司州河南郡 洛陽「――どういうつもりです、李文優。此度のあなたの行動は、仲の臣下としての道を大きく逸脱していますよ」 深夜の宮中。 人気のない玉座の間で、ひとり考えに沈んでいた李儒は、不意に背後から聞こえてきた声にわずかに肩を震わせた。 だが、一拍の空隙の後に振り返った李儒の顔には能面のような笑みがはりつき、その内心をうかがわせる隙を示さない。 振り返った李儒の目に映ったのは、予想と違わない人物だった。 学者を思わせる線の細い風貌と、深井戸にも似た底知れない双眸を併せ持つ男の名を于吉という。 かつて、この洛陽の都で于吉と出会い、以後、その指図で動いてきた李儒であるが、于吉については何も知らないに等しい。方士であるというが、その方術がどのようなものなのかすら教えられていなかった。 ただ、その才能には敬服の念を抱いていた。心服、と言い換えてもいいかもしれない。袁術に取り入り、その智謀で瞬く間に仲の地歩を固めてきた手際は見事としかいいようがなかったし、なにより、他者の目を避け、逃げるように洛陽の街区を徘徊していた李儒が、南陽郡の太守という尊貴の地位を得ることができたのは疑いなく于吉のおかげであったから。 ――だが。「逸脱、おおいに結構。漢に背きし偽帝の臣としての道を逸脱するということは、すなわち漢朝の臣としての正道に回帰するということ――否、私はもとより偽帝の臣にあらず。すべては洛陽にて漢朝を再興させるための布石であったのだ」 傲然と胸をそらす李儒を見て、于吉は口元に薄い笑みを湛えた。「なるほど。すると、私はあなたを利用しているつもりで、まんまと利用された、ということですか」 于吉はその言葉にことさら害意を込めたわけではなかった。それどころか、むしろ感心した、とでも言いたげな響きさえ感じられる。 にも関わらず。 李儒の目には、どこか怯んだような色が浮かび上がる。 李儒はそんな自分自身の感情をねじふせるように、強い声を吐き出した。「……わかっているぞ。お前たち方士はどこにでも現れることができるが、だからといって何でも出来るわけではない、ということは。こうして洛陽に現れても、ここで私を害することは出来ぬはずだ。それができるならば、淮南の二つの叛乱はとうに鎮圧されているに違いないのだから」「前半分に関しては、いかにもそのとおり。我らは何でもできるわけではありません。ただし――」 いきなり、于吉の姿が陽炎のように掻き消える。 と、思う間もなく、背に硬い感触を覚え、李儒は背筋を凍らせた。 背後からささやくような于吉の声が聞こえてくる。「ただし、それはここであなたを害することが出来ないことを意味するわけではありませんよ。事実、今、私がもう少し力を込めれば、あなたはここで果てることになります。試してみますか?」「く……」 背に押し当てられているものが何であるかはわからない。だが、この状況なら、ただの果刀であってもたやすく心の臓をえぐれるだろう。それを悟った李儒は、しかし、許しを請おうとはせず、唇を歪めて嘲りを発した。「できるものならば、やってみるがいい――できるものならば、な」 そこには虚勢の色が皆無ではなかったが、声も身体も震えてはいなかった。 そうと悟った于吉は、ふむ、となにやら得心したような声を発する。「どうやらそれなりの覚悟あっての行動のようですね」 その声と共に背に押し当てられていた感触が離れていく。 李儒は咄嗟に懐に手を伸ばしながら前方に飛び出すと、素早く振り返って于吉の追撃に備えた。 だが、その李儒の目に映る于吉は、人差し指を此方に向けて真っ直ぐに突き出しているだけであり、その手には果刀すら握られていなかった。 背におしあてられていたのが于吉の指であったことを悟り、李儒の秀麗な顔が憤激で紅潮していく。「……愚弄してくれる」「ふふ、他者に礼を尽くされる行いをしていないことくらい、自覚しているでしょう? 裏切られた側の報復としては大人しいものだと思いますよ」 そういって、楽しげにくつくつと笑う于吉の姿を、李儒はどこかうそ寒そうに眺めていた。 李儒は于吉が詰問に来ることは予測していた。だが、詰問に来たはずの于吉の、この楽しげな態度は何に由来するのか。あるいは、李儒自身すら知らない切り札を握っているのだろうか。 李儒とて何の成算もなく今回の挙に踏み切ったわけではない。淮南における二つの叛乱、河北と河南の大勢力の対峙、さらには荊州や洛陽の情勢まで踏まえた上で、時は今しかないと判断して起ち上がったのだ。 前述したように、これまで李儒は于吉の智謀に心服しており、その手足として動くことに不満を抱いてはいなかった。 だが、高家堰砦での仲軍の敗北を知り、その心情に変化が生じる。 戦えば勝ち、攻めれば取り、謀れば成る。于吉がそんな人物だと思えばこそ、李儒は于吉に従っていた。だが、于吉でも思い通りにならないことはある。敗れることはある。そう、李儒がこれまでの生でそうであったように。 于吉も、李儒と同じ人間なのだ。であれば、自分がその下にいなければならない理由がどこにあろう――李儒の心中にそんな想念がすべりこんで来た。 さらに現在の仲は合肥の呂布、そして首謀者こそ判明していないが、盱眙(くい 洪沢湖南岸の県)で起きた叛乱を鎮圧できずにいる。この二つの叛乱により、寿春の袁術軍は動くことができず、仲軍の戦略は停滞を余儀なくされていた。これもまた于吉の限界を示すものであろう。 ここにいたって、李儒は于吉に対するある種の畏れ、遠慮を捨てた。元々、李儒はおのが才覚を誇り、史書にわが名を刻み込まんとして戦乱に身を投じた人間である。これまでは時勢が味方せず、また固有の武力を持たぬがゆえに、他者に従ってその才能を揮うべく努めてきた。 しかし、李儒の才を使いこなせる者は現れず、ようやく于吉に出会えたと思ったが、于吉もまたその器ではないと知った。 もはや手は一つしかない。 それは、自らを自らの主とすること。 南陽郡の富と兵を手中におさめ、さらには漢帝を擁した今の自分ならば、群雄の一人として戦乱に挑むのみならず、その中でも雄たる者として天下に覇を唱えることも夢ではない。 自分ならばそれが出来る――否、自分にしか出来ぬ。 李儒はその決意と共に、行動を開始したのである。 当然、袁術や于吉はそんな李儒の行動を許さぬであろう。そう思ったからこそ、李儒は南陽郡を放棄して、仲の攻勢を防ぐ壁とするべく荊州を使嗾したのだが、李儒の前に姿を現した于吉は、そういった諸々を一切気にしている様子がない。李儒としては警戒せざるを得なかった。「……何を考えている、方士?」「さて、さて。私が何を考えているにせよ、今のあなたにとってはさして関わりがないでしょう。なにしろ今の仲は、足元の叛乱を鎮圧するために四苦八苦している状況ですからね」 なおも笑みを絶やさない于吉の顔に、李儒は刺すような視線を向ける。「口先ひとつで飛将をからめとった手腕はどこに失せた?」「心に隙を持つ者を動かすのはたやすいですが、それは逆にいえば、そうではない者を動かすのは難しいということ。今の呂布どのを動かすのは中々に大変なのですよ」「ならば、淮南で彼奴らを潰す策でも練っていればいいものを。何故に洛陽まで出てきたのか?」 李儒の問いを受けた于吉の両の目が細められる。その口には、三日月のような笑みが浮かび上がっていた。「私がこうして出て来ないと、あなたはいつまで経っても落ち着けないでしょう? 私はあなたの予測どおり詰問にあらわれ、そして、これまた予測どおりにあなたに危害を加えることが出来ずに去っていく。そうして初めてあなたは胸中の不安を払い、この帝城ではじめの一歩を踏み出すのです。今のあなたは皇帝の傍近くに座し、兵力と財力であなたに優る者は存在しない。そう、あなたはまさに洛陽王とでもいうべき至高の権力をその手におさめているのです」「……洛陽王」 于吉の言葉を聞いた李儒の口から、思わず、というように呟きがこぼれおちる。そんな李儒に向かって、于吉は恭しく頭を垂れた。まるで王侯に対する臣下のように。 だが、それゆえにこの時、李儒は于吉が浮かべていた表情に気づくことができなかった。「それでは私はこのあたりで失礼させていただきましょう。あなたの叛意が本物であることを知れば、寿春の陛下はさぞお怒りになるでしょうが、これはあなたの器をはかりきれなかった私の責。あなたを推挙した私は、陛下のお叱りを謹んで受けなければなりませんね」「……本当にこのまま、何もせずに去るつもりか?」「はい」 顔をあげた于吉はそう言って踵を返そうとする。が、不意にその動きを止めた。 それを見た李儒は、もう何度目のことか、警戒するように身体を強張らせたが、于吉は別段李儒に危害を加えようとはしなかった。于吉の意図は、むしろその逆であった。「思えば、兌州の乱の頃から、あなたにはずいぶんと働いてもらいました。仲の臣下としてではなく、私個人として、これからのあなたにとって重要な情報を一つ、いえ、二つ、伝えておきましょう」「私にとって重要、だと?」 訝しげな李儒の様子にかまわず、于吉は言葉を続ける。「一つはあなたにとって、北は凶である、ということ」「……それは得体の知れない方術とやらが導いた戯れ言か?」「解釈はご自由に。もう一つは虎牢関の主将が張莫から別の者にかわったことです」 一つ目と異なり、二つ目は具体的なものであった。李儒の眼差しに興味の光が灯る。だが、于吉の策謀を警戒しているのだろう、李儒の表情は険しいままであった。 于吉は針のように細い眼光で、その李儒の様子を見据えつつ、ゆっくりとその名を告げた。「新しい主将の名は北郷一刀。すなわち、かつてこの帝城においてあなたの企みを破り、あなたのすべてを否定して立ち去った、あの少年のことですよ」 ◆◆◆ 許昌 丞相府「いやいや、実に急な召還だったな、華琳。まあ華琳の人使いの荒さは今に始まったことじゃないが」 曹操の私室に呼び出された張莫は、開口一番そう言ってからからと笑った。 その言葉遣いが砕けているのは、この部屋にいるのが曹操と張莫の二人だけだからである。張莫は朝廷では臣下として曹操に接するし、丞相府の中であっても、余人がいればもう少し丁寧な口をきく。ただ、二人きりになれば、幼い頃からの口調が自然と口をついて出てくるのだ。 応じて、曹操も口を開いたが、その口調もずいぶんと砕けたものだった。「ふん、そもそもあなたは麗羽との戦に加わる予定だったのよ。それを半ば以上押し切る形で汜水関に向かってしまったものだから、その後の調整はずいぶんと面倒だったわ。あなたの代わりに北海に赴いた春蘭に、苦情の一つも言われるのは覚悟しておきなさいな」「はっはっは。春蘭にはとうに詫びの使いを出しているさ。むろん、春蘭の不満をなだめてくれた秋蘭たちにもな」 それを聞いた曹操は小さく肩をすくめた。「そういうところは如才ないのよね、あなたは」「人間というやつは、感謝を忘れることはあっても、恨みを忘れることはない。ゆえに人の恨みを買うは愚かなことだ。それが近しい者であれば尚更な」「その割には、私に対する事後の手当てが何もないのだけど?」「華琳は成果を挙げれば満足してくれるからな。謝罪を考えている暇があったら、功績をたてる方に集中するべきだ。そのおかげで、ほら、虎牢関も陥ちただろう」 得意げに胸を張る張莫を見て、曹操はあきれたようにかぶりを振るのだった。 それから曹操と張莫は互いの情報を交換したが、一を聞いて十を知る二人のこと、必要とした時間はほんのわずかであった。「――そうか、初報だけで麗羽との決戦に踏み切るとは、華琳もずいぶんと思い切ったものだ、と思っていたんだが、合肥以外でも叛乱は広がっているのか」「ええ。しかも、広陵の陳登からの報告によれば、ずいぶんと統制のとれた動きらしいわ。単純に仲の支配に対する不満が爆発した、というわけではないのは確かね」「ふむ。核となっている者がいる、ということだな。呂布に加えて、そんな叛乱が膝元で起こっていれば、なるほど、偽帝も許昌を狙うどころではないな。おまけに南陽まで離反するとは――いや、そんな状況だから離反に踏み切ったのかな。まあ、そのいずれにせよ、偽帝にとって災難であるには違いない」「そして、こちらにとっては幸運だわ。麗羽と雌雄を決するには絶好の機会よ」 それを聞いた張莫は同意するように頷いた。「確かにな。しかし――」 なにやらしみじみとしている張莫を見て、曹操は怪訝な顔をした。「なによ、意味ありげに言葉を切ったりして?」「いやなに、あの華琳と、あの麗羽が――」 二つの『あの』を強調しつつ、張莫は続ける。「中原の覇権をかけ、黄河を挟んで激突する日が来るとはなあ、と思ってな。いや、二人の才覚も性格も承知しているから、いずれ激突する日が来ることはわかっていた。わかっていたが、それがこうも早いとは思っていなかったよ」 感慨深げな張莫に対し、曹操はさして感じ入った様子もなく、軽く頷くだけだった。 自身が勢力を伸ばせば、それ以上の勢いで袁紹の勢力が伸びることを曹操は承知していた。であれば、張莫のいうとおり、この激突は必然。曹操にしてみれば、時期的に早いどころか、少し遅いと感じているくらいだった。 その間、曹操は国力を充実させることができたが、幾度も兵乱を経た河南とは異なり、河北では黄巾党の乱以降、大きな戦いは起こっていない。曹操が力を蓄えた以上に、袁紹は勢力を肥らせていたに違いない。 その袁紹が満を持して仕掛けてきたのだ。かつてない大戦の予感に、曹操は身体の震えをおさえることが出来ずにいた。 そんな曹操を見やって、張莫はぽつりと呟く。「……そうも嬉しそうにぷるぷる震えられると、私も出陣したくなってしまうんだがな」「……言うまでもないと思うけど、駄目よ、黒華。西涼軍と戦い、虎牢関を陥とし、すぐさま許昌にとってかえして、今度は河北の精鋭と戦う? 人の恨みは買うべからず、といったのはあなたよ。兵の恨みを買ってどうするの」「ならば希望者だけ、というのはどうだろう?」「だーめ」 曹操は両手を腰にあて、張莫に向き直る。「そもそも、あなたが許昌を離れたら、わざわざ呼び戻した意味がなくなるじゃない」 その曹操の言葉に、張莫は楽しげな笑いで応じた。「なに、意味ならあるさ。私が虎牢関を離れた意味ならな」「へえ、それはなに?」「北郷のやつが遠慮なく動ける。おおかた、そのあたりも華琳は狙っているんだろう?」 張莫の問いかけに、曹操は返答がわりにわずかに苦笑した。 そして、表情をかえないまま口を開く。「報告から察してはいたけれど、風といい、あなたといい、よほどに北郷が気に入ったようね?」「さて、仲徳のそれは、私の興味とは毛色が違うように思うがな。ただまあ、北郷は面白い。それは確かだ。正直、本気で配下に欲しくなっている」「そこまで見込んだの。あなたにしてはめずらしいわね。北郷は配下としてそれほど有能だった?」 曹操の問いに、張莫は腕組みして首を傾げた。「有能、か。ふむ、有能といえば有能だったが、実務面を見れば、北郷と同じか、それ以上に使える奴は私の配下にもいる。まして華琳の部下を見渡せば、もっといるだろう。そういう意味では華琳のお目がねにはかなわないかもしれないな」 ただ、と張莫は続けた。なにやら考え込みながら。「北郷は為人が――ううむ、優れている、というのも何か違うな。うん、やはり『面白い』という言葉が一番ぴったりくる」「……話だけ聞いていると、どんな奴なのかさっぱりね」「ついこの前までは賊徒だった徐晃や、姉たちの謀反の罪を償うべく悲壮な顔をしていた司馬孚が、北郷と共に過ごすようになってからは楽しそうに笑っている、といえば想像しやすいか? うちの連中ともうまくやっていたし、私がこちらに戻る前には、ポロとかいう新しい娯楽まで考え付いていたぞ」 それを聞いた曹操の表情が険しくなる。「――ちょっと待ちなさい。前線の虎牢関で娯楽ってなに? 話によっては厳罰ものよ?」「いやいや、そんな眉間にしわを寄せるような話じゃないさ。ポロというのはだな――」 張莫からポロについて一通りの説明を聞いた曹操は、わずかに両の目を細めた。「…………へえ。それはたしかに面白いわね」「だろう? 流行らせれば労せずして騎兵の訓練になり、長柄の武器の扱いにも慣れる。くわえて、賭場を仕切れば軍資金も稼ぎ放題――」 そこまで言った張莫は、氷のような曹操の視線に気づき、こほん、と咳払いした。「むろん、最後のは冗談だが」「そう、よかったわ。もしも本気で言っていたら、陳留の太守を更迭しなければならなかった。賭場を仕切る太守だなんて、冗談にもなりはしないもの」 張莫は賛同するように、うんうんと頷いてみせた。そして、さりげなく話をまとめにかかる。「まったくだ。で、だな。部下としても十分に面白い北郷だが、一軍の将として立ったときにはもっと面白くなりそうだ、と思うわけだ。だから言ったんだ。私が虎牢関を離れる意味はある、とな」 曹操はしばらく張莫の顔を睨んでいたが、やがて表情を緩めて嘆息した。「まあいいわ、そういうことにしておきましょう。そういえば北郷で思い出したけれど、黒華、あれは本気で書いてよこしたの?」「あれと言われてもわからんが、報告に嘘偽りを記した覚えはないぞ」 怪訝そうな顔をする張莫に、曹操はなぜかこめかみをさすりつつ言葉を続けた。「北郷の褒美にと言って送ってきた将軍名のことよ」 それを聞き、張莫はぽんと両手を叩く。「ああ、宇宙大将軍のことか。むろん本気だが。実に雅味のある良い称号だろう? 肝は『宇宙』『大将軍』ではなく『宇宙大』『将軍』であるというところだな。さすがに大将軍位は贈れないが、少々かわった将軍名だと思えば、別に問題はなかろう?」 あっけらかんと言う張莫を見て、曹操の額に青筋が立った。「『別に問題はなかろう?』じゃないわよ! むしろ問題じゃない部分が無いくらいだわ!」「む、まだ北郷に将軍位は早すぎるということか?」「そうじゃないわよ! いえ、まあそれもあるけど、それ以前に――」 きっと張莫を見据えると、曹操は声を大にして言い放つ。「名称自体を考えたのが誰であれ、史書に名が残るのは授かった北郷と授けた私なの! あなた、この曹孟徳に、こんなふざけた名称を使用した人物として、歴史に名を残せとでもいうつもりッ?!」 ――もしも、この場に北郷がいれば、全力で首を縦に振るか、渾身の力をこめて拍手するか、あるいはその両方を同時に行うか、いずれにせよ曹操の言葉に賛意を示したに違いない。 だが、このとき、張莫はいまひとつ曹操の怒りに感応できなかったようで、訝しげに首をひねるばかりだった。「そういえば北郷も何故か嫌がっていたな。良い名称だと思うんだが??」◆◆◆ 司州河内郡 虎牢関「へくしッ?!」 虎牢関の城壁の上に立ち、これから眼下で行われようとしてるポロの試合(陳留勢VS司馬勢)の準備をぼんやり眺めていた俺は、派手なくしゃみを炸裂させた。突然のことに、隣にいた司馬孚が目を丸くする。「お兄様、大丈夫ですか?」 心配そうに顔を見上げてくる司馬孚に、俺は鼻をこすりながら頷いた。「あ、ああ、大丈夫だ。別に寒気もしないし、誰かが噂でもしてたんだろう」 すると、司馬孚は不思議そうな顔で小首を傾げる。「? 誰かが噂をしていると、くしゃみって出るものなんですか?」「ああ、俺の故郷ではそういう言い伝えがあってな」「へえ、はじめて聞きました」 感心したようにうなずく司馬孚。 すると、その司馬孚の声を掻き消すような歓声があたりいっぱいに広がった。どうやら、始まったばかりの眼下のポロの試合、早速に司馬勢の側が得点を決めたようだった。 俺を虎牢関の主将に据える、青天の霹靂とでもいうべき人事が行われてから、すでに数日が経過している。 現在、虎牢関の兵力は陳留勢およそ三千、司馬勢三百のみ。兵力は張莫の頃の半分以下になった計算になる。もっとも、後方の汜水関には衛茲率いる二千の軍が駐留しているし、許昌の張莫も必要とあらば即座に援軍を送ってくれると言っていたから、四千に満たない兵力で洛陽勢とぶつからなければならない、というわけではない。 くわえて言えば、南陽郡の動静も細大もらさず教えてもらったので、洛陽から大軍が押し寄せてくる可能性は低い、ということは俺も理解していた。 ただ、それはあくまで可能性が低いというにとどまり、敵軍が襲来する可能性はゼロではない。当然、それに対する備えをしておかなければならなかった。 洛陽方面からの攻撃に備えるため、要所要所に空堀を掘ったり、柵を立てたり、時には頭上から矢を放つための高台を組み立てたりと、やるべきことは枚挙に暇がない。 とはいえ、この手の作業は張莫が主将であるときから行われていたので、すでにある程度は出来上がった状態である。 となると、次に必要となるのは情報だ。敵の奇襲を食らわないためにも、また周辺の地形を良く知る意味でも、偵察は欠かせない。まあ、これとて張莫がいた頃からすでに行われていることなので、要するに俺の役割は、張莫がやっていたことを無難に、そつなくこなす事だけであったりする。ちなみに徐晃はいま洛陽方面への偵察に出ていた。 そんなことを考えていると、再び眼下から歓声があがった。またも司馬勢が得点を決めたらしい。 その兵たちの歓声に耳をくすぐられつつ、俺は今後のことに思いを馳せる。 張莫から――というより曹操から、というべきか。伝えられた命令はただ一つだけである。 すなわち、虎牢関から東の地を、敵兵に一歩たりとも踏ませないこと。 要するに虎牢関を死守せよという厳命なのだが、見方をかえると、虎牢関から西に踏み出すことに関しては何の制限もない、という意味にもとれる。 なんとなくだが、曹操に試されているような気がしないでもない。張莫に訊いてみたら「その意図が無いとは言えないな」とのことだった。 ただ命じられたことを守るだけならば誰でもできる。かといって、自分の能力をわきまえずに持ち場を離れ、突出するような将では物の役に立たない。彼我の戦況と自身の能力を冷静に見極め、戦場で最善の行動を採ることが出来るのか。それが曹操が武将の力量を判断するポイントなのだろう。 あの曹操のことだから、基準点を満たすのはさぞ難しいに違いない――などと考えていると、またしても眼下からの歓声が俺の耳朶を振るわせた。またまた司馬勢が得点を決めたようだ。 なにやらえらく盛り上がっている眼下の光景から視線を剥がし、洛陽の方角へと視線を向ける。 考えてみれば――否、いまさら考えるまでもなく、俺が一軍を率いる将帥、すなわち一部隊の指揮官ではなく、その軍の総指揮権を握る立場になったのは高家堰砦の戦い以後、はじめてのことである。 そのせいだろうか。こうやって城壁の上に立つと、否応なく淮南の戦のことが思い出された。あれ以来、自分なりにではあったが、玄徳さまたちに近づけるように努めてきた。だが、その努力が実を結んだ、と実感できたことはついぞない。 あの時、淮南の地で気づき得たことを、今の俺は活かせているのだろうか。主将になってからというもの、そんな答えの出ない疑問が時折脳裏をよぎる。 ふと視線を感じた。 見れば、司馬孚がいまだに俺をじっと見つめている。まださっきのくしゃみを心配しているのかと思ったが、その視線は俺を案じるというよりも、何か不思議なものを見るような色合いを帯びていた。「どうした? なにか気になることでもある?」 気になって問いかけると、司馬孚ははっと我に返ったように目をぱちくりとさせ、慌てたように頭を下げた。「あ、い、いえ、すみません、なんでもないですッ」「なんでもない、という風には見えなかったんだが?」「あ、その、なんていうか……今、お兄様が別人のように見えたんです」「ぬ? そんな変な顔してた?」 俺が思わず顔に手をあてると、司馬孚はぶんぶんと首を横に振る。「そうじゃなくて、ですね……」 なにやら考え込んでしまった司馬孚を、俺は当惑したように見つめるばかりだった。特に人相がかわるような出来事に遭遇した覚えはないのだけれど。 俺が首をひねっていると、司馬孚は何故だか頬を紅くしながら、再度、口を開いた。「その、お兄様が張太守の後を継がれてから、ですね」「ふむ?」「時々なんですが、すごく、か――」 司馬孚は何か言いかけ、けふんけふんと咳払い。「じゃなくて、す、透き通って見えるんですッ」 透き通る。これまでの人生で、こんな形容をされたのは初めてだった。司馬孚の表情を見るかぎり、たぶん悪い意味ではないと思うが―― もう少し詳しく訊くべく、俺は口を開きかける。 だが、声を発する寸前、四度、眼下から歓声が湧き上がった。またまたまた司馬勢がポロで得点を決めたらしい――「というか、強いなッ?! 点取りすぎだろ?!」 口をついて出た言葉は、司馬孚への問いではなく、えらく調子の良い司馬勢への突っ込みじみた台詞に変じていた。 たしか昨日までの成績は陳留勢の方が良かったはずだ。しかも、俺の考案したポロ(偽)はそうそう連続して得点が入るものではない。それこそ徐晃なみの腕の持ち主が参加しているというなら話は別だが。 しかし、徐晃は現在偵察に出ており、虎牢関にはいない。一体何事がおきているのか、と俺は眼下の試合に注意を向けた。 自然、司馬孚の視線もそちらに向けられる。 俺たちが見ている間にも、陳留勢はけっこう必死の形相で司馬勢が守るゴールに襲い掛かっていく。皆、一目見ただけでわかるほどに見事な手綱さばきであり、おそらく陳留の騎兵の中でも優秀な者たちなのだろう。 だが、その彼らの連携を司馬勢はあっさり寸断し、さらに逆襲を仕掛けて追加点まで奪ってしまった。これで五点目である。今回、歓声があがらなかったのは、もはや勝負あったと見物人の多くが考えたからだろうか。 ともあれ、司馬勢の動きは実に見事だが、しかし、これが出来るなら、昨日までの戦績で司馬勢が陳留勢の後塵を拝しているのはおかしな話だ。 そんなことを考えているうちに、俺はふと司馬勢の中に見慣れない人物がいることに気がついた。 やや小柄な体格に、短い灰褐色の髪。城壁の上から見てわかる特徴はその程度である。厚い戦袍をまとっているので、男女の区別もつかん。いや、よくよく見れば、後ろ髪は短いが、左右の髪は肩のあたりまで伸びており、それを髪留めのようなものでまとめているので女性なのか。しかし、男性でも髪を伸ばしている人は結構いるし、やはり判断はつかなかった。 その人物は味方を鼓舞すべく大声を張り上げるでもなく、誰もが目を瞠る技を見せ付けているわけでもなかったが、敵味方の流れのようなものを掴むことが出来るらしく、攻撃においても、守備においても、要所要所に必ずといっていいほど顔を出し、味方を助け、敵の連携を断ち切っていた。その様は、なんというか、実に老獪だ。動きに躍動感があるから、たぶんけっこう若い人だと思うが――「あ、士則さんだ。めずらしいな、士則さんがこういうのに参加するなんて」 司馬孚が口にした人物が、俺が見ていたのと同一人物であるらしいと気づいたので、どんな人なのか訊いてみることにする。 すると、司馬孚は答えていわく。「士則さんですか? ええと、姓名が鄧範、字を士則という人で、元々は父さまの御者を務めていた方だったんですが、璧姉さまの推挙で司馬家の農政に関わるようになって、姉さまたちが許昌に移ってからは、わたしの補佐を――」 と司馬孚が説明してくれようとした矢先、徐晃が偵察から戻ったという報告がもたらされたため、この話はここまでになってしまった。 司馬孚と共に徐晃を出迎えるべく歩き出した俺は、このとき、司馬孚が口にした名前にどことなく引っかかるものを覚えており、後でもう一度司馬孚に話を聞こう、と考えていた。 だが、徐晃の報告を聞き、それどころではなくなってしまう。偵察に出た徐晃が発見したのは、洛陽方面から広範囲にわたって立ち上る土煙。そして、地軸を揺らすように此方へ向かって進軍を続ける多数の軍兵の姿であった。 その掲げる旗は『漢』と『李』の二つ。 疑いようもない。それは、洛陽の李儒の軍勢であった。