司州河南郡 洛陽北門 夜闇を裂き、喚きながら襲い掛かってくる敵兵を懸命に防ぎながら、高覧は胸奥から湧き出る焦慮を消しきれずにいた。 袁紹軍が洛陽に攻めかかってからこちら、高覧は戦線の先頭に立ったことはない。だが、張晟らの援護のために洛陽勢、なかんずく主力である南陽軍と対峙したことは幾度もあり、その経験から高覧は敵軍の実力をおおよそ把握したつもりであった。 だが、今攻め寄せている軍勢は、自分の知る南陽軍とは大きく異なっている。高覧にはそう思えてならなかった。夜目にも明らかなほどに充溢した戦意と粘り強い攻勢は、的確な指揮と明確な勝算にもとづかなければ発揮できない類のもの。南陽軍は決して弱兵ではなかったが、それでも并州兵をしてここまで押し込まれるほど精強な軍ではなかったはず。事実、北門を守っていた部隊は張恰が苦もなく蹴散らしたではないか。 尽きることなく湧き出る焦慮は、拭いえぬ違和感を源としていた。「……数が少ないということはあったにせよ、予期しない襲撃に不意を打たれて北門を手放したばかりだというのに、もう立て直したんですか?」 疑問は尽きない。だが、斬りかかってくる敵兵は疑いなく南陽軍の装いをしており、旗印も南陽軍のそれである。 今はまだ、敵兵は高覧のところにまで達してはいない。だが、ほどなく高覧自身が武器を振るわなければならなくなるだろう。今しがた、南陽軍の李某という将の名乗りがかすかに聞こえてきた。すでに、それだけ敵に肉迫されているのだ。 高覧はいったん疑問を封印し、頭を将としてのそれに切り替える。「若さまと儁乂さまに伝令を。南陽軍の立ち直りがここまで早いということは、敵の策がこちらの予測より一段深い可能性があります。ご注意されたし、と」 高覧はそう命じたが、そちらの方角には敵の騎兵部隊が展開しており、伝令の一人二人差し向けても、中途で討ち取られてしまうことは目に見えていた。確実に二人に戦況を伝えるためには、後方の敵を突破しなければならず、そのためにはまとまった数の兵を差し向ける必要がある。 高覧は直属の部隊の一部を割き、宮殿と西門に向かわせることにした。 むろん、それをすれば高覧自身の守りが手薄になってしまうのだが、高覧は気に留めなかった。この場を離れることにためらいを見せる兵たちに高覧は説き聞かせる。「夜、しかもこの雨のせいで、若さまも儁乂さまも北門で戦闘が起きていることに気付いていないでしょう。敵にここを抜かれてしまえば、お二人は無防備な側背に攻撃を受けることになってしまいます。それだけは避けないといけません」 高覧の言葉は正論であったが、それでも兵たちはためらいを捨て切れなかった。なるほど、確かに高幹らに戦況を報せる必要性は理解できる。だが、敵の攻勢が勢いを増している今、この場を離れることは承服しがたかった。 幕僚のひとりがためらいがちに口を開く。「この場は我らが支えますゆえ、将軍が高州牧のもとへ向かわれるのがよいと思うのですが……」 その提案に対し、少なくない数の兵が同意する。 だが。「兵を持ち場に残して、自分だけさっさといなくなる将軍がどこにいるんですか。あなたたちの上官をなめたら駄目ですよ?」 人差し指を立てた高覧は、やんわりとした声音で、きっぱりと兵の提案を拒絶する。口調こそ普段と大差なかったが、目に宿る硬質の光は、高覧が決して譲歩するつもりがないことを示していた。 端的にいって、高覧はすこしばかりむっとしていたのである。それと悟った幕僚は、慌ててかしこまった。「差し出口を叩きました、申し訳ございませんッ」 のみならず、泥の上に平伏しようとする幕僚を、高覧はこちらも慌てて制止した。高覧にしても、部下たちが己をきづかってくれていることはわかっているのである。 だが、それに従うわけにはいかなかった。「心配してくれるのは嬉しいですが、この身は将であり、若さまが下した命令は北門の確保です。私がこの場を離れることはできません。そして、これ以上時間を費やすこともできません。改めて命じます。これより百名を割いて若さまと儁乂さまの陣に戦況を報告します。大路を使っては騎兵の追撃をかわしきれないでしょう。市街を駆け抜けて宮殿と西門へ向かいなさい」 常のように柔らかい声音には、兵たちの反論を許さない何かが込められていた。◆◆◆ 攻めあぐねていた敵陣から、少なくない数の兵が離脱したことに徐晃はすぐに気がついた。 おそらくは他部隊に敵襲を報せるためであろう。 単騎の急使には注意を払っていたが、まとまった数の兵を相手どるとなると、敵陣への攻撃の手を緩めなければならなくなる。 しかし、曹操軍は今もって頑強な敵陣を崩しきれておらず、ここで徐晃が攻撃を緩めると敵の守りがさらに堅くなってしまう恐れがあった。深読みすれば、敵兵の離脱はそれを狙った作戦とも考えられる。 徐晃の迷いを断ち切ったのは、北郷からの伝令である。 十や二十ならばともかく、百を越える兵が離脱するのを、今まさに敵陣をこじ開けようとしている最中の北郷が見逃すことはなかった。「李将軍からの命令です。離脱する敵兵に構わず、このまま敵陣を攻め立てるべし!」 それを聞いた徐晃は、一瞬だが「李ってだれ?」と思ったが、すぐにそれがあらかじめ定めていた北郷の偽名であることを思い出す。 北郷曰く、意味があるのは李姓だけであり、名も字(あざな)も適当につけた、とのこと。『北郷って姓は色々な意味で目立つからな。なにかの拍子に敵兵に聞かれると、こっちの正体がばれかねないから、それを未然に防ぐために偽名を名乗る。でだ、李姓を名乗っておけば、鹵獲した李儒の軍旗が、そのまま俺の軍旗にはやがわり。実に経済的な案だと自負している』 そういって胸を張る北郷の姿を思い出した徐晃は、苦笑を押し殺しつつ使者に疑問を投げかけた。「かず――李将軍は戦況が敵にもれるをよしとする、と?」「は。李将軍によれば、眼前の敵将は生かしておかば必ず禍根となる人物。たとえ高幹ではなくとも、曹――南陽軍の全力をあげて、ここで討ちはたさねばならぬ、とのことですッ」 敵に『南陽軍』襲撃の報が伝わるのは、袁紹軍に混乱を惹起する意味で望むところである。だが、あまりに早く情報が伝わってしまうと、結果として高幹を討つ機会を逃してしまうことになりかねない。 徐晃はそれを案じたのだが、北郷はその危険を冒してでも眼前の敵は今ここで討っておかねばならない、と判断したようだ。あるいは、この敵を討っておかないと、そもそも高幹にたどり着くことすらできないと見て取ったのかもしれない。 それほどに、円陣の奥にいる敵将は手ごわかった。 徐晃は了解した。「……うん、わかりました。我が隊はこれより敵将を討つべく突撃を開始します。李将軍にそうお伝えしてください」「は、かしこまりました!」 使者が一礼して立ち去るのを見送りながら、徐晃はどのように敵の堅陣を破るかを考えた。 この天候、しかも敵味方が激しく入り乱れて戦う状況では弓矢は使えない。かといって、突入しようにも敵の槍衾は容易に付け入る隙がない。 徐晃は先刻から何度か個人の武勇で無理やりこじ開けようとしているのだが、敵兵の士気は高く、二、三人がまとわりついて馬の足をとめ、他の兵が徐晃を地面に引きずりおろそうとするのである。 徐晃も勇をふるって、大斧で敵兵の頭蓋を叩き潰し、首をかりとり、両手の指で数えられない数の敵兵を冥府に送り届けたのだが、それでも敵兵は怯むことなく徐晃の前に立ちはだかり、陣に穴をあけることを許さない。 おそらく、反対側の鄧範も似たような状況だろう。 百の兵が離脱しようとも、元々敵は三千以上。徐晃の目をもってしても、目に見えて敵陣が薄くなったとは感じられない。だが、それでも――「一刀が覚悟を決めたのなら、私も相応の働きをしてみせないとね」 徐晃が呟くと、そのとおり、と言わんばかりに愛馬が鼻息を荒くする。 微笑んでその首筋を軽く叩いてから、徐晃は愛用の戦斧を肩に乗せ、麾下の部隊を見回した。 徐晃が一連の戦いに参戦した当初、あずかっていた三百の騎兵はすべてが司馬家の私兵であった。だが、打ち続く戦闘で被害をゼロにすることが出来るはずもなく、失われた兵員に関しては鍾会が張莫からあずかってきた騎兵を充てている。 だが、それでもいまだに司馬家の兵が部隊の大半を占めているという事実は、徐晃の指揮統率が優れていることの何よりの証左であった。そのことを、少なくとも司馬家に連なる兵たちは認めている。 徐晃が突撃を命じると、彼らはためらくことなく後ろに続いた。 先ほどは破れなかった堅陣を、今度こそ打ち破るために。◆◆◆ 離脱した百名にほとんど見向きもせず、それどころか今こそ好機とばかりに敵軍が一斉に本隊に猛攻を仕掛けてきたことを知り、高覧は表情を引き締めた。相手の狙いが自分の身命であることがはっきりと感じ取れたのである。 中でも一際攻撃が激しいのが右後方に位置する騎兵部隊であった。実のところ、そちらは先刻から「戦斧を持った女将軍」に終始押されっぱなしであり、そちらの陣の破れを繕うために兵を動かした結果、正面の歩兵部隊に肉迫を許してしまったのだが、その部隊が先刻にも増して激しい攻勢に出てきたらしい。「本隊より百名を割いて増援とします。急いでください」「し、しかし、それではここの守りがさらに薄くなってしまいます!」「かまいません。もう一方の騎兵部隊はどうですか?」「は、そちらも攻勢を強めております。件の斧武将のような輩はいないのですが……」 混戦の中でも秩序を保った敵軍に続けざまに押し込まれ、徐々にではあるが、円陣の内部に浸透を許しつつあるという。 高覧はかすかに眉をひそめ、そちらに対しても指示を下そうとする。が、それに先んじて正面の敵軍に動きがあった。「申し上げます! 李由とやら申す敵将、みずから先頭に立って槍を振るい、ために敵軍が勢いづいております! このままではじきにこちらまで押し込まれるやも知れませぬッ」 高覧はつかの間、天を仰いだ。こちらが圧倒的に兵力に劣っているというのなら、続けざまの劣勢報告も致し方なしと思えるのだが、現状、兵力に優っているのはむしろ高覧の部隊である。 にも関わらず、この劣勢。原因はおのずと明らかだった。「劣っているのは兵力ではなく、将の質であることは明白ですね。うーん、南陽軍ってこんなに人材豊富だったのか」 ため息まじりにぼやきながら、高覧は錘を手にみずから前に出る。 周囲の兵が慌てて制止しようとするが、高覧は別に自棄になったわけではなかった。陣の奥で縮こまっている将と、陣頭に立つ将が相対すれば、付き従う兵士の勢いに差が出るのは当然のこと。 ゆえに――「私も出ます。左の騎兵に備えるため、もう百名をまわしてください。残った本営の兵は私と共に敵の本隊を止めにいきます」 そう言った後、高覧は短く付け加えた。「なお、反対、諫言は聞く耳もちませんのでよろしくお願いします」◆◆◆ 俺はじりじりと、少しずつではあるが敵陣の奥へ奥へと踏み込んでいた。 袁紹軍は統率こそとれていたものの、側背の騎兵部隊によって兵力を正面に集中することができず、こちらの猛攻に後退を余儀なくされている。 このまま押し切れば、敵将までの道を開くことが出来るだろう。俺は槍を振るいながらそう考えていたのだが――残念ながら、その考えはすぐに訂正しなければならなくなった。 突如として湧き起こる喊声。それは曹操軍ではなく、袁紹軍の只中で発生していた。同時に、それまでじりじりと押し込まれていた敵兵が息を吹き返したように一斉に反撃に転じてくる。 その理由は、考えるまでもなかった。 「申し上げます! 敵本隊、こちらに寄せてまいりました!」 その報告どおり、これまで円陣の奥で防戦に徹していた敵の本隊が動いたのである。 いつの間にか(?)敵味方がぶつかりあう最前線に出ていた俺は、敵兵の列の向こうに敵将軍の姿を捉えていた。黒髪を雨で濡らした武将が持っている武器は……あれはメイスだろうか。なにやら棒の先に凶悪なトゲ鉄球がついた武器が見える。 許緒が似たような武器を使っていたが、許緒のそれほど並外れた大きさではない。とはいえ、それでもあれで頭なり胸なりを一撃されれば、防具ごと骨を砕かれてしまうだろう。 向こうは馬に乗っておらず、敵兵の槍に阻まれて容姿や体格までは確認できないが、髪の長さや遠目の印象から見て、おそらく女性と思われる。 ということは、あれは高幹ではない。同時に、ここまでの防戦を振り返れば、中級以下の指揮官であるとも考えにくい。 であれば、高幹の左右の将として知られる高覧か張恰のどちらか。おそらくは高覧の方だろう。司馬孚から聞いたところによると(司馬家の本領がある河内郡は、壷関のある并州上党郡と隣接している)、張恰は鮮やかな銀髪だということだし。 と、敵将もこちらを認めたのか、前方の敵兵が大きく動いた。 やはり歩兵同士が激突する中、騎乗している姿は目立つようだ。もっとも、それが狙いの一つだからして、ここで気付いてもらわねばこちらが困る。 俺は近くば寄って目にも見よといわんばかりに声を張り上げる。「そこに来るは敵将高覧と見受けた! 我は南陽の李温祖である! 我が槍、馳走してくれるゆえそこを動くな!」 言い終わると、今度は後方の味方の兵たちに呼びかける。「皆、聞け。もはや敵に余力はない。押して押して押しまくれッ! 眼前の敵を撃ち破れば、こちらの勝利だ!」 袁紹軍に優るとも劣らない喊声が、味方の軍から湧き上がった。 ここから、戦況は一進一退となる。 高覧みずから戦場に出てメイスを振るうことで、袁紹軍は勢いを取り戻した。 一方、曹操軍の方も先に優る勢いで敵に攻めかかり、一歩も退かない構えを見せている。どちらの軍もこれ以上退けないことはわかっており、必然的に戦闘は時と共に熾烈さを増していった。 だが、その均衡はほどなくして崩れ去る。 袁紹軍は高覧直属の本隊が出てきたことで、兵力的に俺の部隊を上回った。その差が徐々にあらわれてきたのだ。 敵はじりじりとこちらを押し戻しはじめる。 こちらも負けじと押し返そうとするものの、少しずつ、しかし確実に後退を強いられていく。俺は懸命に声を嗄らしたが、今まで押し込んできた距離を取り返されるまで、さほど時間はかからなかった。 その事実に戦意を鼓舞されたのか、袁紹軍はさらに勢いづいて攻めかかってくる。 ただ、高覧の本隊は味方の攻勢に追随する気配を見せなかった。おそらく、正面は大丈夫と判断し、今度は後背の徐晃、鄧範の騎兵部隊に対して何らかの手当てをするつもりなのだろう。 それは俺にとって待ち望んでいた瞬間であった。「全軍、後退! 隊列を崩すなよッ!」 戦闘では進むよりも退く方が難しい。それまでの激しい鍔迫り合いから一転、後退命令を受けた曹操軍の各処では立て続けに混乱が生じた。 袁紹軍にしてみれば、この後退は自軍の優勢を確定づけるものに思えたのだろう。攻勢は激しさを増し、こちらの混乱とあいまって形勢は一気に袁紹軍の方に傾いていく。 雪崩を打ったように後退する曹操軍と、これを追撃する袁紹軍。 後方の戦況に対処するために留まっていた高覧の本隊と、敵の前軍の間に空隙が生じた。◆◆ 三十あまりの騎兵を率いた鍾会は、眼前の戦況を見て無言で馬腹を蹴った。 袁紹軍に押される味方を尻目に弧を描くように部隊を進め、一路高覧の本隊を目指す。 少数による敵本陣の急襲という危険な任であったが、鍾会に付き従う騎兵たちに動揺の色はない。彼らは鍾家の私兵であり、鍾会の気性や用兵を飲み込んでいる。どれだけ不利で無謀に見えたとしても、鍾会が動いた以上、なんらかの勝算があるのだ。鍾会は兵を無駄死にさせる指揮官ではなかった。 そんな忠実な兵たちを率いながら、鍾会は馬上で小さくひとりごちる。「なんだか、北郷にいいように使われている気がするな」 この戦いに先立ち、虎牢関に棗祗、司馬孚の二人を残した北郷は、鍾会を副将として遇し、本陣に置いていた。鍾会の助言を間近で受けつつ、いざという時は敵将を討つ切り札として動いてもらうために。 付け加えれば、下手に徐晃や鄧範と一緒に出撃させるとうまく連携がとれないのではないかと案じた結果でもある。 鍾会としては北郷の作戦案に不備があればそれを指摘するつもりだったし、自身に相応しからぬ役割であれば断る気満々であった。 しかし、北郷が鍾会に与えた役割は大将になりかわって全軍を指揮する権限を持つ副将と、高覧の首級をとるための切り札、その二つ。どちらにしても鍾会の自尊心をくすぐる役割である。 北郷がそのあたりの心理を計算に入れていることは疑いない、と鍾会は思う。 自分を見すかされているようで不愉快ではあるが、だからといって鍾会が拒めば、賊あがりの徐晃なり、兵卒あがりの鄧範なりが代わりを務めるだけのこと。自分で役目を拒んだ以上、鍾会はその人事に文句を言うことができなくなる。 さらに別の要素もあった。鍾会は神童ともてはやされてはいても、実際の戦場で大任を委ねられたことはほとんどない。あったとしても、それは精々が野盗や黄巾党の残党を相手にした戦であり、今回のような大戦で才覚を振るう機会は与えられたことがない。 その機会を目の前に投げ出されたら、それを掴む以外の選択肢があるだろうか。 いいや、ない、と鍾会は心中で断言する。「……むう、やっぱりいいように使われているな、ぼく」 またしても鍾会の口からは不満がこぼれる。 だが、不満を口にしつつも、不思議とそれが不快ではない――こともないが、断固拒否、という気持ちにならないのも確かである。 なんだかんだと言いつつ、鍾会は北郷の指示を受け容れ、賊あがりや兵卒あがりと同じ戦場に立ち、こうして本陣突入まで行おうとしている。 どうやら劉家の驍将は人使いに長けているらしい。鍾会は内心のメモにそんな条項を加えつつ、高覧の本隊に肉迫する。「狙うは敵将高覧ただひとり。雑兵は馬蹄で蹴散らし、ただ高覧のみを狙い討て!」 配下の兵に指示すると、鍾会はみずから矛をふるって敵陣に斬り入った。鍾会は体格には恵まれていなかったが、武術、馬術ともに神童の名に恥じることのない域に達している。いかに相手が并州の精鋭だとて引けをとるものではない。 甲冑で身をよろっていようとも、長い髪や小柄な体格、さらにその声を聞けば、鍾会が少女であることは明らかである。その少女が次々に兵を矛先にかけていく様は、さながら夜叉のごとくであり、敵兵は明らかに怯みを見せた。 なおも鍾会はとまらない。重ねた紙を錐で突き破るように、高覧のもとへと突き進んでいった。◆◆◆「正面より敵騎兵、突っ込んできます!」 その報告が届くより早く、高覧は鍾会の突撃に気がついていた。 ただ、正面から突っ込んでくる部隊は、後方の騎兵部隊と異なり、数は五十にも満たない小勢である。 一方、幾度か他所に兵を割いたとはいえ、高覧の手許には三百近い手勢が残っている。少数の騎兵の突撃など押し包んで討ち取ることは可能であった。 ――敵が、正面から来た部隊だけであれば、だが。「右後方、突破されました! 戦斧の将を先頭に突っ込んできます!」「高将軍、左側面の部隊より再度伝令! 敵騎兵の攻勢熾烈、至急援兵を、とのことです!」 打ち続く凶報に、高覧は無意識のうちに頬をかく。「後手にまわっちゃいましたね……これはまずい、かな」 先ほどから、正面の敵本隊との先頭は数に優る袁紹軍が優勢を保っていた。その反面、敵騎兵の攻勢を受け止めていた側背の部隊からは、苦戦を報せる伝令が頻々と高覧のもとへ来ていたのである。 正面の敵勢を押し返したと判断した高覧は、攻撃を前軍に任せ、自身の本隊から援軍を割くべく部隊を停止させたのだが、その隙を敵に突かれてしまった。「いえ、高将軍、それほど深刻になる必要はございますまい」 幕僚の一人がそう進言する。 隙を突かれたといっても、敵が動かしたのは三十あまりの騎兵のみ。いってみれば、不利な戦況を覆すための一か八かの賭けであり、そこにたまさか後方の劣勢が重なってしまったことが、今、高覧に迫り来る危機の正体であった。 いわば偶然の産物であり、ゆえに深刻になる必要はない。わずかな時間、敵を退けていれば、本隊の危機を知った前軍が引き返してくる。そうすれば少数の騎兵などすぐに潰すことが出来る。それが幕僚の見解であった。 高覧はその進言に頷いたが、その表情はどこか曖昧だった。 幕僚の見解が間違っていると思ったわけではない。その意見は、ほぼ高覧のそれと重なっている。 しかし、それならばどうして自分は「まずい」などという指揮官らしからぬ言葉を口にしてしまったのか。 高覧はひとつの危惧を抱いていた。 先ほど敵軍は突如として後退した。あの動きが高覧にはとても不自然に思えたのだ。 確かにあのとき、敵軍はこちらの勢いに押されていた。だが、総崩れになっていたわけではない。それどころか、押し負けてなるものかとばかりに意気盛んだったはず。 敵将はその意気をみずからの手で挫いてしまった。結果として戦局は一気に袁紹軍の有利に傾いた。あそこで前軍が追撃に出たのは当然のこと。 ――そして、それゆえに生じた間隙をつかれて、現在の戦況に至っている。これは本当に『偶然』なのだろうか。 ぞくり、と高覧は背筋に寒気をおぼえる。 偶然でないとしたら、敵将は高覧が部隊の前進をとめた意味を一瞬で見抜き、みずから危険を冒して後退することで、前軍を高覧の本隊から引き離したことになる。 なんのために? むろん一時的に本隊を孤立させ、騎兵による前後からの挟撃で高覧を討ち取るためだろう。 ……さすがに考えすぎだとは思う。陣頭に立って槍を振るいながら、冷静に戦況を読み、的確に兵を動かすなど並大抵の将にできることではない。年を経た老巧の将が相手というならまだしも、高覧が見た李由は青年と呼べる年頃だと思えた。 高覧には「この敵はどこかおかしい」という意識が戦闘開始からずっと張り付いている。その意識が、敵を実像以上に大きく感じさせているのかもしれない。 高覧はそう考え、前軍が戻るのを待った。 幕僚の進言どおり、敵を追撃している前軍が戻ってくれば敵騎兵は数で押しつぶせる。同時に、高覧の胸に巣食う敵への過剰な警戒も一掃することができるだろう。 というのも、一連の戦闘がすべて敵の計算どおりなら、敵はこの機に反転攻勢を仕掛け、前軍が引き返すのを許さないはず。裏を返せば、それをしないということは、敵に思惑などなかったという証左になるのである。 だが、袁紹軍にとって不幸なことに、高覧の危惧は最悪の形で現実のものとなってしまう。 高覧の危機に気づいた前軍はすぐに追撃の足を止め、引き返す動きを見せた。 だが、勢いづいた兵はそう簡単には止まれない。その場に留まろうとする者、すぐにも引き返そうとする者、本隊の危機に気付かず、なおも追撃を続けようとする者。それぞれがそれぞれの判断で動いた結果、混乱は瞬く間に広がっていく。 そして。 南陽軍(偽)の指揮官である李由は、勝勢に乗った敵軍が突如として混乱に陥った意味を正確に読み取っていた。 これ以上ないタイミングで反転攻勢の指示が下される。 両軍の攻守は逆転し、追う者は追われる者へ、追われる者は追う者へと変じた。 追われていた側にしても、当初から意図して佯敗していたわけではなく、反転命令で多少の混乱が見られた。しかし、その混乱は戦局を左右するほど広がることはなく、ほどなくして足並みをそろえた軍による反攻が始まる。 これにより、高覧は前後から押し寄せる敵騎兵に対し、直属の部隊のみで戦うことを余儀なくされる。 前方からは鍾会が、後方からは徐晃が。そしてわずかな間を置いて、側面から鄧範が、ただ高覧のみを目指して襲いかかってくる。高覧と麾下の兵はこの攻撃を退けるべく激しい抵抗を見せるものの、三将が築き上げた包囲の鉄環を切り崩すことはかなわず、敵兵の刃は高覧のすぐ近くにまで迫りつつあった。◆◆◆ 夜の闇を切り裂くように、耳をつんざく擦過音が響き渡る。 戦斧と錘の激突は、それを操る双方の手に重い手ごたえと激しいしびれを残したが、徐晃は委細構わず次撃を繰り出した。「はあああッ!」「くッ!」 対する高覧は、顔をしかめながら徐晃の斬撃を受け止める。否、受け止めようとして、受け止めきれずに鞍の上で態勢を崩してしまう。 立ち直る間もなく、徐晃の戦斧がうなりをあげて高覧に襲い掛かり、高覧は早くも防戦一方に追い込まれた。 武将としての高覧は決して弱くはなかったが、名将皇甫嵩を討ち取った徐晃相手ではいかにも分が悪い。高覧を守るべき兵たちも、鄧範や鍾会らに阻まれて手が出せぬ。 打ち合いが十合に達したとき、高覧の手から音高く錘が弾き飛ばされ、それを見た并州兵の口から悲鳴とも絶叫ともとれない叫びが発された。 むろん、徐晃はとまらない。致命的な斬撃を叩き込むべく斧を振り上げる。 対する高覧は避けられぬと悟ったか、小さな声で誰かの名を呼んだようであった。「さよなら」 そんな別離の言葉と共に徐晃が斧を振り下ろそうとした時だった。「公明!」 緊迫した鄧範の声が耳朶をうち、徐晃は半ば反射的に斧から手を離し、身をのけぞらせた。その眼前を貫いたのは、雨滴を裂く一本の矢。 間一髪――否、間半髪とでもいうべきわずかな差で、自分が命を拾ったことを徐晃は悟る。 何者か、と徐晃は鋭い視線で矢が放たれた方向を睨みつける。 その先には、今まさに騎射を終えたばかりの銀髪の武人の姿があった。「……後方が奇妙に騒がしいと思って来てみれば。何者だ、おまえたちは」 弓を手放した武人はそう問いかけてきたが、答えが返ってくることは少しも期待していないらしい。腰の細剣を抜き放つ姿は静かな戦意に満ち満ちて、かなりの距離を置いているにも関わらず、徐晃はこの武人が容易ならざる相手であることを理解させられたのである。