司州河内郡 虎牢関「しっかし、結局何しに来たんだ、あいつらは?」 自身の愛馬の身体を洗いながら、そう口にしたのは馬超、字を孟起という名の少女だった。 化粧一つしていないはずなのに、その肌は絹のごとく滑らかであり、唇は紅を差したように紅い。馬超の母である馬騰は西方の羌族の血を引いており、当然のように馬超にも羌族の血が色濃く流れている。鋭すぎるほどに鋭い眉目はこのためであろうか。 とはいえ、それは馬超の容姿を引き立てこそすれ、他者の忌避を招くようなものではなかった。瀟洒な衣装で着飾れば、どこの高家の姫君か、と見る者を感嘆させる艶姿に変じるのは間違いない――もっとも、従妹の馬岱などに言わせれば「黙って立っていればって条件がつくけどね」ということになる。 この評からも察することができるように、馬超は自ら望んで着飾ることはほとんどない。城の奥で女官に髪を梳かれるよりも、城外で兵士と共に馬を走らせることを好む為人だ。 溢れんばかりの覇気を瞳に映し、白衣白甲を身に着けて颯爽と草原を駆ける馬超の姿を見れば、その異名たる『錦馬超』が決して阿諛追従の類ではないことが理解できるだろう。 その馬超が首を傾げているのは、先日、虎牢関に来襲した曹操軍の行動を訝しく思ってのことである。 馬超が悩むのも当然といえば当然であった。敵の主将である張莫が、わずか三百騎たらずの兵で正面から虎牢関に押し寄せてきたのだから。 馬超としてはわけがわからぬながら、敵将に槍をつける好機である。張莫を討ち取ることが出来れば、一気に汜水関を陥とすことが出来るかもしれない、とも考え、すぐに出陣しようとしたのだが、これは虎牢関の守将である樊稠に止められた。 樊稠としても、張莫の突出は千載一遇の好機と映ったのだろう。「西涼軍は遠路はるばるやってきたばかり。疲労が溜まっているゆえ、ここは自分たち弘農勢に任せられよ」との言葉は、おためごかし以外の何物でもなかった。 馬超としては、この程度の騎行で西涼軍がへたばるものか、と言い返したかったのだが、その言葉はなんとか咽喉元でおしとどめた。樊稠はまがりなりにも上官であり、これに歯向かえば、西涼軍そのものが洛陽の朝廷から罪に問われてしまう。馬岱が洛陽に残っている今、そのようなまねは出来なかった。 もっとも、出撃した弘農勢は、騎兵で統一された曹操軍に引っ掻き回された挙句、敵の女将軍たち――敵将の張莫と、もう一人、名前は不明ながら大斧を振り回していた少女――に幾度も痛撃を被り、たまりかねて馬超たち西涼軍に出撃を命じてきたのだが。 馬超としては樊稠に対して色々と言いたいことはあったのだが、敵が攻め込んできている今、内輪で争っていては敵を喜ばせるだけである。それに、西涼軍の実力を敵味方に知らしめる意味でも、ここで曹操軍を叩いておくことには意味がある、と考えた。 かくて、気合をいれて虎牢関を打って出た馬超であったが、すぐに拍子抜けすることになる。西涼軍の姿を見た敵が、ほとんど間髪をいれずに退却を始めたからだ。 その逃げっぷりはいっそ見事なほどで、西涼軍の足をもってしても、敵を捉えることは不可能であった。より正確に言えば、何度か敵の背に手が届きかけたことはあったのだが、その都度、先の二将が西涼軍の追撃を払いのけてしまったのである。中でも張莫などは、退却の最中に面と向かって馬超を呼び出し、さては一騎打ちを望むのか、と勇躍して飛び出した馬超を前にこんなことを言い出した。◆◆「ほう、貴公が西涼の錦馬超か?」 緋色の髪を靡かせながら、緊張感というものをまるで感じさせずに問いを向けてくる張莫。 だが、張莫と相対した馬超は、その姿に油断できないものを感じ取っていた。陽気に眩めく瞳の奥に、相手の端倪すべからざる覇気がはっきりと見て取れたのだ。 むろん、他者に気圧されるような馬超ではない。正面から張莫の視線を受け止め、高らかに名乗りをあげる。「ああ、西涼の馬騰が娘、馬孟起とはあたしのことだッ! そういうそっちは、陳留の張莫だな?!」「いかにも。漢の丞相曹孟徳が麾下、陳留太守張孟卓だ」 そういうと、張莫はどこか楽しげに微笑んだ。「ふむ、思ったよりもずいぶんと激しい為人だな。戦意を外に示し、感情を内に秘める――そんな人物だと思っていたのだが」「は、そっちがどう思おうと、あたしにはどうでもいいことだ」「道理だな。では、用も済んだことだし、私はここで失礼するとしよう」「……へ?」 思わず、馬超はぽかんと口を開けてしまった。人を名指しで呼び出しておきながら、何を言い出すのか、そう思ったのだ。 だが、そんな馬超に構わず、張莫は本当にくるりと馬首を返してしまう。「ちょちょ、ちょっと待て?! 一騎打ちするんじゃないのか?!」「ん、そんなことを言った覚えはないが? 錦馬超相手に、一騎打ちで勝てると思うほど自惚れてはいないぞ」「じゃあなんであたしの名前を呼んだんだよ?!」「遠く西域から、はるばる陳留にまで名声の轟く錦馬超とはいかなる者や、と興味があったのでな。で、その顔も見られたし声も聞けた。用は済んだので、さらばと告げた。何かおかしいか?」「お、おかしいも何も、勝手なことばかり言うな! 将たる者が戦場で向き合って、用は済んだからさよならなんて、それこそおかしいだろ?!」「『そっちがどう思おうと、あたしにはどうでもいいことだ』、そうではなかったか、孟起殿?」「ぐ……」 先の自らの発言をそっくり言い返され、思わず馬超が口ごもる。 張莫はひらひらと手を振り、これが最後、とばかりに顔だけを馬超に向けて言い放った。「文句があるなら追ってきてもかまわないぞ。ああ、そちらの厳ついおじ様に私を射るよう命じるのも一手ではあるな」 張莫が口にしたのは、馬超を守るように背後に控えていた鳳徳のことである。その並々ならぬ騎射の腕前を、張莫は退却の最中に一度ならず目にしていたのだ。 敵将を背後から射るのは卑怯――などと馬超は思わなかった。これが戦場の外ないし戦が始まる前ならば話は別だが、今は戦の真っ只中、しかも仕掛けてきたのは相手の方なのである。 敵の背後を狙うのが卑怯なのではない。敵に背中を見せる相手が間抜けなだけだ。「言われなくても! 令明!」「承知」 打てば響く、との言葉そのままに、馬超が命令を下すや、鳳徳は即座に弓を構えた。馬上、弓を放つ動作は、その巨躯からは想像できないほどに滑らかであり、張莫から見ても無駄な動作がまったくといっていいほど見て取れなかった。 流麗、という言葉が張莫の脳裏をよぎる。 張莫の視線の先で、鳳徳は弓を満月のごとく引き絞り――そうと見えた時には、すでに矢は一直線に張莫の背へと迫っていた。 互いの声が届く距離である。鳳徳にとっては目を瞑っていても当たる距離だ。 矢は正確に張莫の身体の中心を捉えており、多少身体をひねった程度では避けることは出来ないだろうと思われた。 実際、張莫が避けようとしなかったのは、この距離ではそれをしても無駄だ、とわかっていたからである。 そして、張莫はもう一つのこともわかっていた。つまり、わざわざ避けるまでもなく、この矢が自分の身体に届くことはないのだ、ということが。 ――不意に、張莫の眼前に人馬が躍り出る。 その人物が持っていた長大な得物を一閃させると、轟、と大気そのものを断ち切るような音があたり一帯に木霊した。 むろん、人の身で大気を断ち割るようなまねが出来るはずはない。実際に断ち切られたのは、鳳徳が放った矢であった。「む……」 張莫の後背を守るように姿を現した少女を見て、鳳徳がかすかに驚きの声をあげた。少女の容姿が、どこか草原の民を思わせるものであったからだ。 戸惑う鳳徳の耳に、張莫たちの会話が届く。「ありがと、公明」「礼などいりませんので早く退いてください、太守様ッ! どうして総大将が殿軍で、敵将と向かい合っているんですか?! 北郷さんが顔を真っ青にしてましたよッ」「これもまた戦局を打開するために必要なことなのでな。北郷には悪いが、無茶をさせてもらった」「ならせめて護衛を引き連れて来てください! 私が来ていなかったらどうなさるおつもりだったんですか!」「当然、自力でなんとかするまでだが?」「……何故でしょう。陳留の方々の日ごろの苦労が、手に取るようにわかった気がします」「ふむ、ならばちょうどいい。北郷ともども正式に私のもとに来ないか?」「お誘いはありがたいのですが、時と場所をわきまえてくださいッ!」 そう叫ぶ少女の名が、徐晃、字を公明ということを、馬超と鳳徳の二人が知るのはもうしばらく先のことであった……◆◆ その時のことを思い起こしながら、馬超は苦い表情を浮かべる。「なんだかんだで逃げられたが、よく考えると連中は何しに来たんだ? まさかあれっぽっちで虎牢関を陥とせると思っていたわけじゃないだろうし」 その馬超の疑問に答えたのは、隣で同じように愛馬を洗っていた姜維である。 西涼軍の軍師として馬超に付き従う少女は、黒絹の布で結わえた髪をかすかに揺らしながら口を開く。「小手調べ、というところではないかと」「んー? 小手調べで虎牢関に向けて突っ込んでくるか、普通? それは勇は勇でも匹夫の勇ってやつだろう」 めずらしく、馬超の口から難しい言葉が出てきたので、姜維はわずかに目を見開いた。「寿成様(馬騰の字)の教育の成果が如実に出ているようで、喜ばしいかぎりです。もっとも、それを承知していらっしゃるならば、あの状況で敵将の前に身を晒すようなまねは慎んでいただきたかったですが」 姜維は敵味方の将が陣頭で口舌の刃をかわし、あるいは一騎打ちを行うことを否定はしない。ただし、それはそうするに足る理由がある場合だけだ。 昨日の戦でいえば、味方は一万、敵は三百、西涼軍の大将が陣頭に出て行かねばならない理由はどこにもなかった。もし、馬超が討ち取られていれば、それこそ大敗の要因となりえただろう。 言葉や物腰こそ丁寧だったが、つまるところ、姜維は馬超に向けてこう言っているのである。 ――匹夫の勇とか敵将に向けて言えた義理か、と。 姜維と馬超はそれこそ子供の頃からの付き合いである。 当然のように、馬超は姜維が言わんとすることを察した。姜維がけっこう怒っていることも。 額に嫌な汗がにじみ出るのを自覚した馬超は、慌てて釈明を試みる。「い、いや、でもだな、名指しで呼ばれたら、出て行かなきゃまずいだろ?! 馬超は臆病者だ、なんて言われたら西涼軍の武威にも傷がつくし……」「翠様」「な、なんだ……なん、で、しょうか?」「今の翠様は西涼軍の一武将ではありません。総大将なのです。常にもまして自重してください、と度々もうしあげてきたはずです。たしかに翠様の武は中華でも屈指です。しかし、武の力量のみで生き抜けるほど、戦場は甘いものではない、と寿成様も仰っていたではありませんか。涼州での戦と中原での戦はおのずと違いましょうし、罠や詐謀の類を用いてくる者もおりましょう。翠様が倒れてしまえば、西涼軍もまた倒れてしまいます。総大将であるとは、すなわちそういうことなのです。ゆえに――」「すまん! 悪かった、次からは自重するから、そのへんで勘弁してくれッ」 放っておけばいつまでも続きそうな姜維の説教攻めに、馬超はたまらず音を上げた。ついでとばかりに両手も挙げて降参の意を示す。 何故だか、馬超の愛馬も申し訳なさそうに、ひひん、と小さく嘶くのだった。 そんな主従(?)を見て、さすがにあわれに思ったのかどうか。 姜維はしばらく黙っていたが、やがて一つ息を吐くと、舌鋒を収めた。「……わかりました。今日のところはこのあたりで。ただし、もしも同じことを繰り返すようならば、その時は相応の対処をさせていただきますよ? 具体的には、令明様にお願いして本陣から一歩たりとも出られぬようにいたしますからね」「い、一応、総大将はあたしなんだが……」「問題ありません。寿成様には出陣前に許可をいただいております。『翠が総大将たる責務を果たせぬと判断したときには、皆で最善と信じる行動をとるがよい。なんだったらあの猪娘は縛り上げて本陣に転がしておき、令明か鞘、あるいは蒲公英(馬岱の真名)が指揮をとってもよいぞ』とのお言葉でした。むろん、このことは私だけではなく、令明様はじめ皆さまがたも承知しておられます」「ははうえー?!」 しばし後。「それはさておきまして、曹操軍の動向についてですが。こちらの出方を探るつもりであったのは間違いないと思います。しかし、翠様の危惧されているとおり、確かに奇妙なところはありますね。特に敵将である張莫殿の思惑が気になります」「あたしとしては、さらりとさておかれるのはちょっと納得いかないんだが……まあいいか。で、鞘としてはどう見てるんだ?」 馬超は言葉どおり納得いかなそうな様子ではあったが、すぐに気を取り直して当初の問いに立ち戻る。 姜維は馬の身体を洗う手に力を込めつつ、自身の考えを口にした。「令明様によれば、何か意図あっての行動だ、と張莫殿ご自身が口にされていたとのことです。翠様に興味があったから、という単純な理由だけではないのは明らかでしょう。ただ、退却の最中、総大将たる身がわざわざ危険を冒して翠様と相対することで、何を得られるのか……」「ふーむ。まあ、あたしの顔を知っておけば、いざという時に討ち漏らす恐れは少なくなるが」「そのためだけに、一郡の太守を務めるほどの者が、己が身を危険に晒す、というのは少々考えにくいです。それにわざわざ確認するまでもなく、戦場で翠様は十分すぎるほどに目立っておられますし」 白衣白甲の錦馬超。ひとたび戦場に立てば、当人の優れた武勇と、凛々しい面差しもあいまって、その姿は敵であれ味方であれ惹き付けずにはおかぬところだ。 張莫みずからがわざわざ確認する必要もない、と姜維は思う。 では、張莫は何をたくらんでいるのだろうか。 率直にいって、姜維にはわからなかった。それを素直に口に出す。「今はまだ張莫殿の狙いはわかりません。しかし、話を聞く限り、戯言をもてあそぶような方とも思えません。注意しておくに越したことはないでしょう」「そうかー? わざわざこちらに聞こえるように話しているあたり、単にあたしたちを惑わせて楽しんでいるだけのような気もするぞ」 みずから張莫と相対した馬超と、鳳徳らから張莫の様子を伝え聞いた姜維とでは、認識に若干の違いがあるらしい。 あるいは馬超の言うとおりかもしれぬ、と姜維も思わないでもなかったが、仮にそうだとしても油断するよりはマシだ、と割り切ることにする。 それに姜維としては、張莫以外にも気になる人物がいるのである。「令明様が仰っていましたが、巨大な戦斧を操る少女がいたとか」「ああ、ばかでかい斧を小枝みたいに振り回してたな。馬を御する腕も見事だった」 その少女の引き際を思い出し、馬超は感心したように幾度も頷いて見せた。「翠様が見事だと認めるほどですか。それは私も会っておきたかったですね」「張莫を守ってさっさと退いていったから、名も聞けなかったけどな。でもまあ、あれだけの腕前の持ち主なら、いずれ必ず戦場でぶつかるだろうさ。鞘が会う機会もあるだろ」「はい。なんでも髪や目の色は草原の民に似ていたそうですね?」「ああ、ちらと見ただけだが……ん、そういえば髪といい、目といい、髪を一つに縛っているところといい、鞘に似ていたかもな。いやいや、張莫に説教してた口うるささなんかを思い返せば、むしろ瓜二つといえるんじゃ――」「何か仰いましたか、翠様?」 にこりと微笑む姜維の顔から、馬超は慌てて目をそらした「い、いや、何でもない。何でもないぞ」「そうですか、では私も気にとめないことにいたしましょう」「あ、ああ、それがいいな、うん」「ところで翠様、縄と枷、拘束されるならどちらがお好みでしょうか?」「何の確認だよそれは?!」 二人からやや離れた場所にいた鳳徳は、もれ聞こえてくる会話を耳にして小さく苦笑をもらした。「戦の最中だというに、一体何を話しているのやら。まあ妹君(馬岱のこと)がおられる時に比べれば大人しいものだが」 そういってあごひげをしごく鳳徳だったが、その顔からはすぐに苦笑の色は拭われる。現在の状況を思えば、いつまでも笑ってはいられなかったのだ。たとえそれが苦笑であっても。 鳳徳は出陣前に姜維と交わした会話を思い起こし、ひとりごちた。「ともあれ、これで西涼軍は一つ、勝利を積んだ。これを聞いた洛陽の者どもは、さてどう出るか」 そう呟く鳳徳は、この時、張莫と徐晃の会話で出てきた『北郷』という名には関心を抱いていなかった。これは馬超も同様である。 北郷は高家堰砦での戦いで勇名を馳せたとはいえ、それはあくまで一戦場における武勲に過ぎぬ。袁紹や袁術、曹操、呂布といった、誰もがその名を知る英雄、豪傑と肩を並べたわけではない。高家堰砦の戦いの詳細を知っていれば、また違った考えを抱いていたかもしれないが、淮南から遠く離れた西涼に詳しい情報が伝わるはずもない。 実のところ、馬家の軍師として中原の動静に注意をはらっていた姜維は、その名をかろうじて聞き知っていたのだが、当の馬超と鳳徳が報告の際に北郷の名を挙げなかったため、その名に気づく機会そのものを得ることが出来なかった。 虎牢関前での戦闘と、その後の退却戦においても、北郷は目立った働きをしていなかったため、西涼軍の将兵の耳目を集めることはなく。 結果、この時点で西涼軍が認識した敵将は、張莫と徐晃(名は不明であったが)の二名のみであった。◆◆◆ 司州河内郡 汜水関 現在、汜水関の曹操軍の兵力はおよそ一万あまり。 その内訳は、元からの関の守備兵が一千。司馬家の私兵が三百。余の軍勢およそ九千は、そのすべてが張莫率いる陳留勢であった。 陳留勢は曹操の旗揚げ時から付き従う、いわば股肱の軍勢。謀反の罪を償うべく最前線に送られた司馬勢とは、曹操軍内における立ち位置は天地のごとくかけ離れており、汜水関の内部では司馬勢は常に冷たい視線で囲まれている――「――というような状況を覚悟していたのですけど」 そういって司馬孚、字を叔達という少女は小首を傾げてみせた。みずから髪を断ち切ってからというもの、屋外では常に帽子をかぶっている司馬孚であるが、さすがに屋内ではいつもそうしているわけではない。 今がちょうどそうであり、司馬孚は帽子を胸の前で両手で抱えながら話をしている。不思議そうに首を傾げる司馬孚の仕草に応じて、短くなった髪がかすかに揺れた。 その司馬孚に同意するように徐晃も頷いた。「確かにそうですね。私も立場上、冷眼を向けられるのは覚悟していました。許昌でも賊徒や裏切り者として見られることの方が多かったですから」 そう言いながらも、徐晃はことさら憤慨する様子は見せない。その理由を、いつか徐晃はこう語った。『憤慨する理由がありません。母さんが匈奴や塩賊を利用して朝廷に歯向かったのは事実ですし、私自身、その命に従って朝廷の討伐軍を討っているのです。しかも最終的に私は母さんを討つ片棒を担ぐ行動をとったのですから』 実際はそこにいたるまで幾つもの事情が山積しているのだが、それは表に出すことはできないし、出すつもりもない。であれば、事情を知らない周囲の人間が疑いや嫌悪の眼差しを向けてくるのは当然のこと、というのが徐晃の考えであったようだ。 そう考えていたからこそ、許昌で荀彧あたりからきつい言葉を向けられても平静を失うことはなかったのだろうし、徐晃が重罰を受けないよう張遼や曹純が奔走したことに心底驚いてもいたのだろう。聞けば河東郡太守王邑と、その配下で解池城主であった賈逵の二人からも徐晃の助命嘆願の書が提出されたそうである。 そういった人たちの行為が実ったのか、曹操はすぐに徐晃を処罰しようとはしなかった。といって、むろん無罪放免にしたわけでもない。 曹操の命により、徐晃は許昌に留め置かれ、指定された邸宅から許可なく出ることを禁じられた。おって沙汰あるまで蟄居すべし、といったところであろうか。 死罪や長期の投獄という罰が下される可能性は依然残っていたのだが、韓浩や史渙らの弟妹たちも同じ邸宅で起居することを許された。むろん、曹操が許可したことである。 この点を見ても、曹操の徐晃に対する感情は容易に推測できる。もしかしたら、曹操は初めから徐晃を罰するつもりなどなく、功もて罪を償わせようと考えていたのかもしれない。 徐晃が洛陽勢との戦いへの参加を望んでから、それが許可されるまでの早さを見れば、この推測は当たらずとも遠からず、というところだろう。 曹操に誤算があったとすれば、それは徐晃が正式に曹操の麾下に加わるのではなく、俺と共に戦うことを望んだ、という点であったかもしれない。 とはいえ、むろんというべきか、徐晃は俺に仕えたいといったわけではない。ただ、俺が司馬家の軍に加わり、不利な戦に参加することを伝え聞き、解池での恩を返そうと考えてくれたのだろう。 そうすれば一に俺への恩に報いることができるし、二に曹操軍のために功績をたてることができる。徐晃自身の去就はともかく、弟妹たちのことを考えれば、早いうちに許昌での制約を解いておいた方が良いのは当然であった。 そういった諸々を経て、族滅の危機に瀕する司馬家の軍勢に、劉家軍の俺と、元白波賊の徐晃が加わるという、第三者から見ればわけがわからないであろう混成部隊が誕生したのである。 付け加えれば。 司馬孚や徐晃のみならず、俺もまた汜水関で冷遇されることは覚悟していた。 しかし、実際はどうだったかといえば――「主の薫陶のせいかどうか知らんけど、陳留の将兵はやたらと親身な人ばかりだな」 俺の言葉に、司馬孚と徐晃、二人が同時に頷いた。「ええ、みなさん、とても良くしてくれます。軍のことでお願いにうかがっても、大抵は快く引き受けていただけますし、駄目なときもこちらが恐縮してしまうくらいに申し訳なさそうで。我が家のみなさんに聞いても、つらく当たられたり、意地悪されるようなことも全然ないって言ってました」 司馬孚が言うと、徐晃が続いて口を開いた。「私も同様です。冷遇もせず、警戒もなし。それどころか……」『それどころか?』 不意に徐晃が言葉を止めたので、怪訝に思って俺と司馬孚が同時に問い返すと、徐晃はなにやら誤魔化すようにこほんと咳払いした。「い、いいえ、なんでもないです。ともあれ、北郷さんの言うとおり、太守様の人柄が配下の方々にも影響を及ぼしているのでしょう。敵と戦う際、後ろを気にせずに済むというのはありがたいことです」 それを聞いた司馬孚が、隣でうんうんと頷いている。 俺も徐晃の言葉を否定するつもりはなかった。しかし、いかに張莫の配下とはいえ、何の打算もなく、俺たちのような胡乱な部隊に親切を働くだろうか、という疑問はあった。 彼らがそうするには、そうするに足る理由があると考えることもできるだろう。そう、たとえば――「張太守のいらんちょっかいを、自分たちの代わりに引き受けてくれる人たちを逃がすまいとする、陳留の皆さんの深慮遠謀ではなかろーかと思うのだけどどうだろう?」「……そ、そ、そんなことはないんじゃないかな、と思いますよ、お兄様」「……叔達殿(司馬孚の字)に同意します」「ぬう、けっこういいところを突いたと思ったんだが」 まあ相手の親切の裏を探るようなことを口にするのは、ほめられた行いではないな。反省しよう。「――それはさておき、張太守はどうしたんだろう?」 先日、許昌に差し向けた使者が戻ってきたということで、俺たちは軍議の間に呼び出されたのだが、当の張莫がなかなかやってこない。 何かあったのだろうか、と思って言ったのだが、まるで俺の言葉を待っていたかのように張莫が姿を現した。「すまん、遅くなった。いやいや、一波動けば万波したがうとはいうが、まこと中原の治乱興亡はただならないな」 のっけから物騒なことを口にする張莫。当然、それを聞く俺は嫌な予感全開であるが、ここでさっさと退出するわけにもいかない。 ただでさえ厄介なことが山積みなのだ。これ以上、面倒な事態は勘弁してほしい、との俺の願いは、次の張莫の一言で木っ端微塵に打ち砕かれた。「呂布が叛乱を起こしたそうだ」 あっさりとした調子で、どでかい爆弾を放り投げる張莫。 俺は真顔でこう返した。「……はい?」 冷静に考えると、一郡の太守に向けて失礼きわまりない態度だったが、張莫は気にすることなく言葉を続けていく。「場所は合肥。華琳によれば、仲の都である寿春の南、巣湖の北に位置し、なかなかに難攻の地であるとのことだ。詳細は不明だが、先ごろから袁術の動きが妙に鈍い理由はこれである可能性が高い、と華琳は考えている」 次々に新しい事実が明かされていくが、耳に入る情報のほとんどは、俺の脳内を右から左へと通り抜けていくばかりだった。 呂布の謀反、という事実を飲み下すのは、それほど厄介だったのだ。見れば、司馬孚も俺と同じように身じろぎ一つできずに固まっている。 一方で、徐晃は俺たちほどには動揺していないように見えた。これまで中原の情勢と無縁でいた為だろうか。 とはいえ、さすがに呂布の名は聞き知っていたらしく、驚きは感じているようだった。その口から小さく声がこぼれでる。「呂布……飛将軍、ですか。并州育ちの方ですから、その名は草原にいた時もよく耳にしていました。武勇の誉れ高き方だそうですが、人柄に関してはあまり良い噂は聞きませんね」 張莫が肩をすくめる。「まあ、これまで呂布が属した軍はことごとく滅んでいるからな。丁原しかり、董卓しかり、私の不肖の妹しかり」 そう口にした張莫の顔に、一瞬、陰りが見えたような気がした。だが、俺たちがそれと確認する前に、その陰りは拭われる。 ――考えてみれば、陳留勢も一度は曹操に反旗を翻したことがあるのだ。首謀者は張莫ではなく、妹の張超であったというが、それでも反旗を翻した事実は事実。 そして、その張超は姉である張莫の手で討たれたと聞いている。徐晃を母殺しと罵る者にとって、張莫は妹殺しに他ならない。 先刻の話ではないが、陳留勢が俺たちに対して隔意を示さなかったのは、彼らもまた曹操軍内の立場が不安定であり、この戦に期するものがあったからなのもしれない。 とすると、張莫が望んで陳留を離れ、洛陽戦に加わったのは、そのあたりのことも絡んでいるということになる――まあ、すべては俺の想像に過ぎないのだが。 そんな俺の考えをよそに、張莫はなおも言葉を続ける。「先の戦でも、呂布は袁術軍の先頭に立ち、無人の野を駆けるように淮南各地を切り従えていった。呂布の部隊は民には手をかけなかった――というか、ひとたび切り結んだ敵の将兵は、降伏しても容赦せずに苛烈に追い討ったというから、民に目を向けている暇はなかったのだろうな。どのみち、告死兵の白衣白甲が朱に染まるほどの死山血河を築き上げたのは事実。良い噂が流れる理由は乏しいな」「その飛将軍が謀反したのが事実であれば、これは一大事ですね」 徐晃の言葉に、張莫はこくりと頷いてみせる。「まさにそのとおり。付け加えれば、これが事実ではなく、ただの偽報であっても厄介なことに違いはない。飛将軍の存在はそれほどまでに大きく、その影響は当然のように我々にも及ぶ。そこでだ、実際に呂布と矛を交えたことのある北郷に問いたい」 張莫の視線が俺を捉えた。その視線は一見、常と同じに見える。しかし瞳の奥では戦意が躍るように揺らめいているのがはっきりと見て取れた。俺の意見がどうあれ、この一報が動乱の開始を告げる狼煙であることを、張莫は悟っているのだろう。 そんなことを考えながら、俺はゆっくりと口を開いた。「たしかに淮南の戦場で呂布と相対しましたが、言葉を交わしたわけではありません。その為人について、噂以上のものは知りませんよ? それでもよろしければお答えしますが」「かまわん。それでも、人づてに話を聞いたことしかない者よりはマシだろう。かくいう私も、呂布と面と向かって会ったことはないのでな。で、率直に聞くが、この情報、本当だとおもうか?」 俺はわずかに首をかしげた。「本当だとすれば、公明殿の言うとおり仲軍にとっては一大事です。許昌に知られれば、致命的な事態を招くこともありえましょう。そんな重要な情報が、たとえ噂という形であれ、あっさりと仲国内を通り抜けて丞相閣下のもとに届けられる……仲の群臣がそこまで間抜けぞろいだとは思えません」「つまり、今回のは偽報である、というわけか?」 その言葉に、俺はかぶりを振った。張莫は怪訝そうに眉をひそめるが、俺は構わず言葉を続ける。「しかし、情報の伝達を阻めぬほどに仲国内が混乱している、という可能性もなきにしもあらずです。あるいはそれを逆手にとり、あえて情報を伝えることで敵に策略であると疑わせ、時間を稼ぎ、その間に呂布を始末しようとしているとも考えられます」 俺の話を聞いた張莫は、しばし後、得心したように頷いた。「なるほど。つまり北郷が言いたいのは、今回の知らせ、嘘かほんとかさっぱりわからん、ということか?」「御意」 視界の端で司馬孚と徐晃がこけているのが見えた。 だが、仕方ないではないか。こんな重要事をわずかな情報だけで把握できるわけがない。 許昌で曹純に聞いた話によれば、高家堰砦で呂布の配下である高順と、敵将の李豊が刃を交えていた場面を目撃したという。そして、高順の行動は俺をかばうためであった、と。 その後、李豊は曹純によって討たれたが、その場には他の仲の将兵もいたわけで、逃げ帰った彼らの報告を受けた袁術が、高順、ひいては呂布に対して制裁を行った可能性は否定できない。呂布がそれに抗って謀反を起こした、という流れもあり得ないことではないだろう。 だが、それならばもっと早くに事は起こっているはずだ。すでに高家堰砦の戦いから何ヶ月も経っている。今頃になって袁術がかつての罪を咎め、それに対して呂布が叛乱を起こす、というのはいささかならず妥当性を欠いているように思える。 とはいえ、策略だと断定するには不自然な点があるのも確かであった。 そもそも策略であるならば、その目的は何なのか。『呂布が謀反を起こしたから袁術軍は寿春から動けない』――そう曹操に判断させ、油断した曹操の背後を突くつもりか。 しかし、噂の一つ二つ流しただけで、あの曹操が背後をがら空きにするとは童子でも思うまい。仮にも一国の皇帝とそれを支える臣下が、そんな稚拙な策を仕掛けてくるだろうか、というのが俺の疑問だった。 これ以外にも奇妙な点は幾つもある。だが、俺はそこまで深く考えなかった。考える必要がないと思ったからだ。 張莫は最初にこう言った。『詳細は不明だが、先ごろから袁術の動きが妙に鈍い理由はこれである可能性が高い、と華琳は考えている』 それはつまり、曹操はすでにこの報がかなりの確度で事実に即したものだ、と判断しているということであった。ここで俺が長々と考え込む意味はないのである。 俺がそう言うと、張莫は何やら楽しげに頷いてみせた。「はは、さすがに聞き逃さなかったか。確かに華琳はすでに動き出している。袁術が動けない千載一遇の好機を活かし、本格的に麗羽とぶつかるつもりらしいな」「私が口をさしはさむ筋はないのですが……丞相閣下は呂布が謀反を起こしたという確証を掴んでおられるのですか? これが袁術の策略だった場合、許昌が危うくなる可能性もあると思いますが」「さて、華琳なりの成算があるのは確かだが、確証を掴んだかどうかは定かではないな。案外、ただの勘かもしれないぞ? 華琳は賭け事は好まないが、いざとなればどんな博打うちも及ばないくらい大胆になるからな。まあ、それはさておきだ」 そう言うと、張莫はやや語調を改めた。「今回の事態を受け、曹操軍は各地の部隊の再編にとりかかる。当然、私たち、というか私にも指示が出ている。具体的に言うと、汜水関を守るだけなら他の軍でも出来るから、私は陳留勢を率いてさっさと許昌に戻って来い、だとさ」「『汜水関を守るだけなら』ですか。その言い方ですと、帰還命令というよりは、張太守をけしかけているように聞こえますが?」「おお、話が早いな、北郷。まさしく華琳は私をけしかけているんだろうさ」 にやり、と(にこり、とはとても言えない)張莫は笑って見せた。「今の洛陽は腐った卵だ。下手に殻を割れば、こちらにも汚濁がかかってしまう。いつかも言ったとおり、現在の戦況で汜水関を奪われることは断じて避けねばならんからな、慎重に様子を探りながら事を進めるつもりだったんだが……呂布のことでそうも言っていられなくなった。いま肝要なのは巧遅よりも拙速。華琳から許可も出たことだし、我らはこれより卵の殻を割りに行く」 張莫の言葉を聞き、俺たちは一様に表情を厳しくする。 張莫の言葉どおり腐っているかどうかはさておいて、現在の洛陽勢を卵に例えるならば、黄身は朝廷だろう。では、黄身を包む殻は何を指すのか。思い当たるものは一つしかなかった。 すなわち、張莫は今こう言ったのである。 ――全軍を挙げて、虎牢関を陥とす。