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No.18153の一覧
[0] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 【第二部】[月桂](2010/05/04 15:57)
[1] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(二)[月桂](2010/05/04 15:57)
[2] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(三)[月桂](2010/06/10 02:12)
[3] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(四)[月桂](2010/06/14 22:03)
[4] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(一)[月桂](2010/07/03 18:34)
[5] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(二)[月桂](2010/07/03 18:33)
[6] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(三)[月桂](2010/07/05 18:14)
[7] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(四)[月桂](2010/07/06 23:24)
[8] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(五)[月桂](2010/07/08 00:35)
[9] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(一)[月桂](2010/07/12 21:31)
[10] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(二)[月桂](2010/07/14 00:25)
[11] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(三) [月桂](2010/07/19 15:24)
[12] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(四) [月桂](2010/07/19 15:24)
[13] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(五)[月桂](2010/07/19 15:24)
[14] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(六)[月桂](2010/07/20 23:01)
[15] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(七)[月桂](2010/07/23 18:36)
[16] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 幕間[月桂](2010/07/27 20:58)
[17] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(八)[月桂](2010/07/29 22:19)
[18] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(九)[月桂](2010/07/31 00:24)
[19] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十)[月桂](2010/08/02 18:08)
[20] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十一)[月桂](2010/08/05 14:28)
[21] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十二)[月桂](2010/08/07 22:21)
[22] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十三)[月桂](2010/08/09 17:38)
[23] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十四)[月桂](2010/12/12 12:50)
[24] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十五)[月桂](2010/12/12 12:50)
[25] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十六)[月桂](2010/12/12 12:49)
[26] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十七)[月桂](2010/12/12 12:49)
[27] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(一)[月桂](2010/12/12 12:47)
[28] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(二)[月桂](2010/12/15 21:22)
[29] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(三)[月桂](2011/01/05 23:46)
[30] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(四)[月桂](2011/01/09 01:56)
[31] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(五)[月桂](2011/05/30 01:21)
[32] 三国志外史  第二部に登場するオリジナル登場人物一覧[月桂](2011/07/16 20:48)
[33] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(一)[月桂](2011/05/30 01:19)
[34] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(二)[月桂](2011/06/02 23:24)
[35] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(三)[月桂](2012/01/03 15:33)
[36] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(四)[月桂](2012/01/08 01:32)
[37] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(五)[月桂](2012/03/17 16:12)
[38] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(六)[月桂](2012/01/15 22:30)
[39] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(七)[月桂](2012/01/19 23:14)
[40] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(一)[月桂](2012/03/28 23:20)
[41] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(二)[月桂](2012/03/29 00:57)
[42] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(三)[月桂](2012/04/06 01:03)
[43] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(四)[月桂](2012/04/07 19:41)
[44] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(五)[月桂](2012/04/17 22:29)
[45] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(六)[月桂](2012/04/22 00:06)
[46] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(七)[月桂](2012/05/02 00:22)
[47] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(八)[月桂](2012/05/05 16:50)
[48] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(九)[月桂](2012/05/18 22:09)
[49] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(一)[月桂](2012/11/18 23:00)
[50] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(二)[月桂](2012/12/05 20:04)
[51] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(三)[月桂](2012/12/08 19:19)
[52] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(四)[月桂](2012/12/12 20:08)
[53] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(五)[月桂](2012/12/26 23:04)
[54] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(六)[月桂](2012/12/26 23:03)
[55] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(七)[月桂](2012/12/29 18:01)
[56] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(八)[月桂](2013/01/01 00:11)
[57] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(九)[月桂](2013/01/05 22:45)
[58] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十)[月桂](2013/01/21 07:02)
[59] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十一)[月桂](2013/02/17 16:34)
[60] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十二)[月桂](2013/02/17 16:32)
[61] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十三)[月桂](2013/02/17 16:14)
[62] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(一)[月桂](2013/04/17 21:33)
[63] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(二)[月桂](2013/04/30 00:52)
[64] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(三)[月桂](2013/05/15 22:51)
[65] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(四)[月桂](2013/05/20 21:15)
[66] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(五)[月桂](2013/05/26 23:23)
[67] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(六)[月桂](2013/06/15 10:30)
[68] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(七)[月桂](2013/06/15 10:30)
[69] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(八)[月桂](2013/06/15 14:17)
[70] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(一)[月桂](2014/01/31 22:57)
[71] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(二)[月桂](2014/02/08 21:18)
[72] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(三)[月桂](2014/02/18 23:10)
[73] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(四)[月桂](2014/02/20 23:27)
[74] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(五)[月桂](2014/02/20 23:21)
[75] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(六)[月桂](2014/02/23 19:49)
[76] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(七)[月桂](2014/03/01 21:49)
[77] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(八)[月桂](2014/03/01 21:42)
[78] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(九)[月桂](2014/03/06 22:27)
[79] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(十)[月桂](2014/03/06 22:20)
[80] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 青釭之剣(一)[月桂](2014/03/14 23:46)
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[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/03/29 00:57
 荊州南陽郡 新野


「――このゆえに百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
 新野城の一室で、城の主である劉玄徳は兵法書の一文を声に出して読み上げていた。自身が兵法を学ぶため――ではなく、傍らで眉を八の字にして書物を睨んでいる義妹に、わかりやすく説明するためである。
 劉備は傍らに座っている張飛に穏やかに問いかけた。
「鈴々ちゃん、わかるかな?」
「うー、わかんない。お姉ちゃん、なんで戦いに勝ったらいけないのだ? 突撃、粉砕、勝利はいけないことなのか?」
「うーんとね、いけないわけじゃないんだよ。ただね、実際に戦って勝つよりも、その戦いが始まる前に相手に負けを認めさせてしまえば、敵の人も味方の人も傷つかないで済むから、そっちの方が良いんだぞーって言っているの」
 劉備の説明を聞いても、張飛はむーとうなるばかりである。今ひとつ理解できないらしい。


「たとえば、そうだなあ……うん、鈴々ちゃんが山賊退治に出かけたとします」
「うん、鈴々、出かけたのだ」
 張飛はこくこくと頷いた。
「鈴々ちゃんの前にあらわれた山賊さんたちは言いました。『俺たちだって好きで山賊やってるわけじゃねえ。こうしないとご飯が食べられないんだ』」
「なら、ご飯をわけてあげるのだ! お腹がいっぱいになれば、悪いことする気なんてなくなるのだ!」
「――はい、鈴々ちゃん、よくできました」
 劉備がそういって張飛の頭をなでると、張飛は不思議そうに首を傾げた。
「ほえ?」
「『戦わずして人の兵を屈する』っていうのはね、相手の人と戦う前に、相手の人が戦う理由をなんとかしちゃうことなの。今のお話だと、山賊さんたちの目的はご飯なんだから、ご飯をあげれば戦わなくて済む。戦わなければ、鈴々ちゃんが怪我することはなくなるし、鈴々ちゃんが誰かを傷つける必要もなくなるよね」
 戦いには目的があり、目的を果たすために手段がある。戦闘はあくまで手段の一つ。食料を分け与えて懐柔することも立派な手段なのである。
「おー、なんとなくわかったのだッ」
 張飛はそう言うと、再び書物に目を向ける。すでに日は沈み、空には無数の星々が瞬いている。荊州に来る以前の張飛であれば、とうに寝台でいびきをかいていた時刻である。だが、今の張飛は真剣そのもの、といった様子で書物に目を向けており、まだまだ勉強を続ける気であることを言外に示していた。


 その後、しばらくの間、劉備による勉強会は続けられた。時折、眠たそうに目を瞬かせる張飛を見て、劉備は何度か「あとは明日にしよ?」と声をかけたのだが、張飛は頑固に首を横に振り続けた。
 だが、その頑張りもやがて限界に達し、いつか張飛はこっくりこっくりと船を漕ぎはじめる。隣に座っていた劉備がその小さな身体をそっと抱き寄せると、張飛は劉備の胸に顔を埋めるように身体をあずけてくる。その口からは健やかな寝息がもれていた。
 それを確認した劉備は、義妹の小さな身体を抱え上げ、自らの寝台へと横たえた。
 時々、むにゃむにゃとよく聞き取れない寝言を呟く張飛の寝顔を、劉備は暖かい眼差しで見つめていた。だが、そこには暖かさ以外に、ほんのわずかな痛みも混ざっていたかもしれない。


 荊州に――劉備の下に戻って以来、張飛は進んで書物を手に取るようになった。それ自体は否定されるべきものではない。むしろ喜ばしいことである。だが、張飛がこの行動をとるに至った原因に思いを及ばせれば、喜んでばかりはいられない。無理をしているのではないかという危惧を、劉備は振り払うことができずにいたのである。
 と、そのときだった。
「――玄徳さま、張将軍、よろしいでしょうか?」
 遠慮がちな声が扉越しに投げかけられる。声の主は劉備の良く知る人物だった。
「孔明ちゃん? うん、どうぞ」
「失礼します」
 そういって室内に入ってきたのは諸葛亮、字を孔明という少女だった。河北から始まる劉家軍の転戦を、主に文の面で支えてきた能臣である。
「お二人にお茶をお持ちした――んですけど、ちょっと遅かったみたいですね」
 寝台で「すぴー」と寝入っている張飛を見て、諸葛亮は困ったように微笑む。諸葛亮が手に持った盆には、湯気の立つ二つの茶碗が乗せられていた。



◆◆



 張飛を起こさないように部屋を出た二人は、軍議の間に場所を移した。
 劉備が窓際に立って外の景色に目を向けると、城壁上に盛大に炊かれた篝火が見て取れる。時折、城壁に映し出されるおぼろな影は、見張りに立っている兵士たちのものだろう。耳を澄ませば、眼下の街並みからも、警邏の兵士の整然とした足音が聞こえてくる。
 新野は仲との最前線であり、昼であれ夜であれ、警戒を疎かにすることはできない。劉備は内心で彼らの苦労をねぎらった後、部屋の中央に置かれた卓に戻った。
 そうして椅子に座り、ゆっくりとお茶を飲む。熱くもなく、ぬるくもない、ちょうど良い温度だった。
「ん、美味しい」
 ほにゃっと相好を崩す劉備を見て、卓を挟んで向かいに座っていた諸葛亮は嬉しそうに微笑むと、みずからも主君と同じようにお茶を飲み、ほぅっと息を吐き出した。
 新野に拠点を移してから――否、荊州にきたその日から、劉家軍の諸将は激務に追われる毎日を過ごしている。劉備にとっても、諸葛亮にとっても、この穏やかな時間は万金に優る価値を有していたのである。




 しばし後。
「張将軍のお勉強の進み具合はいかがですか、玄徳さま?」
 諸葛亮の問いに、劉備は誇らしげに応じた。
「順調だよ。鈴々ちゃん、とっても頑張ってるから、このままだと、じきに私がいなくても兵法書を読むくらいへっちゃらになるんじゃないかな」
 それは劉備の嘘偽りない本心だった。元々、張飛は個人の武勇が突出した猪突猛進型の将であったが、それは多分に本人の勉強嫌いによるところが大きく、張飛本人の頭脳の冴えが他人に劣っていたわけではない。張飛が本気になって学問と向き合えば、その吸収力は自分の比ではないだろう。劉備は本気でそう考えていた。


 そんな劉備を見て、諸葛亮も破顔する。
「ふふ、それは楽しみです。智勇兼備の名将の誕生までもう少し、ですね」
「うんうん、鈴々ちゃんが勉強を頑張ったら、鬼に金棒、虎に翼、愛紗ちゃんに青竜刀だよ」
「げ、玄徳さま、前二つはともかく、最後のは何ですか?」
「んー、むかし一刀さんが使ってた言い回しを真似してみました」
「あのあの、それだと関将軍が鬼や虎と同列になってしまうのですが……」
 はわわ、と諸葛亮が慌てたのは、その言葉を耳にしたときの関羽の反応を想像したからだろう。
 だが、当の劉備は落ち着いたものだった。
「愛紗ちゃんの耳に届いちゃったときは、発案者の一刀さんに対応を任せるつもりだから大丈夫。きっと何とかしてくれるよ」
 厄介事は丸投げします、と清々しく断言する劉備。それを聞いた諸葛亮は、思わず、という感じで目を丸くした後、口元をおさえて笑いをこらえなければならなかった。
「玄徳さま、図太く――こほん、たくましくなられましたね」
「あは、孔明ちゃんに褒められちゃった」


 そう言ってから劉備は小さく舌を出す。今のは冗談、という意味だろう。
 むろん、諸葛亮もそれとわかって乗っかっていただけである。
 ただ、諸葛亮は心のより深いところで安堵の息を吐いていた。どういう形であれ、ここにはいない者たちの名前を劉備が自然に口にしたということは、それだけ心理的な再建を果たした証拠である。それを確認できたことが嬉しかったのだ。
(やっぱり、張将軍の先生を玄徳さまにお願いしたのは正解だった、かな)
 諸葛亮はそんな風に思う。
 張飛が学問をしたいと望んだとき、最初に先生役に擬されたのは諸葛亮と鳳統であった。二人がそれを辞退して劉備を推したのは、張飛はもちろん、劉備のことをも考えた結果である。
 どういうことかといえば。
 徐州撤退戦での傷心が癒えきっていない張飛にとって、大好きな劉備が自身の先生になり、一緒にいられる時間が増えることは喜ばしいことだろう。勉強をすると同時に傷心を癒す効果も期待できる、というわけだ。
 一方の劉備にとっても、日々の激務から離れ、張飛に勉強を教えて過ごす時間は、つもりつもった心労を癒す意味で貴重なものとなるはずだった。休め、といってもなかなか頷いてくれない主君の健康を、小さな軍師たちはずっと気にかけていたのである。




「そういえば孔明ちゃん。士元ちゃんはどうしたの?」
 ややあって、劉備が不思議そうに問いかける。
「あ、雛里ちゃんなら、文和(賈駆の字)さんと一緒に、明日の演習――」
 と、諸葛亮が応じた時だった。
 不意に、部屋の外から慌しいざわめきが伝わってきた。何事か、と室内の二人が顔を見合わせ、椅子から立ち上がったその直後、部屋の扉が勢いよく開かれる。
 息せき切って走りこんできたのは、黒装束に身を包んだ刺客――ではなく、諸葛亮とほとんどかわらない小柄な体格をした少女、すなわち今しがた二人が口にしていた劉家軍のもう一人の軍師、鳳統だった。


「し、士元ちゃん?」
「雛里ちゃん、そんなに慌ててどうしたの?」
 劉備と諸葛亮の二人は慌てて鳳統の下に駆け寄る。鳳統は胸に手をあて、荒い呼吸を繰り返している。どうやら劉備らの姿をさがして、あちこち走り回っていたようだ。
 諸葛亮が背をなでてあげると、ようやく少し呼吸が落ち着いてきたらしい。鳳統は小さな口から、か細い声を発した。
「……あ、ありがとう、朱里ちゃん」
 そのかすれる声を聞けば、やはり鳳統が相当に急いで劉備たちを探していたことがわかる。劉備も、諸葛亮も、余計なことを口にせず、ただ鳳統が再び口を開くのを待った。


「……玄徳さま、宛から、報せが、参りました」
 鳳統の声がところどころで途切れているのは、その都度、息継ぎをしているからである。
 宛は南陽郡の中心都市であり、かつては袁術の本拠地でもあった。袁術が本拠を寿春に移してからは南陽郡太守の李儒がここを治めているが、依然、仲にとって重要な城市であることにかわりはない。
 その宛の軍勢、およそ三万が洛陽へと進発したのはつい先日のことである。これにより、仲国が洛陽の事変に深く関わっていることは明白となった。
 新野では、この宛の動きを好機と見る者もいたが、宛にはなお一万五千の軍勢が駐留しており、対する劉家軍は、新野で新たに徴募した兵を含めても五千あまり。宛の袁術軍のおよそ三分の一である。しかも、劉家軍の新兵はいまだ訓練の途中であり、実戦に用いることは難しいとくれば、出撃したところで勝機など見出しようがない。
 それゆえ劉備は軽挙を慎み、襄陽の劉表へと報告を送る一方、新野の守りを固めて様子見につとめているのである。


 その宛でさらに動きがあった、と鳳統は言う。
 それも鳳統ですら予想しえなかった大規模な動きが。
「宛の、軍勢が、さらに、洛陽へ向け、動き始めた、とのことです……その数は、一万五千を越える、と」
 それを聞いた諸葛亮は、思わず口を挟んでしまう。
「一万五千って、それじゃあ宛が空になっちゃうんじゃあ?」
「うん、でもね、朱里ちゃん、動いたのは軍勢だけじゃないんだよ」
 ようやく呼吸が落ち着いてきたらしく、徐々にではあるが、鳳統の口調がなめらかさを増していった。
「玄徳さま。袁術軍は、宛の街の人たちを、洛陽へ向かわせているそうです。従わない人たちは、財産を没収されて、ひどい時には命まで奪われている、と。さらに袁術軍は、おそらく街に人が残らないようにしたかったのでしょう、宛の各処に火を放ち、すでに街は炎に包まれているとのことです」


 その鳳統の言葉に、劉備と諸葛亮は息をのむ。
 南陽郡の中心都市である宛は多数の人口を抱えている大都市である。かつての洛陽、現在の許昌には及ばずとも、それに迫る規模であることは疑いない。
 その住民を無理やり洛陽へと移住させ、都市を破壊するなど正気の沙汰ではない。敵に追い詰められて滅亡寸前だ、とでも言うならともかく、現在、宛に攻め寄せている勢力などどこにもいないのである。
「そ、そんな、なんでそんなひどいことをッ?!」
 さすがに伏竜、鳳雛といえど、悲鳴にも似た劉備の疑問に答える術を持っていなかった。
 手元にある情報だけでは、敵の意図を読み取ることは容易なことではない。
 そもそも、この敵の行動に意図などあるのだろうかとすら諸葛亮は思う。何をどれだけ考えたところで、宛を崩壊させるに足る理由を見出すことはできないように思われるのだ。いっそ南陽太守が乱心した、という安易な結論こそが正解であるかも――と、そこまで考えたとき、諸葛亮の脳裏に引っかかるものがあった。


「……ねえ、雛里ちゃん」
「――朱里ちゃん?」
 諸葛亮の声に何かを感じ取ったのか、鳳統が真剣な眼差しで友の顔を見つめる。
「以前にもこんなことがあったよね。一つの都市を焼き払って、そこに住んでいる人たちを無理やり他の場所へ連れて行く――」
 それを聞き、鳳統が目を瞠る。
「……洛陽……仲穎(董卓の字)さんの時と一緒……?」
「あのとき、それを企んだのは仲穎さんの名前を借りた朝廷の人たちだったって、文和さんは言っていたよね。その人たちの大半は曹丞相に討たれたけれど、でも実際にあの策を考え出した人が誰かは判明していなかったはず」
「……策を実行した人たちは討たれたけど、考えた人は逃げ延びていた……?」
「うん、あんな酷い策を考える人が何人もいるとは思えないもの」


 あの愚挙によって洛陽は焼け野原となり、住民たちの多くは野に投げ出された。当時、洛陽にいた劉家軍はその混乱を目の当たりにしている。
 結局、彼らのほとんどは曹操によって許昌に招かれ、最悪の事態はかろうじて回避することができたのだが、あれは曹操の実力によって為された救済であり、劉家軍はそれにまったく関わることができなかった。洛陽の民を救うためにと駆けつけながら、ほとんど何ひとつ出来なかったあの無念は、劉家軍の者たちの胸に今も深く刻みこまれていた。
 諸葛亮もまた、あの混乱と惨禍を目の当たりにし、みずからの無力を嘆いた一人である。あの挙を再び繰り返そうとする者に対して、虚心ではいられなかった。


 諸葛亮はさらに言葉を続ける。 
 当時と今。その双方で、愚策を実行する側に名を連ねている人物がいる。
 かつて董卓の麾下にいたという策士。董卓を裏切って朝廷の陰謀にくみし、今、偽帝の下で中華に惨禍を広げているその人物の名は――
「南陽郡太守、李文優」
 深い確信をこめた諸葛亮の声に、鳳統もうなずいて賛意を示す。
 諸葛亮たちは実際に李儒と顔をあわせたことはない(と思っている)が、その為人は賈駆から何度か聞かされている。今回の件を主導していたとしても不思議ではない。


 ただ、気になる点もあった。
 李儒の主君である袁術がこんな行動を認めるのか、という点である。


 淮南征服において、仲が苛烈な方針を採ったことは広く知られている。しかし――
「……淮南での行動は、短期間で広大な領土を得るために、あえて強権的に、武力を前面に押し立てたって考えることもできる、よね」
 鳳統は考えをまとめるように呟いた。その是非はともかく、領土拡大という目的を果たす上で、あれも一つの手段ではあった。鳳統は袁術軍のやり方を肯定するつもりはないが、恐怖による征服、統制が時として効果を発揮することは理解している。
 だが、今回の件は仲にとって何一つ益しない。
 洛陽を確保しても宛を失っては意味がないということもあるが、それ以前に、仲が劉弁の即位を影で画策したのは、現在の漢王室を二つに割って許昌を混乱させる、という目的のためであったはずだ。そして、かなうならば、そこに各地の諸侯を巻き込んで、かつての反董卓連合を再現する――これは漢王室に叛旗を翻した『偽帝』では為しえないことなのである。


 しかし、今の時点で仲軍が洛陽をおさえてしまえば、結局はすべて仲の策動によるものだ、と満天下に公表するに等しい。仲はこれまで積み重ねてきたものをみずから捨て去ろうとしているのだ。しかも重要拠点である宛を焼き捨ててまで。
 今回の件、仲にとって益がないと表現するのは正確ではない。仲にとって損しかない、と表現するべきであろう。
「ということは――この件は寿春の人たちが画策したことでもなければ、許可したことでもない」
「もしかしたら、一番驚いているのは、寿春の人たちかもしれないね……」
 答えにたどりついたのだろうか。諸葛亮と鳳統は顔を見合わせ、うなずきあった。


 一方、それまで黙って二人のやりとりに聞き入っていた劉備は、まだ首を傾げている。
「え、えーと、つまり?」
「今回の件は、おそらく南陽郡太守の独断です。いえ、ここまで踏み切ったということは、もう独断というよりは自立へ向けた動き、というべきかもしれません」
 諸葛亮に続き、鳳統も口を開く。
「……宛の兵やお金、物資を住民ごと洛陽へ持ち込む。今の洛陽の状況から推して考えれば、李儒という人に対抗できる兵力や財力を持った人物はいない、と思います。先発の三万で洛陽をおさえ、宛の住民を迎え入れる用意を整える。荒廃したとはいえ、洛陽は漢の都だった都市ですから、数十万の住民を受け入れることは十分に可能です」
 そして、そこに南陽郡でかき集めた富を注ぎ込めば、ある程度の復興は可能だろう、と鳳統は言う。


「でも、そんなことしたら、寿春の人たちが黙っていないでしょう?」
 その劉備の疑問に、諸葛亮はわずかに面差しを伏せて応じた。
「おそらく、それに備えるために宛に火を放ったのでしょう」
「備えるため?」
「はい。南陽郡太守は仲からの離反を宣言したわけではありません。おそらく今後しばらくはしないでしょう。すると、今回の行動は寿春からの指示で行われた、と世間は受け取ります。もともと彼らの悪名は隠れもないもの、ほとんどの人たちはきっと疑問に思うこともないはずです」
 当然、南陽郡の住民は、昨日までの支配者に対して強烈な敵愾心を持つ。仲が軍勢を送り込んでも、容易に従おうとはしないに違いない。
 寿春の君臣は宛の放棄が李儒の独断であることを知っているわけだが、重要な戦略拠点である南陽郡を任せていた太守が離反した、などと公言すれば、国の内外に与える影響は計り知れない。それに、仮に公言したとしても、李儒が素直にそれを認めることはないだろう。かえって仲の廷臣が罪をかぶせてきたとして、独立の名分にしてしまうかもしれない。


 また、宛の放棄は別の意味でも李儒にとって利益となる。
 中心都市である宛を失えば、南陽郡内の混乱は必至である。それは境を接する国々にとって千載一遇の好機となる。たとえ宛が失われても、南陽郡が依然豊かな土地である事実はかわらないからだ。
「……もっとはっきり言えば、南陽郡をめぐって、許昌と荊州が争うのを期待しているんだと思います。いえ、期待ではないですね。ここまで思い切った手を打ってきた以上、すでに許昌と荊州を使嗾していると見るべきでしょう」
 その諸葛亮の言葉を聞き、劉備はあることに気づいて目を見開いた。
「あ……このまえ、薔(劉琦の真名)ちゃんが言っていたのって」
 先日、劉琦に呼び出された劉備は、そこで寿春からの使者が襄陽にやってきたことを知らされた。ただし、これは極秘であり、主だった荊州の臣下にさえ秘されていたという。


 諸葛亮はこくりと頷いた。
「はい、おそらくは。これは何の証拠もない想像になってしまいますが、実際は寿春からの使者ではなく、宛からの使者だったのではないでしょうか」
 李儒が謀反を起こし、洛陽に拠点を据えるならば、荊州にとっては南陽郡を奪取する絶好の機会である。使者がその用件でやってきたのならば、極秘であった理由も理解できる。
 おそらく、李儒の使者は劉表ではなく、蔡一族に会いに来たのだろう、と諸葛亮は推測していた。
 蔡一族が今回の件をあらかじめ承知していたとすれば、間もなく新野の劉備軍に対して南陽郡攻略の命令が伝えられるはずだ。新野の兵を用いれば、荊州軍の被害をおさえることが出来る。そして劉備軍は、遠からずあらわれる許昌の曹操軍との対峙を余儀なくされる。その間、荊州軍は後方で動かず、両軍が疲弊してきたところで――あるいは劉備軍が敗北してからおもむろに兵を出す。蔡一族にとっては邪魔者を始末すると同時に、豊沃な南陽郡を奪取できるとあって、笑いが止まらないことだろう。
 一方の李儒にとっては、これらの勢力が南陽郡でぶつかれば、仲の報復や許昌からの侵攻を恐れることなく、洛陽での勢力拡大に専心できる、というわけである……




 この諸葛亮の推測が正鵠を射ていたことは、およそ半刻後、夜闇を裂いてあらわれた襄陽からの使者によって証明される。
 西帝劉弁の蜂起に始まる洛陽起義。
 動乱は、その陰で幾多の思惑を蠢かせながら、群雄たちを巻き込み、さらに激しく燃え広がっていく。
 数えれば、徐州撤退戦より半年以上の月日が過ぎ去っている。劉家軍にとって、かつての過酷な戦いに優るとも劣らない苦闘の幕があがろうとしていた。





◆◆◆






 司州河南郡 洛陽


 洛陽北部尉。
 それは洛陽の北門警備、および都下の治安維持を司る役職である。かつてこの職にあった曹操は厳法をもって洛陽の風紀を正し、法を犯した者は貴賎官民を問わずこれを容赦なく罰した。その厳正な勤めぶりから『北門の鬼』などと称され、当時の有力者たちさえ北門を通り抜けるときは緊張を余儀なくされたという。
 それから数年。
 新たに洛陽北部尉の職を与えられたのは、曹操と同じ女性であった。わずか十三という年齢を考えれば、少女といった方が正確かもしれない。
 姓は司馬、名は懿、字は仲達。
 この少女が北部尉の職に就いた時、この人事が洛陽を中心とした動乱において一つの転機となることを予感した者は、誰一人としていなかったであろう。


 洛陽の宮廷で隠然たる力を持つ李儒が、司馬懿に北部尉の役職を与えたのには幾つかの理由がある。
 一つは単純に皇帝たる劉弁の願いをかなえるためであった。司馬家に恩義を感じている劉弁は、司馬懿の登用を願ってやまなかったのだ。
 李儒はこれを肯ったのだが、閑職を与えても劉弁が納得しないことは明白であり、かといって、年端もいかない小娘に政治や軍事の実権を授けるつもりなど更々ない李儒にとって、これは意外な難問となる。
 ややあって、李儒が思いついたのが北部尉の役職であった。
 北部尉は宮廷の序列的に見れば取るに足らない地位といえる。だが、治安を司る要職であることは事実であり、別の言い方をすれば、他者の目によりはっきりと成果が映る役職であるといえる。
 麒麟児とうたわれた司馬懿にとっては、宮廷で些事にこき使われるより、こちらの方がよほど適任であろう――李儒は劉弁に対してそう言上し、劉弁は繰り返し頷いたものであった。




 ただ、むろんというべきか、それは李儒の本心ではなかった。
 李儒にとって司馬懿個人は取るに足りない小娘に過ぎない。しかし、その姉である司馬朗は無視できない政敵であった。司馬家という名家の家柄もそうだが、司馬朗自身も柔和な外見とは裏腹に、官吏として怜悧な一面を持っており、許昌において塩賊を壊滅に追いやったことは夙に知られている。なにより、司馬朗は劉弁、何太后らとの繋がりが深く、彼らを傀儡としたい李儒にとっては、いずれどうあっても除かなければならない相手なのである。


 ゆえに、今のうちからこれを追い落とす口実をつくっておく――それが李儒の思惑だった。十三やそこらの少女が北部尉の職を完璧にこなせるはずはない。すぐに何かしらの失態を犯すであろう。
 司馬懿の失態は司馬家の失態であり、それは家長である司馬朗の失態となる。それが司馬懿を北部尉に就けた李儒の狙いであった。


 ただ、李儒はことさら司馬懿に失態を犯させるべく策動するつもりはなかった。
 それをする必要がないことを、よく知っていたからである。
 というのも、現在、北部尉にかぎらず、東西南北四尉の部下たちは、洛陽で徴発した男たちがほとんどであり、能力、士気、いずれも最低であった。彼らはほとんど街のゴロツキと大差はなく、いたるところで騒ぎを起こし、住民に乱暴を働き、街中での評判はすこぶる悪い。
 たとえ司馬懿本人が評判どおりの実力を持っていたとしても、配下がこれでは実力を活かしようもない。
 そうして、洛陽の住民たちの不満を限界近くまで高めたところで、機を見て司馬懿とその部下を切り捨てる。
 彼らの後任に据えるのは、李儒が呼び寄せた南陽軍である。前任者の評が悪ければ悪いほど、新しく着任した者たちへの期待は高まる。そして、これに応えてみせれば、南陽軍、ひいてはその長である李儒の声望は増していくはずであった。




 そんな思惑の下、朝廷からあたえられた北部尉の職を、司馬懿はとくに表情をかえるでもなく、無言で拝受する。そして拝受したその足で北門に赴くと、すべての人員を一堂に集めて新たな方針を示し、即日これを実行に移すことを宣言した。
 そうして一日が過ぎ、二日が経ち、三日目になる頃には、洛陽の街路を歩く役人たちは見違えるように職務に精励するようになっていた。あまりのかわりように、住民の中には気味悪がる者もいたほどである。


 このとき、司馬懿は奇をてらったことをしたわけではない。
 厳格な法をつくったわけではない。
 過酷な罰則を用いたわけではない。
 容姿や武芸をことさら見せ付けたわけでもない。
 司馬懿がしたことは二つだけ。配下の役人たちの働きぶりに対する評価を厳正にしたことと、俸給を日払いにしたこと。ただその二つだけであった。


 これまでは、真面目に働こうと、酒を飲んでさぼろうと、あるいは街中を歩いている女性に戯れようと、支払われる俸給はまったくかわらなかった。
 司馬懿はこれを改め、なおかつ俸給に関しては日払いへと変更した。職務に励めば、励んだ分はその日のうちに、目にみえる形となって返ってくるようにしたのである。
 ただ、いうまでもないが、北部尉の配下は十人や二十人ではなく、職務も多岐に渡り、働く場所もそれぞれに違う。これらすべての仕事ぶりを正確に把握することなど出来るはずはない、と司馬懿の部下たちは一様に考えた。


 だが、この考えはその日のうちに覆される。夕刻に支払われた俸給に文句をつけた者は一人もいなかったのだ。まるで、一日中、自分たちの仕事ぶりをつきっきりで監視していたのではないか、と思われるほどに司馬懿の評価は正確であった。おまけに、一日の寸評(良い点、悪い点をしっかりと分けて書いてあった)まで付記されており、これまたぐうの音も出ないほどに正確なものばかり。
 司馬懿の部下たちはあちこちで声をひそめて語り合った。


「新しい隊長は本当に人間かね? ありゃあ仙女とか物の怪とか、そういった類の人じゃねえかな」
「そりゃあどっちも人とは言わんじゃろう。まあ言いたいことはわかるがの」
「細かいことはいい。今重要なのは、隊長が独り身かどうかってことだッ」
「……なにか、すごい勢いで話がずれたな、今」
「あの器量じゃ。若い連中が目の色を変えるのは当然じゃろうて。しかしまあ、司馬家のご令嬢という話だ、許婚の一人や二人おるだろうし、たとえいなくても庶民にゃあ高嶺の花じゃろうよ」
「なら、俺が出世すれば問題ないってことだよな! 警邏にいってくるッ」
「あ、おいッ……行っちまったよ」
「青春じゃのう、かっかっか」


 このように部下たちの話題は新隊長のことでもちきりだったが、その評判は概ね好意的なものであった。
 衆にすぐれた容姿ゆえに話しかけるのには勇気がいるが、いざ話してみれば、愛想こそないものの受け答えは丁寧かつ明晰であり、地位を笠に着る様子もない。部下の名も一度で完璧に覚え、決して間違わないあたり、目下の者たちへの心遣いは、これまでの上官たちとは比較にならなかった。
 そして、一日でも司馬懿の下で働いてしまえば、そのやり甲斐は先日までの比ではない。厳正な評価と、その評価を形にした日払いの俸給。司馬懿が部下たちに提示したのはこの二つだけであったが、この二つだけで十分だったのである。


 この時点で、大半の者は司馬懿の指揮に従うことを選び、その数は日をおうごとに増えていくばかりであった。
 ただ、当然のように全員が司馬懿を認めたわけではない。これまでのぬるま湯のような日々を望む者たちも少なくなかった。
 一日、彼らの中でも特に過激な者たちが、夜間、帰途についた司馬懿を取り囲んだ。
 男たちの数は十人あまり。首謀者の男は刃物をちらつかせながら、居丈高に司馬懿に詰め寄って声を張り上げたが、司馬懿の方はまるで動じた様子を見せず、脅し文句にも淡々と応じるばかり。
 その姿を見れば、司馬懿が周囲を取り囲む男たちに何の脅威も感じていないのは明らかで、腹を立てた男の一人が後ろから乱暴に司馬懿の肩を掴もうとした。
 だが、次の瞬間、男の身体は綺麗に宙を舞っていた。鈍い音と共に、男の身体は地面に叩きつけられる。
 苦痛のうめきをあげる男の傍らで、司馬懿は静かに口を開いた。


「――私に触れていいのは、私が許した人だけです」


 その口調は冷静そのものであったが、その冷静さが逆に男たちに火をつけてしまう。首謀者も周りの男たちを煽り立て、たちまちのうちに周囲は騒然とした気配に包まれていった。



 しばし後。
 司馬懿を取り囲んだ男たちは、全員がその場に倒れ伏していた。
 逃げ出すこともできずに地面でうめく彼らの姿を、司馬懿はじっと見つめていたが、やがて彼らが動けるようになると、ついてくるように、と一言いい置いてさっさと歩き出してしまう。
 残された者たちは呆然とするしかなかった。中には好機とばかりに逃げ出した者もいたが、大半は司馬懿の言うことに従った。恐れ入ったというよりは、もうどうにでもなれ、と捨て鉢になったのである。
 ――ただ、彼らの中で一人、首謀者の男だけは他の男たちと異なる視線で去り行く司馬懿の背を追っていた。司馬懿が振り返れば、その男の目に鍛えあげた刃物にも似た鋭利な光が瞬いていることに気づけたかもしれない。
 だが、男はすぐにその輝きを晦ますように面差しを伏せ、他の男たちに混じって司馬懿の後を追ったため、その事実に気づいた者はいなかった。
 この後、襲撃者たちを自邸へ連れ帰った司馬懿は、そこで酒食を提供し、それが終わると彼らを咎めることなく帰宅させた。何がなんだかわからないまま家に戻った男たちは、翌日、自分たちが北部尉の側近に取り立てられていることを知り、放心して立ち尽くすことになる。



 司馬懿は彼らの首謀者、名を張晟という人物を副官に取り立て、討捕(犯罪者を討ち、捕らえる)の責任者に据えた。
 この張晟の抜擢は、本人たちはもとより、周囲の人間をも驚かせた。司馬懿に対する不満を公言してやまなかった張晟とその取り巻きが、司馬懿の側近に収まってしまったのだ。何事が起きたのか、と首をひねるのは当然であったろう。
 中には司馬懿に再考を促す者もいたが、司馬懿は進言には感謝したものの、進言それ自体をとりあげることはせず、張晟らを予定どおりみずからの傍に置いた。
 そして、これでもか、とばかりに諸事に扱き使ったのである。


 ――いや、これは正確な表現ではないかもしれない。司馬懿はことさら彼らを酷使しようとしたわけではないのだから。
 ただ、司馬懿自身の仕事量が尋常ではないために、それを補佐する側近たちの仕事も多忙にならざるを得なかっただけのことであった。
 張晟らにしてみれば仕事を放棄することは簡単だが、それをすれば次はないことはわかっていた。司馬懿がそう警告したわけではないにせよ、襲撃の件で生殺与奪の権を握られたも同然の彼らとしては、そう考えざるを得ない。
 結果、彼らは司馬懿の下で日々激務に追われることとなり、不穏分子であった彼らをあっさりと従わせた司馬懿に対し、彼ら以外の部下たちも尊敬を新たにしたのである。


 かくて、若すぎる北部尉の権威は急速に確立されていき、それにともなって洛陽の治安は北門を中心として劇的な改善を見せるようになる。新たに着任した黒髪の北部尉の話題は街のいたるところで語られるようになり、司馬仲達の名は瞬く間に洛陽中に広がっていった……




◆◆




 その日、めずらしく時間が空いた司馬朗は、宮廷から自宅に戻るや、手ずから腕をふるって夕飯の支度をした。このところ宮廷に詰めきりであったため、包丁を握る機会のなかった司馬朗は、これまでの鬱憤を晴らすかのように大量の料理をつくって妹の司馬懿をあきれさせた。とてものこと、屋敷の中の者たちだけで食べきれる量ではなかったのである。
 もっとも司馬朗はさして気にする様子もなく「残った分は、包んで璧の部下の人たちに配ってあげれば問題はないでしょう」といって、あっさりと問題を片付けてしまった。どうやらはじめからそのつもりであったらしい。


 夜、司馬懿が淹れてくれた食後のお茶を飲みながら、司馬朗はふと何かに気づいたように周囲を見回した後、妹に声をかけた。
「そういえば、馬将軍はどちらかしら?」
「部屋に戻られました。食べ過ぎて動けない、とのことです」
「あら、そうだったの。涼州の人たちの口にあったかどうか心配だったのだけれど」
 姉の眉が心配そうにたわめられるのを見て、司馬懿は食後の馬岱の姿を思い起こす。おなかをぱんぱんに膨らませ、苦しそうな、それでいて幸せそうな笑みを浮かべていた姿を。


「――口にあわなかった、ということはないと思います、姉さま」
「そう、璧(司馬懿の真名)がそういってくれるなら大丈夫ですね。あなたはこの屋敷で一番将軍と親しいのですから」
「一番かどうかはわかりませんが、将軍とは親しくさせてもらっています」
 ありがたいことです、と言って司馬懿は茶碗を手に取り、香気を楽しむようにゆっくりと口をつける。
 昼日中から無頼の徒が幅を利かせ、盗み、恐喝、さらには刃傷沙汰までがめずらしくなかった洛陽の治安は大きく改められようとしている。その中心に司馬懿がいることは万人が認める事実なのだが、のんびりとお茶を飲む今の司馬懿を見て、それと察することが出来る者はなかなかいないであろう。



 そんな妹の姿を見て、司馬朗はふと先日のことを思い起こした。
 司馬朗と司馬懿は、兵や財はすべて司馬孚に残して洛陽にやってきた。つまり治安の改善に司馬家の私財を投じるのは不可能ということである。司馬懿は与えられたわずかな予算と、士気の低い部下たちをもって短時日で成果を挙げてみせたことになる。
 一体どんな手段を用いたのか、当然のように司馬朗は興味を持った。
 その司馬朗の問いに対し、司馬懿は特に隠すこともなく、自分がとった方策を説明した。
 法を厳しくするでもない。罰則を強めるでもない。ただ正確に仕事ぶりを評価し、早期に俸給を支払うようにしただけだ、と。


 それを聞いたとき、司馬朗は納得すると共に、一つの疑問を覚えて首を傾げた。
 司馬懿はこれまで司馬家の臣下以外の者を指図したことはない。少なくとも、司馬朗が知るかぎりはそのはずである。それにしては、半ば流民に等しい洛陽の役人たちを統御する手並みが鮮やかだ、と思えたのだ。迷いがないと言おうか、試行錯誤した様子もない。
 誰かに助言を請うたのだろうか。司馬朗はそう思い、その旨を訊いてみた。
 すると、司馬懿は姉とそっくりな仕草で首を傾げ、こんなことを口にしたのである。


「助言をいただいた、というわけではありません。ただ、以前にある方からうかがったことを参考にしたのは事実です」
「それはなにかしら?」
「『女性の前では良い格好をしたい――それが男というものなのです』」
 しごく真面目に答える司馬懿の前で、司馬朗は二、三度、目を瞬かせた。そんな姉の様子に気づかず、司馬懿は言葉を続ける。
「これは男児たる者の沽券に関わる重大なことだそうです。以前、螢(司馬孚の真名)も言っておりました。女性は殿方を立てるものだ、と。そして、北門の役人や兵士はほぼすべてが男性です。まずは彼らを尊んでいることを示すことが必要だと考えた次第です」
「なるほど、そういう意図だったのですね」
 ふむふむ、と司馬朗は頷いた。どうも司馬懿の取り組みの意図と、実際の成果には若干のずれがあるような気がしないでもないが、結果としてうまくいっているのだから別にかまわないでしょう、と結論づける。


 ただ、気になることがないわけではなかった。
「ところで、璧」
「はい、姉さま、なんでしょうか?」
「あなたの前で、今の台詞を口にした殿方はどなたなのかしら?」
 年端もいかない少女の前で口にするには、なかなかに勇気がいる台詞である。
 姉の問いに、司馬懿は率直に応じた。
「北郷どのです」
 その名は司馬朗の近い記憶にあった。かつて許昌で共に食卓を囲んだ青年の姿を思い起こしながら、司馬朗は小さく微笑む。
「そう、あの方が……ふふ、存外お茶目な人だったのですね、劉家の驍将さまは」


 司馬懿は姉の北郷評に特に異は唱えなかった。その表情や仕草からは、何一つかわった様子は見て取れない。
 ただ、その内心はどうなのだろう、と司馬朗は考える。発言を覚えているだけならばともかく、任務において参考にするということは、妹の心中で北郷の存在がある程度の重みを持っていることを意味するのではないか。
 そんな人物と敵対する側に身を置く境遇が快いものであるとは思えない――と、そこまで考えて、司馬朗は内心でかぶりを振った。このことについては、もう何度も話し合っている。今、ここで蒸し返したところで、妹を困惑させるだけだろう。そう考えたのである……




「姉さま、どうかなさいましたか?」
 司馬懿の怪訝そうな声で、司馬朗ははっと回想から立ち返った。
 なんでもない――そう言いかけた司馬朗だったが、思い直したように口を開く。
「この前、璧に仕事のことを聞いたでしょう? その時のことを思い出していたの」
「そう、ですか」
 応じた司馬懿の言葉は、めずらしく歯切れが悪かった。このところ宮廷に詰めきりであった姉の体調を案じているのだろう。司馬懿の気遣わしげな視線に応えるように、司馬朗は小さくうなずいてみせる。
「久しぶりにたくさん料理もつくれてすっきりしましたし、今日は早めに休ませてもらうつもりですよ」
「はい。ぜひ、そうなさってください」
 司馬朗の言葉を聞き、司馬懿はわずかに表情を緩める。だが、なおも自分を見つめる姉の視線に気づいたのだろう、怪訝そうに目を瞬かせた。
「姉さま?」
「ただ、休む前にあなたに伝えておきたいことがあります、璧」
 これが姉の本題だと察したのだろう。司馬懿は真摯な表情で司馬朗に向き直った。


 その司馬懿に向け、司馬朗はゆっくりと語り出す。
「汜水関、いえ、もう虎牢関といった方が正確ですね。虎牢関の曹操軍に、司馬家の軍が加わっていることは以前伝えましたよね――?」





◆◆


 


 司馬朗が部屋に戻った後、司馬懿は一人、屋敷の中庭にやってきていた。
 この屋敷は、かつての栄華の面影を残す洛陽でも数少ない場所の一つであり、中庭の情景もこれにならう。庭師が手入れした種々の草花、その葉や花弁についた夜露が、上空の月光を照り返して無数の宝石のごとく煌く様は、現在の洛陽の街路と見比べれば、これが同じ都市の光景なのかと目を疑うほどに鮮麗であった。
 しかし、司馬懿の目には眼前の光景はほとんど映っていない。その視線は頭上、煌々と輝く月へと真っ直ぐに向けられており、微動だにしなかった。




 司馬懿は、先刻、姉から聞いた話を思い起こす。
 司馬家は、家長であり長女である司馬朗、次女である司馬懿が共に洛陽の劉弁に従った。許昌の劉協にとって、これは裏切り以外の何物でもない。残された司馬孚たちは裏切り者の一族として厳しい糾弾に遭うはずだった。
 その司馬家の軍が前線に出てきた、と司馬懿が聞いたのは少し前のこと。司馬懿はすぐにその理由を悟った。許昌の朝廷が命じたのか、あるいは現在の家長である司馬孚みずからが望んだのかはわからない。しかし、司馬家の軍勢は、司馬朗、司馬懿の謀反の罪を贖うべく、前線に立ったのだろう。


 覚悟していたこととはいえ、この報せは司馬朗と司馬懿、二人の心に重石をのせた。だが、同時に、二人は心ひそかに安堵の息を吐いてもいたのである。
 というのも、司馬家の軍が出てきたということは、残された妹や一族が問答無用で族滅されるという最悪の事態は避けられたことを意味するからだ。その意味で、この報せは姉妹にとって凶報であると同時に吉報でもあった。
 むろん、司馬懿も、そして司馬朗も、その最悪の事態を免れるべく、洛陽にはしる前に幾つもの手を打っていた。だが、それにはどうしても限界があった。下手に動いて、そのことが表ざたになってしまうと、残った司馬孚たちまでが洛陽側に加担していると許昌の朝廷に疑われてしまうからだ。
 このため、二人は残される妹たち、とくに司馬孚に多大な負担をかけることを承知しつつも、彼女に後事を委ねざるを得なかったのである。



『今日、宮廷で、弘農の樊将軍に呼び止められたのです』
 先日、虎牢関で敗れた樊稠のことである。かろうじて洛陽へ逃げ延びた樊稠は、敗北が西涼勢の謀反によるものであると声高に主張し、人質である馬岱の処分を強硬に主張してやまなかった。
 樊稠が目の仇にしたのは西涼軍だけではない。司馬家もまた、その対象だった。これは馬岱の処分に対して司馬朗が異見を掲げたことが原因であったが、それ以外にも理由がある。
『緒戦、虎牢関に真っ先に寄せてきたのは、司馬家の騎兵部隊だったそうです。そして、虎牢関が陥落する際にも、司馬家の兵は攻撃に加わっていた、と樊将軍は仰っていました』
 つまり、樊稠にとって、司馬家は二度までも苦杯をなめさせられた相手なのである。樊稠が司馬朗を呼び止めたのは、司馬朗が洛陽陣営の情報を許昌に流しているのではないか、と詰問するためであった。


 樊稠の主張は次のようなものである。
 司馬家と西涼軍は裏で繋がりがある。だからこそ、真っ先に馬岱をかばおうとした。西涼軍が裏切りを働いたことは明白。ならば、その西涼軍と繋がりを持つ司馬家の叛意もまた明白。
 弘農勢の敗北は、司馬朗が洛陽や虎牢関の情報を敵に流した結果である――


 この樊稠の主張には何の証拠もない。証拠がないからこそ、宮廷で呼び止めるという手段でしか口に出来なかったのだ。
 司馬朗にとってはただの言いがかりに過ぎず、相手にする必要はないものだったが、一つだけ、聞き逃せない一言があった。
 樊稠の口から出た、司馬家の部隊を率いる者のことである。
『樊将軍によれば、司馬家の軍を指揮していたのは亜麻色の髪の女将軍だったということです。巨大な戦斧を縦横無尽に振り回し、その騎乗の術は西涼軍に優るとも劣らなかった、と』
 樊稠としては、あのような剛武の武将を残してきたのも叛意がある証拠であろう、と言いたかったのだろう。
 司馬懿はそれを察したが、それは司馬懿にとってどうでもいいことだった。重要なのは、司馬懿がその武将の容姿に心当たりがあることである。
 亜麻色の髪の女将軍。しかも戦斧を振り回し、西涼軍に優り劣りなき馬術の腕を持つ。
 司馬懿が知るかぎり、その特徴に合致する人物は一人しかいなかった。
 徐晃、字を公明という少女である。


 并州での動乱について、司馬懿からおおよその報告を受けていたる司馬朗も、そのことに気づいていたのだろう。さらにこう続けた。
『そして、虎牢関の戦いのとき、司馬軍を率いる徐晃どのの傍らに黒髪の青年の姿があったそうです。樊将軍の話では、西涼軍が降ったことを言明したのはこの青年だったとのこと。ために虎牢関の混乱は拡大し、洛陽で徴募した兵士たちは武器を捨てて降伏してしまい、弘農兵はやむなく虎牢関を捨てざるを得なかった――』
 後半に関しては樊稠の都合の良いように脚色されているだろう。しかし、それは青年の存在を否定するものではない。
 徐晃と共に戦いに参加し、口先一つで戦況を動かした青年とは誰なのか。



 考えてみれば、徐晃が司馬家の軍を率いているというのもおかしな話であった。
 徐晃は白波賊の長の娘であり、先の乱にも少なからず関与していた。それゆえ、罪を功績で贖うために前線に出てきたとしても不思議ではない。
 だが、徐晃が司馬家と行動を共にする理由はどこにもないのである。それどころか、謀反人を出した司馬家と行動を共にすれば、いらぬ誤解をうける羽目になりかねない。徐晃は守るべき弟妹を抱えており、無用の危険を冒すとは考えにくかった。


 だが、樊稠が挙げた人物の特徴を聞けば、司馬軍を指揮していたのは徐晃であるとしか思えない。
 であれば、異民族の血を引く少女と、謀反人を出した司馬家を結びつける『誰か』がいたことになる。
 その『誰か』は徐晃とも司馬家とも関わりを持っており、しかも双方から信頼を受けている者であるはずだ。そうでなければ、徐晃は指揮官になることを承知しないであろうし、司馬家の側も、異民族の血を引く少女を指揮官に迎えようとは考えないだろう。
 そして、その『誰か』とは、虎牢関で徐晃の傍にいたという黒髪の青年に他なるまい……




 月を見上げたままの格好で、司馬懿は静かに目を伏せる。
 『誰か』などと考える必要はない。そもそもの最初からその名は――北郷一刀の名は司馬懿の胸のうちにあった。
 だが、どうして北郷が司馬家の軍に加わっているのだろうか。
 劉家軍の朝敵の汚名が晴れた今、北郷には罪を功績で贖う必要はない。あえて司馬家の軍に加わる必要はどこにもないのだ。むしろそれは、ただでさえ不安定な北郷の立場をより危うくするだけの愚行に過ぎない。
 そのくらい、わからない人ではないはずなのに、と司馬懿は思う。
 だが、実際に北郷はその危険を冒してまで司馬家の軍に加わっている。その理由はなんなのだろう――?



 思いつく答えは一つだけ。
 けれども、それは――北郷が残された妹たちのことを救うべく動いてくれている、というその答えは、司馬懿にとってあまりにも都合の良すぎるものであった。
 司馬懿は北郷と行動を共にしている間、今回の挙兵の件を一言も話さなかった。話す機会はいくらもあったのに、そうしなかった。
 それはつまり、司馬懿は北郷を欺いていたということ。欺かれた北郷が、どうして自身を危難にさらしてまで、司馬懿や、その一族のために戦ってくれるというのか。そんなことは考えることさえおこがましい。司馬懿はそのことを痛いほどに自覚している。


 ――そう、自覚しているのに。
 ――どうしてわかってしまうのだろう。おこがましいと断じたその考えこそが事実なのだ、と。


「どうして……?」
 ささやくような問いが向けられた先は、司馬懿自身なのか。それとも虎牢関の北郷なのか。
 月光を映した草花の園で、ひとり佇む司馬懿の頬を、夜露によく似た雫が流れ落ちていった……




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