司州河南郡 洛陽「文優」 宮廷の一画。此方への礼儀や敬意を一切感じさせない居丈高な呼びかけを耳にした李儒は、一瞬の半分にも満たない間に、その人物が誰であるかを察した。 振り返れば、そこには予想に違わず、無骨で粗野なヒゲ面の武人がねめつけるようにこちらを見据えている。 李儒はうやうやしく頭を下げた。「これは樊将軍(樊稠)ではございませんか。このようなところでいかがなされました?」「ふん、言わねばわからぬのか。その小ざかしい知恵を少しは働かせてみせよ」 樊稠はそう言うと、ゆっくりと李儒に歩み寄る。言葉、態度、いずれも李儒への蔑視を隠そうともしていなかった。 この樊稠の態度は、昨日今日はじまったものではない。 樊稠も李儒も、元々は董卓の麾下として同じ陣営に所属していた者同士である。ただし、同じ陣営に所属してはいても、互いの立場は大きく異なった。樊稠が当時から一軍を預かる将軍であったのに対し、李儒は文官の一人に過ぎず、樊稠にあごで使われる立場に過ぎなかった。樊稠が李儒に対してことさら居丈高な言動をとる理由はこれである。 当時と現在とでは互いの立場は大きく異なっている。それは樊稠も承知しているが、ほんの二、三年前まであごで使っていた相手、それもろくに戦場にも出ない白面の小才子にへりくだる気にはどうしてもなれなかった。 また、李儒は李儒でそういった樊稠の態度を咎めようとはせず、樊稠率いる弘農勢に対しても様々な便宜をはからい、その歓心を得るよう努めた。洛陽の宮廷に参じて間もない樊稠が虎牢関の守備を任せられたのも、李儒の献言によるところが大きい。そして、その虎牢関を失った樊稠が、いまだ処罰を受けていないのも、李儒の計らいによるところが大きかった。 この李儒の行動により、樊稠は一つの確信を抱くに至っている。すなわち、李儒にとって弘農勢の武力は必要不可欠であり、その指揮官である張済や樊稠に対しては常に礼を呈さなければならないのだ、と。 であれば、こちらも廷吏を扱うように李儒に対すればいい。樊稠はそう考えていた。 ――先日、南陽軍三万が洛陽に入城するまでは。 樊稠の口から苛立たしげな声が発される。「南陽はよほどに豊かな場所であるようだな。たかが一太守の身で、あれほどの大軍を養うことが出来るとは。もっとも、肥沃な地でのんべんだらりと過ごしていた軍が、どれほどの戦力となるかは知れたものではないが」 もともと、樊稠が率いてきた弘農勢は三千。先の敗北により、その数はさらに減っている。本拠地である弘農にはまだ張済率いる一万の軍勢が控えているが、それを加えても南陽軍の半分にも達しない。しかも、李儒の南陽軍は、まだ全軍が洛陽に入ったわけではないことを樊稠は承知していた。 そのことを知ったとき、樊稠は背筋に悪寒めいたものをおぼえた。率直にいって、樊稠は李儒がこれほどの武力を掌握していようとは夢にも思っていなかったのだ。 李儒が望めば、洛陽の弘農勢は今日にも壊滅の憂き目を見るだろう。それを知るがゆえに、樊稠の傲然とした言動には先日まではなかった揺らぎが存在した。 それでも樊稠があえて態度をかえなかったのは、李儒も、李儒に従う南陽軍も恐れてはいない、と言外に示すためである。李儒が態度を豹変させ、樊稠らを侮るようなまねをすれば、しかるべき報いをくれてやる、という意思のあらわれでもあった。 そんな樊稠の内心を知ってか知らずか、李儒の態度はこれまでと変わらぬ丁寧なものだった。「仰るとおり、樊将軍率いる弘農勢には及びもつかないでしょう。数だけを集めた張子の虎でございますよ」 不快も憤りも示さない李儒の顔に、樊稠は不審の眼差しを向けるが、その秀麗な顔には兵力を笠に着た傲慢さは見て取れない。樊稠はわずかに安堵する。李儒が弘農勢の排除に動く可能性はない、と確信したからである。 むろん、感謝などしない。洛陽の宮廷にあるのは利用するかされるかの駆け引きだけ。樊稠はそう考えている。 李儒が樊稠を除かない理由は、李儒や皇帝の温情などではなく、弘農勢に利用する価値がある、というだけのことだろう。 この樊稠の考えは、李儒の内心のそれと一致していた。 ただし、樊稠が考える『価値』と、李儒の考えるそれとは意を異にしていたが。 次に口火を切ったのは李儒の方であった。「樊将軍、ここでお目にかかれたのは幸運でした。将軍にお詫び申し上げねばならぬことがございまして」「ほう、何事か?」「樊将軍には、この洛陽から多くの廷臣が退去しつつあること、すでにご承知であると存じます」 李儒の言葉に、樊稠は不快げに眉をひそめる。 むろん、樊稠はその事実を知っている。そして、その事実の原因となったのが虎牢関の失陥――すなわち、樊稠自身の失態であることも。 だが、李儒はことさら樊稠の罪をならすつもりはなかったらしい。樊稠の表情の変化には気づかない様子で、さらに言葉を続けた。「これにより、陛下は新たに宮廷内の要職につく者たちの人選をはじめられました。中でも急を要するのは三公の選任でございます。司徒、司空、太尉、これら朝廷の文武をつかさどる者たちを定めなければ、再興の一歩を踏み出すことはかないませぬゆえ」「当然のことだな。で、それがどうしたというのだ? 思わせぶりに言辞を弄するな、わずらわしい」 苛立たしげにはき捨てる樊稠に対し、李儒は恐縮したように頭を下げる。「これは失礼を。では結論から申し上げます。私は軍事の首座たる太尉に樊将軍を推したのですが、これに反対する者がおり、いまだ陛下は決断をためらっておられます。私の力不足のために樊将軍に朗報をお届けできずに申し訳ございません。そのことをお詫びしたかったのです」 あまりに意外な李儒の言葉に、樊稠はつかの間、声を失った。 すぐにかぶりを振って立ち直ったように見えたが、李儒に向けた声ははっきりそれとわかるほどに揺れていた。「これは異な事を聞く。弘農の張済どのをさしおいて、この身だけが栄達するわけにはいくまい」「樊将軍も、張済どのも弘農の支配者としての立場は同じとうかがっております。そして張済どのは弘農に留まり、樊将軍は洛陽におられる。くわえて、樊将軍はすでに陛下のために戦陣に臨んでいらっしゃいます。顔も知らぬ張済どのと、虎牢関で奮戦した樊将軍、いずれを陛下が信頼していらっしゃるかは口にするまでもありますまい」 李儒は声を低めてそういった後、わずかに唇を歪めた。どうやら笑みを浮かべたつもりであるらしい。「むろん、私はお二人の仲たがいを望んでいるわけではございません。ゆえに張済どのには弘農太守の地位、さらにはいずれしかるべき地の州牧を、と考えております。ただ、こちらにも反対をする者がおりまして。いずれ陛下にもご納得いただけるとは思うのですが、反対者も陛下の信頼あつき者ゆえ、事は遅々として進みませぬ。真っ先に陛下にお味方いただいた弘農の方々、わけても虎牢関で奮闘した樊将軍に、すぐにも吉報を届けられぬわが身の力量の無さを不甲斐なく思います」 李儒はそう言って謝罪するように深々と頭を下げた。 その後、李儒は踵を返した――まるで、背後から声がかけられることがわかっているかのように、ゆっくりと。 予測どおり、というべきか。離れゆくその背に、樊稠の低い声がかけられる。「……文優。その反対者というのは誰のことだ?」 足をとめた李儒は再び樊稠に向き直ると、一拍の間をおいた後、その名を告げた。「司馬伯達(司馬朗)」「やはり、あの女かッ」 忌々しげに樊稠がはき捨てる。 虎牢関の敗戦において、司馬家からの情報漏洩があったのではないか、と樊稠はいまだに疑っていた。それについて、司馬朗本人に問い詰めたこともある。結局、シラを切られたが、司馬朗が兵も財も持たずに洛陽に来たことを考えれば、心底から劉弁に忠誠を誓っているとは考えられない、との樊稠の考えは揺らがなかった。 司馬朗にしてみれば、樊稠らが高位を得れば、その分、みずからの立場が危険に晒されることになる。李儒の人事に反対を唱えるのは、ある意味で当然――そう考えて怒りをあらわにする樊稠を見て、李儒も同様の表情を浮かべる。「樊将軍が抱えておられるお疑いはごもっとも。真実を知る者であれば、誰もが疑問に思うことでございましょう。しかし、陛下は司馬家の先代どのに命を救われた身なれば、その子らに疑いの目を向けるわけにはいかぬ、とお考えなのです。その信頼を笠に着て他者を追い落とそうとする者に対し、私も怒りを禁じ得ません」「過ちがあれば、これを正すのが側近であるお前の役目ではないのか、文優?」「正論でございます。耳が痛い、とはまさにこのこと。ですが、あれは陛下のみならず、皇太后さまにも信を置かれているのです。言葉だけでは、なかなか――」 李儒がそこで言葉を切ったのは、二人が話している場所に足音が近づいてきたからである。 このような場所で南陽軍を統べる李儒と、弘農勢を率いる樊稠が密談していたと知られれば、陛下の耳にどんな噂が囁かれるか知れたものではない――李儒は口早にそう言うと、樊稠に背を向けた。李儒は噂を口にする具体的な名前をあげたわけではなかったが、それはわざわざ言うまでもないと考えたからであろう。「……ここだけの話ですが」 樊稠の耳に響く、囁くような李儒の声。「陛下も、事あるごとに父の恩を振りかざす輩には、辟易しておられるのです」 そう言うや、今度こそ李儒はこの場から立ち去った。 目を細めてその後ろ姿を見やる樊稠は、李儒が言わんとすることを悟った――悟った、と思った。◆◆ しばし後。「いつまで自分が上位のつもりなのか。数だけを集めた張子の虎とはまさしく弘農勢のことだというに気づきもせぬ。戦斧を振り回すしか脳がない貴様が太尉になれるのならば、この身は相国にすら届くだろうよ」 樊稠と別れた李儒は、十分に距離が離れたと見て取るや、これまでの表情を一変させて侮蔑の意をあらわにする。 李儒にしてみれば、三千程度の軍しか持たない樊稠が、十倍近い南陽軍の陣容を目の当たりにして、なお虚勢を張っているのは笑止の極みといえる。彼我の実力差をわきまえず、董家に仕えていた頃とかわらぬ傲慢な態度をとりつづける樊稠の存在は、冷笑を通り越して侮蔑の対象であった。 そんな樊稠に対し、李儒がへりくだっているのは、むろん、これに利用するべき価値を見出しているからに他ならない。 ただし、それは樊稠麾下の弘農勢をあてにしてのものではない。李儒はすでに南陽の兵と富を背景に王方や李蒙といった樊稠麾下の武将を抱き込んでおり、樊稠の命を欲すれば、明日にでもその首を見ることができる状況にあった。 ゆえに、李儒にとっての樊稠の利用価値とは将軍としての能力ではなく、李儒の偽りの謙譲をそれと見抜けない浅薄な為人にある。 はっきりと言ってしまえば、李儒は樊稠をそそのかして司馬朗を害させる心算なのである。 むろん、今の一連のやり取りだけで行動に移るほど樊稠も考えなしではないだろう。だが、樊稠は元々司馬朗を敵視しており、繰り返し使嗾すれば、遠からず心の秤は一方に傾くに違いない。李儒のみならず、王方や李蒙といった配下を経由して同じ情報を流せば、樊稠の行動を操るのはさして難しいことではない。李儒はそう読んでいた。 樊稠が行動に移れば、李儒は労せずして政敵を除くことができる。当然、皇帝も何太后も激怒するであろう。ゆえに、司馬朗を害した樊稠は、李儒の手で即座に殺す。そして――「樊稠の行動をもって弘農勢を討つ名目とし、弘農にいる張済めを討つ。董卓と王允が死に、長安は今も混迷が続いていると聞く。函谷関と潼関の守備兵は数えるほどであろう。あの二関を抜き、長安を陥落させることが出来れば――」 洛陽は後漢の帝都であるが、その以前、高祖劉邦が定めた都は長安であった。これを陥落させることができれば、李儒は新旧二つの帝都を我が物とすることになる。その想像は李儒の自負をくすぐってやまなかった。 洛陽にて自立し、曹操や袁紹といった東の勢力の侵入を虎牢関で阻んでいる間、西へと勢力を伸ばす。それが李儒の基本的な戦略であった。 長安を中心に涼州一帯、さらには漢中地方を制圧することができれば、その勢力は曹操や袁紹に匹敵するほど巨大なものとなるだろう。 これは李儒にとって夢想ではなく、現実的な戦略である。元々、涼州は董卓の郷里であり、董家はこの地を根拠地として勢力を伸ばした。当然、董家に仕えていた李儒はかの地の動静に通じており、十分な兵と財をもってすれば、これを従えることは難しいことではない。少なくとも李儒自身はそう考えており、ゆえに李儒は西へと勢力を伸ばすことを戦略の根幹に据えたのである。 ――また、西へと勢力を伸ばすことは、李儒にとって別の意味も併せ持っていた。「長きにわたって私を冷遇した董家の凡愚どもにも思い知らせてやらねばな。できれば董卓と賈駆めにはわが手で報いをくれてやりたかったが、行方が知れぬのであれば是非もない。代わりに一族郎党、女子供にいたるまで、ことごとくを嬲りぬいた末に打ち殺してくれる。かりにあの二人がまだ生きているのならば、たまりかねて姿を現そう」 もう二人がこの世にいないのならば、それはそれでかまわぬ。その時は、一族を襲う殺戮の嵐を、あの世とやらに見せ付けてやるだけのこと。そう考えて、李儒は唇に刃物のように薄く鋭い微笑をたたえ、しばしの間、復讐の快感に身をゆだねた。 だが、李儒にとって至福とも言うべき時間は長くは続かなかった。 現在の情勢はおおよそ李儒の思惑どおりに進んでいるが、すべてがうまく行っているわけではない。そのことを思い出したからであった。 中でも、李儒にとって最も予想外だったのは虎牢関の戦況である。 于吉からの情報――虎牢関に駐留する曹操軍の主将が張莫から北郷一刀にかわり、その兵力が半分以下になった、との報せが事実であることを確認した李儒は、即日虎牢関に向けて兵を差し向けた。 その数、およそ一万五千。 北郷の名を持ち出して李儒を使嗾した于吉にしてみれば、この行動は思惑どおりであろう。李儒はそれを承知していたが、ことさら気にかけることはなかった。むしろ、今回のことで、于吉が李儒のことをくみしやすいと侮ってくれれば儲けものである、とすら考えていた。 于吉はわざわざ北郷の名を出して使嗾する必要などなかったのだ。 李儒の戦略において、虎牢関は西へ兵を向ける前に是が非でもおさえておかねばならない要衝である。北郷の存在の有無に関わらず、その守備兵が半分以下に減らされたと知れば、黙っていられるはずもない。 逆にいえば、わざわざ北郷の名と、過去の恨みつらみを持ち出してきた于吉は、そのあたりの李儒の戦略を見抜いていないことをみずから証明してしまったことになる。李儒にとって、今回の于吉の行動は迂闊としか言いようがないものだった。 だが。 そう考える一方で、李儒が北郷の名に無視できないものを感じていることも事実である。ただし、それは過去の恨みを晴らす好機――などという理由によるものではない。 北郷一刀。 高家堰砦において、張勲、呂布、高順、李豊、梁剛、陳紀らが率いる十余万の軍勢を、わずか数百で退けた驍勇の将軍。 淮南の戦い以後、その名は各地に広まったが、それは北郷ら劉家軍によって最後の最後で淮南の完全征服を妨げられた仲においても同様であった。否、実際に戦い、敗れた側であればこそ、その名はより以上に早く広まったのである。 いうまでもなく、南陽軍の将兵もこれに含まれる。南陽軍の中には、あの戦いに参加した者も少なくないのだ。 そして、これこそが李儒が北郷を無視しえない理由であった。『張勲、呂布、高順、李豊、梁剛、陳紀らが率いる十余万の軍勢を、わずか数百で退けた驍勇の将軍』 それはすなわち、今の李儒に欠けている武名ないし威名というもの。前線で兵を指揮した経験のない李儒にとっては、決して持ち得なかったものである。 軍監からの報告によれば、南陽軍の将兵の中にもわずかな動揺がうまれているという。彼らにしてみれば、張勲や呂布が率いた十万の兵を退けた相手に、自分たち南陽軍が孤軍で挑んで勝ち得るのか、という疑問があるのだろう。 敵将に対する畏怖は、南陽軍の将兵が李儒に抱く不安のあらわれでもある。 今回、李儒が虎牢関に兵を向けた理由のひとつは、この不安を打ち払うためであった。 淮南の戦で勇名を馳せた北郷を、虎牢関で打ち破ることができれば、南陽軍と、南陽軍を率いる李儒の勇名は北郷を上回るものになろう。それはこれまで武名のなかった李儒にとって、大いなる力になる。 同時に、虎牢関での勝利は、淮南において北郷に勝ち得なかった仲の将軍たちに対する李儒の優越を知らしめることにも繋がる。現状、李儒は仲からの離反について、全軍の理解を得ているわけではない。今後、起こりうる軍内の混乱を未然に防ぐ意味でも、今回の戦いの勝利は大きな意味を持つことだろう。 虎牢関を陥とすことにより、李儒が享受しうる益は一つや二つではないのである。 南陽軍三万のうち、およそ半分にあたる一万五千を虎牢関に割いた李儒の決断の裏には、そういった理由が存在した。李儒にしてみれば、ここで是が非でも勝利をもぎとりたかったのだ。 虎牢関の曹操軍はおよそ三千。数の上では五倍の差がある。それでも虎牢関を攻めるに十分な数とはいえないが、防備の薄い西側からの侵攻であることを考えれば、兵力的には問題はないだろう。 くわえて、虎牢関の曹操軍は西涼軍との戦いを経て疲労しているであろうし、さらにいえば、曹操軍にとって北郷はつい先日まで干戈を交えていた相手である。勝っている間はともかく、篭城戦のように精神にも肉体にも負担がかかる戦いになれば、これまでおさえこんでいた不満や不安はたちまち噴出し、軍内の不和が顕在化するに違いない。そうなれば、虎牢関の堅牢さも意味をなさなくなる。 早ければ五日、おそらくは半月、遅くとも一月。虎牢関陥落までに要する時日を李儒はそう予測していた。 だが――「虎牢関に攻め寄せてすでに十日。未だに一人として城壁に達することも出来ぬとは……無能者どもめが」 李儒の舌打ちは、本人が思っていた以上に激しい音を立てて周囲に響き渡った。 虎牢関の南陽軍からは、連日、一進一退の攻防が続いている、との報告が届けられているが、ここ数日、その内容はさしたる変化を見せていない。おそらくは一進一退というより、攻めあぐねて膠着状態にはいりかけているのだろう。このままでは、半月どころか一ヶ月経っても虎牢関が陥ちることはないかもしれない。 現在、洛陽にいる南陽軍は一万五千。ただ、まもなく宛の住民を引き連れた残りの軍勢も洛陽入りする。こうなれば兵数は再び三万に届くので、もう一万ほど虎牢関に援軍を送ることは可能である。あるいは洛陽と宛の住民から新たに兵を徴募する手もある。「――それも一案か。一度攻めかかった以上、ここで兵を退くようなまねをすれば、南陽軍恐るるに足らず、という侮りを敵に与えることになる。なんとしても虎牢関は陥とさなければ……」 今の李儒は、南陽軍の兵威を背景に洛陽で勢力を固めている。南陽軍が軽んじられるような事態は何としても避けねばならない。 今後の方策について、改めて考え始めた李儒であったが、ここでふと別の件を思い出した。虎牢関のそれに比べれば取るに足りないが、無視することもできない――そんな件である。 何度目のことか、李儒の口から忌々しげな声がこぼれでる。「司馬仲達か。姉妹そろって面倒な奴輩よ」 李儒が呟いた名は、先日、洛陽の北部尉に任じた司馬朗の妹の名である。これは李儒にとって皇帝の意に沿うための人事であり、司馬懿本人に対しては、麒麟児などと称えられていようと実務に携わればほどなく馬脚をあらわす、と大して気にも留めていなかった。 しかし、司馬懿は瞬く間に成果をあげ、洛陽の治安を見違えるほどに改善してみせた。いまやその名は洛陽中に知れ渡り、これを解任などすれば李儒に対する非難は囂々たるものになってしまうだろう。 司馬懿の失態を予測していた李儒にとって、これは予想外もいいところであり、苦虫を何匹も噛み潰す羽目になった。 もっとも、前述したようにこれは虎牢関の件とは異なり、李儒にとって何とでもなることだった。なんといっても、今の洛陽の宮廷において李儒を上回る兵と富を持つ者はいないのである。 司馬懿本人の更迭は難しくなってしまったが、西、東、そして南の尉に関してはすでに南陽軍の人材がこれに取って代わっており、着実に成果をあげている。北部尉はあくまで北門の責任者であって、他の三尉が結託すれば、その動きを封じることはなんら難しいことではない。司馬懿については、いずれ司馬朗が除かれた暁に、適当な罪をなすりつけて切り捨ててしまえばいい。 そう考えると、やはり焦眉の急は虎牢関の戦況か。 考えを据えなおした李儒の口元に、ふと苦いものが浮かびあがった。先日、姿を現した于吉が口にした言葉を思い出したのである。「――北は凶、か。北部尉の司馬懿に、虎牢関の北郷。なるほど、うろんな方術とやらも、ときには真実を言い当てるものらしい」 もっとも、と李儒は言葉を続ける。「その基を取り除けば、凶はすなわち吉となる。遠からず、二人ともこの世から消し去ってくれるわ」 そう口にすると、李儒は今後の方針を定めるべく、自らの執務室に向けて歩き始めるのだった。◆◆◆ 司州河内郡 虎牢関『文は世の範たり、行いは士の則たり』 世に三君と称えられた穎川の名士、陳寔の碑文の一節である。 貧窮に喘いでいた幼少時、そんな一文を目にした牛飼いの少女は、自らの名を鄧範、字を士則と改める。貧しい幼年期を経て、世に屹立する大樹となった人物に対し、少女は深く思うところがあったのだろう。 ただ、一口に貧しいといっても、少女の貧窮と陳寔のそれは大きく意を異にしていた。日々、牛を飼いながら空腹に耐える少女に学問を修める暇も金もあろうはずがなく、身を立てることよりも、今日を生き抜くことを優先しなければならなかった。 少女は群衆に埋没することを望まず、他者から振り仰がれる巨木になりたいと願ったが、名声も門地もない家の出である少女一人では、そもそのための機会を得ることさえ容易ではない。 少女が世に知られるためには、他者――それもある程度の権力を持つ者の理解と助力が欠かせなかったが、強情で口下手な少女は他者に取り入るようなまねは出来ず、また少女自身、そういった行為に価値を見出していなかった。若さゆえの潔癖、といえばそれまでであったかもしれないが、少女にとってそれは譲れぬ一線だったのである。 結果、機会はますます遠のき、ただ時間だけが少女の上を通り過ぎていく。 その身を焦がす志も、いつか時の風雪にのまれて朽ちゆくか。 知らず、そんな思いが胸裏をよぎるようになった頃だった。少女にとって転機となる、一人の貴人との出会いがあったのは……「――なんでも御者の人が悪い食べ物にあたってしまって、見るも無残、聞けば愉快な状態になってしまったとかで、代わりの御者に雇われたんだ」「…………」 どこか詩的だった出だしを台無しにする台詞に、俺は思わず半眼になってしまった。「貧窮にあえぎながら、それでも節を守って暮らしていた少女に訪れた素敵な出会いを期待していた俺のわくわくをどうしてくれる」「勝手に期待して、勝手に失望しているだけだろう。オレの知ったことじゃない」 事実を口にしただけだ、と言って、語り手だった少女は気分を害したように、ふん、とそっぽを向いてしまう。 言葉だけを聞けば男らしい――というか勇ましいのだが、頬を膨らましている仕草は実にかわいげがある。 そして、端的にいって、それが鄧範、字を士則という少女の特徴だった。 鄧範は胡乱げに俺を見つめて口を開いた。「というか驍将どの、こんなところでオレの相手をしていていいのか。敵が攻めて来ないといっても、やるべき事はいくらでもあるだろう」 聞きようによっては、こちらを気遣ってくれているようにも聞こえるし、さっさといなくなってくれ、と言っているようにも受け取れる。このあたりが、司馬孚をして「誤解を招く人柄」と言わしめる原因の一つなのだろう。 見れば、いまだ頬を膨らませてはいるものの、ちらとこちらを伺う視線には気遣うような色が見て取れるから、今回の場合はおそらく前者だと思われる。 俺は小さく肩をすくめた。「防戦の指揮は棗将軍(棗祗)に任せているし、夜戦の準備は公明どのに一任している。けが人の手当ては叔達どのに委ねた。つまり、今の俺は完全無欠に暇なのだ」 事実を事実として口にしただけなのだが、何故か鄧範はつい先ほどの俺と同じような半眼で言い返してきた。「……要は面倒な仕事は全部部下にぶん投げたってことだろう。叔達さまの部下であるオレに胸を張って言うことか」「良い部下に恵まれて、俺は幸せだ……」「いまさら感動に目を潤ませても、説得力に欠けること夥しい」「ああ、そうだよ! どうせ全部、部下に押し付けただけさッ!」「開き直るな」「ならばどうしろと」「とりあえず、オレを呼び出した理由を簡潔に説明してくれ。叔達さまに呼ばれてきてみれば、何故か驍将どのと同じ卓につかされて昔話をせがまれる。意味がわからない」 半眼はそのままに、鄧範はそう俺に問いを向けてきた。 言われて、俺はむむっと考え込む。 俺としては、先日のポロの試合で鄧範を見かけて以来、その存在が気にかかっていた。防戦の最中も何度か奮戦を目の当たりにしている。それを見て、俺はこれまでどうしてその存在に気づかなかったのか、と不思議だったのだが、司馬孚によれば、鄧範は司馬家においては農政をつかさどる文官であり、兵を率いて戦った経験はほとんどないという。ゆえに今回、鄧範は従軍する予定はなかったのだが、司馬孚に直訴して軍に加わったのだという。当然、兵を指揮する身分ではなく、一人の兵士として。ゆえに、俺がその存在に気づかなかったのも不思議なことではなかった。「――で、まあ、ようやく敵の攻勢もひと段落し、反撃を行う余裕も出てきた。となると、その人柄を知るには今が好機と思ったわけだ」 俺の説明を聞いても、鄧範は納得した様子を見せなかった。むしろ、不審の色が濃くなったようにも見える。「だから、どうしてオレの人柄に興味を持ったのか、と訊いている。オレは司馬家の先代さまに取り立ててもらった身だ。司馬家には大恩がある。ゆえに司馬家と叔達さまに力を貸してくれている驍将どのには感謝している。昔話程度ならいくらでもするが、敵との戦の最中に聞くほど価値があるものとは思えない。そして、驍将どのがオレにそこまでの関心を抱く理由にも心当たりがない」 ポロの試合を見た程度で、そこまで強い関心を抱くものなのか。鄧範はそれをいぶかっているのだろう。 なるほど、確かに俺の行動は他者から見れば不審なものと映るだろう。だが、仕方ないではないか。思い出してしまったのだから。 鄧範、字を士則。 司馬孚にその名を聞いたとき、何か引っかかるものがあった。それがずっと俺の脳裏に残っており、昨日、司馬孚にもう一度話を訊いたのだ。 その際、鄧範が司馬懿に才を見出される契機となったのが、鄧範の趣味(?)である地図の作成であることを知ったのである。『璧姉さまは偶然それを見る機会があったそうです。地形はもちろん、その土地毎の状況や、季節による変化などが詳細に記された地図を見て、璧姉さまはとても感心なさっていました。詳しい地図は軍事にも内政にも欠かせないものですから、これほど見事な地図をかける人を重用しないでどうするのだ、と』 鄧範と親しく語り合った司馬懿は、鄧範が文武いずれにも適性があると見抜いた。そして、その為人からいって、誰かの下に配するよりは、本人にある程度の権限を委ね、好きにやらせる方が成果をあげやすいだろう、とも。 そうなると、軍事よりも内政の方がやりやすかろう。司馬懿は父や姉にそう進言し、ほどなくその意見は容れられた。 この人事は見事に奏功し、以後、鄧範は内政官として司馬家の内部で地歩を固めていく。司馬孚が河内郡で家長代理として領地を治めていたとき、内政面でその補佐をしていたのが鄧範だった――そう司馬孚は教えてくれた。 そして、ここまで詳しく聞けば、いい加減俺も何が引っかかっていたのか、その理由に思い至ろうというものである。 何に思い至るのか。それは、眼前の鄧範という少女が、すなわち『あの』鄧艾のことである、という驚愕の事実に、である。 で、まあそういった諸々を経て、俺は鄧範とこうして向き合っているわけだ。 当の鄧範は今なお俺を不審の眼差しで見据えている――つもりなのだろう、本人としては。 しかし、俺から見ると、可愛い女の子にじと目で睨まれている、くらいにしか感じられない。なんというか、色々とギャップが激しい人物である。 そんな俺の柔らかい視線に気づいたのか、鄧範は冷ややかな声を発した。「……何故だろう。驍将どのがこちらを見る視線に、腹立ちを禁じえないのだが」「気のせいだ」「……そうだろうか」 一瞬のためらいもなく断言した俺を見て、鄧範はなおしばらくぶつぶつと不服げに呟いていたが、やがて口を閉ざした。どうやら不問に付してくれたらしい。 そんな鄧範を見て、俺は司馬孚から聞いた司馬懿の鄧範評に得心する。なるほど、こうもずけずけと上役に物を言うようでは、軍で位階を重ねるには問題が多かろう。まあ、俺も人のことをいえた義理ではないのだが。 だが、それはそれとして、鄧範の存在を知ったからには、これを活用しない手はない。むろん、鄧範は司馬家の配下であるからして、勝手に引き立てたりはできないのだが、司馬孚を通じて知恵を借りるくらいはできるはずだ。 ただ、俺が鄧範に過剰に関心を示すと、司馬家の中での彼女の立場がおかしなものになってしまう可能性もあるから、そこらへんは注意が必要だろう。難しいところであった。 その後、鄧範と別れた俺は、虎牢関の中を歩きながら、ひとりごちた。「しかし、西涼軍に姜維がいて、司馬家に鄧艾がいるということは、やっぱり鍾家には鍾会がいるのかな。確認したこともなかったけど……まあ、鍾遙はたしか東郡の太守だったはずだから、鍾会に会えるとしても、当分先の話か」 この時、俺は格別深い考えがあったわけではない。ごく自然に、思ったことを口にしただけであった……