ぱちり、と小気味良い音と共に、俺は槍を模した形の駒を動かし、自陣に突進してきた馬形の駒の後背を塞ぐ形で配置する。 こちらの攻撃を凌ぎ、満を持して攻勢に出たであろう眼前の敵手の口が、への字に結ばれた。「――む、そうきたか」 そう言いながら、曹純は腕を組んで首を傾げる。黄金を梳かしたような鮮麗な髪が小さく揺れ、湖水色の双眸が思慮深げに瞬いた。「……ならば」 そうして、曹純が今度は弓を模した形の駒を、自軍の本陣前に配置する。攻撃の援護と本陣の防御、両方に用いることの出来る遊撃隊というところか。バランスを心がけている曹純らしい手だと思うが、しかし残念、次の一手でこちらの布陣は完了するのでありました。「ぱちり、とな」「ええッ?!」 俺の打った手を見て、曹純の口からなんだか女の子みたいな悲鳴が漏れる。 普段はなるべく男らしい所作を心がけているらしい曹純だが、こんな咄嗟の場合の挙動はどこか軟らかく、女性的なものが感じられる――口にすれば本気で怒られるので、決して口には出さないけれども。 挽回の策を探して、曹純はしばしの間、うんうんと唸っていたが、ほどなく自分が罠にはまったことを悟ったのだろう。ため息まじりに投了を口にした。「……参りました」 その言葉を聞き、俺は小さく息を吐いた。「これで昨日の借りは返せたかな」 俺がそう言うと、意外に負けず嫌いの面がある曹純はむすっとしたまま、今の戦戯盤の取り組みを振り返り始めた。最初のこちらの攻勢をうまく凌いだ末に攻勢に転じたのに、それをあっさりひっくり返されたのがよほど納得いかないらしい。 種を明かせば、最初の攻勢を凌がれたのも策の一環。あえて先手を敗走させ、追撃部隊を包囲撃滅する薩摩島津のお家芸、釣り野伏(偽)は、この戦戯にも有効でした。ま、ここまで綺麗に決まるのは、初見の時だけだろうけど。 ちなみにこの戦戯盤、簡単に言えば将棋の親戚みたいなものである。将棋よりも駒の数は少なく、動きも複雑ではないため、覚えることはたいして難しくない。 だが、単純である分、その結果は指し手の力量が如実に反映される。たとえば俺が荀攸や程昱と対局すると、四半刻で決着がついてしまうことも少なくない。一方で優れた指し手同士が相対すると千日手になることもあり、互いの力量が明瞭になるという意味でかなりシビアなゲームなのである。 ちなみに俺と曹純の対局記録はほとんど五分、実力伯仲というやつで、二人ともに是が非でも勝ち越さんと、時折こうやって勝負しているのだ。 曹純がふむふむと頷きながら口を開いた。 「……なるほど、故意に敗北して敵を罠まで誘い込む戦術か。これは劉家軍の得意とするものなのか?」「いや、これは盤面だから出来るんであって、実際の戦でやるのは並大抵のことじゃないと思うぞ。失敗すれば各個撃破されておしまいだしなあ」 劉家軍は、偽りの退却で敵軍を誘い込む、という戦術は幾度か用いていたが、囮部隊も待ち伏せ部隊も、釣り野伏ほど徹底した役割分担をしていたわけではない。 そもそも、ほとんどの戦いで相手より劣る兵力で戦ってきた劉家軍にとって、危険を冒してまで敵を包囲殲滅する戦術を用いる必要がなかったということもある。「確かに、これをやるとなると各隊に相当な錬度が要求されるな。将同士の理解と連携も必須、一朝一夕にやれるものではない、か」 なにやら残念そうに呟く曹純。自分の部隊でやれないものかと考えていたのかもしれない。曹純の言うとおり、これをやるには将兵共にかなりの錬度が要求され、しかもそれを満たしてなお成功する確率は高くない。盤面の駒を動かすようには、実際に将兵を指揮することは出来ないだろう……まあ、曹操軍ならなんか出来てしまうような気がしないでもないが、それは言わずにおこう。虎豹騎が釣り野伏とか、本気で勘弁してください。◆◆「白波賊?」 対局を終え、互いにずずずっとお茶をすすっていると、曹純の口から聞きなれない言葉が発された。ただ、聞きなれないが、聞き覚えがないわけではない。白波賊というと、たしか――「中原の外れで暴れている黄巾党の一派だ。元々、朝廷の混乱に乗じて、あのあたりで暴威を振るっていた連中だが、河北で袁紹や一刀たちに敗れた残党が合流して以来、さらに勢いを増していてな。討伐に出た河東郡の太守の軍勢を退けてからは白昼堂々、略奪行を繰り返すほどに猖獗を極めていたとか。このままでは新たな皇帝の威信に関わると、先日、重臣である皇甫将軍が討伐に赴いたのだが……」 皇甫将軍、というとあの皇甫嵩のことだろう。言われてみれば、いつぞや遊びに来た許緒がそんなことを口にしていた気がする。 その時のことを思い出しながら、俺は小首を傾げて曹純に問いかけた。「その口ぶりからすると、皇甫将軍も敗れた?」「うむ。おそらくはな」 曹純の答えに、俺は戸惑って目を瞬かせる。「おそらくは? 報告はきていないのか?」 勝利をおさめたにせよ、敗北を喫したにせよ、報告の義務があるのは当然ではなかろうか。 そんな俺の疑問に、曹純はかぶりを振って応じる。「報告どころか、将軍はおろか、配下の兵一人戻ってきてはいないそうだ。河東郡と、あとは并州の西河郡の太守も兵を出して将軍らを捜索しているが、手掛かり一つ見つからないらしい」「……討伐、というからには百や二百の兵ではないだろうに。それが手掛かり一つなく消えた、と?」「皇甫将軍が率いた兵は二千。無事であれば、あの将軍が連絡一つ寄越さないはずはなし、おそらくは敵に敗れたのだろう。だが、戦いの痕跡一つ残っていないというのは明らかにおかしいからな。すでに優琳(曹洪の真名)姉上が動いているのだが――」 朝廷としては、その結果が出るまで待っていることは出来ない、ということらしい。 たしかに黄巾党の残党に、官軍が二度までも敗れたとあっては、許昌の朝廷が鼎の軽重を問われるところだ。 今度こそ、万全を期して賊徒を討伐せねばならないところであるが――「しかし、今の時期、大きな兵力を動かせば許昌の防備が手薄になる。河北や淮南に付け入る隙を与えたくないというのが華琳様のお考えでな」「そうすると、少数精鋭の部隊を派遣するしか……なるほど、それで子和の出番というわけか」「さすがは一刀、話が早くて助かる」 納得したように頷く俺を見て、曹純はにこりと微笑む。それを見て、知らず頬が熱くなるのを感じる俺であった。 ――曹家の血統の為せる業か、曹操自身はもとより、曹凛様も、曹仁も曹洪も、いずれおとらぬ美人ばかり。当然のように曹純も美青年である。 顔の造作だけではない。厳しい訓練と幾度もの実戦を経ているというのに、白玉の肌には傷ひとつなく、引き締まった身体つきから感じられるのは武骨さではなく凛々しさである。その凛とした美貌――男に使いたい言葉ではないが、そうとしか言えないのである――を見て、初見で男性だと見抜ける者がはたしてどれだけいることか。 それでも普段は本人が女性と間違われることを嫌ってか、仕草や声音、言葉遣い等を意図的に荒っぽくしているから意識しないですむのだが、ふとした拍子に出てくる生来の軟らかい反応(今の微笑とか)を垣間見ると、どうしても意識せずにはいられないのだ。 ……一応断っておくが、俺にそっちの気はない。それはもう断じてない――ないのだが、ほんと、どこの美人モデルかと言いたくなる人なのだ、この曹純、字を子和という人物は。 繰り返すが、本人に言うと素で存在を抹消されかねないので、口にはしないけれども、面と向かい合って照れずに済むようになったのは、そう昔の話ではない。 ささっと視線をそらせる俺を見て、曹純は不思議そうに首を傾げた。「――? どうした、いきなりあさっての方向を見て? それに、なんか頬が赤いようだが」「はっは気のせい気のせいで白波賊の情報を俺に聞きに来たというわけかなるほど劉家軍は河北で黄巾党と戦ったしそもそも俺は昔黄巾党の中にいたからな何か知らないかと思ったわけだおーけーおーけー知る限りの情報は吐き出そう」「…………そ、それは助かるが……い、いや、なんでもない」 息継ぐ間もなく話し続ける俺を見て、曹純は微妙に引いていた。その視線は痛かったが、まあ俺の内心には気付かれなかったみたいなのでよしとしよう。 とはいえ、実のところ、白波賊に関して俺が知っている情報はほとんどなかった。 俺が黄巾党にいたのは、初期の奴隷時代を除くと、張家の姉妹の傍仕えとして仕えていた期間が大半である。波才や張曼成ら主力部隊の将に関する情報はともかく、地方の連中にまで気を配っている暇はなかった。 白波という呼称自体、ほとんど聞いた記憶はなく、その頭目が誰であるかすら知らないのだ。 ただ、同じ地方の勢力といっても、青州黄巾党のような大規模な勢力の情報はそれなりに耳にしていたから、逆に言えば俺の耳に入らなかったということで、白波賊の規模を推し量ることは出来るかもしれない。 しかし、あれからもう年単位で時が過ぎている。白波賊が以前のままとは限らず、むしろ曹純から伝え聞いた情報からすれば、連中が俺がいた頃よりもはるかに勢力を伸張させているのは明らかで「昔は大したことなかった」なんて情報には一文の価値もないだろう。 俺は腕組みして考え込む。曹純には様々に世話になっているので、頼ってきてくれた以上、期待に応えたいところなのだが…… そんなことを考えながら唸っている俺を見て、曹純は表情を改めてかぶりを振った。「いや、すまない、張家の姉妹と親しい一刀には言いにくいこともあると思う。だから、言えないなら言えないで構わないんだ」「あ、いや、そういうわけじゃない。伯姫様たちに遠慮してたんじゃなくて、ただ白波なんて名前、ほとんど聞いた記憶がなくてな。何かなかったかと思い出していただけだよ」 歌を本業と考える伯姫様たちと、黄巾党の関係をここで口にしても仕方ないので、俺はそう言うだけにとどめた。まあ黄巾党の一派である以上、白波賊にも伯姫様たちのファンがいるだろうから、これを破ることに思うところがないわけではないが、今そんなこと言っても、それこそ詮無いことである。 しかし、やはりどれだけ頭をひねっても有益な情報は出てきそうになかった。俺は天を仰ぎつつ、曹純に謝罪する。「……やっぱり、覚えがないなあ。せめて頭目の名前でもわかれば、少しは何か思い出す切っ掛けになるかもしれないんだが」 元の世界的な知識も含めて俺がそう口にすると、曹純が目をぱちくりとさせる――だからそういう仕草をするなというに。また頬が熱くなるだろうが。 そんな俺の内心に気付くことなく、曹純は照れたように頬をかきながら口を開く。「すまない、まだ言ってなかったか。敵の頭目は二人いてな。一人は韓暹(かんせん)、もう一人は楊奉(ようほう)だ。韓暹が頭目、楊奉が副頭目という形になっているようだが、実権を握っているのは楊奉らしい。華琳様によれば、楊奉は以前、朝廷に仕え、それなりの地位にいたらしいな」「韓暹に楊奉、か。黄巾党にいた頃に聞いた記憶はないなあ」 俺は首をひねりつつそう言った。少なくとも波才らと並び称されるような人物ではなかったはずだ。 しかし。「楊奉が……」「ん?」 俺の呟きを聞き取って、曹純が怪訝そうにこちらを見やる。「楊奉が副頭目といったけど、いつ頃、白波賊に加わったかはわかっているのか?」「詳しい時期は不明だが、何年も前というわけではないようだな。そもそも、はじめは韓暹の情婦だったそうだから、正確にいつ頃、頭だった地位に就いたかもよくわからないんだ」 そうか、と一度頷いた俺は、ん、と首を傾げる。「……韓暹の、何だって?」「情婦」 端麗な顔の美青年が、眉一つ動かさず情婦と口にする光景は、なんだかとってもシュールでした。それはともかく。「……つまりあれか、楊奉って女なの?」「ああ、そうだが……って、一刀。なんでそこでため息を吐く?」「いや、まあ色々と」 久々に現実と脳内知識の乖離を実感している俺を、曹純は不思議そうに見つめるばかりであった。「ま、まあそれはともかく。つまり楊奉は頭目の妾から成り上がって、実権を手にしたというわけだよな。俺がいた頃にそんな話があれば、耳に入ったはず――」 仲姫(張宝の字)様が好きそうな話題だし。「とすると、楊奉が頭角をあらわしたのはここ一、二年の間ってことになる。その短期間で烏合の衆であったはずの白波賊を、討伐の官軍を撃ち破るほどに鍛え上げたというのなら、その力量は恐るべきといっていいんじゃないかな」「確かに。注意すべきは韓暹ではなく、楊奉の方か」 その曹純の言葉に、しかし俺は首を横に振った。 戸惑ったようにこちらを見る曹純に、俺は人差し指を立てて説明してみせる。「確かに楊奉は恐るべきだけど、韓暹だってこの乱世で賊徒の頭目として何年も立ち回ってるんだから、十分に警戒すべき相手だろう。子和が曹操軍の最精鋭を率いているといっても、侮っていい相手じゃないと思うぞ」 曹純が穏やかな気性の中にまけず嫌いの面を持っていることは前述した。互いに気安い口調で話せるくらいに曹純と親しくなった俺は、すぐにそのことを知ったわけだが、その時、もう一つ気付いたことがある。 実は曹純、意外にも直情的な為人なのである。 一本気とでも言おうか、思い立ったら一直線とでも言おうか、とにかく穏やかで思慮深そうに見えて、そんな一面を曹純は確かに持っていた。 もちろんそれ自体は悪いことでも何でもない。むしろ俺から見れば好ましいとさえ言える。曹純がそれだけ情に厚い人物だからこそ、俺は淮南で命を拾うことが出来たのだから。 だが、曹純のそれは、時としてあまりに真っ直ぐすぎる、と俺は密かに危惧していた。 一つのことしか見えないゆえに、その視野の狭さを逆手にとられ、相手に足を掬われかねないのである。 今の言葉もそうだった。 確かに楊奉が恐るべきだと俺はいったが、だからといって韓暹とて海千山千の将、取るに足らない相手というわけでは決してないのだ。 まあ常の曹純なら、その程度のことは自分で気付くことが出来ただろうとは思う。しかし、今回曹純に与えられたのは、皇甫嵩というれっきとした将軍の後任という重役である。 曹純をこの任に充てたのは間違いなく曹操であろうが、周囲がこの人事を黙って見ていたとも思えず、紆余曲折があったはずだ。それは朝廷内に限った話ではなく、曹操軍の中であっても例外ではあるまい。 それでもなお曹操が皇甫嵩の後任に曹純を擬したのは、それだけ曹純に期待するところが大であったということ。それに気付かない曹純ではなく、何としても今回の任を完遂させ、曹操の期待と信任に応えねばならないと気負っているのは明らかであった。 その気負いが、敵への軽視に繋がらないように。俺はそういった意味で曹純に注意を促したのである。「む、む。それは確かに」 その自覚が皆無ではなかったのか、曹純は難しい顔で頷いてみせる。 聞けば、曹純は長らく曹嵩(曹操の父)や曹凛様の傍近くで仕えていたため、実戦の経験では他の諸将の足元にも及ばないという。当然、功績の面でも同様であろう。 にも関わらず、曹操は曹純を虎豹騎の長に据えた。それは曹操の期待を示すものであろうが、同時に他者の嫉視を呼ぶものでもあることは容易に想像できる。 今回の任務で、そのあたりの諸々を払拭したいと曹純が考えるのは当然であったのだろう。何とか重圧をはねのけて討伐を成功させてほしいと、思わずにはいられない俺であった。 そんなことを考えている自分に気付き、浅からぬ感慨にとらわれる。 つい先ごろまでは敵――それも尋常でなく巨大な敵であった曹家に連なる人を心配する時が来ようとは、と。 曹純に限らず、曹操に仕える人たちは、いずれ必ず敵になるとわかってはいる。しかし、だからといって、負けてしまえ、なんて思うような器の小さい人間にはなりたくないし、なにより、その程度の人間が劉家軍に――玄徳様にお仕えするなど許せるはずがないではないか。たとえそれが自分であっても。否、自分であるから尚更に。 それゆえに。「それと、気をつけてほしいことがある」「気をつけてほしいこと?」「ああ、敵に楊奉がいるってことは……」◆◆◆ 并州と司州、その境にある白波賊の砦。 彼方に長城を望むこの砦は、塞外民族の侵入を阻むために前漢の時代に建設されたものと考えられていた。 時の流れと度重なる戦乱の果て、忘れられていたこの砦に手を入れて本拠として利用したのが白波賊の頭目、韓暹である。 韓暹は付近の農民や、各地から攫ってきた奴隷を用いて、この砦を拡張させ、今では砦というよりも城といった方が相応しい規模になっていた。その主である韓暹の勢威が、この付近でどれだけ大きなものであるかは言うまでもあるまい。 ことに太守の軍勢を退けてからというもの、韓暹の自尊心は天井知らずの増長ぶりを見せた。太守気取りで税と称して略奪を繰り返すのはいつものこと、付近の住民のみならず、時に他郡にまで出向いて人や物を奪い取る様は、往時、中原や河北で暴れまわっていた黄巾賊そのものであったといえる。 その暴虐が、名将である皇甫嵩の討伐軍を引き出す結果となったのは当然すぎるほど当然のことであった――少女はそう考える。 しかし、韓暹をはじめとする白波賊は上下を問わず混乱した。一時は砦を捨てる案も出されたほどの狼狽ぶりであり、その醜態を目の当たりにした少女は眉をひそめたものであった。 しかし、その混乱も、副頭目である楊奉の策略によって討伐軍を壊滅せしめたことで鎮まり、砦は今、歓喜と興奮の坩堝と化していた。 そして、それもまた白波勢力の短慮を示すものだ、と少女には思われてならなかった。 少女――漢朝の重臣である皇甫嵩を討ち取った勇武の持ち主であるその少女の姓を徐、名を晃、字を公明、真名を鵠(こく)という。「この次は、今回にまさる大軍が派遣されるはず。喜んでいる場合じゃないのに……」 今回の戦いで第一ともいえる功績をあげた徐晃は、しかし浮かれる様子を見せず、その表情はむしろ沈痛と言っても良いほどであった。 その点、徐晃は白波賊の中でも異端であったが、徐晃からすれば、今この時、浮かれ騒ぐ韓暹らの方が理解に苦しむ。 一介の太守の軍勢を退けたのとはわけが違う。朝廷が派遣してきた名将を撃ち破った以上、許昌の朝廷は、その威信をかけて白波賊を滅ぼしに来るだろう。 その程度のこと、自分でさえわかるのに、と徐晃は唇を噛む。この砦にいる者たちの大半が、略奪に味をしめただけの賊徒に過ぎないということはわかっていたことなのだが…… 表情を曇らせながら、なおも徐晃は廊下を歩き続けた。その歩みは、砦の奥深くに位置する一つの扉の前まで続く。 徐晃がやや緊張した面持ちで来訪を告げると、内側から歌うような響きを帯びた声が応じた。 その声の主は部屋の中央で徐晃を待っていた。 神経質なまでにまっすぐに伸ばされた黒髪は濡れたような光沢を放ち、その眼差しは穏やかそうに見えて、室内に入ってきた徐晃を見据える視線には確かな棘が感じられた。すぐにその険しい光は消えてしまったが。 年の頃は三十半ばから後半、あるいは顔を覆う化粧をとればもっと上かもしれぬ。徐晃を見る表情は優しげ笑みの形をとっていたが、見る者が見れば、そこにはどこか造花めいた不自然さを見て取ることが出来たかもしれない。 この人物こそ白波賊の首領である韓暹の片腕、その策をもって名将皇甫嵩の軍を壊滅に追い込んだ副頭目、楊奉その人であった。「母様、鵠、ただいま戻りました」 その権限は頭目すら越えると噂される楊奉を前に、徐晃は畏まって頭を下げる。 自らを母と呼ぶ少女に対し、楊奉は艶を感じさせる声で応じた。「ええ、ご苦労様、公明。報告は聞いています。討伐の将軍を討ち取ったのはあなただと――本当なの?」「は、はい、皇甫将軍を討ち取ったのは私ですッ」「そう……おいで、公明」 どこか憂いを帯びた声で、楊奉は徐晃を手招いた。 その声を聞いた徐晃は一瞬びくりと身体を硬直させる。その声音が母の不快を示すものであることを経験として知っていたからだった。 しかし、徐晃に否やはない。おずおずとした様子で、楊奉のすぐ近くまで歩み寄った。その様は、戦場で幾多の官兵を大斧の錆びとした英武の武人とは似ても似つかないものであったろう。 楊奉の手がゆるやかに徐晃の頭に乗せられる。 無意識のうちに徐晃は身体を震わせるが、予想に反して楊奉は打擲を行おうとはせず、徐晃の亜麻色の髪を梳くように撫でるだけであった。「か、母様?」「漢朝の名臣として知られるあの皇甫嵩を撃ち破る――誰にでも出来ることではないわ。よくやってくれたわね、公明。これで朝廷はますます退けなくなった。次は更なる大兵を催して攻め寄せてくるでしょう。こちらの思惑通りに、ね」「あ、あ、ありがとうございます」「ええ、本当によくやってくれたわ。あなたのような娘を持てて、私も鼻が高い……」 そう言った途端、楊奉の手の動きがぴたりと止まった。 うっとりと母の手の感触に頬をほころばせていた徐晃が、それに気付いて不安げに母を見上げた。「母様?」「でもね、公明。私はあなたに言ったわよね。皇甫嵩は生かして捕らえるように、と」 その楊奉の言葉に、徐晃はびくりと背を震わせる。すぐにその口から陳謝の言葉が発された。「す、すみません、母様。皇甫将軍の武威は老いたりといえども衰えがなくて……全力で戦わなければ、勝つことが出来なかったんです」 実際、皇甫嵩の戦いぶりは、五十に手が届こうかという人物とは思えない苛烈なもので、手加減する余裕はほとんどなかった。 それでも一対一であれば老将に遅れをとるようなことはなかったであろうし、生け捕りにすることも出来たであろう。しかし、皇甫嵩の配下は圧倒的に不利な戦況にあって、主君を逃すために、文字通り命を捨てて徐晃に斬りかかってきたのだ。 そんな彼らを撃ち払いつつ、皇甫嵩と戦うことを余儀なくされた少女は、手加減どころか、自身が討たれないために全力を出さざるを得ず、結果として皇甫嵩の首級をあげてしまったのである。 だが、徐晃の言葉を聞いても楊奉の顔色に変化はない。徐晃ではなく、部屋の壁に視線を向けながら口を開いた。「母の言いつけに背き、さらには言い訳を口にするの、公明?」「あ、ご、ごめんなさい母様。次はきちんと言いつけどおりに――あ、あッ?!」 しますから、と続きかけた徐晃の口から苦痛の声がこぼれでる。楊奉が不意に、力任せに少女の髪をつかみあげたからであった。「あ……か、母様……ッ」「私の言いつけに従い、私のために戦い、私の望む戦果を挙げる――公明、それが私の娘としての、あなたの役割でしょう。それが出来ないなら、私があなたを愛する理由もなくなってしまう。そうではなくて?」「は、はい、ごめんなさい、母様ッ」「口先だけの謝罪など、あなたの弟妹たちでも出来ることよ。それとも、次はあの子たちの誰かをあなたの代わりに戦場に出せば良いのかしら。それがあなたの望み?」「ち、違いま、す。そんな必要は、ないです。わ、私、母様のために戦いますから、相手が誰でも、絶対、絶対勝ちますから。だから……!」 楊奉の手に、幾十もの髪が抜ける感触が伝わってくるが、その顔にはわずかの感情の揺らぎも浮かばない。 ――否、それを言えば。 ――少女が部屋に入ってからこちら、その顔に感情が動いたことが一度でもあっただろうか。「口では何とでも言えるわ。次は成果で示しなさい」 その言葉と共に、ようやく楊奉の手から力が抜け、徐晃の身体は崩れるように床に投げ出された。 しかし、それだけの目に遭いながら、徐晃は顔にも声にも一片の恨みも浮かべず、母の膝下に跪き、従順に頭を垂れた。「はい、母様。次こそ、かならずご命令どおりにいたします」「当然よ……下がって良いわ」「は、はい、失礼いたしま……」 と徐晃が口にしようとした時だった。 慌しく扉を開く音が、室内にいた二人の耳朶を撃った。木の扉が軋む音がそれに続く。 副頭目である楊奉の許可を得ずに室内に入ることが出来る者は、この砦には一人しかいない。そのことを徐晃は承知していた。そして不快感を禁じえなかった。その人物がこの部屋に入るたびに、まごうことなき殺意を覚える徐晃は、険しい視線で部屋に入ってきた人物を見据える。 すなわち、白波砦の総帥、韓暹の姿を。「よ、楊奉、許昌の曹操めが我らの討伐に動いたという知らせが来たぞッ!」 徐晃の視線など気にもとめず――というより、動転して気付いていないのかもしれない。白波賊の頭目である韓暹は、それほどに慌てた様子をあらわにしていた。「落ち着かれませ、旦那様。討伐の官軍を撃ち破ったのです、許昌の小娘が動くのは当然でございましょう。いかほどの大軍を動員したのですか?」「一千だッ!」「……なんですって?」 問いかけに応じて韓暹の口から出た答えは、明らかに楊奉の予測と異なっていた。「わずか一千? まことですか?」「ま、間違いない。つい先刻、都から連絡が来たわ。丞相曹孟徳は、白波討伐のために、麾下の兵一千を動かしたという。そ、それもただの一千ではなく、精鋭と名高い丞相の親衛隊であるというぞ」 その韓暹の言葉に楊奉は思い当たるものがあった。「虎豹騎……忌々しい小娘め。こちらの思惑を読んだか。いかに精鋭とはいえ、一千程度が都から離れただけでは、奴らは動かぬ」 そう言うや、楊奉はようやく傍らに立ったままの娘に視線を向けた。 その視線に気付き、徐晃は直立不動の姿勢をとる。「公明、幸運でしたね。こうも早く挽回の機が来るとは」「はい、母様。此度こそ、必ず……」「ええ、もちろんよ。いかに曹家の精鋭といえど、例の策を使えば、再び血祭りにあげることは容易いでしょう。旦那様もお気を平らかに。皇甫嵩ひきいる二千の軍勢さえ撃ち破った我らです。今度の敵はその半分、恐れるべき何物がございましょうか。塩賊の陰助と朔北の兵力、この二つがあるかぎり、曹操など恐れるに足りませぬ」「う、うむ、そうであったな」 楊奉の言葉に、韓暹はようやく落ち着きを取り戻したように見えた。 その韓暹の姿を、どこか冷ややかな眼差しで見据えていた徐晃に、楊奉は再び声をかける。「公明」「は、はい、母様ッ!」「今度の敵将は生け捕りにする必要もない。その生首を許昌に送りつければ、丞相を騙る小娘も自身で動かざるを得ないでしょう」 楊奉は嫣然とした笑みを我が娘に向け、いかにも楽しげに――言った。「――皆殺しになさい。その屍山血河をもって、許昌の大軍をこの地に招き寄せるのよ」 中華の覇権を巡り、中原に再び吹き荒れようとする戦乱の嵐。白波砦に陰々と響き渡る宣告は、その荒天を告げる前兆として、聞く者の耳朶を撃つ。 韓暹はどこかうそ寒そうに首をすくめた。 一方、母の令に応じて深々と頭を垂れた徐晃は、韓暹と異なり、今度こそ母の求めに応じようとの気概で全身を満たす。母の令に応じることが、己が身にどのような結末を招くかを半ば以上察しながら、その意思は少しも揺らぐことなく、少女の心身を衝き動かすのであった……