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No.18153の一覧
[0] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 【第二部】[月桂](2010/05/04 15:57)
[1] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(二)[月桂](2010/05/04 15:57)
[2] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(三)[月桂](2010/06/10 02:12)
[3] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(四)[月桂](2010/06/14 22:03)
[4] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(一)[月桂](2010/07/03 18:34)
[5] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(二)[月桂](2010/07/03 18:33)
[6] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(三)[月桂](2010/07/05 18:14)
[7] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(四)[月桂](2010/07/06 23:24)
[8] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(五)[月桂](2010/07/08 00:35)
[9] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(一)[月桂](2010/07/12 21:31)
[10] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(二)[月桂](2010/07/14 00:25)
[11] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(三) [月桂](2010/07/19 15:24)
[12] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(四) [月桂](2010/07/19 15:24)
[13] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(五)[月桂](2010/07/19 15:24)
[14] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(六)[月桂](2010/07/20 23:01)
[15] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(七)[月桂](2010/07/23 18:36)
[16] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 幕間[月桂](2010/07/27 20:58)
[17] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(八)[月桂](2010/07/29 22:19)
[18] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(九)[月桂](2010/07/31 00:24)
[19] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十)[月桂](2010/08/02 18:08)
[20] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十一)[月桂](2010/08/05 14:28)
[21] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十二)[月桂](2010/08/07 22:21)
[22] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十三)[月桂](2010/08/09 17:38)
[23] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十四)[月桂](2010/12/12 12:50)
[24] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十五)[月桂](2010/12/12 12:50)
[25] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十六)[月桂](2010/12/12 12:49)
[26] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十七)[月桂](2010/12/12 12:49)
[27] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(一)[月桂](2010/12/12 12:47)
[28] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(二)[月桂](2010/12/15 21:22)
[29] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(三)[月桂](2011/01/05 23:46)
[30] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(四)[月桂](2011/01/09 01:56)
[31] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(五)[月桂](2011/05/30 01:21)
[32] 三国志外史  第二部に登場するオリジナル登場人物一覧[月桂](2011/07/16 20:48)
[33] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(一)[月桂](2011/05/30 01:19)
[34] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(二)[月桂](2011/06/02 23:24)
[35] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(三)[月桂](2012/01/03 15:33)
[36] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(四)[月桂](2012/01/08 01:32)
[37] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(五)[月桂](2012/03/17 16:12)
[38] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(六)[月桂](2012/01/15 22:30)
[39] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(七)[月桂](2012/01/19 23:14)
[40] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(一)[月桂](2012/03/28 23:20)
[41] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(二)[月桂](2012/03/29 00:57)
[42] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(三)[月桂](2012/04/06 01:03)
[43] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(四)[月桂](2012/04/07 19:41)
[44] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(五)[月桂](2012/04/17 22:29)
[45] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(六)[月桂](2012/04/22 00:06)
[46] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(七)[月桂](2012/05/02 00:22)
[47] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(八)[月桂](2012/05/05 16:50)
[48] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(九)[月桂](2012/05/18 22:09)
[49] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(一)[月桂](2012/11/18 23:00)
[50] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(二)[月桂](2012/12/05 20:04)
[51] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(三)[月桂](2012/12/08 19:19)
[52] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(四)[月桂](2012/12/12 20:08)
[53] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(五)[月桂](2012/12/26 23:04)
[54] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(六)[月桂](2012/12/26 23:03)
[55] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(七)[月桂](2012/12/29 18:01)
[56] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(八)[月桂](2013/01/01 00:11)
[57] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(九)[月桂](2013/01/05 22:45)
[58] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十)[月桂](2013/01/21 07:02)
[59] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十一)[月桂](2013/02/17 16:34)
[60] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十二)[月桂](2013/02/17 16:32)
[61] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十三)[月桂](2013/02/17 16:14)
[62] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(一)[月桂](2013/04/17 21:33)
[63] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(二)[月桂](2013/04/30 00:52)
[64] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(三)[月桂](2013/05/15 22:51)
[65] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(四)[月桂](2013/05/20 21:15)
[66] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(五)[月桂](2013/05/26 23:23)
[67] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(六)[月桂](2013/06/15 10:30)
[68] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(七)[月桂](2013/06/15 10:30)
[69] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(八)[月桂](2013/06/15 14:17)
[70] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(一)[月桂](2014/01/31 22:57)
[71] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(二)[月桂](2014/02/08 21:18)
[72] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(三)[月桂](2014/02/18 23:10)
[73] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(四)[月桂](2014/02/20 23:27)
[74] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(五)[月桂](2014/02/20 23:21)
[75] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(六)[月桂](2014/02/23 19:49)
[76] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(七)[月桂](2014/03/01 21:49)
[77] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(八)[月桂](2014/03/01 21:42)
[78] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(九)[月桂](2014/03/06 22:27)
[79] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(十)[月桂](2014/03/06 22:20)
[80] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 青釭之剣(一)[月桂](2014/03/14 23:46)
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[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/03/28 23:20
 司州河南郡 洛陽


 かつては中華帝国の中心地として繁栄をほしいままにしていた洛陽の都。
 だが、中華の戦乱が深まるにつれ、その価値は下落の一途をたどり、昨今ではこれを治めようとする勢力もないままに、貧民、流民の巣窟と成り果てていた。
 この状況は、西帝劉弁の蜂起によって一度は改善の兆しを見せる。しかし、曹操軍によって虎牢関が陥とされたことが伝えられると、洛陽政権はもはやこれまでと見切った者たちは我さきに洛陽から逃げ出しはじめる。
 都を縦横にはしる街路からは一日ごとに人の姿が消えていき、都を包む空気は以前にもまして荒涼たるものになっていった。


 そして、それは街中に限った話ではなかった。許昌の現政権打倒を掲げた劉弁の下に集まった文武百官の中にも、洛陽から逃げ出す者は少なくなかったのである。否、むしろ彼らの方が庶民よりもはるかに嗅覚に優れており、朝臣の姿は一日ごと、一刻ごとにその姿を減らしつつあった。
 一日、朝会の場に姿を見せた何太后(劉弁の母)は、その場に集まった臣下の数を見て、傍らに控えた李儒に向けて悲鳴まじりの詰問を放つことになる。




「儒(李儒)よ! これはどうしたことぞ?!」
「どうした、と申されましても」
 何太后に甲高い声を浴びせられた李儒は、しかし眉一つ動かさず、冷静そのものの声で応じる。
「洛陽はもはやこれまで、と考えた者どもが逃げ出しただけのことでございます」
「それがわかっているのなら、何故手を打たぬ?!」
「打つ必要がないからでございますよ、皇太后さま」
「なに?」
 何太后は訝しげに眉をひそめて李儒の顔を見据える。
 その何太后に対し、李儒は丁重な態度を崩さないまま、自身の発言を説明してみせた。
「陛下が洛陽で蜂起してよりこの方、事態はさしたる進展を見せておりませぬ。都には金も物も集まらず、檄文に応じた諸侯はわずかに涼州の馬騰のみ。これでは話が違うと考えていた者も多かったことでございましょう。虎牢の陥落により、洛陽を守る盾が失われた今、陛下を見限る者が現れたとて何の不思議がございましょうか」
 利の匂いをかいで現れた者が、利の匂いが消えるや姿を消すのは道理である、と李儒は言う。今、洛陽はこの段階にあるのだ、と。


 それを聞き、何太后の眉がきりりとつり上がった。
 かつては皇帝の寵愛を得た美貌が、怒りと不満、そしてほんのわずかな恐怖に歪む。
 相手は皇帝の生母であり、皇帝はこの母親の意に逆らえない。下層から成り上がった出自ゆえか、何太后は感情の動きが激しく、時に怒りに任せて廷臣や宮女を処罰することがある。李儒にかぎらず、廷臣にとって不興を買うことは避けたい相手である。そのはずだった。
 だが、李儒は何太后の怒りを目の当たりにしながらも、大して気にかける様子を見せない。
 李儒は知っていたのだ。何太后はかつて巨大な権勢を握り、一度それを失った。再び失うことには耐えられないだろう、ということを。
 何太后の権勢、すなわち皇帝劉弁を支える柱は李儒であり、いかに驕慢な何太后とはいえ、その事実は無視できない。ゆえに、李儒は何太后の怒りを恐れる必要がないのである。
 また、仮に何太后がその事実を無視して李儒を排する行動に出るのなら、身の程を知らせてやるだけのこと――それが李儒の内心の呟きだった。


 とはいえ、そのつぶやきを公然と口にするのは、まだ時期尚早である。
 李儒は静かに言葉を続けた。
「利を求めて集った者が去った。それはつまり、今、洛陽に残っている者たちは、利ではなく忠義によって集った者、ということを意味します。彼らをもって新朝廷の基盤となせば、国家百年の大計を立てることもかなうでありましょう」
 その言葉を聞くと、何太后は表情をやや緩めた。
「ふむ……だが、人は残っても、人を活かす術がないではないか。都に金も物も集まらぬ、とはおぬし自身が口にしたことぞ」
 その指摘にも李儒は動じなかった。
「これまで表で、あるいは裏で私を逆臣だと非難していた廷臣の多くは宮廷を去りました。それはすなわち、私の力を存分にふるえる環境が整ったことを意味します。我が兵をもって洛陽を守り、我が富をもって都を潤せば、金も物もおのずと集まりましょう」
「それが出来るなら、なぜ最初からそうしなかったのじゃッ?!」
 再び苛立ちをあらわにした何太后が詰問するが、李儒はこれを故意に無視した。
 むろん、李儒の行動には相応の理由がある。だが、それをこの場で口にするつもりは毛頭なかった。
「今日までの停滞は、これすべて今の状況を現出させんがための布石です。どうかご安心くださいませ」


 虎牢関の陥落でさえ、無能不忠の廷臣を追い払い、李儒が表に出るための一手に変じた。すべては我が掌の上にある。今後もかわらず自分を信じてくれるように――そう言い放つ李儒。
 彼を見据える何太后の目には、不審の薄い膜がかかっていたかもしれない。
 元々、何太后は李儒に全面的な信を与えているわけではない。李儒は容姿だけを見れば秀麗そのものだったが、痩身を包む陰鬱とした空気は、他者の信頼を呼び起こすものではなかった。李儒の眼差しが底光りするのを見る都度、不快とも不安ともつかない思いが何太后の胸奥をよぎるのである。
 だが、何太后はその思いを表に出そうとはしなかった。その為人に気に食わない点があるにしても、自分を宮中の奥深くに閉じ込め、無視してのけた曹操をはじめとした許昌の廷臣たちに比べれば、李儒の方がずっと信頼するに足る。何太后はもう二度と宮中の虜囚になるつもりはなかった。




 しばし後。
「儒よ」
 沈黙をやぶって呼びかけたのは、何太后ではなく、その傍らにいた劉弁であった。
 痩躯である許昌の劉協と異なり、劉弁の身体はふくよかである。だが、肥満というほど肥え太っているわけではない。劉弁は母である何太后と異なり、為人に圭角を宿しておらず、李儒を見る眼差しは柔らかく穏やかなものだった。ただ、見る者によっては少し芯を欠く印象を受けるかもしれない。
「残った者たちを新たな朝廷の柱とする、ということは懿(司馬懿)を取り立てることもできるのだな?」


 それを聞いた李儒は、かすかに眉をひそめた。
「許昌にて北部尉を務めておられた伯達どの(司馬朗の字)はともかく、仲達どの(司馬懿の字)には何の実績もございませぬ。ましてやまだ年端もいかぬ女子、この場に席を与えられてもおりません。仲達どのに重任を授ければ、他の者から不平の声があがりましょう」
「む、む、そうか……しかし、歳若しとはいえ、司馬家の麒麟児として懿の令名はつとに知られておる。文武に長けた懿を用いぬは真に惜しいと思うのだが」
 李儒の反論にわずかな戸惑いを示しながらも、劉弁は司馬懿を推す。


 その皇帝の姿を見て、李儒は先日聞いた話を思い出した。劉弁と何太后は、先に洛陽で起きた乱の際、司馬家の先代当主である司馬防にかくまわれ、命を救われたのだという。
 あの乱では、当初は何太后も殺害されたと思われていた。それほどの大乱から救われた劉弁にしてみれば、ここでぜひとも司馬家の恩に報いたい、という気持ちが強いのだろう。
 何太后にしてもそれは同様か。そう見て取った李儒は、ここであえて司馬懿の登用に反対を続けることの無意味さを悟った。どのみち、十三、四の小娘ひとり、李儒にとってはどうでもいい存在なのだ。適当な役職を投げ与えておけば問題あるまい――そう判断すると、李儒は劉弁に対し、うやうやしく頭を垂れる。
「かしこまりました。具体的にどの任を与えるか、この場ではきとは申せませぬが、仲達どのがしかるべき役職に就けるよう取り計らいましょう」
「おお、そうしてくれるか。儒よ、よろしく頼んだぞ。懿も、それに朗も喜んでくれよう」
 劉弁は破顔して両手を叩く。
 その皇帝の姿を、李儒はじっと見つめていた。臣下が皇帝の顔をまじまじと見ることは失礼にあたる。ゆえにそれと悟られないように注意しながらではあったが、それでも李儒の視線が皇帝と、皇帝が座す玉座に向けられていたのは確かな事実であった。





◆◆◆





「ここにいるぞー!」
 洛陽城内の一画に、そんな声が響き渡ったのは、まだ日も昇りきっていない時刻のこと。
 荒廃した洛陽にあって、例外的に綺麗に整えられた家屋敷が立ち並んでいるこの一帯は、洛陽政権において高位を与えられた者たちの住居である。その声が聞こえてきたのは、その中でも特に豪奢な邸宅であった。ここは劉弁と何太后の意によって、司馬家に与えられた屋敷である。
 その屋敷の一室で、司馬懿、字を仲達という少女は、茶の入った二つの碗を盆の上にのせたまま、きょとんとした顔で目を瞬かせていた。
 その視線の先では、おそらく退屈だったのだろう、一人の少女がばっちりとポーズを決めた格好で凍り付いている。決め台詞の際のポーズの練習でもしていたのかもしれない。


 司馬懿はわずかの沈黙の後、盆を持ったまま首を傾げた。
「馬将軍がこの部屋にいることは存じ上げています」
「そ、そうだよね、仲達さんは知ってるよね! あはは、わたしってば何いってるのかなー?」
 そういって恥ずかしそうにわたわたと両手を振る少女の名を馬岱という。劉弁の檄文に応じて洛陽にやってきた西涼軍の一将である。
 馬岱は西涼軍が虎牢関に赴いた後も洛陽の朝廷に留まった。表向きはどうあれ、内実は人質であり、西涼軍謀反の報が届けられた今、その命は旦夕に迫っている――はずだった。
 だが、現在までのところ、劉弁は馬岱を斬る命令を発してはいない。これには幾つかの理由がある。


 朝廷で馬岱斬るべしの声があがった際、司馬朗をはじめとした一部の臣は、西涼軍謀反の報に疑念を差し挟んだ。西涼軍の主である馬騰、そして今回、軍を率いてやってきた馬超の人格的にも、また能力的にも、現時点で西涼軍が矛を逆さまにするとは考えられない、というのがその理由だった。
 あの二人が裏切りを働くとは思えないし、仮に本当に裏切ったとしたら、その被害が虎牢関一つで済むはずがない。西涼軍は洛陽の防備が薄いことを知悉している。馬超が真に洛陽に弓を引いたのならば、虎牢関を陥落させた後、間髪いれずに洛陽を直撃してくるだろう。
 だが、実際には曹操軍は虎牢関に留まり、洛陽に進撃する気配を見せない。まるで何者かの反撃を警戒しているかのように。


「虎牢関の主将は張孟卓どの。今、この地に、かの人物が警戒を余儀なくされるような軍があるとするならば、それは西涼軍に他なりません。これすなわち、西涼軍がいまだ我らと共に在ることの証左ではないでしょうか」
 この司馬朗の言はある程度の説得力をもって廷臣たちの耳に響いた。確かに西涼軍が降ったのならば、曹操軍が虎牢関でじっとしている理由はないのである。
 ただ、司馬朗の発言は状況を踏まえて構築した仮説にすぎず、確たる証拠があるわけではなかった。
 そのため、あくまで馬岱を処分すべし、と主張する者もいた。その筆頭は虎牢関で敗れた樊稠ら弘農勢である。彼らは自分たちの目と耳で西涼軍の謀反を確かめており(と彼らは信じきっている)、馬岱斬るべし、との声を緩めようとはしなかったのである。


 馬岱の処分を巡る両者の舌戦は、激しさを増していくかに思われた。
 しかし、事態は思わぬ形で終息する。


 虎牢関陥落以後、洛陽政権に見切りをつけた廷臣の数は少なくなかった。彼らの多くは洛陽から逃げ出す道を選んだのだが、中には一歩踏み出し、いっそ馬岱を救出して虎牢関へ駆け込もうとする者もいた。ただ逃げ出すよりは、その方が立身を望めると考えたのだろう。
 一日、彼らは徒党を組んで馬岱救出の挙に出る。
 しかし、彼らの思惑に反し、馬岱は洛陽から逃げ出そうとはしなかった。皇帝陛下よりたまわった自分の任は洛陽の警護であり、その務めを放棄する理由はない――そう言明し、逃亡者たちの差し出した手を払ったのである。


 感謝されるものと思い込んでいた逃亡者たちは数瞬の自失を余儀なくされた。だが、彼らは我に返るや、馬岱に現在の情勢を諭し、このままでは処刑されるのは必至であり、助かるためには自分たちと共に来るしかないと繰り返し述べ立てた。
 しかし、馬岱は頑として応じようとしない。
 怒りと焦燥に駆られた彼らは、ついには実力行使に及ぼうとするが、若年とはいえ馬岱はれっきとした将軍である。たとえ武器を取り上げられた状態であっても、易々と取り押さえられるはずがなかった。


 逃亡者たちは馬岱を取り押さえるどころか、かえって馬岱によって捕らえられ、そのまま朝廷に突き出された。
 この行動は馬岱の立場を明らかにすると共に、洛陽の廷臣たちに対して痛烈な皮肉を突きつけることとなる。言葉にして言ったわけではない。しかし、馬岱は行動によって問いかけたのだ。
 真の裏切り者は西涼軍か、それとも朝廷に仕える臣たちなのか、と。
 これにより、馬岱斬るべしと唱える声は一気に鎮火することになる。
 馬岱の名は、馬騰や馬超に比べればまだまだ無名といってよかった。だが、今回の毅然とした行動と決断により、心ある廷臣の中で馬岱という武将の評価は大いに高まった。
 西涼軍の向背はいまだ定かではないため、自由の身とするわけにはいかなかったが、宮中で幽閉しておく必要はなかろう、という劉弁の言葉にあえて反駁する廷臣はおらず、馬岱の身柄は司馬家が預かるという形に落ち着いたのである。



 ただ、当の馬岱は、自身の名があがったことに対してさしたる関心を示していなかった。
 その理由は、馬岱の次の言葉が明らかにしていたであろう。
「いやー、ほんと仲達さんの言ったとおりに事が進んだよねー。あたし、びっくりしたよ」
 椅子に座り、司馬懿が持ってきてくれたお茶をすすりながら馬岱がそう言うと、司馬懿もそれに応じて口を開く。
「馬将軍のお役に立てたのならば幸いです」
「でもさ、なんでああもぴたっとあの人たちの動きがわかったの? ひょっとして、あの人たちも仲達さんの掌の上だったり?」
 興味津々、という風に馬岱が卓の上に身を乗り出し、じっと司馬懿の顔を見つめる。
 馬岱が言う「あの人たち」というのは、言うまでもなく逃亡をはかった廷臣たちのことであった。


 司馬朗と異なり、洛陽の朝廷に席を与えられていない司馬懿は、馬岱をはじめとした西涼軍とは面識がなかった。ゆえに、宮中に幽閉されていた馬岱の下に、司馬朗を介して司馬懿からの手紙が届けられたとき、馬岱は少なからず戸惑い、さらに内容を見て驚きを禁じえなかった。
 そこには、近日中に馬岱をつれて洛陽を脱しようとする一団が現れること、これに従えば西涼軍と馬岱、双方の名が損なわれること、さらにそれを避けるための対応までが克明に記されていたからである。


 やや迷ったが、馬岱は司馬懿の提言に従い、結果として馬岱と西涼軍の疑いは一応は拭われた形となった。
 馬岱は当然のように司馬懿に感謝したが、西涼軍と縁もゆかりもないはずの司馬懿が、どうして馬岱のために動いてくれたのか、という疑問は残った。事態があまりにも司馬懿の想定どおりに動いたことも、不可解といえば不可解である。
 もしかすると、彼らもまた司馬懿にそそのかされて事を起こしたのではないか――馬岱がそう考えたとしても、さして不思議はないだろう。
 その疑問を口にした際、一瞬だけだが、馬岱の目に眩めくような光がよぎる。それは不信を示すものではなかったが、司馬懿に何らかの底意があれば、それを見逃すことはなかったであろう。


 天真爛漫なようでいて、奇妙に奥深さを感じさせる眼差しを向けられた司馬懿は、しかし、構える素振りも見せずにあっさりと首を横に振る。その面持ちは平静そのもので、問いかけに応じる声にはわずかの乱れもなかった。
「予測はしました。けれど使嗾はしていません」
 虎牢関が陥ちた以上、廷臣の動揺は避けられない。利を求めて集まった者たちが馬岱の存在に目をつけることは十分に予測できることであった。そして、馬岱の存在に目をつけた者たちがどういう行動を選ぶか、ということも。
 司馬懿にしてみれば、それは朝になれば日が昇ることを指摘するようなもので、つまりはもう予測ですらなく、時期を未来に設定した単なる事実の指摘に過ぎなかったのである。


 司馬懿の短い返答に感得するものがあったのか、馬岱は素直にこくこくと頷いた。元々、馬岱は悪戯好きではあっても、権謀術数の類を好むわけではない。腹の探りあいなど御免こうむりたい、というのが本音だった。
 馬岱の視線の先で、司馬懿は両手で卓上の茶碗を持ち、ゆっくりと口元まで運んでいる。馬岱の内心に気づいていないのか、あるいは気づいた上で気にかけていないのか、その動作から読み取ることは難しい。
 確かなのは、そんな何気ない仕草の一つ一つにまで華が感じられるということである。司馬懿は馬岱よりも三つばかり年が下とのことだが、その立ち居振る舞いを見る限り、とてもそうは思えなかった。


(うーん、お姉さまや鞘ちゃんとは、また違った美人さんだよねえ)
 従姉である馬超や、軍師である姜維の姿を思い起こしながら、馬岱はそんなことを考える。優れた容姿や、歳に見合わぬ威厳といった面では、あの二人とて司馬懿に劣るものではない。ただ、草原を駆けて育った彼女らと、洛陽や許昌といった大都市で育った司馬懿では、おのずから発する雰囲気が異なった。端的にいえば、司馬懿の方が格段にお淑やかなのである。


(ほんと、お姫様みたい。ま、ただ淑やかってだけの人じゃないんだろうけど)
 それは今回の件を見れば明らかだ、と馬岱は思う。
 廷臣から離脱者が出るのを予測しながら、司馬懿はなんら手を打とうとはしなかった。司馬懿自身に権限がなかったとしても、姉である司馬朗を通じて、離脱者の動きを封じることは可能であったにも関わらず、である。
 それはつまり、そうしたところで何の益もない、と司馬懿が見切っていたからだろう。この程度の劣勢で逃げ出す廷臣など洛陽には不要であるゆえに、離脱の動きを掣肘しようとはしなかった。
 一方、ただ逃げ出すだけにとどまらず、利のために今日までの主に仇なそうと企む者たちに対しては、しっかりと手を打っている。
 これにより、司馬懿は馬岱に恩を売り、西涼軍との繋がりを得た。そして――
(たぶん、あたしへの指示以外にも、色々と動いていたんだろうねー)
 何の証拠もないことだが、馬岱はそう確信している。西帝に仇なそうとした廷臣たちは、今後策動する余地を根こそぎ奪われているだろう、と。
 聞けば眼前の少女は、都でも麒麟児とあだ名されていたそうだが、なるほどと思わざるを得ない馬岱だった。



 その麒麟児は、暖かいお茶を飲みながら、淡々と言葉を続けた。
「虎牢関の動きを見れば、西涼軍謀反の報が誤りであるのは明らかです。馬州牧は諸侯の中でただひとり、陛下の檄に応じてくださった御方。その配下の方を、誤報をもって処断するようなまねをすれば、陛下の徳望が大きく損なわれてしまいます」
 そんな事態は避けたかった、と司馬懿は言う。そのために一石を投じただけだ、と。
 だが、それによって生じる波紋に対し、何の思惑も持っていなかったわけではない。司馬懿はそれをも率直に口にした。
「司馬家としては、陛下をお守りするため、馬家の皆様と手を携えて事にあたりたい。馬将軍に手紙を差し上げることが、そのための手蔓になるのではないか、と考えたことは事実です。また、私個人としても、皆様がどのような為人なのか、それを知る機会が欲しかった」


 司馬懿にならってお茶をすすりながら、馬岱も口を開く。
「そっかあ。やっぱり色々と考えてたんだね。ちなみにあたしと会った感想は……えと、やっぱりちょっと頼りないかな? お姉さまや鞘ちゃん――あ、これは軍師の姜維って人のことだけど、あの二人からも事あるごとにお小言もらってて……あたしなりに頑張ってるつもりなんだけど、あの二人がちょっと反則なんだよね。おば様(馬騰)やおじ様(鳳徳)もそうなんだけど、なんであたしの周りには普通の人がいないのかな。たぶん、同じ年頃の子に比べれば、あたしもけっこうイケてると思うんだけど、あの人たちの中だとねえ……」
 言っているうちに自分でへこんでしまったのか、馬岱の声が段々と小さくなっていく。


 司馬懿はそんな馬岱の様子を気にする風もなく、あっさりと、そしてはっきりと述べた。
「信頼するに足る御方である、と見受けました」
「……へ?」
 予期せぬ言葉に、馬岱の口から間の抜けた声がこぼれでる。
 しっかり伝わらなかったのか、と考えた司馬懿は、改めて同じ言葉を口にする。
「馬将軍は信頼するに足る御方である、と私は見受けました。仮の話ですが、もしもこの先、私と将軍が敵対するような事態になったとしても、私が先日の行動を悔いることはないでしょう。このようなこと、お訊ねするは汗顔の至りなのですが、私は馬将軍が苦境から抜け出すための一助となれたでしょうか?」
「え、う、うん。というか、仲達さんのおかげで助かったんだから、一助どころの話じゃないんだけど……?」
「そうですか。ならばそれは、私にとって生涯の誇りとなるもの。御身と面識を得た今の私の、それが正直な感想です」


 理解は、数瞬の戸惑いの後に訪れる。
 そのとき、馬岱を襲ったのは圧倒的なまでの羞恥であった。
 馬岱は西涼軍の将軍として、阿諛追従の言葉を投げかけられたことは何度かある。だが、それでも面と向かってこれほど激賞されたことは一度もなかった。
 しかも司馬懿の場合、追従を口にしているわけではない。それは馬岱にもはっきりとわかった。つまり、司馬懿は今の言葉を本気で口にしているのだ。どうして照れずにいられようか。
 もしこの場に馬超や姜維がいれば、満面を朱で染める馬岱という実にめずらしいものを見て、目を丸くしたことであろう。


「そ、それはちょっと褒めすぎじゃないかなー、なんて思うんだけど」
「そう、でしょうか? 私としては、正直に内心を吐露しただけなのですが、お気を悪くされたのでしたら謝罪いたします」
「や、気を悪くしたわけじゃなくてね、ただその、なんていうか無性に恥ずかしいというか……あ、ああ、お茶がおいしいなあッ」
 あくまで生真面目に返答する司馬懿を前に、馬岱は進退きわまって茶碗を抱え込み、その中身を飲み干して大げさに感嘆の声をあげる。誰が見ても照れ隠し以外の何物でもなかった。
 もっとも、現在の洛陽では茶を飲むのはきわめて贅沢な行為であり、つい先日まで幽閉同然の境遇に置かれていた馬岱は当然のように茶を飲むことが出来なかった。ゆえに、お茶がおいしいという言葉は嘘ではない。


 相手にもそれは伝わったのだろう。司馬懿は席を立つと、茶を飲み干した馬岱に向けて穏やかに言った。
「かわりをお持ちしましょう。少しの間、お待ちいただけますか?」
「あ、あはは、おかまいなくー」
 空になった茶碗を盆にのせて去っていく司馬懿の後姿を見やりながら、馬岱は小さく息を吐いた。それはため息ではなかったが、かぎりなくため息に近いものではあった。
 決して司馬懿を嫌いになったわけではない。むしろ好き嫌いでいえば好きの部類に入る。ただ、そういった好悪の感情とは別の次元で、司馬懿の為人には馬岱の調子を狂わせる一面がある。そのことを確信したゆえの吐息であった。







◆◆◆







 司州河内郡 虎牢関


「はァッ!」
「ぬァッ?!」
 徐晃の鋭い気合の声にわずかに遅れて、俺の焦ったような声が馬場に響き渡る。
 轟く馬蹄は二人が共に騎乗しているためであり、互いの得物が長柄の棒なのは、これが訓練であるためだ。
 ただ、訓練とはいえ徐晃の眼差しは真剣そのものであり、かぎりなく本気に近い力で打ちかかってきている。空を切り裂くように襲い来る棒の鋭さを見れば、それは明らかだった。
 訓練用の棒とはいえ、十分な重さと厚みがある。まともにくらえば骨の一本や二本は簡単に折れてしまうだろうし、頭部を一撃されれば、そのまま昇天してしまいかねない。
 ましてや、徐晃はその長柄棒を小枝のように振り回す膂力の持ち主である。その攻撃を防ぐ俺も必死にならざるをえなかった。


 それからしばしの間、あたりには馬蹄の音と、棒同士が撃ち交わされる重く乾いた音だけが響いた。
 しかし、それも長くは続かない。徐晃の剛撃を受け続けた俺の手はしびれ、すでに柄を握る感覚は失われつつある。そんな状態では、たとえ防御に専心しても徐晃の猛攻をしのげるはずもない。
「はッ!」
 気合の声とともに徐晃は横薙ぎに棒をふるう。風を裂いて迫る一撃を、俺はかろうじて防ぐことに成功する――が、その圧力に抗し切れず、鞍の上で大きくバランスを崩してしまう。
 ここで俺は体勢を立て直そうと焦るあまり、意図せずに左手に握った手綱を強く引っ張ってしまった。おまけに、なんとか踏ん張ろうと足にこめた力が馬腹を締め付ける形となり、騎手である俺の意をはかりかねた馬は混乱したように棹立ちになる。
 こうなると、必然的に俺の身体は鞍の上から投げ出されてしまうわけで――
「ぬわー?!」
 咄嗟に受身をとることもできず、俺は頭から地面に落下することと相成りました。




 しばらく後。
 関内に与えられている部屋に戻った俺は、申し訳なさそうに身を縮める徐晃と向き合っていた。
「ほ、本当に大丈夫ですか、北郷さん?」
「ああ、大丈……痛ッ」
 大丈夫、と言おうとしたとたん、後頭部からずきんと響いた鈍痛のため、つい苦痛の声をこぼしてしまう。心配そうに此方を見つめていた琥珀色の瞳が、瞬く間に罪悪感に染まっていった。
 それを見て、俺はあわてて咳払いして言葉を続ける。
「ごほん。大丈夫ですよ、ええ本当に大丈夫です。ぶっちゃけもう落馬には慣れましたし」
 前半は我ながら説得力皆無の言葉であるが、後半の内容に嘘はない。北郷一刀、これで都合十三回目の落馬である。


 ただ、案の定というか何というか、俺の嘘はばればれだったようで、我が馬上戦闘の師は俯いて肩を落としてしまう。
「すみません。私、人にものを教えたことってあまりなくて……」
「それを承知の上で頼んだのですから、気にしないでください。それに、ここだけの話ですが、雲長どの――関将軍の訓練に比べたら、公明どのの手ほどきは涙が出るくらいわかりやすいですから。いや、ほんとにありがたいです」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。なにしろ関将軍の訓練の要諦はただ一つ。身体で覚えろ、ですからね」
 劉家軍に加わった当初、あの鬼軍曹の訓練についていくのは大変だった。戦闘に出ないという条件の下で加わったとはいえ、それは訓練の免除にはつながらなかったのだ。
 その後、兵士の陳情処理をしていた時も、決まって関羽の訓練が厳しすぎるという苦情(というか悲鳴)が含まれていたしなあ……当時のことを思い出し、思わず遠い目をしてしまう俺だった。




 詳しく言葉にせずとも俺の苦衷は伝わったらしく、徐晃は何も口にしようとはしなかった。もしかしたら、いきなりどんよりとした雰囲気を漂わせ始めた俺に引いているだけかもしれないが。
「……まあ、効率的なやり方ではあったんですけどね」
 重いため息と共に俺がそう口にすると、徐晃は戸惑いつつも、こんなことを言ってきた。
「ならば私もそうした方が良いでしょうか?」
 俺が、間髪いれずに全力で首を横に振ったのは言うまでもないことだろう。


 一応いっておくと、別にシゴキが嫌というわけではない。
 ただ、関羽の訓練の肝は、戦闘技術の習得ではなく、雑多な義勇兵たちに対し、玄徳さまや関羽らの命令に対する服従を教え込むことにあった。そのためには『身体で覚えさせる』猛訓練も意味を持つ。
 だが、今回の場合、訓練の対象は俺ひとりであり、あえてそこまで苛烈な訓練を行う必要もない――というか、そもそも徐晃の訓練だって十分にシゴキの名に値するのだ。なにしろ『あの』徐晃と馬上で得物を合わせるのだから。
 本人が言うように、あまり他人に物を教えた経験がない徐晃は、必然的にほどよい手加減というものを知らず、本人の真面目な性格もあいまって、繰り出される一撃は速い、重い、巧いの三拍子がそろっている。訓練中に冷や汗をかいたことは一度や二度ではなかった。




 と、俺がそんなことを考えていると、当の徐晃がなにやら眉尻を下げている。
「本当にこんなので恩を返せているのかな……?」
「それはもう。というか、もう公明どのは俺の命の恩人なのだからして、むしろ俺の方が恩を返さなければならん立場なのですが」
 徐晃がいなければ、先日の戦いで鳳徳に討たれていた可能性は結構高い。俺はそのことを指して言ったのだが、徐晃は呟きを聞かれていたことに慌てながらも、なおも納得がいかない様子であった。
「あ、う……で、でも『飛雪』のこともありますし、まだ私の方が北郷さんに恩を返さなければならない立場ですッ!」



◆◆



 徐晃が口にした飛雪とは、先日の戦いの褒賞として俺に与えられた馬のことである。
 陳留郡の太守張莫の奇略によって虎牢関を陥落させた曹操軍は、虎牢関に蓄えられていた武具や資金、糧食といった物資をも無傷で手に入れることができた。そして張莫は、虎牢関を陥としたその日のうちに、配下の将兵にこれらの物資を気前良く分配したのである。
 軍勢の維持に必要な分は汜水関に蓄えてあるとはいえ、実に思い切りが良いと言わなければならない。予期せぬ褒美を得た兵士たちは大喜びで自らの主の剛腹さを称え、戦勝の喜びはいや増すばかり、関内の士気は目に見えて高まった。
 で、この際に下された褒賞の中に軍馬もあったのだ。


 虎牢関の厩舎には軍馬が何十頭と繋がれており、中には見るからに駿馬の風格を持つものもいた。
 訓練を積んだ軍馬は貴重なもの。特に駿馬と呼べるクラスの馬になると、いくら金を積んだところで手に入るとは限らない。
 飛雪はいわゆる葦毛の馬で、黒い肌を包み込むように淡い白色の毛が馬体を覆っている。一見すると、まるで雪中を駆け抜けてきたばかりのようにも見えた。明らかに他の馬とは一線を画する品格が感じられるあたり、おそらくは西涼軍の頭だった者たちの所有馬だったのだろう。
 この馬を狙っていた者は、俺も含めて相当数いたのだが、張莫の鶴の一声で俺に与えられることになった。曰く「先の戦いでの功績第一は北郷だからな」とのこと。その評には頷きかねたが、このときばかりは張莫の好意に甘えさせてもらった。ただ、陳留の人たちに恨まれるのは嫌だったので、恩賞としてもらった金銭の方は酒にかえてみんなに振舞っておくことにする。


 晴れて俺の所有となった飛雪をはじめて目にしたとき、徐晃は歎声を発してこう言った。
「……これは、たしかに皆さんが欲しがるだけはありますね。見事なものです」
 ほれぼれとした視線を葦毛の馬に向けた後、徐晃は俺に向き直ってにこりと微笑む。
「これはちょっと北郷さんがうらやましいかもしれません。これだけの馬は、草原でも滅多に見かけませんよ。大事にしてあげてくださいね」
「そうですね。ま、大事にするのは公明どのなんですが」


「……え?」
 俺の言葉に、徐晃が目を丸くする。
 しばし後、首をかしげて問いかけてきた。
「あの、北郷さん。今、なにか不思議なことを言いませんでしたか?」
「む? そんなに変なことは言っていないと思いますが」
 顔を見合わせる俺たち。
 徐晃は混乱したように重ねて口を開く。
「あ、あの、今の『うらやましい』というのは、別に譲ってほしいとか、そういう意味で言ったんじゃありませんからね?!」
「ああ、はい、それはわかってます」
「そ、そうですよね。なら私の聞き違い――」
 徐晃は胸に手をあて、ほっと息を吐く。
 その徐晃に、俺はあっけらかんと告げた。
「はじめから公明どのに差しあげるつもりでもらってきた馬ですから。さあ公明どの、この名馬を乗りこなし、存分に功績をあげてください!」
「ええッ?!」



 そう、自分のためならば、陳留の諸将の妬みや反感を買う危険を冒してまで駿馬を得ようとはしない。今の俺では到底乗りこなすことはできないし。
 だが、徐晃ならば、さほど苦労せずに乗りこなすことが出来るのではないか、と俺には思えたのだ。草原育ちの徐晃の馬術の腕は、西涼軍に優るとも劣らない。それは先日の戦いで証明されている。それに、許昌では張遼とほぼ互角にやりあってたしな。
「で、でも北郷さんだって戦場に出るのですから、良い馬は必要なはずじゃないですか?」
「馬に乗るのはともかく、馬に乗って戦うことが出来ないのは公明どのも知ってますでしょう。そんな人間に、こんな名馬はもったいないですよ。名馬は名将にこそ相応しいのです」
「め、名将って……」
 困惑と動揺をないまぜにしたような表情で、徐晃はおろおろと視線をさまよわせた。
 おそらく、徐晃としてもこの馬が欲しいという思いはあるのだろう。というか、普通はそう思う。なにせ目利きには程遠い俺でさえ、一目で違いがわかるほどなのだから。
 ただ、それほどの馬ゆえに、さしたる理由もないままに譲られるのは気がとがめる――徐晃の内心はこんなところだと推測できる。
 となると、その負担を取り除けば問題はなくなるわけだ。
 ならば、というわけで、俺は交換条件として徐晃から馬上での戦闘のイロハを教えてもらうことにしたのである。




 実のところ、これに関しては許昌にいたころから気にかけていたのだ。
 ただ、下手に俺が馬上戦闘の訓練などをはじめれば、すわ逃亡の準備か、などと疑われかねないために自重していたのである。木剣で打ち合う稽古と異なり、馬を用いる訓練はどうしても広い場所が必要となり、こっそり行うのは難しい。
 許昌を出てからはといえば、戦いやら陰謀やらでそれどころではなかった。
 だが、虎牢関ならばそういった問題は何もない――俺はそう考えた。西涼軍とぶつかってみて、改めて騎兵の利や、馬上戦闘に長けた者たちの恐ろしさがわかったという理由もある。


 徐晃は徐晃で「それくらい、頼まれれば交換条件なんか抜きで引き受けますけど」となおも抵抗を示したのだが、後は無理やり押し切った。ちなみに飛雪という名はこのときに徐晃自身がつけたものだ。
 おそらく馬の外見から連想して名づけたのだろうが、いささか安直な命名だという気がしないでもない。まあ、自分の馬に月毛と名づけた俺が、他人のセンスに口を出すのはどうかと思ったので、これは内心で呟くにとどめたが。



◆◆



 ――と、まあこんな一幕の末に、飛雪は徐晃の馬となったのである。
 恩を着せるために譲ったわけではないのだが、どうも徐晃はこれさえ恩の一つに数えてしまっているらしい。徐晃の義理堅い性格にはとても好感が持てるのだが、これはちょっと気にしすぎのような気がする。
 下手をすると、恩のために命を捨てかねない徐晃なだけに、そろそろ恩だの借りだのを介さない関係を築きたいところなのだが、さてどうするべきか。


 俺がそんなことを考えていると。
「ふむ、存外、北郷は冷たい男なのだな」
 その言葉を返してきたのは徐晃ではなかった。それまでは黙って茶をすすっていた張莫である。馬場から部屋に引き上げてくる際、なぜだかくっついてきたのだ。
 それはともかく、張莫の台詞は俺にとって心外なものだった。当然のようにその真意を問いただす。
「冷たいとは心外ですね、張太守」
「おや、恩を返すために同行する相手に対し、もう恩を返す必要はないと口にする。それはつまり、邪魔だからもうついてくるな、と言っているのと同義ではないのか?」
「……む」
「これを冷たいと言わずして、何を冷たいというのだろうか。私がそう考えても、別に不思議はあるまい」
 思わぬ方角からの攻撃に、俺はとっさに言葉に詰まってしまった。
 たしかに言われて見れば、俺の言葉にそういう側面があることは否定できない。むろん、俺にそんな意図は一切ないのだが、知らないうちに徐晃を傷つけてしまっていた可能性はある。張莫はそんな俺を叱責してくれているのか――と考えたのだが。



「まあ要するに、釣った魚にも餌はやれということだ、驍将どの。それでは後宮建設なぞ夢のまた夢だぞ」
 俺が一瞬で半眼になったことを、どこの誰が責められようか。
「……突っ込みたいところは多々ありますが、とりあえず後宮建設とか、何のことですか?」
「美髪公関雲長いわく『一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している』――だ、そうではないか。そうやって後宮候補を増やしている、と公明から聞いたぞ」
 じろり、と徐晃を睨むと、亜麻色の髪の少女はあわあわと顔と両手を左右に振った。頭の後ろで一つに束ねた髪も、左右にぶんぶんと揺れているのが微笑ましかったが、しかし、ここで追求の手を緩めるわけにはいかない。


 そんな俺の意思を悟ったのか、あるいは、いわれなき濡れ衣を晴らすためか。徐晃は慌てたように声を高めた。
「あ、いや、あの、解池で関将軍がそのようなことを言っていた、ということをお伝えしただけで、決して北郷さんが会う女性、会う女性を一生懸命篭絡して後宮建設に備えているなんて言っていませんからッ」
 それこそ一生懸命言い訳している徐晃の隣で、張莫はチェシャ猫のような笑いを浮かべる。
「一介の武将に可能な業とは思えんが、叔達への抱擁を目の当たりにした後では、あながち不可能な所業とも言い切れぬ。ゆえに助言の一つもしてやろうと思ってだな――」
「……ほう。つまり、汜水関での俺と叔達のやりとりも覗き見ていた、ということですね?」
「おお、これは失言だった。すまんな、公明」


 今度はじろりではなく、ぎろりと徐晃を睨む。
 その視線の先で、徐晃は身の置き場もない様子で顔を真っ赤にして俯いていた。が、黙っていることはできない、と判断したのだろう。消えるような声で詫びの言葉を口にする。
「……す、すみません。のぞいてました」
「……張太守はともかく、まさか公明どのが、ね」
 まあ十中八九、無理やり張莫に付き合わされたのだろうが、それでも意外ではあった。
「返す言葉もありません……」
「まあ、俺はかまいませんが、叔達には後日謝っておいてくださいよ」
「はい、そうします……」
 しょげ返った徐晃は力なく頷いた。あまりにしゅんとしてしまっているので、なんだか俺の方が罪悪感を覚えてしまいそうになる。




 ――と。
 ここで、張莫の口から耐えかねたような笑い声がこぼれおちた。俺と徐晃がいぶかしげに張莫を見つめると、当の張莫はさきほどと同じ笑いを浮かべながら、そんな俺たちを見つめ返す。
「そうしていれば、二人とも恩だの借りだの関係なく、普通にやりとりできるではないか。篭絡云々は、まあ冗談としても、別に改めて関係を築きなおす必要なぞあるまいが」
 その言葉に、俺と徐晃は思わず顔を見合わせる。まさか、今までのやりとりは、これを言うための布石だったのだろうか。


 しかし、張莫はその考えが正鵠を射ているのかどうかを確認する前にさらに言葉を続けていく。
「だがまあ、確かにお前たちのやりとりは堅苦しい。とりあえず呼び方からかえてみてはどうだ?」
「よ、呼び方、ですか?」
 戸惑ったような徐晃の声に、張莫は真面目な顔でうなずく。ただ、その目には、なにやら楽しげな光が眩めいているように見えて仕方ない。気のせい――ではなさそうだなあ。
「うむ。とりあえず公明の方は北郷の名を呼ぶようにしたらどうだ。『北郷さん』ではいつまでたっても他人行儀なままだからな」
「で、でも名を呼ぶなんて失礼では……」
 徐晃がちらと俺の顔をうかがう。これには張莫ではなく、俺が応じた。
「あ、いや、別にかまいませんよ。私にとっての名は、公明どのにとっての字みたいなものですから。関将軍もそうですが、子和(曹純の字)も『一刀』と呼んでいたでしょう?」
 ああそういえば、という感じで徐晃はこくりと頷いた。
 そして、ややためらった末、わずかに頬を赤らめて口を開く。
「……じゃ、じゃあその、これからは『一刀』でいいですか?」
「も、もちろんです」
「は、はい、じゃああの、そういうことで」
「ええ、はい、そういうことで」


 そういうことになりました。

 


◆◆





「と、ところで張太守はこんなところにいても大丈夫なんですか? いつ西涼軍が攻め寄せるとも限らないのに」
 照れたように視線をそらせる俺たちを見て、けらけらと笑っている張莫に対し、意趣返し――もとい、礼の意味をかねて注意を促す。
 だが、張莫はあっさりとこう切り返してきた。
「ああ、大丈夫だ。なにせ西涼軍は昨晩のうちに姿を消したからな」
『はい?!』
 はじめて聞く事実に、俺と徐晃の声が見事に重なった。


「さきほど偵騎が戻ってな。その報告によれば、西涼軍の痕跡は南方に向かっているとのことだ。山地を強引に突っ切り、南まわりで洛陽にもどるつもりのようだな。あるいは嵩山を南に抜け、南陽まで行くつもりか。いずれにせよ、道一つない峻険な地形を、ろくな兵糧もなしに踏破しなければならん。下手をすれば、山の中で兵馬もろとも餓死する羽目になるだろうな。いや、あえてこの方策を採るとは馬超も思い切ったものだ」
「……彼らを窮地に追いやった張本人が口にすると、すごく白々しく聞こえますね」
「おまけに苦労してたどり着いた先には、謀反人として処断される運命が待っているかもしれぬと思えば哀れですらある。ところで彼らを窮地に追いやった張本人の一人である北郷よ、今、何かいったか?」
「……いえ、何も申し上げておりません」


 俺はさりげなさを装って張莫から視線をそらす。
 そうして改めて考えて気づいたのは、西涼軍の撤退はさして意外なことではないのかもしれない、ということだった。
 戦闘のために虎牢関を出た西涼軍が多数の輜重を抱えていたはずはない。戦うにせよ、退くにせよ、西涼軍は糧食が尽きる前に行動しなければならない。兵力の上から見れば、曹操軍と西涼軍はほぼ互角であるが、曹操軍は虎牢関と汜水関という二つの要害で西涼軍の前後を塞いでいる状態であり、さらに後方の許昌には曹操率いる無傷の精鋭が控えている。この戦況で、しかも城攻めに向いていない騎兵を率いて、一か八かの決戦を挑んでくるほど西涼軍は無謀ではなかった、ということだろう。


 張莫も同様の考えのようで、今のはただの前置きに過ぎなかったようだ。
「もう一つ、洛陽に放った諜者からも報告がきてな。本題はこちらなんだ」
 そう言ってから、張莫は看過できない報せを口にする。
「洛陽の南西の方角から『仲』と『袁』、それに『李』の旗を掲げた一軍が近づいているらしい。確認できただけで二万。おそらく後続もあるだろうとのことだから、ざっと三万から四万といったところか。方角と軍旗からして、まず間違いなく南陽の李儒の軍勢だ。いよいよ、袁術が本格的に動き出したようだな」
 その言葉に、室内の空気がざわりと揺らめいたように思われた。
 いまさら言うまでもないが、曹操軍にとっての主敵は河北の袁紹と淮南の袁術である。その一人が本格的に動き出したと聞けば平然とはしていられない。


 ――だが、しかし。
 俺がかすかに眉をひそめると、張莫はめざとくそれに気づいたようだった。あるいは張莫自身も、とうに報告の不自然さに思い至っていたのかもしれない。自らの口で説明しなかったのは、こちらの知恵をはかるためか、ただ単に説明が面倒だったためか。
「何か気づいたようだな?」
 問われた俺は、考えをまとめつつ口を開く。
「先の報告では、呂布が謀反を起こしたために袁術は寿春から動けない、ということでした。この状況で洛陽の動きを本格化させたところで、袁術にとっては何の意味もないはずです」
 弘農王の反乱に袁術が深く関与していることは明らかであり、その狙いは曹操軍を分散させることであろう。
 だが、今は肝心の袁術軍本隊が動けない。どれだけ洛陽の動きが活発になろうとも、袁術にとっての利にはならないのである。
 確かに虎牢関の陥落で、洛陽は累卵の危うきにある。しかし、袁術にしてみれば、仮に洛陽が陥ちたところで、自分の領土が失われるわけではない。戦略の手駒を一つ失った――その程度の痛手だ。南陽郡を失う危険を冒してまで、洛陽を救おうとするとは考えにくい。


 俺の意見に張莫はあっさりと頷いた。やはり、張莫も気づいていたらしい。
「確かに北郷のいうとおりだ。南陽郡は人口も多く、物産も豊かで、それゆえに兵力も強大だが、三万以上の兵を洛陽に送り込めば、さすがに防備は手薄にならざるを得まい。もし四万を越えるならば、南陽郡はほとんど空だろう。南陽は許昌とも繋がる要地であり、しかも袁術は後背に劉表という敵を抱えている。今回の仲の動きは、それを承知しながら、それでもあえて南陽郡を隙だらけにし、弘農王のために兵を派遣したということになる。あの蜂蜜娘の今日までの行動を思えば、不自然というしかないな。考えられるとすれば――北郷?」
 俺は一つ息を吐いてから、口をひらいた。
「……もっとも憂慮すべきは、呂布の謀反は偽りであり、実は寿春の軍勢はすぐにも動ける状態である場合、でございましょう」
「その場合、袁術が動けないと判断して袁紹との決戦に踏み切ろうとしている華琳は、完全に判断を誤ったことになるな」
「はい。ですが淮南の動きは丞相閣下にとって存亡に直結する大事です。確たる証もなく、決断をされたとは思えません。となると、袁術が実は動けるという可能性は――無い、とは申しませぬが、きわめて低いものと考えるべきでしょう」


 俺が言うと、張莫はおとがいに手をあて、思慮深げに目を細める。
「となると、だ。南陽軍は袁術の本隊が動けないことを承知した上で、洛陽まで出てきたことになる。この挙にいかなる意味があるのか」
 考え込む張莫に対し、俺は一つの推測を付け加えた。
「南陽軍が本拠地を空にすれば、これを好機と見て動く勢力もいるでしょう。これに対して、南まわりで洛陽入りを目指す西涼軍をあてるつもりなのかもしれません。さきほど張太守がおっしゃられたように、西涼軍の機動力をもってすれば、嵩山を突っ切って南陽に出ることも出来なくはないでしょうから」
「そうなると、この地の敗北でさえ、敵には計算のうちであったということになるが?」
「さすがにそれはない、と思われます。張太守の奇略をあらかじめ見通せる者がいたとは思えませんから。しかし、敵軍の動きに奇妙な点があるのは事実であり、警戒しておくに越したことはありません」
「なるほど、南陽が空同然とはいえ、安易に動けば思わぬ逆撃をくらう可能性もある。許昌の華琳にそう伝えろ、ということだな」
「はい」
 俺は首をたてに振った。そしてさらに言葉を続けようとして――ためらいを覚えて口を噤む。


 一方、そんな俺の様子を見た張莫にはためらいはなかった。
「さてさて、どうやら軍師どのには更なる見解があるものと見受けたが?」
「……いつから俺が軍師になったんですか?」
「そうだな、西涼軍に謀反の汚名をかぶせたあたりから、というのはどうだ? その奸智に公明も怖気をふるったと聞いたぞ」
 いきなり名前を出された徐晃がぽかんとした顔をした後、あわてて顔の前で両手を振った。
「な、た、太守様、いきなり何を言い出すんですか?! 怖気をふるったなどと、そのようなことは言っておりません。ただ、北郷さ――ではない、ええと、か、かず、一刀も太守様と同じくらい厄介――じゃないや、えと、端倪……そう、端倪すべからざる御方だなあ、と言っただけです!」
「はっはっは、大した違いはないだろう。劉家の驍将は、転じて虎牢の謀将となるか」
「ろくでもない名前ばかりつけないでください」
 宇宙大将軍だの虎牢の謀将だの、似合わないことおびただしい。いや、別に劉家の驍将というのが似合っている、などと思っているわけでは断じてないが。


 張莫はからからと笑っていたが、どうやらそれは次の一言を告げる前の一服代わりであったらしい。張莫は表情を改めると、おもむろに口を開いた。
「やはり、南陽は仲の仕掛けた陥穽だと見るか?」
 俺は無言でうなずいた。
「張太守もさきほど仰っていましたが、南陽は豊かな土地です。かつて袁術の本拠地でもあった場所。これを奪えば仲の国力は大きくそがれ、同時に奪った勢力は飛躍的に国力を高めることになりましょう。ここが空になったとわかれば、丞相閣下はこれを制するために兵を発するでしょう。それは当然のことです。当然のことですが――」
「それは華琳に限った話ではない、か。南陽の支配を欲するのは劉表も同様。やつは腰が重いことで知られているが、さすがにこの好機は逃すまい。となると、華琳が南陽に兵を出せば、その支配をめぐって劉表と対立することになる」


 そう、ただでさえ河北に淮南、おまけに洛陽に敵を抱えているのに、この上荊州まで敵にまわれば、曹操軍は文字通り四方に敵を抱えることになってしまう。兵も将も到底足りるものではない。
 この策の厄介な点は、策略だとわかっていても放置できないというところにある。繰り返すが南陽は豊かな土地であり、人口も多い。おまけに距離的にも許昌に近い。許昌にとって、南陽の存在は喉元に突きつけられた刃に等しく、ここを袁術軍に押さえられているゆえに、曹操軍は相当数の守備軍を許昌におかねばならず、結果として兵力の展開に枷をはめられる形となっていた。
 ここを劉表なり他勢力なりに奪われれば、今後も枷をはめられ続けることになる。曹操としては、それは何としても避けたいだろう。


「――だが、それをすれば劉表と敵対する。となると、袁術はとうに荊州を使嗾して、お膳立てを整えていると考えるべきだな」
 そういって、張莫は意味ありげに俺を見た。
「そして、その使嗾に劉表が動かされた場合、荊州の先陣は、南陽との最前線である新野を治める劉玄徳の軍勢か」
 その名を聞き、徐晃がはっとした顔になる。
 一方、俺はゆっくりとうなずいた。
「……はい。そうなるでしょう」
「荊州としては、劉備がそのまま南陽を制圧できればそれでよし。仮に華琳とぶつかり、劉備が敗れたところで荊州の兵を損じるわけではない。劉備は蔡一族との間に隙が生じているとも聞き及ぶ。彼奴らとしては、劉備を捨て駒として華琳と争わせ、漁夫の利を得られれば最善というところかな」


 張莫の言葉は、俺の予測とほぼ重なる。
 だからこそ、俺としてはできれば曹操には南陽に手を出してほしくないのである。
 ――ただ。
 俺も今の自分の立場は心得ている。なにも玄徳さまのことばかり慮っていたわけではない。もちろん、劉家軍のことは俺にとって最重要事項だが、曹操軍のことも考えていないわけではないのだ。


「そのとおりです。そして、結果がどうあれ、一度でも両軍が南陽で衝突してしまえば――洛陽は仲本国と切り離される形になります。もはやその掣肘を気にかける必要はなくなりましょう」
 一瞬、張莫の目が恒星のような輝きを帯びてきらめいた。
「ほう。それはつまり」
「はい。此度の南陽の動き、袁術にとって利はないかもしれません。ですが、南陽の太守にとってはどうでしょうか?」
「偽帝から離れ、真に漢の血を継ぐ皇帝を擁して自立する絶好の機会――というわけか。ふむ、そう考えると、色々とこれまでとは異なる景色が見えてくるが、しかし今の洛陽の現状を見れば、南陽を捨てる価値があそこにあるとは考えにくいぞ? たとえ弘農王の存在があろうとも、だ」
 疑わしげな張莫の言葉に、しかし俺は反論しようとはしなかった。かなり無茶がある推論だ、というのは俺自身も承知していたからだ。
「もちろん、今の段階ではただの推測、というよりは妄想に近いですね。ただ、私が聞く限り、李儒とやらの為人はほめられたものではありません。解池で、私や公明どのが出会った方士どもも、今回の件にどのように関わっているのか判然としません。この先に何が起こるかは予断を許しませんが、それでも可能性の一つとして備えておくか否かは、今後の展開に少なくない影響をおよぼすものと思われます」




 今度こそ、内心の考えをすべて言い終えた俺は、知らずほぅっと大きく息を吐き出していた。
 俺の話を張莫がどう受け止めるかはわからないが、とりあえず言うべきことは言ったという充足感はある。
 と、そこで室内にパチパチと拍手の音が響いた。張莫が俺に向けて手を叩いているのだ。その口からは感心しきり、といった声が紡がれた。
「いやいや、見事だな、北郷。冗談ではなく、こっちの方が向いているのではないか?」
「……そうですか? 我ながら、結構穴のある推測だと思うんですが」
「むろん穴はある。あるいは真相とはかけ離れているかもしれんが、しかし現状においてそれなりの説得力があるのも確かだ。ほれ、公明も感心しているではないか」
 言われて、そちらを見れば、いつの間にか徐晃も拍手に加わっていた。
 なんだろう、何かむしょうに恥ずかしいんですけど……!
 



「ふふ、まあ華琳の報告へは、今の北郷の意見も添えておこう。どう判断するかは華琳次第だ。我らはいかなる命令が来ても即応できるように準備を整えておく。結論としてはそんなところか。まっとうすぎて、いささか面白みに欠けるがな」
「……まあ、別段奇抜な結論を必要とする場面でもありませんしね」
 俺はしごくまっとうに返答したのだが、張莫はなおも『面白み』にこだわっていた。
「北郷の後宮建設計画も順調に進行中、と記しておくというのはどうだろう? これならば面白みもあるし、華琳が関羽を丞相府に招く口実にもなる。得点稼ぎとしてもなかなかのものだ」
「やめてください。というか、やめろ」



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