司州河内郡 汜水関 城門の前で兵を呼び集める将の声が響き渡り、甲冑を身に着けた兵士たちが慌しげに陣列を整えていく。その彼らのすぐ傍らを、伝令とおぼしき騎馬兵が駆け抜けていき、砂埃が立ち上った。 槍や剣を構える兵士たちの中には、緊張に顔を強張らせる者がおり、興奮のあまりにはや目を血走らせている者がおり、何か、あるいは誰かに思いを馳せているのか、静かに目を閉ざし、うつむいている者がいる。 そんな兵士たちの近くでは、兵糧を運ぶ牛馬が、人間たちの騒ぎなぞ関係ないとでもいうように、のんびりと尾を揺らしながら手近の草を食んでいた。 虎牢関を陥とす。 張莫の決断が全軍に伝えられたことにより、汜水関は先日までとは比べ物にならない喧騒に包まれていた。 ただ、関内の将兵は忙しげではあっても、混乱した様子は見られない。それは曹操軍、なかんずく陳留勢を率いる張莫の統率力を示すものであると同時に、個々の将兵の覚悟を示す光景でもあった。もとより戦うために汜水関にやってきた者たちである。いずれこの時が来ることを誰もが承知していた。 それは汜水関にあって、ただ一人、胸に劉旗をいただく北郷一刀も同様である。 ただただ汜水関に立てこもっていれば済むような、そんな生易しい戦いではないことは、北郷とてとうに覚悟していた。 ゆえに、この時、北郷の顔にくっきりと浮かび上がっていた戸惑いと困惑は、迫る戦に対するものではない。 ――いや、正確に言えば、眼前の戦と無関係とは言えないかもしれない。何故といって北郷の困惑の源は、自らも戦に加わるのだと主張する司馬家の幼い家長にあったからである。◆◆◆ 両の拳を握り締め、潤んだ眼差しでこちらを見上げてくる司馬孚を前に、正直なところ、俺は困じ果てていた。 司馬孚の主張は単純といえば単純で、姉たちが犯した謀反の罪を償うために汜水関までやってきた以上、自分には前線に出る義務がある、というものだった。 先の戦いでそれを主張しなかったのは、街道を騎行する程度ならともかく、実戦の只中を駆けるだけの馬術の腕が自分にはなかったから、とのことだった。 しかし先日とは異なり、今回は張莫率いる陳留勢も出陣する。そして、陳留勢のほとんどは歩兵である。ゆえに自分が従軍するのに不都合はないという司馬孚の主張は、決して間違ってはいない。 これが戦場を知らず、人の上に立つことの意味もわきまえていない子供のわがままであれば、一喝して退けることもできただろう。 だが、司馬孚は姉たちが許昌にいる間、司馬家の本領を差配してきたほどの人物である。くわえて、その姉たちが洛陽側にはしった後、自家と妹たちを守るため、苛烈ともいえる決断と行動をとったことも俺は知っている。いつかその眼前に跪いたのは、決してただの冗談だったわけではない。司馬孚、字を叔達という少女は、間違っても子供扱いなど出来る相手ではないのである。 そして、そんな相手が理にかなった主張をしてきたのなら、これに反駁することは困難を極める。 俺自身、気にかかってはいたのである。たとえこの戦に勝利したとしても、司馬孚本人が汜水関から一歩も出なかったならば、朝臣たちがその功績を認めるだろうか、と。 そのことを考慮すれば、ここで司馬孚が前線に出ると主張することは間違いではない。否、むしろ司馬家の今後を考えれば、それは必要なことですらあるのかもしれない。 だが、しかし。 西涼軍を主力とする洛陽勢。それと本格的にぶつかる戦場に、健気な十二歳の女の子を引っ張り出すとか、できるわけねーのである。というか、意地でもさせん。 司馬孚が前線に出たという実績が必要であるのなら、戦の趨勢が決した段階でそれをすればいいのであって、何も今回の戦いに出る必要はない。 俺はそう主張したのだが――「でも、お兄様は出られるのでしょう?」 そういうと、司馬孚は上目がちに俺を見やりながら、口元を引き結ぶ。 こんな感情的になった司馬孚はめずらしい。というより、初めて見る。俺は気圧されたように頷くことしか出来なかった。「張太守様は、お兄様に陳留勢の一部を預けると仰いました。それはつまり、敵の人たちと正面きって戦う任を与えるということです」 司馬孚の言は事実である。虎牢関への攻撃を指示した張莫は、続いて俺に先手の一人となるよう命じた。そのための兵は自分が与える、と。『この張孟卓、出来ない者にやれとは言わぬ。劉家軍が将の力、見せてもらうぞ、北郷一刀』 そう言われてしまえば、俺に否やはない。くわえて言えば、騎兵で統一した司馬家の部隊は思っていたよりもはるかに錬度が高く、今の俺の技量では足手まといになりかねない。そのことは先日の戦いで骨身に染みている。さすがに司馬八達を育てた司馬防殿が手塩にかけた兵士たちであった。 それゆえ、陳留の歩兵部隊を指揮する機会を与えられたことは、俺にとってむしろ好都合とさえ言えた。張莫が、一部とはいえ陳留勢を預けるほどに俺を評価してくれていたことには驚きを禁じえなかったが、ともあれ、司馬家の部隊は徐晃に率いてもらい、張莫が本隊を、俺は先手の一人として先陣を務める。ここまではとても速やかに決まったのである。 だが、ここで司馬孚が、自分も戦に加わる、と言い出したことで、事態は混迷の度を深めてしまった。 しかも、張莫は何を考えたのか「可否は北郷に委ねよう」といって、戸惑う徐晃を引きずるように連れて行ってしまった。 結果、俺と司馬孚はこうして終わりの見えないやりとりを繰り広げる羽目になってしまったのである。 司馬孚が震えを帯びた声で言う。「今回のこと、お兄様は姉様(司馬朗)と壁姉様(司馬懿)、それに私……司馬家の事情に巻き込まれたようなものです。それにも関わらず、お兄様は私たちのために戦ってくださっています」「あ、いや、だからそれは買いかぶりだと何度も……」 俺は俺で戦う理由がある。司馬家のためだけに戦っているわけではないのだ。 だが、俺がそう言っても、これまでと同じように司馬孚は首を横に振るばかり。 ――そう見えたのだが。 今日は続きの言葉があった。「買いかぶりなんかじゃありません。もちろん、司馬家のためだけに戦っていらっしゃるわけではないでしょう。でも、私たちのことを思ってくださっているのも確かなはずです。だって、そうでなければ、どうして私の前ではいつもおどけていらっしゃるのですか? 張太守様と一緒になってまで、まるで……」 まるで私が少しでも楽になれるよう気遣うように。 そう口にする司馬孚の目はじっと俺の顔に据えられており、淡い緑を帯びた黒色の瞳は、思わず息をのんでしまうほどに真摯な光に満ちていた。 「……あー、ばれてた?」 思わず素で言ってしまった俺に、司馬孚は申し訳なさそうに、小さく、しかしはっきりと頷いて見せた。 それを見て、俺は思わず頭を抱えてしまう。年下の女の子をさりげなく気遣っているつもりで、実はしっかりその気遣いを見抜かれていたとか、いくらなんでも恥ずかしすぎる。 そんな俺の傷心を悟ったのか、司馬孚は慌てて言い添えた。「あ、あの、私、お兄様の心遣いには感謝しています。とても、感謝しています。でも、だからといって、本来私が果たすべき責務までお兄様に押し付けるつもりはありません。お兄様に戦う理由がおありのように、私にも戦う理由があるんですッ」◆◆◆ 戦う理由がある。 司馬孚がそう断言すると、眼前の北郷はこれまでよりもさらに困った表情を浮かべ、司馬孚から視線を逸らそうとする。 そうはさせじ、と司馬孚は相手を見据える視線を強めたが、その内心は相手に対する申し訳なさ――もっといえば罪悪感で一杯だった。 張莫の命令を受けてからの北郷は、はっきりと『戦う人』の顔になっている。少なくとも司馬孚にはそう見える。 もちろん、昨日までの北郷が安穏としていた、などというつもりはない。これから始まる戦いが、昨日までの前哨戦とはまるで異なる次元の戦いだということなのだろう、と思っている。 ――だからこそ、司馬孚はじっとしていられない。 張莫は言っていた。劉家軍の将の力を見せてもらう、と。 だが、この戦に劉旗は掲げられていない。本来ならば、北郷が命を賭して戦う必要のない戦い。そんな戦いに北郷を巻き込んだのは、司馬孚をはじめとした司馬家なのである。 北郷は司馬孚がそれを口にする都度否定する。もちろん司馬孚とて、北郷が自分たちのためだけに戦ってくれているとは思っていない。北郷が口にするように、北郷自身にもこの戦いに参加する理由があることはわかっている。 だが、司馬家が北郷を巻き込んだこと――それは、誰にも否定しえない事実なのである。 『ごめんなさい、螢(けい 司馬孚の真名)』 すぐ上の姉が、そういって深々と頭を下げたのは、司馬孚がはじめて北郷と顔をあわせた日の夜のこと。今から思えば、あれは本来ならば自分が引き受けなければならない重荷を、自分よりも小さな妹に預けてしまうことへの、姉なりの精一杯の謝罪だったのだろう。 司馬孚は、二人の姉からすべてを聞かされていたわけではない。聞かせるわけにはいかなかったのだろう。司馬孚がそれを知ってしまえば、どうしたところでその後の行動に不自然な点が出てきてしまうから。それは朝廷の疑心を深め、残された者たちへの処罰に影響を与えずにはおかなかっただろう。 ただ、司馬孚とて姉たちに成り代わって領内を治めてきた身である。漠然とではあるが、穏やかならぬ空気が家中に立ち込めていることには気づいていた。家宰の死の知らせを聞いてその思いはより確かなものになり、本家を訪れた司馬懿の一言ではっきりと確信へとかわった――あるいは、司馬孚に確信を与えるために、司馬懿は妹のもとを訪れたのかもしれない。 その後、洛陽の叛乱が起こり、姉たちがそれに加わったことを知ったとき、司馬孚が速やかに動けたのは、あらかじめ変事に備える心構えをしていたからであった。 とはいえ、族滅という事態を前にして、いささかも動じないような肝の太さは司馬孚には持ちえないものだった。許昌に参じた時、自分や妹たちに向けられた数多の視線、その冷たさを司馬孚は今なおはっきりとおぼえている。 すぐにも首をはねられるかもしれない。否、それで済めばむしろ運が良い。古来、謀反人の一族は見せしめのために酸鼻を極める殺され方をしてきたのだ。そのことを知っている司馬孚は、宮廷の一室で妹たちを励ましながら、胸奥でうごめく不安と恐怖を必死で押さえ込んでいた。 そんなとき――『おお、やっと会えた。久しいな、妹たちよ』 暗く沈む室内に不釣合いな、いっそ朗らかといえるような声と共に姿を現した北郷を見て、司馬孚はぽかんと口を開けてしまった。驚いたとか嬉しかったとか、そういうこと以前にわけがわからなかった。 それは司馬孚のみならず、下の妹たちも同様であった。司馬家の姉妹にとって、北郷は一度あっただけの人物だが、なにしろあの次姉(司馬懿)が連れて帰ってきた男性である。そうそう忘れられるはずがない。 だが、その北郷がどうしてこんなところにいるのか。どうやってやってきたのか。それを思えば、世に司馬八達と称えられる少女たちがとっさに口を開けなかったのも当然であったろう。 この時、動いたのは一番下の司馬敏だけ。司馬敏は「あー、にーさまー」と嬉しそうに言うと、すぐにその傍に駆け寄っていったのである。 その後、北郷はたびたび姉妹のもとを訪れては励ましてくれた。 他に出来ることがないからな、と北郷は幾度か力不足をわびてきたが、そのつど司馬孚は、何をいっているのか、と思ったものだ。 謀反人の一族に会いに来るということが、どれだけ危険なことか、少し考えれば誰にでもわかる。手続きだとて相当に面倒なものだろう。 だが、北郷はそういったことを脇に蹴飛ばして、姉妹のもとを訪れてくれているのである。感謝こそすれ、不満を言うつもりなどかけらもない。 それに、と司馬孚は思う。 その後、司馬家がかろうじて最悪の事態を回避したことについても、北郷がなにかしら動いてくれたのではないか、と。 むろん、北郷は朝廷を動かすような身分ではないが、現在の朝廷の意向は、すなわち丞相である曹操の意向である。曹操本人に直接説くことは無理でも、その配下を通じて司馬家の助命に動くことは出来るだろう。 前線に向かう司馬家の軍に北郷が加わると知ったとき、一度、司馬孚はそのことを訊ねてみた。 いくらなんでも買いかぶりすぎだ、と笑われてしまったが。 そして、汜水関へとやってきて、今日という日を迎えた。 今、北郷が汜水関にいることと司馬家には何の関わりもないなどとは童子でも思うまい。当然、司馬孚もそうは思わない。 北郷が覚悟を決めて戦いにのぞもうとしているのに、巻き込んだ司馬家の人間が汜水関でじっとしていていいわけがなかった。 司馬孚は河内郡にいた頃、家長の代理として野盗相手の戦いで指揮を執ったこともあり、戦の経験は有している。もちろん、自身の力は把握しているから、この重大な戦いで北郷のように一翼を担えるなどと自惚れてはいないが、それでも後方で震えている以外にもできることはあるはずだった。 そんな司馬孚の主張を聞いた北郷は、深々とため息を吐いた。「……ああもう、なまじ頭が良いもんだから、言っていることには理屈が通ってるし、ちゃんと覚悟もしているし。これ以上、反対する余地がないじゃないか」「じゃあッ」 思わず声を高める司馬孚に向け、北郷はあっさりと言った。 それでも駄目だ、と。 一瞬、何を言われたのか分からなかった司馬孚は呆然とし、言われたことを理解するや、むうと口元をへの字にかえた。「な、なんでですか、お兄様ッ?! 今、反対する余地がないってッ」「余地があろうとなかろうと、駄目なものは駄目。妹は兄に従うものだ。司馬家の家長殿には、いまさら説くまでもない、当然の常識であると思うのだが?」 それは、おそらく北郷としては苦し紛れの言葉だったのだろう。 だが、それを聞いた司馬孚は思わず言葉に詰まってしまった。 むろん、司馬孚と北郷に血のつながりなどないし、正式に義兄になったわけでもない。義兄妹の契りを交わしたおぼえもない。 司馬孚たちが北郷を兄と呼ぶのは、あくまで親しみを込めてのこと。いずれ姉の伴侶に、という遠謀がないわけではなかったが、半ば以上たわむれに過ぎなかった。 だから、ここで司馬孚が言い返すことは容易かった。「ならお兄様とは呼ばず、今後は一刀様と呼ぶことにします」とでも言えば、北郷の言葉は意味を為さなくなる。 ――だが、それは司馬孚には出来ないことだった。 そもそも、司馬孚は北郷のこと『お兄様』などと呼んではいけない身である。司馬家の事情に巻き込んでしまったから、という理由もあるが、なにより、そう呼ぶことは北郷と司馬家が浅からぬ関係がある、と広言するようなものだから。ただでさえ難しい立場にいる北郷が、謀反を起こした司馬家と交誼を持っているなどと知られたら大変なことになる。そのことは司馬孚もわかっていた。 しかし、司馬家の姉妹は許昌で北郷と再会してからというもの、ずっとその呼び方を続けていた。それは司馬孚も例外ではない。 もしかしたら、そのことが北郷を窮地に陥れる結果になってしまうかもしれない――幼い妹たちはともかく、そのことを自覚していた司馬孚が、それでも北郷をお兄様と呼んだのは、甘え、であった。 一寸先に死の顎が待ち構えているのではないか。次の瞬間にも処刑役人が踏み込んでくるのではないか。そんなどうしようもない不安と恐怖に苛まれていた時に、駆けつけてくれた人への甘えだったのである……◆◆◆ 不意に。 司馬孚の頬を涙がすべりおちていくのを見て、俺は自分の頬がひきつるのを自覚した。 司馬孚の主張に対抗することができず、困じ果てて妙な理屈を振りかざしてみたのだが、まさかその返答が涙とは。 やばい、何かひどいことを言ってしまったのか、いやでもだからといって司馬孚を戦場に出すなんて認めるわけにはいかないし、と内心でパニックに陥る俺。 だが、涙に関しては司馬孚自身も驚いているようだった。慌てたように手で目元を拭うが、涙は後から後から溢れて止まる様子がない。ついには司馬孚は両手で顔を覆って俯いてしまった。 突然の事態に、どうしたものかとうろたえる俺。 そんな俺に、司馬孚は震える声で話しかけてきた。泣き声が恥ずかしいのか、可聴域ぎりぎりの声だったが、不思議なくらいによく聞き取ることが出来た。 その語る内容は、俺への甘えを詫びるもの。劉家の将たる俺を、本来戦う必要のない戦場へと引きずり出してしまったことへの悔い。悔いながら、それでも俺を頼ってしまう罪悪感。 そういったものから決別するためにも、ここで後ろに隠れていることは出来ないのだと告げた司馬孚は、その場で俯いて嗚咽をもらしはじめた。 ぐすぐすと鼻をすする音が二人きりになった室内に響く。司馬孚は早く泣き止もうと何度も目元を拭っているのだが、あまり効果はないようだ。言葉を重ねていくうちに、これまでおさえていた気持ちが溢れだしてしまったのかもしれない。 戦を控えた関内の空気も、司馬孚にとっては浅からぬ負担だったのだろう。 十二歳の女の子が背負っていた、あるいは背負わざるを得なかった重荷を、俺は本当の意味では理解していなかった。司馬孚が俺に対し、ここまで罪悪感を抱いていたことも気づいていなかった。 それらに対する後悔が胸を苛むが、ここで俺が悔恨に打ちひしがれたところで、何の意味もない。 必死に泣き止もうとする司馬孚を前にして、小さく息を吐きだした後、俺はいま自分がとるべき行動に移った。 ためらわなかったのは、我ながら上出来といえる。傷心と罪の意識で泣いている女の子を前にして、その痛みを和らげる行動にためらうような人間にはなりたくない。 ……もってまわった言い方をしてしまったが、具体的に何をしたかといえば、俯いて涙をこらえようとしている司馬孚を抱きしめたのである。もちろん、出来るかぎり、そっと。「………………え?」 はじめ、状況がわからなかったらしい司馬孚であったが、すぐに自分が抱擁されていることに気づいたのだろう。俺の腕の中で驚きと、そして戸惑いの声をあげる。「……え、あ、あああ、の、お兄様……ど、どうしたん、ですか?」「――伯達殿(司馬朗の字)と仲達殿(司馬懿の字)に含むところはないんだが、とりあえず、洛陽で会ったら一度だけ頬をひっぱたこうと今決めた」「え、ね、姉様と、璧姉様を? な、なんでですか?」「それはもちろん、こんな可愛い妹に重すぎる荷物をあずけていったからだよ――そして、その後に、二人に俺の両の頬を殴ってもらう」「な、なんで?」「それはもちろん、叔達がこんなに苦しんでいることに気づいてあげられなかった罰ですとも」 そう言ってはみたものの、あの二人のことだから後者は拒絶されるかもしれない。だが問題はない。その時は許昌に帰って関羽に吹っ飛ばしてもらおう。 そんなことを考えつつ、俺は震え続ける身体を抱きしめる手に、少しだけ力をこめる。 腕の中の司馬孚の身体がぴくりと震えたが、拒否する仕草は見せなかった。 しばしの間、室内に沈黙が満ちる。 互いのぬくもりを感じながらの沈黙は、気恥ずかしくはあったが、不思議と落ち着くものでもあった。 おそらく、司馬孚も同様だったのだろう。いつか涙も、嗚咽も、止まっていた。 不意に、ぽつりと司馬孚が呟いた。「……お兄様に、言い忘れていたことがあります」「んー、なんだ?」 今頃になって湧き上がってきた照れくささを隠すため、すこしおどけた言い方になってしまった俺にかまわず、司馬孚はゆっくりと言葉を続けた。「許昌で、私たちに会いにきてくださって、ありがとうございました。嬉しかった……ほんとに嬉しかった……」 震える声で礼を言う司馬孚に対し、俺はつとめて軽い調子で応じた。「お安い御用だよ。そうだ、俺も叔達に言いたいことがある」「なんでしょ――うにゅ?!」 司馬孚の語尾が妙な音になったのは、俺があらためて司馬孚の頭を胸に抱き寄せたからである。 もうここまでくれば、多少の恥ずかしさなど無いも同じ。やるべきと思ったことはすべてやりぬくべし。「な、なにを?!」「こうした方が心の臓の音がよく聞こえるだろ?」「あ……はい」 突然の俺の行動に驚いた司馬孚であったが、俺がそう言うと、こくりと頷き、そっと身体をもたせかけてきた。「……ゆっくり、脈打ってます。私は戦を前にして、どきどきとうるさいくらいなのに」「ふふん、こと戦に関しては、くぐってきた修羅場が違うからな。ま、年下の女の子に優ったところで何の自慢にもならないけど」 俺がおどけたように言うと、腕の中で司馬孚が小さく笑い声をもらした。 そんな司馬孚に向け、俺は内心で思いを整理しつつ、言葉を続けた。「――みんなが笑って暮らせる世の中をつくる」「……え?」 司馬孚の口から戸惑ったような声がこぼれおちるが、俺はかまわず先を続けた。「それが俺の戦う理由だ。確かに叔達のいうとおり、この戦いに劉旗は掲げられていないけど、だからって俺が戦う理由がなくなったわけじゃない。『みんな』の中には、伯達殿も、仲達殿も、もちろん叔達だって含まれているんだから」「お兄様……」「だから、俺はここにいる。俺自身の意思でここにいる。司馬家に関わって、厄介事に巻き込まれて、仕方なく戦っているなんてことは絶対にない。そのことで叔達が気に病む必要なんかどこにもないんだ」 俺の言葉を聞いた司馬孚は、しかし、まだ納得がいかないようだった。「……でも、司馬家と関わらなければ、お兄様がこの地にいらっしゃることはなかった。なら、やっぱり……」 それを聞き、俺は知らず肩をすくめてしまった。「まったく、妙なところで頑固だな、叔達は」「ご、ごめんなさい……」「謝るくらいなら、ささっと納得してほしいんだが、それは難しいか。なら、この際だからはっきり言ってしまおう」 腕の中で、司馬孚の身体がわずかに強張るのが伝わってきた。 そんな司馬孚の耳にちゃんと届くように、俺は一言一言をしっかりと声に出す。「俺は叔達と出逢えたことに感謝してる」「…………え、あ、え?」「もちろん、伯達殿とも、仲達殿とも、下の妹さんたちともね。もっといえば、張太守や公明殿も同じだ。俺は望んで許昌に来たわけじゃないけれど、だからといってこの地での出逢いを否定するつもりなんかない。出逢えて良かった、と本当にそう思っているよ」 俺は一息置いて、さらに続ける。「そして、そんな人たちが苦しみ、つらい思いをしているのなら助けてあげたいと思う。それは別におかしなことじゃないだろう?」 問われた司馬孚は、慌てたようにこくこくと頷いた。 俺はその頭に手を置いた。「あ……」「それにな。今だから言うけど、はじめて会ったとき、叔達たちに『お兄様』と呼ばれて内心で大喜びしてたんだぞ。にやけ顔を押し隠すのに苦労したもんだ」「そ、そうなん……ですか?」「そうなんですよ。甘えていた? 大歓迎ですとも。だから決別とかしなくていいから。むしろどんどん甘えてください。健気な女の子を守るために戦うのは男児の本懐と断言できる」 俺が言い終えると、司馬孚はもぞもぞと身体を動かし、腕の中から上目遣いで俺を見上げてきた。潤んだ眼差しの可憐さはもはや凶器のレベルであるが、ここはとろけている場面ではない。耐えろ、がんばれ我が理性。 司馬孚はじっと俺を見つめたまま、何を言うべきか迷うように口を二度、三度と開閉させた。 そして――「……ありがとう、ございます、お兄様。それと、ごめんなさい。私、出すぎたことを言いました……お兄様の決断に、私が責任を感じるなんておこがましいですよね」 それを聞き、思わず安堵の息を吐きかける。ようやくいらん罪悪感は振り払ってくれたようだ。 しかし、まだ一つ問題が残っている。そのためにも、ここであっさりと司馬孚を許してはいけない。理性よ、あと少しだがんばれ。「ああ、実におこがましい振る舞いだ。ちょっとやそっとで許すことはできんな」「あぅ……ど、どうすれば許してもらえますか?」「そうだな――反省の意味を込めて、一週間ばかり汜水関で謹慎してもらおうか」 司馬孚のことだから、罪悪感を振り払っても、それでもやっぱり戦についてくるとか言いかねん。今回の戦いが一週間で決着がつくとは思えないが、その時はまた改めて考えよう。とりあえず、当面の出撃を禁止すべし。「…………お兄様、ずるいです」「答えになっていないな、司馬叔達殿。否か応か? むろん、己が非を認めた以上、礼節を知る司馬家の家長殿が否というはずもないが、やはりきちんと確認しておかなければなるまいて」「うー……」◆◆◆「……あれだな。北郷であれば事を収められるとは思っていたが、こういう形で収めるとは。うむ、実にあっぱれ」「『一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している』……か」「ほう、そうなのか、公明?」「あ、いえ、私ではなく、解池で関将軍が仰っていた言葉です。こういうことか、と思いまして」「ふむ、まあこの光景や公明を見るかぎり的確な言だな。さすがは美髪公」「なッ?! わ、私は篭絡なんてされてません!」「はは、恩返しの一言で男に従って戦場についてくるやつが言っても、あまり説得力はないぞ?」「太守様!」「でかい声を出すな、あいつらに聞こえる。まあ、気になって様子を見に戻ったが、この分ならば心配はいらんだろう。こちらはこちらで、務めを果たすとしようか」「……承知しました」