司州河東郡。 その北方に広がる平野は、時折、野生動物の姿を見かける他は、代わり映えのしない景色が広がる索莫とした土地であった。 しかし今、荒涼とした大地は、千をはるかに越える人馬を迎え入れ、かつてない賑わいを呈していた――刀槍の響きに血泥が混じり飛ぶ、殺伐きわまりないものではあったが。「曹将軍、賊軍は陣形を円形にかえ、周囲に大盾を配置してこちらの騎射に対抗する構えと見えます。その中央に敵将韓暹の旗を確認!」 配下の報告を、肉眼でも確認した曹純は、わずかに目を細めて口を開く。「――円陣を組んで防備をかため、こちらの消耗を待つか。正解だ、わずか一度の激突でこの判断を下すとは、賊将とはいえ千を越える将兵を統べるだけはあるということか。しかし――」 実のところ、曹純が気にしているのはそこではなかった。 視界に映る白波賊の陣の外周には、大人の身長ほどもありそうな大盾がずらりと並び、こちらの弓撃を阻んでいる。その背後に控える賊兵たちは、おそらく白波賊の名前の由来なのであろうが、統一された白衣白甲の軍装をまとって曹純率いる虎豹騎に対していた。 敵の出鼻を挫こうとした曹純は、長躯、部隊を進出させると、韓暹率いる白波賊が予期できない速さで接敵、これに攻撃を加えた。 虎豹騎の神速ぶりに白波賊は目論みどおり動揺するが、それも長くは続かなかった。当初、曹純が想定していたよりも、敵に与える打撃が少なかったからである。 その理由は、敵軍の、賊徒とは思えない兵備の充実ぶりにあった。その軍容を見渡せば、どこの正規軍と戦っているのかと唖然とさせられるほどである。 剣や槍、戟、あるいは弓矢といった武器はもちろん、甲冑であれ盾であれ、金銭さえあれば十や二十の数を揃えるのは誰でも出来るだろう。しかし、それが百、あるいは千の数に至れば、個人で揃えられるものではない。 ましてそれが統一された軍装ということになれば、相当数の資材と職人、そして時間が必要になる。当然、そんな動きがあれば、官軍が気付かないはずはないのだ。白波賊がそれを可能としたのであれば、それは――「……まあいい。今は賊軍を討ち破ることが先決だ」 曹純はひとりごちると、再び敵陣に目を向ける。 騎馬を用いるの利は機動力にある。だが、賊軍が堅陣の中に貝のごとく閉じこもってしまえば、その利が大きく削がれてしまう。 それでも遠巻きに騎射を続けていれば、一定の効果は得られるだろうが、賊軍の防備を見るに、遠巻きに矢を射掛けているだけでは痛打を与えるのは難しい。くわえていえば、虎豹騎とて無限の矢を持っているわけではない。矢の無駄うちは可能な限り避けたかった。 わずかに黙考した後、曹純は新たな作戦行動を指示する。 これに従って動き出した虎豹騎は、なおしばらく円陣の内に篭る白波賊に騎射を浴びせ続けた。当然、白波側からも猛然と矢が応射される。単純な数だけ見れば、賊軍は官軍の倍である。雨のような矢にさらされ、騎馬で駆け回る虎豹騎の将兵からも被害が出始めてきた。 すると、虎豹騎は馬上、弓を下げ、武器を刀槍に持ち替える。矢数が少なくなってきたか、動かない戦況に業を煮やしたか、あるいはその両方か。いずれにせよ、この作戦の変更はほとんど時をおかず、賊軍の知るところとなる。◆ 白波賊を率いる韓暹にとって、これは思う壺であったといえる。 元々、白波は数で勝っているのだ。くわえて、装備の面でいっても官軍に見劣りするものではない。そのことは短いながらも、虎豹騎とぶつかりあった時間が証明してくれた。 であれば。 別に楊奉の策に乗らずとも、敵を討ち破ることは出来るのではないだろうか。 ふと、脳裏をよぎったその考えに、韓暹は強く魅かれる。 見れば、攻勢を仕掛けてきた官軍の騎馬隊に対し、白波軍は持っていた盾を捨て、長槍を手にとって、槍先を揃えてつきかかっていく。官軍の作戦はこちらの予測を越えるものではなく、こちらの素早い対応に相手の部隊から動揺の気配が立ち上る。 再度の衝突。 先刻は押し負けてしまったが、それは奇襲であったからこそ。正面からの攻防であれば、おさおさ敵に後れをとる白波軍ではない。事実、官軍はこちらの堅陣を突き崩すことが出来ず、いたずらに死傷者を増やすばかりであった。 その戦況を見て、韓暹は決断を下す。「李、胡の両将に伝令。両翼を前進させ、官軍を包囲しろと伝えろ」「は、かしこまりました!」 韓暹は周囲が考えているほど底の浅い人物ではない。白波陣営にあって、自らの影響力の減退に気付いていないわけではなかった。 楊奉の存在と、その智略によって勢力を拡げていることを認めつつも、自分の働きも捨てたものではないと考えている韓暹にとって、中華全土にその名を知られる丞相曹孟徳の子飼の精鋭を独力で討ち破るという武勲は、強い輝きを放って見えたのだ。 中央の部隊で敵の攻勢を受け止めている間に、両翼の部隊で敵の左右と後方を塞ぐ。敵を包囲してしまえば、騎馬の機動力を活かしようもない。敵がその状態を嫌って包囲網を突破しようとすれば、そちらの方面を故意に開け、左右と後方から追い討てば、労せずして勝利を得ることが出来るだろう。 その想念を。「頭目、官軍の連中、退いていきますぜ。追撃しますかい?!」 眼前の光景が肯定する。「さすがに易々と包囲させてはくれんか。だが、もう遅いわ!」 韓暹は高々と愛槍を振り上げると、声もかれよとばかりに号令を下した。「全軍、突撃せよ! 都でぬくぬくと戦ごっこをしている若造どもを皆殺しにしてやれィッ!!」 湧き上がる喊声。 刀槍の光が日を反射して煌き、千を越える甲冑の鳴る音が木霊して、あたりは先刻にもまして騒然たる雰囲気に包まれる。 統制がとれているとはいえ、白波軍は賊徒の集団であり、守りの戦より攻めの戦を好むのは当然のこと。作戦で押さえつけられていた闘争本能をむき出しにして、白の荒波は官軍を飲み干さんと侵攻を開始するのであった。 ◆ 自ら本隊を率い、殿軍をつとめていた曹純は、鋭気に満ちた賊軍の突進を余裕をもって受け止める。否、それどころか、その顔には苦笑さえ浮かんでいた。敵指揮官の豪語が風にのって、かすかに届いてきたからであった。「動いたか――しかし、戦ごっことは言ってくれる。一度、模擬戦で元譲様(夏侯惇の字)の相手をしてみてほしいものだ。あるいは姉上(曹仁)でも構わない。間違っても、ごっこなどと言える代物ではないのだが」 その曹純の言葉に、傍らに控えていた許緒がうんうんと頷いて同意を示す。「春蘭様たち、手加減知りませんからねー……まあ、それは子和様もなんだけど」 後半はごにょごにょと口の中だけで呟く許緒であった。 訓練や統率の厳しさで言えば、曹純は何気に先の二人に続く。それが曹操軍内部での認識である。もっとも、曹純自身にその自覚は薄かった。 というのも、曹純麾下の虎豹騎は、長の命令ならばとどんな猛訓練でも喜んでこなしてしまうので、実際の内容に比して、配下の消耗が目立たないのだ。曹純はそんな配下の優秀さを見て、さすがは曹家の最精鋭だ、と自分に預けられた部隊に感嘆こそしても、そこに自身の指揮官としての適性を見ることはなかった。 しかし、傍から見れば、虎豹騎の猛訓練は、それを課す将軍も、それをこなす兵士も、とてもとても尋常とは思われない。曹家の最精鋭『虎豹騎』という言葉は、ただ優れた将兵を集めただけの部隊に冠せられる称号ではないのである。「ん、何か言ったか、仲康?」「いッ? な、なんにも言ってないですよ」 あははー、と笑う許緒を見て、曹純は首を傾げる。そんな曹純を見ながら、許緒はつとめてさりげなく――けれど、内心ではかなり必死になって敵軍を指差した。「ほ、ほら、子和様、のんびりしてられないですよ、もうすぐあいつらここまで来ちゃいます!」「あ、ああ、そうだな?」 違和感に気付いたのか、なおも不思議そうに自分を見つめる曹純から、許緒は懸命に視線をそらす。今の指揮官の適性云々の話をすると、最終的に一つの事実に言及せざるを得なくなるのだ。 すなわち、曹純の外見も、適性の一つだという事実を。しかも、結構重要な。 言えない、絶対言えない。 内心でそう呟く許緒であった。 一方の曹純はなおも何か聞きたげな様子であったが、賊軍がせまり来るのは事実である。曹純は意識を切り替え、将帥としての声で配下に命令を下した。「本隊は二射した後、ゆっくりと後退。つかず離れず戦い、敵の本隊をさらに釣りだすのだ。続けて先行している部隊に伝令。指示どおり二隊に分かれ、一隊は斜陣を形成し、待機。我らが敵本隊を誘導した後は、共にこれにあたり、賊の勢いをそぎ落とす。もう一隊は斜陣後方でこれも待機、敵の動きが止まった後、その横腹を食い破るべく、準備を怠るなと伝えよ」「承知! 伝令、出ます!」 蹄と甲冑の音が交錯する激しい戦いの最中にあって、整然とした秩序を保って戦場に屹立する虎豹騎。 その指揮官は、眼前の戦いの勝利を確信しつつも、胸中に湧き出る黒雲の存在を意識せずにはいられなかった。今回の戦いで受けた被害は、曹純の考えよりも大分大きかったのだ。「戦の進退はともかく、やはり兵備の充実ぶりが尋常ではないな。一介の賊軍がなせることではない。黄巾党の蜂起の裏には朔北の蠢動があったと聞くが、今回も同じなのか……?」 その呟きは、間近に迫った賊軍の喊声に圧され、傍らにいた許緒の耳に、わずかに届くのみであった。 ◆◆◆ 司州河南郡、許昌。 漢王朝の首府たるこの地にあって、北原で繰り広げられるの刀槍の響きも遠いものである。 許昌で暮らす人々の多くは白波賊の名を知らず、あるいは知っていても気にしてはいなかった。天下国家を運営し、治安を守るのは役人たちの仕事であり、そのために高い税を払っているのだ。 自分たちは日々の営みに精を出す権利があるし、実際、発展著しい都は繁忙のただ中にあって、生きる糧を得るために、皆、休む暇も惜しんで立ち働いていた。血が流れることこそないが、これも一つの戦いの形といえるであろう。 大量の物資を運搬する際、便利なのは陸路よりも水路である。中華帝国における主要な都市の多くが水利に恵まれた土地に存在するのも、これによるところが大きい。 実質的に許昌建設を取り仕切った荀彧も、当然、そのことに留意している。許昌の内外には大小の水路が張り巡らされ、物資の流通が滞らないように配慮されていた。 その水路の脇を、日もまだ昇らぬ時刻から、幾人かの男たちが歩いていた。彼らの雇い主が、水路を用いて届く荷物の受け取りを命じたからである。「今度の荷は洛陽からだっけか?」「ああ、雇い主はそういってたな。結構な量だってことだ」「そらまあ、これだけの人数に声をかけてるのを見りゃわかるけどよ。しかし、洛陽からの荷って何だろうな。あそこは城も街も焼けちまって、もうほとんど人がいないって聞いたが」「そうかあ? 俺はまだ十万やそこらは残ってるって聞いたぞ。もっとも、行くあても財産もないようなのばっかりらしいけど……」 そう言う男の口から、大きなあくびが漏れる。たちまちそれは周囲に伝染していき、男たちは互いに目をみかわして肩をすくめた。「……眠い」「同感だが、荷を運ぶ時はしゃっきりしろよ? うっかり手をすべらせて、中のものを壊してしまったなんていったら、洒落にならんぞ」「へいへい。じゃあちょっくら顔を洗ってくらあ」 そう言って、男は上体を左右に揺らしながら、水路に近づいていく。その姿を見た同僚は、あれは眠気というより酒気のせいじゃないか、と呆れ気味に考えたが、いずれにせよ冷たい水で顔を洗えばすっきりすることは間違いあるまい。 そう思いつつ歩いていたのだが、当の本人がいつまでたっても戻ってこない。何をぐずぐずしてるんだ、と呆れて振り返れば、先刻と同じ位置でなにやらぼんやりと水面を見つめている。「おい、何してんだ。時間もそんなに余裕はないぞ?」 立ち止まって声をかけても、答える素振りも見せない同僚に、さすがに男たちが苛立ちを見せ始めた、その時だった。「おいッ?!!」 ようやく振り返った男から放たれた、短い声。だがそれは異様な響きをともなって先を歩いていた男たちの耳朶を撃つ。 何かに促されるように、その場にいた者たちの視線が一斉に水路に向けられ、そして彼らは。 水路の流れの中に力なく浮かびあがる、人身大の『何か』を、視界の中に捉えていた。 ◆◆ その日、政務を執るために丞相府の執務室にはいった曹操のもとに、夏侯淵が訪れる。その訪れ自体は曹操も望むところであったが、夏侯淵が携えてきた報告は、先刻食した朝の美食を台無しにする類のものであった。「――知らせを受けた官吏が急行し、ただちに引き上げて身元を確認しようとしたのですが……」 そこで夏侯淵は束の間、言葉をとめた。 報告を聞いていた曹操は怪訝そうに配下を見やる。「秋蘭、言いよどむなんてあなたらしくないわね?」「……は、申し訳ありません。ご報告すべきと考え、お時間を割いていただいたというのに、いまだ華琳様のお耳にいれるべきか確信が持てずにおります」「……秋蘭がそこまで言うからには、ただの刃傷沙汰、というわけではなかったようね」 それは確認というより、夏侯淵に話の続きを催促する言葉であった。 その言葉に、夏侯淵は頷く。元々、ここまで来て報告しないという選択肢はありえないのだから、と自身のためらいを半ば無理やり押しつぶす。「引き上げられたのは、やはり遺体でした。そしてその身体には拷問をうけたと思しき傷痕があったのです――文字通りの意味で、身体中に」 その報告に、曹操は眉一つ動かさなかった、少なくとも表面上は。 しかし夏侯淵は、息のつまるような重圧を総身に感じていた。主の双眸から放たれる凍土のごとき視線が、自分に向けられたものではないことを承知してはいても、奥歯をかみしめて耐えなければならなかったのだ。 しかも、まだ報告は終わったわけではなかった。「くわえて、顔は完全に潰され、元の人相を確認することも出来ない有様でした。判明したのは、殺された者が男性であるということ。年齢は、遺体をあらためた医師によれば、おそらくは五十代、あるいは六十に達しているかもしれないと」「……そう。秋蘭はその遺体、もう見たの?」「は。ただの怨恨とも思えない節があるとのことで、衛兵の長から私のもとまで報告があがってきた時に一度、この目で確認いたしました」「その上で私のもとに来たということは、秋蘭も衛兵の意見に同意と見て良いのね」 曹操の言葉に、夏侯淵はゆっくりと頷く。 武将、それも曹孟徳の片腕とも言われる夏侯淵である。戦塵に臨んだ経験は数え切れず、敵味方を問わず他者の死屍は見慣れたものと言って良い。 当然ながら、件の遺体を見た時も取り乱したりはしなかった。ただ眉をひそめただけだ。凄惨な遺体の状況と、それを与えた相手に対する嫌悪ゆえに。「傷口を改めましたところ、命に関わるほどの深さのものはありませんでした。おそらく、死因は血を失いすぎたことでしょう。医師によれば、全身の傷から、おそらく、相当の長時間にわたって痛めつけられたものと思われる、と。くわえて、おそらく途中からはほとんど意識がなかったはずだとも申しておりました。それがまことであれば、意識を失った相手を、それでも拷問し続けたことになります」 秘密を聞きだすためなら、意識を失った相手をそこまで痛めつける必要はない。殺してしまっては元も子もないからだ。 恨みを晴らすため、という可能性はないでもないが、ここまで相手を痛めつけるほどの憎しみは、一体どれだけの年月があれば醸成されるのだろうか。 それよりはもう一つの可能性の方が、はるかに説得力がある。夏侯淵はそう考える。すなわち―― と、それを口にしかけた夏侯淵に先んじて、曹操が口を開く。「みせしめ、か」「御意」「みせしめであれば、誰が死んだのかを明らかにする必要があるわ。けれど、この遺体は顔を潰されていた。逆に言えば、これだけ念入りに痛めつけておけば、顔はわからずとも、相手に意図は伝わるという確信があったことになるわね、この残暴をなした輩は」「は、仰るとおりです。付け加えて申し上げれば、殺すまでの過程を見ても、殺してからの処理を見ても、一個人が出来ることではなく、冷徹に――人を、殺すために殺すことができる集団が、この許昌に潜んでいることになります」 そして。 あえて夏侯淵は口にしなかったが、もう一つの事実がある。この虐殺をなした連中が曹操の膝元というべき許昌でこの挙に及んだ以上、それはすなわち、漢王朝の主宰者である曹操など眼中になしと公言したに等しいということである。 丞相府の一室に沈黙が満ちる。 静穏とは無縁の、音なき怒気の滞留に、夏侯淵の鼓動は知らず早まっていく。 窓に歩み寄り、此方に背を向ける主の背。窓から外を見れば、先刻までの晴天は一変し、にわかに沸き起こった雷雲が街路を暗く覆っていく。 それはあたかも主の胸中をあらわすかのようだ、と内心で夏侯淵が呟いた時。 彼方で遠雷の轟く音がした。 ◆◆「さっきまで晴れてたのになあ……ついてない」 一天にわかにかき曇り、遠くから雷鳴が轟いている。 屋敷を出る時は、燦燦とした陽光が降り注いでいた許昌の街路は、今、時ならぬ荒天に暗く沈みこんでいた。 この地の天候に詳しいわけではないが、これはまず間違いなく、すぐに大雨が来るだろうと思われた。「そうですね……あ、兄様はここで戻ってください。私なら一人で大丈夫ですから」「いえいえ、そういうわけにはいきませんのことよ」 あえて珍妙な言葉を使って、典韋の申し出を速やかに却下する。「でも……」「ふ、子供は大人の言うことを聞くものだ」 今度はふわりと前髪をかきあげながら言ってみる。我が事ながら、死ぬほど似合ってねえです。「私と兄様、三、四歳くらいしか違わないんじゃ……?」 あえて見なかった振りをしてくれる典韋の優しさに、心の中で涙する。 まあ、それはともかく。「ここで帰ると雲長殿にしこたま怒られるんで送らせてください」「……なんで送ってもらう側の私が、頭を下げられているんでしょうか」 典韋の顔に苦笑が浮かぶ。ただ、そこにはほんのわずかに安堵の色があるように思えたのは、多分、俺の気のせいではないだろう。◆ 事の起こりは今朝にまでさかのぼる。 早朝、水路から引き上げられた惨殺死体の噂は、日が沖天に輝く頃には、許昌中に知れ渡っていた。 許昌は百万に達しようかという人々が住まう都市である。朝廷の尽力によって治安は良く保たれているが、それでもこれだけの数の人々が生活しているのだ、喧嘩や盗み、刃傷沙汰が絶えることはなかった。 そして、それらが高じた挙句、人死が出る事態も決してめずらしいものではない。 だが、それが全身を切り刻まれ、顔まで潰された死体であるとなれば話はかわってくる。その陰惨な殺し方と、そこに至った裏面の事情に思いを及ばせた人々は、うそ寒そうに首をすくめ、心当たりがない者も、なんとなく周囲を見渡してしまうのであった。 何で俺がそんなに詳しいかというと、討捕の役人が屋敷にやってきて教えてくれたからである。無論、親切心で、というわけではない。はっきり言えばアリバイを調べるためだ。 といっても、いきなり犯人扱いされたわけではなく、参考までにと、ごく簡単に昨日から今日の未明にかけての行動を問われたに過ぎない。どこぞの刑事ドラマでも見ている気分だったが、もし俺が関羽の屋敷に居住する身でなければ、この程度ではすまなかっただろう。 朝廷の軍に刃向かったという前歴から、役所に連行され、厳しい尋問を受けていたであろうことは想像に難くない……などと俺が考えていると。「んなことさせるわけないやろ。一刀や雲長がそんなことできるわけあらへんもん」 そう口にしたのは屋敷を訪れていた張遼で。「そうですよ、それは、えっと杞憂というものです、兄様」 同意の頷きを示してくれたのは典韋であった。 ちなみに典韋が来ていたのは、いつもどおり料理をつくるためである。一応、怪我は治ったのだが、典韋はかわらず来てくれているのだ。ありがたいことである。ただ、典韋のことだから、朝の一件を伝え聞いて、関羽や俺を気遣ってくれたという理由も皆無ではないだろう。 一方の張遼は、いつものごとく関羽と稽古するために来ただけだ、とのことだったが。「明らかに雲長殿を気遣ってお越しになっておられるのがみえみえの張将軍でありましたとさ」「めでたしめでたし♪」「ち、違うっちゅーに! べ、別にうち、雲長のこと心配なんてしとらんもん。悪来(あくらい)も悪乗りするんやない!」 頬を染めていっても説得力がありませんですよ、張将軍。 俺はにやにやと、典韋はにこにこと、あの張文遠の慌てぶりを愉しむのであった。 ちなみに悪来というのは、典韋のあだ名である。古く殷の時代に剛力をもって知られた豪傑であり、その小さな身体で曹孟徳の牙門旗を支える典韋に、曹操みずからが与えた栄誉ある名であった。 典韋はいまだ字を定めておらず、悪来をもって字にしようかと考え中だと、感激おさまらぬ表情で以前俺に語ってくれたことがあった。 それはさておき。 劉家軍に属するとはいえ、今の関羽は漢帝の臣として曹操に従う立場にある。俺はそのおまけに過ぎないが、それでも立場としては似たようなものであり、前歴が怪しいからとて役人が独断で捕えられるものではない、というのが張遼と典韋の言い分であった。 曹操の麾下として勇名高き張文遠と、丞相直属の親衛隊である典韋のお墨付きである。なるほど、俺の心配は典韋の言うとおり杞憂に過ぎなかったらしい。 その後、関羽と張遼は軍務のために官衙に出向くことになった。 河北と淮南の脅威に加え、白波賊までが跳梁しはじめたことで、関羽が前線に出る日も近いのかもしれない。 そのため、関羽は俺に典韋を送るように命じたのである。 いまさら言うまでもないが、武の面で俺は典韋に遠く及ばない。ならば護衛など不要なのかといえば、そんなことはない。どれだけ強かろうと、典韋もまた一人の女の子なのであり、朝の凄惨な事件を伝え聞いて、何も思わないはずがないのだから――とは俺の考えではなく、出掛けの関羽の言葉である。 それを聞いて、俺はただ頷くしかなかった。 なるほど、典韋は曹操の親衛隊の一員として戦場に出て、敵味方を問わず多くの死を見てきたに違いないが、だからといって怖いもの知らずなわけではない。戦場にあって互いに生死を賭した戦いの末に命を奪うならばともかく、抵抗のできない人間を切り刻んで殺すという行為を平然と受け止められるはずもない。 その程度のことに、関羽に言われるまで気付かないとは。もし関羽が言ってくれなければ、平然と典韋を一人で帰らせていただろう。あまりの不覚に、頭を抱える俺であった。◆ 瞬く間に黒雲に覆われていく許昌の街並み。 本格的に天気が崩れる前に典韋を送り届けねば、と足を速めようとした俺の目に奇妙な人だかりが飛び込んできた。「なんだろうな、あれ」「なんでしょうね?」 典韋も首を傾げている。 何やら騒然とした雰囲気が伝わってくるのだが、俺は立場が立場なだけに厄介事には極力かかわりたくない。俺が問題を起こせば、それは必然的に関羽にまで及んでしまうからである。 許昌で過ごしたこの数月の間、関羽は典韋に料理を習ったり、張遼と稽古をしたりと、一見落ち着いて暮らしているように見えた。 しかし、その実、焦がれるように玄徳様を思っていることは明らかで、同じ屋敷で暮らしている俺は、哀しげに南の方角を見やる関羽の姿を幾度も目撃している。 かなうなら、すぐにでも玄徳様の下へと戻りたい関羽が、この地に留まっている理由はいまさら語るまでもないだろう。その一因となってしまった俺が、ここで問題を引き起こそうものならば、それは関羽を縛る鎖の数を更に増すことにつながりかねないのである。 そんなわけで、触らぬ神にたたりなし、とその場を通り抜けようとした俺だったが、どうやらこの地の神様は、触らなくてもたたってくるらしい。 悲鳴と共に人だかりが割れ、一人の若者が俺たちの行く手に倒れこんできたのだ。そして、若者を案じる声をあげながら、その傍らに駆け寄る女性。何故か服装が少し乱れているように見える。 そんな二人を見て、驚きの声をあげたのは、俺ではなく、隣にいる典韋であった。 どうやら典韋は若者の方と知り合いであったらしい。俺といくらも違わないであろう若者の名を呼ぶ典韋。しかし、若者は苦痛にうめくだけで答えられず、隣にいる女性も驚き慌てるばかりで説明どころではない。 すると、彼らに続いて人だかりを割って、数名の男たちが姿を現した。「なんだ、おまえら。邪魔をするなッ」 姿を現したのは許昌の治安を司る衛兵であった。数は四人。いずれも筋骨たくましい身体つきをしており、居丈高にこちらを睨みつけてくる。 見るからに剣呑な雰囲気をかもし出す衛兵たちを見て、俺は内心でため息を吐いた。さっさと立ち去りたいところだが、典韋の知り合いが関わっているとなれば、そうも言っていられない。 一体、何事が起こったのか。 そう問いかける俺に、長と思しき兵が答えを返してきた。「先ごろ、この都で奇怪な事件が起こったことは知っていよう。あのような残虐をなす者を放置しておくわけにはいかず、糾明のため、そして同様の惨劇が起きぬよう警戒を続けていたところ、不審な者たちを見つけたのでな。問いただしたところ、反抗しおったので捕縛しているところだ」 その侯成の言葉に、典韋は慌てたようにかぶりを振った。「不審な者って……この人は青州兵、華琳様の配下ですよ。そんな、捕まるようなことをするはずがありません」「青州兵……つまり元は黄巾賊であった輩だろう。その事実をもって潔白の証明にはならん。それにこやつがわしらに反抗したのは事実、わしは役儀によって行動しておる。丞相閣下の寵愛篤しとはいえ、一介の親衛兵が口をさしはさむことではないッ!」 衛兵は典韋のことを知っているようだが、遠慮するつもりはないようだ。 その語気に、典韋は息をのむ。そして、問いかけるように若者に視線を向けると、若者は苦痛に表情を歪めながらも、必死に首を横に振った。「違う、こいつらが、俺と、俺の連れに難癖をつけてきたんだ……」 その声に応じるように、傍らの女性が何度も首を縦に振る。 目鼻立ちの整った綺麗な人だ。女性らしい優美な曲線を描く胸と腰あたりに目を向けてしまうのは男のサガというものか……って、そんなことを考えている場合ではなかった。 若者の物言いに、衛兵たちから怒気が立ち上る。「盗賊上がりがなめた口を。その性根、詰所で叩きなおしてやる」「おうよ、青州兵といえば誰もが遠慮すると思っているなら、思い違いも甚だしいわ」「その女も捕縛しろ。何か知っているかもしれんからな」 そういって下卑た視線を女性に向ける衛兵たち。女性は嫌悪の表情を浮かべ、その視線から逃れようとするが、そうはさせじと衛兵の一人が手を伸ばし、女性を引き寄せようとする。 その手を――「はい、それまで」 すすっと身体を割り込ませ、俺が遮る。 一瞬、衛兵の顔に驚きの表情が浮かびあがり、それはすぐに険悪な視線となってこちらに叩きつけられた。「なんだ、邪魔立てすれば、貴様もただではおかんぞ?!」 その問いに、俺は小さく肩をすくめることで応えた。目線で典韋を促し、二人を衛兵たちから引き離す。 それを見て、こちらの意図を悟ったのだろう。たちまち、俺たちの周囲を衛兵が取り囲んだ。「お前も、奴と同じ青州兵か。やはり貴様ら、何かたくらんでいたのだな」「いやいや、私は劉家軍の一員。青州兵とは関係ないですよ」「なに……劉家軍?」 その言葉に、何か思い当たることがあったのだろう。衛兵の顔に当惑の色が浮かぶ。 だが、すぐにその当惑も居丈高な表情に塗りつぶされた。「劉家軍といえば、朝廷に叛した逆賊ではないか。都にいられることさえ僥倖というべきだろう。職務の邪魔をするというなら、貴様をひっとらえることも、わしらには出来るのだぞ?」 その威迫に直接返答することはせず、俺はにこやかに口を開く。「職務の邪魔をするつもりはありません。ただ、確たる証拠もなく、以前は賊であったという理由でこの若者を犯人扱いするのであれば、再考をお願いしたい。それは民の目には横暴と映り、すべての青州兵に要らぬ不安を撒き散らすことになる。曹丞相の恩威を損なう行いではありますまいか」 権威を笠に着て横暴を働く者を目にするのは、これがはじめてではない。許昌でも、あるいは許昌以外でも、そういった者は幾度となく見かけたものだ。 そういった者たちは、理で説き伏せるよりも、上位者の威で押さえつける方が良い、というのが俺の見解だった。 無論、それでは根本的な解決にはつながらないが、まあ俺がそこまで世話を焼く理由はないだろう。そのあたりは曹操陣営で何とかしてもらうとして、今はこの場をやり過ごすことを第一としなければ。 しかし、許昌でこんなわかりやすい横暴を見るとは思わなかった。本当に曹操の麾下か、こいつら。 俺の言葉に、衛兵たちが明らかに怯んだ様子を見せた。 これがただの庶民であれば俺の言い分は一笑に付されただろうが、俺は劉家軍の一員、すなわち関羽と深いつながりがある。俺から関羽へ、関羽から曹操へ報告を伝えることは不可能ではない、と衛兵たちは考えたのだろう。まして、この場には親衛隊の一員である典韋がいるのだから尚更だ。 実際に取り調べられた時、自分たちが正しいと主張しえる根拠を持っていれば慌てる必要もないのだが――まあ、そういうことだった。 とはいえ、ここで引き下がれば物笑いの種になるのも事実。さて、どうくるか、と考えていると、衛兵の一人が急き込んで口を開いた。「その男が、我らの取調べに抵抗したのは事実。それを捕えることに問題などあるまい」「見に覚えのない罪で捕えられようとしたのなら、抵抗してしまうのは致し方のないことではありませんか? ましてこの場にいるのは自分だけではないのですから」 俺は女性の方に視線を向け、すこしだけ間を置いてから、意味ありげに衛兵たちを振り返った――言いたいことは伝わっただろう。その証拠に、衛兵たちの顔に忌々しげな顔をしているし。 それでも、まだ衛兵たちは矛をおさめようとはしなかった。「しかし、そやつらが抵抗した事実は事実。それを等閑にするわけにはいくまい」「謝罪せよ、ということですか?」「官兵に刃向かったのだぞ、ただの詫びで済むはずがあるまい。ふん、そうだな……」 次の瞬間、衛兵の顔には、良いことでも思いついたと言いたげな、どこか嗜虐的な表情が浮かぶ。「二人そろって、地面に頭をこすりつけるくらいのことはしてもらおうか。それとも三遍回ってわんとでも吼えるか? そこまですれば、先の抵抗に他意がなかったと認めてやっても良いぞ」 その言葉を聞き、俺は知らず顔をしかめた。小人というのはどこにでもいるものだが、これは座視しえるものではなかった。 だが、俺が反論しようと口を開きかけた途端、別の人間が割って入ってきた。青州兵の若者である。「……俺がそうすれば、この場を去ってくれるのか?」「無論だ。貴様があの件と何も関わりがないのであれば、出来ぬとは言わぬよな?」「……わかった」 そう言うと、若者はゆっくりと跪く。その動作が鈍いのは、身体の痛みか、心の痛みか。 俺と典韋は咄嗟に止めようとしたが、若者はかぶりを振って答えた。「これ以上、君たちに迷惑を……ぐ、かけるわけにはいかないだろう」 そう言うや、誇り高き青州兵の一員である若者は頭を垂れた。深く、深く。決して地面に付けはしなかったが、傍目にはほとんどわからないほどに深く。 周囲の者たちは、どこか痛ましげにその光景を見やっている。 後味が悪いが、これで終わりか。この場にいるほとんどの人間がそう考えたに違いない。 だからこそ。「どうした、次だ。わんと吼えてみせよ――言ったであろう、二人揃って、と」 そういって、衛兵が催促するように女性に視線を向けた時。 咄嗟にその前に立てたのは俺だけだった。 若者が激昂するより早く。 典韋が憤激するより早く。「おお、これは失礼した。確かに私もあなたがたに反抗したと言える。謝罪をするのは当然ですね」 俺はさっさと衆人環視の中に進み出て、若者の隣に並んだ。「あんた……」 事態がつかめず、戸惑ったような声を向けてくる若者に、ぱちりと右目を閉じてみせる。 そして、衛兵たちが何か言うよりも早く、くるりとその場で回って見せた。 一回目。ゆっくりと、見せ付けるように。 二回目。さらにゆっくりと、丹田に力を込める時を稼ぐ。 三回目。終わると同時に、面差しを伏せ、頭を垂れる。 あたりがしんと静まりかえる。 何が起こったのかと、きつねにつままれたような顔をする人々。 その中には先の下卑た要求をした衛兵も含まれていた。俺の行動に理解が追いつかなかったのだろう、その手は所在なさげに宙を漂い、本人は戸惑いもあらわに一歩、俺に近づいてきた。 ――その眼前に、叩きつけるように。 ――俺の口から勁烈な響きが迸った。「ひィッ?!」 悲鳴じみた叫びと共に、眼前の衛兵が地面に崩れ落ちる。 さすがは母さん直伝の必殺技、控えめにしても十分な威力である――まあ「わん」と叫ぶのに、必殺技を使うのもどうかと思うが、それは気にしないことにしよう、うん。◆◆ 直後、その場に広まった笑いは嘲笑の類ではなかった。 事態を把握して笑ったのではなく、地面にしりもちをついた衛兵の格好が、ただ単純に可笑しかったのだろう。 だが、その事実は、笑いを向けられた当の本人にとって、いささかの慰めにもならなかった。「貴様ッ!」 眼前の相手は、立ち上がりざま、佩剣を抜いて俺に突きつける。 そして慌てたようにそれにならう周囲の衛兵たち。 今度、周囲からあがったのは笑いではなく悲鳴であった。「ふざけた真似をしおってッ!」「さて、私は言われたとおりのことをしただけですが、何がお気に召さなかったのでしょうか」 言いながら、周囲に視線を向ける。衛兵の数は四人。いずれもすでに剣を抜いていた。 一方の俺は剣など持っていない。当然のように勝ち目はなかったが、それでも落ち着いている自分を知って、俺は小さく肩をすくめる。淮南での戦いで、俺は多くのものを失ったが、代わりに得たものも少なくなかったようだ。 ともあれ、これで衛兵たちの注意は完全に俺に向けられた。あとは典韋に女性を逃がしてもらい、俺はこちらの若者を、と考えた途端、眼前に剣光が舞った。 踏み込みの浅い一撃を、俺は半歩、後退することで避ける。「っと。わんと吼えれば許してくれるのではなかったですか?」「やかましいッ! このわしにここまで恥をかかせておいて、無事で済むと思うなよ、小僧!」「恥をかかせるつもりはなかったんですけどね」 自覚もなく、官への信頼を削ぎ続ける小物に灸をすえてやろうとは思ったが。「そのよくさえずる口、すぐに封じてやる! こいつから叩きのめすぞ。他の奴はほうっておけ!」 そう仲間に呼びかける衛兵。その呼びかけにこたえ、二人の衛兵が俺を囲むように動き出す。 そうはさせじと動こうとした俺は、ふと違和感を感じた。 ……ん? 二人? 俺の前に一人。周囲に二人。もう一人はどこにいった? だが、その疑問に答えを得るよりもはやく、眼前の衛兵が再び剣を振るう。 咄嗟に身をのけぞらせるようにして、その一撃をかわす。が、一瞬とはいえ、他のことに気をとられていたせいだろう。踏ん張りきれず後方にたたらを踏んでしまった。 それを見て取ったのだろう。俺の視界で、衛兵の口元が勝利の確信を映して歪むのが見て取れた。 即座に振るわれた次撃。弧を描いて迫り来るそれを避け切れないと悟った俺は、逆に一歩踏み込もうとする。そうすれば、傷は負っても致命傷にはならないだろうと考えたからだ。 しかし、それを実行に移そうとした途端であった。 黒い影が、俺と衛兵の間に割って入り、衛兵の剣を受け止めてしまったのだ。 剣撃の音さえほとんどしなかった。あっさりと、包み込むような剣の動き。「え……?」 俺はぽかんと口を開けた。 いつの間に近づいていたのだろう。黒い外套に全身を包んだその人物は、俺の目には、まるで宙から唐突に現れたかのようにしか見えなかった。「な、何だ、貴様はッ?!」 誰何の声を発する衛兵に、しかし黒衣の人物は応えず、手首を翻す。 ――ただそれだけの動作で、衛兵は剣をからめとられ、剣は持ち主の手を離れ、澄んだ音をたてて宙に舞い上がった。「……な……?」 瞬く間に武器を奪われた衛兵は、何が起こったのかと呆然と立ちすくむ。 その首筋に、黒衣の人物の剣がぴたりと擬された。「ひッ?!」「……そこまで」 その声を耳にした時、俺は咄嗟にそれが黒衣の人物の声だとは気付かなかった。 何故といって、銀の鈴が鳴るかのような澄んだ響きを持つその声は、明らかに女性のものだったからだ。「お、女、か? 貴様、官にたてついて、ただで済むとでも……」 その言葉に、黒衣の人物はかすかに首を傾げたようだ。頭巾のように頭を覆う黒布が揺れた。「恥とは心の痛み」「……な、なに?」 黒布の隙間からこぼれ出た声に、衛兵が戸惑いをあらわにする。だが、黒衣の人物は構わず言葉を続けた。「あなたはそれを他者に強い、この方はあえて己で受けとめた。朝廷に――皇帝陛下に仕える身として、いずれに与するかは語るまでもないでしょう。官を名乗るのならば、これ以上の醜態をさらす前に立ち去りなさい」 内容こそ痛烈であったが、それは激語ではなかった。 むしろ穏やかに、諭すような口調であった。それでも、そこに逆らい難い威を感じたのは、多分、俺だけではなかったのだろう。人の上に立つことに慣れた――否、それを当然とする者の声音。「お前……い、いや、あなたは」 俺と同じことを、衛兵も感じ取ったのだろう。明らかに戸惑いながら、黒衣の人物を誰何する。「ん……」 束の間、何かを考えるように頭の黒布が揺れる。そして、その手が黒布にかけられて―― 周囲に響くは、驚愕のうめきか。賛嘆の呟きか。 取り払われた黒布からあらわになった髪は、黒絹のごとき光沢をもって背に流れ、その容姿は名工の手になる彫刻を見るように人が理想とする造形を形作っている。 髪と同色の瞳は、少女の深い思慮を宿して鮮やかに煌き、晴れ渡った夜空を見るよう。 白磁の頬が薄く赤らむのは、たった今の立ち回りのせいだろう。その朱が少女に人としての温かみを添えていた。 この少女を絵にするならば、多分場所はどこでも構うまい。窓辺で佇んでも、冠をつけて朝廷に出る姿でも、あるいは剣を持って戦場に立つところであっても問題ない。そのいずれもが、一幅の絵画として千載に残る輝きを放つに違いない、そう見る者に確信させる少女であった。 そんな少女を前に、俺は内心でパニックに陥っていた。 なんだなんだ、この壮絶なまでの美人は。 傾国の美というのは、あるいはこういう人のことを指すのだろうか。その顔を見ていると、寒気すら感じてしまいそうだ。 こんな人を、たとえ一度でも見ていれば忘れるはずがない。間違いなく初対面であるが、しかし誰だろうこの人。どこぞの高官のお嬢様――というより、実は漢朝のお姫様でしたと聞いても、俺は決して驚かないだろう。 まあ、お姫様が真剣もって、卓越した剣技を揮うものか、という疑問は残るに違いないが。いや、お姫様と決まったわけではないから、そんな疑問を覚える必要はないのか、おーけー、落ち着け俺、落ち着け。こんな時は素数を数えよう、ところで素数って何だっけ?! などと俺が内心で一人慌てふためいていると。 衛兵が驚愕もあらわに大きく口を開いた。「仲達、様?! な、なぜこのようなところにッ?!」「あなた方と同じ目的……のはずですよ?」 それはつまり、件の惨殺事件を調べていた、ということなのだろう。黒衣で全身を覆っていた理由もわかった。たしかに、こんな美人が素顔を晒して歩いていたら、周囲が騒ぎたてて事件を調べることは難しいだろう。 いや、今はそれよりも、だ。「仲達様?」 俺のぽつりとした呟きを聞き取ったのだろう。衛兵に対していた女性は、俺の方を振り向くと、こくりと頷いてみせた。その顔に笑みはなかったが、真摯な眼差しは、まっすぐに俺に向けられている。「お初にお目にかかります。わたしは先の京兆尹(けいちょういん 長安統治の要職)司馬防の子。許昌北部尉(許昌の治安を司る四尉の一)司馬朗の妹。姓は司馬、名は懿、字は仲達と申します」 これ以上ないほどに丁寧な挨拶を受け、俺は慌てて姿勢を正す。「お助けいただき、感謝いたします。私は――」「先の淮南戦役において、孤軍、仲帝の侵略を退けた劉家の驍将……存じております」「え?」 女性の言葉に、俺は思わずぽかんとしてしまう。劉家の驍将って誰? だが、眼前の女性は、そんな俺を見ても苦笑一つ浮かべるでもなく、かすかに首を傾げるのみ。 そして、相も変らぬ真摯な眼差しで、俺にこう告げたのである。 「貴殿の偉功を耳にして以来、機会あればお会いしたいと思っておりました――北郷一刀殿」