀! 貴様がいたゆえに劉家軍は追い詰められた! 貴様がいたゆえに高家堰は仲軍に囲まれた! すべては貴様の責なのだッ! 貴様が――他の誰でもない、貴様が劉玄徳の夢を散らしたのだッ!!」 李儒の言葉が途切れると、周囲はシンと静まり返った。 玉座の間を包んだ静寂は容易に破られそうになく、その静寂をもたらした李儒は満足げに息を吐き出した。そして再び玉座に腰を下ろした李儒は、ここでようやく陶酔から覚め、苦悶しているであろう北郷の姿を堪能しようと眼差しをそちらに向ける。 ――そして、気がついた。「…………なに?」 視線の先で、いつの間にか北郷が俯くのをやめていることを。 予期せぬ事実を知って凍り付き、あるいは自らが犯した罪業に苦悶しているはずの北郷が、特段、何の感慨も面に出さずに李儒を見上げていることを。 そんなはずはない、と李儒は思った。今、李儒が口にした事実は北郷にとってはじめて知ることばかりのはず。自分のせいで主君や仲間が崩壊したのだ。北郷のような甘い若造がそれを教えられて苦痛を覚えないはずがない。あの老いた方士が口にしたことを、李儒は確かにそのとおりだと思った。だからこそ、こうして激語を叩きつけてやったのだ。 にも関わらず、北郷はこうしている今も平然と李儒を見据えている。もう言うことはないのか、と言わんばかりに。内心の驚愕を押し隠しているにしては、その立ち姿はあまりにも自然だと李儒には思えた。 事実、李儒の視線の先で、ゆっくりと開いた口から発された北郷の言葉には、一片の動揺も含まれていなかった。「――言いたいことは終わったか、李儒、ではない、李文優どの?」「……この身は皇帝ぞ。陛下と呼べ」「それは断る。俺はお前を皇帝だなんてチリほども認めていないからな」 でもまあ、色々と教えてくれたことには感謝しよう。 北郷はそう言ってにやりと笑った。 その声、その態度、その表情。余裕さえ感じさせるそれらすべてが李儒にとって想像の外にあった。 李儒は憎々しげに口を開く。「……主君に仇なす疫病神が。ここで朕を斬ったところで、貴様の罪業、万分の一も償うことはできないのだぞ。むろん、これまで朕が手にかけてきた者たちへの償いにもならぬ。貴様が――」「俺がお前を殺していれば死なずに済んだ人たちにどうやって詫びるつもりだ、か? 今も言ったけど、色々と教えてくれたことには感謝している。けど、同じことを繰り返すのは勘弁してほしいな。お前の言葉は、ただ聞いているだけで心がけずられる。俺はともかく、仲達や他のみんなには毒だ」 あっさりと応じると、北郷はゆっくりと階をのぼりはじめた。後ろに続こうとした司馬懿や兵士を片手で制し、ただひとりで。 それを見て李儒はわずかに腰をあげかけたが、すぐにそんな自分を恥じるように座りなおし、北郷の虚勢を暴くべく舌を回転させた。「他人事のように言っているが、貴様にとっても毒であろう? 仲が貴様を狙っている事実を知れば、今後、貴様の傍に近づく者はいなくなる。ここで朕を斬って口を塞いだところで、そこの小娘どもの口まで塞ぐことはできまい。それとも、ここにいる者たちすべてを葬って、恥ずかしげもなく劉備めの下に帰参するつもりか? 今度は新野を炎で染めるつもりか?」「いや、そんなことをするつもりはないな。そもそも、お前を殺すつもりもないし」 一歩一歩、足元を確かめるようにして李儒に近づきながら、北郷はそんな言葉を吐く。 李儒の両眼に紫電がはしった。 助かるかもしれない、という安堵ではない。北郷の言動が理解できず、苛立ちが臨界に達しつつあるのだ。「…………なるほど、一軍の将となった今なお、できれば自分の手は汚したくない、というわけか。だが、そんな悠長なことを言っていられる身分ではあるまいが。朕を生かすということは、それだけ貴様の秘密を知る人間が増えるということなのだぞ。それが嫌ならば、朕をここで殺せ」「それをすれば、かえって俺は疑われる。自分に都合の悪いことを知っている人間を消したのではないかってな。俺の秘密とやらは、許昌の刑吏に存分にしゃべってくれ。その後で、お前の処分は曹丞相が決めるだろうさ。それがどうなろうと、俺にはどうでもいいことだ」 玉座への階といったところで、百も二百も段があるわけではない。 北郷はすでに李儒の眼前に立っていた。 対して李儒は玉座にかけたまま動こうとしない。というより、動けなかった。北郷の言動が、本当に理解できなかったのだ。 李儒はここで死ぬつもりだった。 生きて再起をはかる気になれない以上、残された道は死して名を残すだけ。 北郷に呪いを残し、逆上した北郷に玉座の上で斬り殺される。王朝の歴史に自分がなんと記されるかは想像するしかないが、どんな形であれ、史書に名が残れば。自分の行動が歴史に明記されれば、いつか自分の志を理解する者は現れる。李儒は本気でそう信じていた。 そうあってこそ、自分の生に意味がうまれる。李文優の名は不滅のものとなるのだ、と。 だというのに、北郷は李儒を殺そうとしない。腰に剣こそ佩いているが、李儒を間合いに捉えた今なお抜こうとする素振りさえ見せぬ。「……何を考えている、北郷一刀。本当に朕を生かしておくつもりなのか?」「だからそう言っているだろうが。まあ、その前に、だ」 不意に北郷の手が李儒に向けて伸びる。何気ない動作だったが、李儒はまったく反応できなかった。「ぐッ?!」 胸倉を掴み挙げられ、強制的に立ち上がらされた。と、思う間もなく、玉座とは別の方向に突き飛ばされた李儒は、たまらず床にしりもちをついた。 わけがわからず北郷の顔を見上げる李儒にかぶせるように、上から声が降ってきた。「ここはお前が座っていい場所じゃない。分際をわきまえるのはお前だ」 李儒が激怒したのは、その内容というよりも、その声に含まれた感情に我慢がならなかったからだった。より正確にいえば、ろくに感情が含まれていないことが許せなかった。 怒りも憎しみもなく、かといって嘲り、冷笑しているわけでもない。無理をして感情を押し殺しているのではなく、その感情の大半を占めるのは義務感だった。 言うべきことだから言った。それ以上でも以下でもない声音。 ここにきてようやく李儒は悟る。 北郷が、自分をろくに相手にしていないのだ、という事実を。「…………ッ!!」 懐から取り出されたのは小刀。 過日、高幹を傷つけた暗器であり、かつて北郷がまったく反応できなかった武器。 しかし。「大火の時のことを思い出させたら、これだって思い出すだろ」 いつの間に抜き放ったのか、北郷は直近から放たれた小刀をあっさりと剣で弾き返していた。どこか澄んだ音を響かせて彼方に飛んでいく小刀を、李儒は呆けたように見送る。 その李儒に向けて、北郷は斬撃を繰り出した。 ただし、狙いは李儒の命ではなく。「これはお前が着ていいものじゃない」 李儒が着ている袞竜の袍。中華広しといえど、ただ皇帝しか着ることを許されない衣が、ななめにばっさりと切り裂かれる。 「ひ……な……」「そら、いくぞ」 言うや、北郷は剣をしまうと、ガッと李儒の襟首を引っつかみ、引きずるようにして階を下りはじめる。 その乱暴な扱いには、好き放題に罵られていたことへの意趣返しの意図が見て取れないわけではなかったが、当の李儒はまったく気づいていなかった。「ぐ、が?! 貴様、離せ、離さぬかッ」「ああ、黙れ黙れ。もう終わるよ。ほい、到着っと」 北郷は駆け寄ってきた司馬懿らの前に李儒を放り出した。「仲の南陽太守にして、洛陽政権の事実上の宰相の身柄だ。丁重に扱って差し上げろ」「……かしこまりました。自裁を防ぐためにも、くつわをかませておきましょう」 司馬懿が言うと、北郷は軽く肩をすくめた。「自分で自分を裁く度量があるなら、こんなことにはならなかっただろ。他人をいくら傷つけても心は痛まないが、自分が傷つくのは我慢できない。そんなやつに自裁の心配はないよ。まあ、こいつの罵声はもう聞きたくないから、くつわをかませておくのは賛成だ。連れて行け」 最後の一言は兵士たちに向けたものである。 兵士たちが命令に従い、乱暴に李儒を引っ立てていく。 その間、李儒は何度か声を張り上げていたが、その声はすでに北郷の意識の外にあるようで、まったくといっていいほど反応を見せなかった。 北郷は残った司馬懿にも申し訳なさそうに声をかける。「仲達もついていってくれるか? 自裁の心配はなくても、逃げ出す恐れはあるからな。許昌の刑吏に引き渡すまで用心しないといけない」「はい、ご命令のままにいたしますけれど……あの、北郷さま」 憂いを込めた眼差しで司馬懿の内心を悟ったのだろう。北郷はふてぶてしい笑みを浮かべた。いささかならず、わざとらしいものだったけれど。「気遣い感謝する。けど大丈夫だ。あんな罵詈雑言で傷つくほどやわじゃないよ」 だから、心配しないでいい。 そう口にした北郷の言葉をどう受け止めたのか、司馬懿は一度だけしっかりとうなずくと、踵を返して兵士たちの後を追って玉座の間を出て行った。◆◆◆ 司馬懿が去り、玉座の間にひとり残った俺は、鞘に納めた剣の柄頭をもてあそびながら、部屋の四隅にわだかまる闇に届くよう、強めの声をあげた。「そろそろ出て来い、方士。どうせ隠れているんだろう?」 一瞬の静寂。 だが、変化はすぐにおとずれた。まるで四方から同時に発されたような、奇妙にこもった声が玉座の間に響き渡ったのだ。『…………ほう、ほう。気づいておったか。それともあてずっぽうか?』「当たれば格好がつくし、外れてもここにいるのは俺だけだ。別に恥ずかしくもない。なら、言ってみなければ損だろうさ」「くかかか! しかりしかり。ずいぶんと図太くなったではないか、この塵屑(ゴミくず)のごとき外史をつくりし元凶の子よ」 そう言って姿を現したのは、ぞっとするほどに暗い目を持ったひとりの老人であった。 装束の色こそ解池の方士と同じ白色だったが、雰囲気はずいぶんと異なる。 俺は観察の視線を走らせつつ、老人に相対した。「外史、か。解池の方士も同じ言葉を口にしていた。やはり同類か」「いかにもそうじゃよ、北郷一刀。わしの名は韓世雄。ぬしらが解池で討った甘始の師よ。見知りおくがよい」「お前たちみたいな胡乱な連中を見知りおきたくはないんだけどな。で、そのお師匠さまが何の用だ? 弟子の敵討ちにしてはまわりくどい気がするが」「さて、今しがたわしを呼んだのはぬしであったと思うがの。用向きを言うのはそちらからが筋ではないか?」「ちょっかいを出してきたのはそちらが先だ」 俺が鋭く断言すると、老人は愉快そうに嗤った。「くかか、そのとおりじゃな。よかろう――と、言いたいところじゃが、実はわしの用向きはもう終わっているんじゃよ」「つまり、李儒は貴様の傀儡だった、というわけか」「くかかか! 本当に察しが良いのう。そのとおりじゃ。ぬしがあやつに何も言い返さなんだを訝しんでおったのじゃが、なるほど、あやつを傀儡と見抜いておったなら、傀儡に反論するのはバカらしかろう」「別に傀儡であるかどうかは関係ないさ。見たいものだけ見る。聞きたいものだけ聞く。言いたいことだけ言う。他人の意見に耳は貸さず、けれど他人には自分の意見を押し付けたがる。わめきたてるのは他人の注意を惹きたいからで、大声を出すのはそうしないと誰も聞いてくれないからだ。あの手の輩には、無視と無関心が一番きく」「道理じゃな、うむ、道理じゃな! ぜひそれをあやつに云うてほしかったのう。どんな反応を見せたことか、この老いぼれの枯れた心にも興味の火がついてしまうわ――――が、それはそれとして」 ここで老人の口元に嫌らしい笑みが浮かんだ。「ぬしは、あやつに一番効果的であろう反応を選んだ。それはつまり、あやつの言葉に少なからず動揺したということじゃろう?」 その言葉に俺は特に肯定も否定もしなかったが、俺の沈黙を見て老人は肯定ととったらしい。笑みが大きくなり、唇の隙間から汚れた歯がのぞいた。「一応、つけくわえておいてやろう。あやつが云うたことは、多少おおげさなところはあったが、おおむね事実じゃよ。我ら方士は貴様の抹殺を目論み、于吉さまの指示の下、方術と李儒のごとき傀儡どもを駆使して中華に動乱を巻き起こした。結果、ぬしと、ぬしの周囲にいた者たちは乱流にまきこまれた木の葉のごとくかき乱され、ある者は死に、ある者は離れ、ぬし自身は流れ流れて敵の都にやってきて、敵のために戦わざるを得なくなったというわけじゃ。もしも中華にぬしなくば、ここ数年でおきた動乱の半分は未然に防がれたのではないかな? くかか、四凶に優る猛悪は言い過ぎじゃが、疫病神はそのとおりというべきか。ぬしの周りにいた者たちは、ぬしの存在ゆえに戦火に巻き込まれたのじゃからして――」 いつ果てるとも知れない老人のおしゃべりを聞き流しつつ、俺は深々と溜息を吐いた。 それを聞きとがめたのだろう。あるいは長広舌を遮られたことが気に障ったのか。老人の顔にわずかに険があらわれる。「しょせん、ぬしも李儒とかわらぬか。耳に痛い言葉は聞く耳もたぬ、というわけじゃな」「李儒にも言ったが、繰り返しは勘弁してもらいたい。同じ内容を、言葉をかえて言っているだけだろう。しかも、その内容で俺を責めているつもりになっていることが度し難いというか何というか……」 俺はうんざりしつつも、納得してうなずいた。「なるほどね。傀儡が愚かだったわけじゃない。傀儡子が愚かだったから、操られた傀儡も愚かにならざるを得なかった、というわけか。李儒の言葉じゃないが、李儒ひとりなら勝ちの目もあったかもしれないな」 老人の声が、すっと低くなった。「……どういう意味じゃ、それは?」「言ったとおりの意味だよ、方士。まさかとは思うけど、今の口上で俺が本気で傷つくとか思ってたのか? だとしたら、実におめでたい。お前の頭の中には、脳のかわりに膿でも詰まってるんだろうさ。ああ、もしかしたら、それが方術を扱う資格だったりするのか?」 俺の暴言に対して返答はなかった。言葉にしては。 感情の温度を一瞬で氷点下にまで下げた老人は、装っていた馴れ馴れしさをかなぐり捨て、憎々しげな表情で顔を覆った。その眼差しは思わず怖気がはしるほどに冷たかったが、正直なところ、俺としてはこちらの方がやりやすい。表面上のものであれ、老人の姿をした人に親しげにされると、どうしたってじいちゃんを思い出してしまうからだ。 ある意味、眼前の方士は俺の弱点をついていたわけだが、当然というか、当人は気づいていないようだった。「過去の罪業など知ったことか、というのであればさすがじゃな。あるいは、外史の者たちがどうなろうと、いずれ帰る自分には関係ないということかの」「意味ありげに外史外史言わなくていいぞ。どうせ詳しい説明をするつもりなんてないんだろうし。それとも――案外、お前もそこまで詳しいわけじゃないのかな?」 この時ばかりは、俺は真剣に老人の表情をうかがった。 そして、俺の視線の先で、老人の表情はまったくうごかなかった。 ――そう。戯言を、とあざ笑うことさえしなかったのだ。 瞬間、俺の口元に浮かんだ笑みをどのように解釈したのか、老いた方士のしわ深い顔には、ぬめるような粘着質の害意がはりついていた。「……北郷一刀よ。あまり調子に乗るでない。わしがぬしを肉体的に傷つけることができぬと思うておるのなら、その勘違いは高うつく」「精神的に傷つけることができていない、とようやく自覚したわけだな」「………………ぬしが李儒を殺さなんだゆえに、あやつは多くの策謀を手がけ、多くの者を破滅へと追いやったのじゃぞ。ぬしがあやつを殺しておれば、そのすべてがなかったはずなのじゃ」 俺は相手の論旨を鼻で笑った。「そうだな。『李儒に』殺される人間は、確かにいなかっただろう。死者が生者を殺せるわけもない。ただな、仮に俺があの時に李儒を殺していたとして、俺の命が狙いだったというお前たち方士の策謀は、すべて行われなかったのか? 違うだろう。李儒がいなければ、お前たちは李儒以外の誰かをつかって同じ策謀を行い、同じ人たちを破滅に追いやったはずだ。ついさっき、自分で言っていたじゃないか。李儒のごとき傀儡『ども』を駆使して、と」 押し黙る方士を前に、俺は肩をすくめて言葉を続けた。「まあ、実はお前たちの計画がことごとく李儒なしでは実行できない――つまり、李儒がいなければ為しえない程度の底の浅い計画だった、というならその限りではないんだけどね。問おうか、韓世雄とやら。お前たちは、いや、お前は、李儒なくば策謀ひとつ実行できない無能者なのか? 否というのであれば、俺が李儒を殺そうと殺すまいと結果はかわらなかったということだ。応というのであれば、そうだな、俺はあの時に李儒を殺せなかった自分の覚悟の無さを、もう一度心から悔いるとしよう。高家堰で味わった痛苦、さすがに二度耐える自信はない。俺は自分の罪を償うべく、黄河に飛び込むかもしれないぞ。お前たちにとってはめでたしめでたしな結末になるだろう」 思いっきり嫌みったらしく言ってみる。 眼前の老人が、自らの口で自分を無能などと言えるはずがないことを承知してのことで、性格が悪いといわれても仕方ない。 我ながら程度が低い意趣返しであるが、だからこそ李儒や方士のような人間には効果的だったのだろう。 次に老人の口から出た言葉には、煮えたぎるような憎悪が宿っていた。「……………………つまり、ぬしは認めるわけじゃな。李儒の存在の有無に関わらず、すべての策謀は行われたのだ、と。その策謀の狙いは自分であり、すなわち貴様がこの地に至ってから起きた中華の動乱の半ばは貴様を因として起きたものなのだ、と。劉家軍が潰えたは、すべて己が責なのだ、とッ!」「あほらしい。そんなわけあるか」 俺はまたも相手の主張を鼻で笑うと、ついでに一蹴するべく言葉を重ねた。「ひとつ例を挙げようか。俺はお目にかかる機会はついになかったけど、張太守の妹君。兌州動乱の首謀者で、お前たちが罠にかけたと主張するこの方の死は、お前らの論理によれば俺の責任ということになる。さて、今回の戦いが終わって許昌に帰った俺は、張太守に土下座して詫びる。妹君は私の命を狙う方士どもの策謀に巻き込まれ、謀反を起こして果てられたのです。妹君の死はすべて私の責任であり、どうか存分に処断していただきたい、と。さて、これを聞いた張太守は俺になんと言うだろう? お前にわかるか、韓世雄」「………………」 俺の問いに対し、方士は沈黙をもって応じた。 答えがわからないというよりは、聞くだけ聞いてやるからさっさと先を続けろ、という感じだった。 ただし、微小だが、俺がこんなことを言い出したことを戸惑っている気配もある。「激怒されるだろうよ。私の妹を侮辱するな、とな」「…………なに?」「私の妹は自分の意志で起ったのだ。良否の評価は各人が下すこと、それに異議を唱えるつもりは毛頭ないが、妹の決起が他人に、それも方士などというわけのわからぬ輩に唆された末のものだ、などと口にすることは許さん――そういって、想像するだけで震え上がるほどの怒りを叩きつけてこられるだろうさ」 それは兌州動乱における俺の考えでもあった。 張超がどうして曹操に叛いたのか、その理由を知る立場に俺はいない。これから先も知ることはないだろう。 それでも、張超が謀反の責任を他者と分かつとは思えなかった。方士の助力があったことが事実だとしても、その助力の有無で謀反に踏み切ることを決めたとも思えない。 張超には成し遂げたい何かがあった。そして、言葉を尽くしてもそれがかなわないと知った。だからこそ起ったのだ。方士の存在なぞ関係ない。 はじめの一歩を踏み出すとき、悩みもためらいもしただろうが、それでも踏み出した自分の行動の責任は自分でとる方だろう。なにしろあの張莫の妹さんなのだから。「――くかか、見てきたようなことをぬかすのう。ぬしは張超の顔を見たこともなければ、声を聞いたこともないではないか。あほらしいというなら、今のぬしの言葉こそあほらしい。己を守るために、知らぬ人物を都合の良いよう脚色しているだけではないか」「そうだな。では許昌に着いたら直接張太守にきいてみるか。俺の考えはあほらしいかどうか」 俺が平然と流すと、方士は悪相を歪めて舌打ちした。 そんな相手に対し、俺は矢継ぎ早に言葉を叩きつけていく。「まだ、俺が何を言いたいのかわかっていないみたいだな。今の兌州動乱に限った話じゃない。曹家襲撃の件もそうだ。あの時、俺が討ち取った賊将どもは元々忠良な武人であり、それを方術で無理やりねじまげられてあの挙に及んだのか? 違うだろう。仲がしたことも同様だ。袁術には帝位につく野望がまったくなかったのか? 淮南侵攻の野心はまったくなかったのか? 清浄無垢な袁術を、お前たちがたぶらかして事に及んだだけなのか? 違うだろう。袁術にも、その配下にも、最初から野望も野心もあった。お前たちはそれに乗じただけだ」 解池で楊奉は言っていた。『私以外の誰かに――まして方士なんかに「私」を決めさせたことなんてないのだから』 きっと、あれがすべての答え。 もちろん、誰もが楊奉と同じ考えを抱えているわけではない。 だが、楊奉は薄明に踏み込みながら、それでも方士に己を譲り渡さなかった。方術にもあらがってみせた。 であれば、それが夢であれ、野心であれ、欲望であれ、自分の望みを抱いている人たちが、方士や方術なんぞに簡単に自分を譲り渡すはずがない。 方士にできるのは、望みを抱いて起った人たちの行動を自らの利益に繋げること。そして、事が終わった後、あたかもすべては自分の仕業であったかのように吹聴すること、それくらいだろう。 つまるところ――「俺がここに来る前も、来た後も、お前たち方士が起こした乱などただの一つもありはしない! 口先だけの方士ども、したり顔の黒幕面は大概にしろッ!」 大喝一声、俺はひとたびしまった腰の剣を再び抜き放つ。 それを見ても、方士は逃げようとはしなかった。ただし、余裕をもって俺と対峙しているわけではない。満面を朱に染めた方士の顔を見れば、それは誰の目にも明らかだった。 「おのれ、小僧が好き放題ぬかしおって! 貴様がどれだけ己をかばおうと、貴様の存在が劉備めの志を砕いたことにかわりはないのじゃぞ、それはどう言い繕う術もあるまいが!」「それこそ妄言だよ、韓世雄」「なんじゃと?!」「貴様らは俺の命を狙い、仲を動かし、結局のところ何が出来たというんだ? 劉家軍を追い詰めておきながら討ち果たせず。高家堰を大軍で取り囲んでおいて落とし得ず。俺の命を奪おうとして奪い得なかった。なにより、これだけははっきり言っておくがな、玄徳さまは生きて、今なお戦っていらっしゃるんだ。俺も雲長どのも、きっと子義たちだって今いる場所で懸命に戦っている。いつ、どこで、誰の夢が散った? 誰の志が砕けた? 劉家軍が潰えたとか、どの口でぬかすか、えせ方士がッ!!」 俺の激語をまともに受け、方士が憤激のあまり怪鳥のような叫びをあげた。 その姿を見ながら、俺は高ぶる心の片隅で、もう少し挑発が必要か、とひとりごちる。「まあ、お前たちの言うことにも理がないわけじゃない」 俺が方士にたたきつけた言葉はことごとく本心だが、細部を見れば俺の決断と存在ゆえに害をこうむった人たちは確かにいただろう。俺が李儒を斬っていれば、李儒の代わりとなる人物が代わりを務めた。それは確かだが、その人物が李儒ほど才知に長けていたかはわからない。李儒でなければ出来なかった策謀も、一つや二つはあったかもしれない。 他の策謀についても同様のことがいえる。俺がおらず、方士が動かなくても兌州の動乱は起きたし、仲は建国されたし、おそらく曹家襲撃も行われた。だが、そこで犠牲になった人、巻き込まれた人の数は、もしかしたら今よりも少なかったかもしれない。 いつか、許昌で荀攸から高家堰の戦いの原因は俺ではないかと問われた。俺はあの時、笑って否定したが、まさか本当に荀攸の言うとおりだったとは。 ただ、そういった痛苦をわざわざ相手に示してやる必要はない。 それに、だ。「そもそもだ。俺にしてみれば、正体不明の連中が、よくわからん理由で襲い掛かってきているだけなんだよ。巻き込まれた人には申しわけないと思うが、どうして当の加害者どもに『お前が元凶だ』なんて罵られなきゃならないんだ? 被害を受けた人たちに言われるならともかく、お前や李儒に責められる筋合いはまったくない」 俺が裁かれるべきだとしても、裁くべきは李儒でも方士でもない。それだけは確かだろう。 これには反論の術がなかったのか、方士が押し黙る。 俺が李儒や方士の口上にほとんど動じなかった理由はここにもある。言っていることに衝撃を受けたのは事実だが、連中から「恥じろ、悔いろ、詫びろ」と責められて恐れ入る理由なぞどこにもない。 それを承知していながら、それでもここまで連中の相手をしていたのは、俺の知らない何かを得られるのではないか、という期待があったからだ。なにしろ、俺はどうしてこの世界に来たのかさえまだ知らずにいる。 解池で楊奉に示唆されたそれを知るために、わざわざこうして洛陽までやってきた。 そして、実際に収穫はあった。望んだものではなかったし、正直なところ重苦しくてたまらないが、それでも知らないよりはずっと良い。これで、次にやるべきこともはっきりした。(……そろそろいいか) 策謀家の李儒に続いて、方士の韓世雄。どちらかひとりでも、相手にすれば憂鬱になりそうな輩を、二人連続で相手してきた。正直なところ、俺もそろそろ限界が近づいている。主に精神的な面で。 俺は意を決し、これまで秘めていた切り札を出すことにした。「ついでにもう一つ、たぶんお前が気づいていないことを教えてやる。お前、自分がどれだけ致命的な一手を打ったのか、わかっていないだろう?」「な、なんじゃと?」「お前たちの狙いは俺の命だという。けれど、お前たちは一度として直接俺を殺そうとはしなかった。つまり、方士は自分の手で人を殺めることはできないと証明してくれたわけだ。同様に、方術は人間を望まない方向に動かすことができない。それが出来るなら、お前たちは俺の療養中に許昌を襲わせただろう。あの時、仲を動かせなったことが、はっきりと方術の限界を示している。お前が方士としての目的を明言してくれたおかげで、これだけ重要なことがわかった。おまけに――」 俺はその場で、ほんの少しだけ腰を落とす。「あの淮南の戦いは俺を殺すために仕組まれたものだという。全力で劉家軍を潰し、俺を殺そうとしたその結果、どうなったのか。さっきも言った。お前たちは何一つとして為しえなかった。たしかに、俺たちの歩みは一時止められたけど、逆にいえば、お前たちの全力は、俺たちを一時止める程度のものだとわかったわけだ」 したり顔でこちらを責め立てているつもりで、その実、やっていることは内情の暴露に他ならない。黙っていれば、いまだ脅威の対象として通用していただろうに、軽い口が重い事実を伝えてくれた。 俺が眼前の方士を嘲弄したのは理由のないことではない。「于吉とやらが、どうしてこれまで動かなかったのか、少しは考えなかったのか? 今、俺に対して直接動けば、自分たちの限界を暴露することになるとわかっていたんだろうよ。お前はご丁寧にそれをしてくれた。そして、お前の愚行を于吉は止められなかった。つまり、それどころではないという事態が、今、寿春で起きているんだろう? 察するところ、話は呂布の叛乱だけじゃなさそうだな。結論、仲を討つのに今以上の好機なし!」「な…………」「お前はわざわざそれを俺に、ひいては許昌に教えてくれたわけだ。李儒という、これ以上ない証人つきでな。俺を精神的に追い詰めるつもりの一手が、実は自分たちを窮地に追い込む一手だと気づいたか? これを致命的と言わずしてなんという? 正直、お前らの相手をしている最中、笑いをこらえるのは大変だったぞ」 まあ、最後は嘘なんだけど。 それでも挑発としては有効だったようで、老いた方士の顔は朱から蒼へ、そしてまた朱へと目まぐるしくうつりかわっていく。「き、きさま……ッ」「あははははッ! 色々と親切に教えてくれてどうもありがとう、韓世雄どの! さあ、聞くべきことはすべて聞いた。そろそろこの茶番の幕を下ろそうか!」 斬りかかる準備はすでに整えていた。おどりかかった俺の動きに、方士は咄嗟に反応できない。 踏み込みと斬撃も十分に及第点に達しており、狙いどおり、俺の剣は方士の白装束を袈裟懸けに切り裂いた。 ――だが。「なめるで、ないわァッ」 それこそ人間にはありえない怪鳥のような動きで、方士の身体が後方に跳んだ。 俺は刀身を見たが、そこには何の痕跡も見当たらない。「若造が、調子に乗りおって。貴様程度――否、相手が呂布や関羽であっても、わしらを斬ることなぞできはせぬわいッ。覚えておれ、いずれ必ず思い知らせて――」 ――ぐしゃり、と何かやわらかいものが砕かれ、割かれる音がした。 方士の口から続く言葉は発されない。 脳天から大斧で真っ二つに切り裂かれた人物が喋れるはずもないのだが。 聞きなれた声が耳に飛び込んできた。「――『聞くべきことはすべて聞いた』。これが合図と思ったから出てきたんだけど、殺しちゃって大丈夫だった?」 方士の後ろで血まみれの斧を抱え持った徐晃が、首をかしげながら確認してくる。よく考えてみるとシュールな光景である。もちろんそんなことは口にできないが。 俺は剣を持っていない方の手で親指をたてた。意味はわからずとも意図は通じたようで、徐晃がほっと息を吐き出している。「ああ、完璧だ。あと、あれだけの言葉で俺の意図を察してくれてありがとうな。どこに方士がいるかわかったもんじゃなくて、ぎりぎりで、なおかつああいう形で言うしかなかったんだ」「そっちも今も勘違いだったらどうしようってドキドキしたんだけど、合ってて良かったよ」 そんな会話をかわしながら、俺は切り裂かれた方士の屍に歩み寄る。 俺を守るように(方士を知っている身としては、本当に死んだのか確信が持てないのだろう)傍らに駆け寄ってきた徐晃の表情が曇ったのは、内実はどうあれ、老人の外見をした者を斬ってしまったためだろうか。 後で死体は油をかけて焼き尽くすつもりだが、それは俺が自分でやった方がよさそうだ。 そんなことを考えながら、俺は動かない方士に語りかける。手向け、というほど粋なものではなかった。「貴様らにわしらを斬ることはできない。ただし不意を討たれなければ――だろう? 弟子がどうやって死んだのかくらいは調べておくべきだったな」