長江を遡り、荊州へと逃れた劉家軍の総数は三千を越える。 根拠地を持たない流浪の軍――しかも淮北で曹操軍に敗れ、淮南で袁術軍に追われて、なおこれだけの将兵が劉旗を仰いでいる事実は劉家軍の精強さを物語って余りあるだろう。 とはいえ、当然ながら問題も存在する。 三千の兵がいれば、三千人分の糧食が必要になる。戦うに際しては三千人分の武具を要する。それ以外にも数え上げれば際限がない種々の問題は、要約すれば一言であらわすことが出来た。つまりは――「金が足りんなあ」 簡擁がぼやく。「糧食もちと心もとないな」 糜竺が頷く。 劉家軍の旗揚げ以来、もっぱら資金、糧食といった内向きの差配をしてきた簡擁だが、荊州に着いてからというもの、以前にもましてぼやきとため息が増えていた。主要な収入もなしに三千を越える人数を養うのは、それだけ頭の痛い難事だったのである。 一方の糜竺は、陶謙の死によって正式に劉備配下に組み込まれ、簡擁と共にこの問題に取り組んでいるのだが、こちらも簡擁と同様にこれといった妙案も浮かばない。「まあ、そもそも何千という数をたやすく食わせる術がほいほいと見つかるはずもないのだがな」 そう言って糜竺は肩をすくめる。 簡擁としても、その言葉にはまったくもって同感なのだが、だからといって何も考えないわけにはいかない。 袁術軍の追撃から逃れるために、かなりの物資を淮南に置いて来てしまったこともあって、現在の劉家軍の懐具合は非常に寒々しい。 すでに資金は底を尽きかけており、食料は普通に食べて半月、節約すれば一月もつかどうか、といったところであった。 もっとも、資金や糧食が乏しいからといって、ただちに劉家軍存亡の危機につながるわけではない。 劉家軍の長である劉備は、正式に劉表に客将として迎えられたので、そちらからの援助を受けることが出来るからである。 しかし劉表から全面的な援助を受けることは出来れば避けたい、というのが簡擁と糜竺の考えであり、ひいては他の劉家軍の諸将の総意でもあった。「過ぎた借りは返すのが大変ですからなあ」「うむ。なまじ武名が上がってしまったゆえ、荊州の内輪の争いに巻き込まれぬとも限らぬ。付け込まれる隙を見せるべきではあるまい」 うんうんと頷きあう二人。 一見、平和に見える荊州だが、劉琦と劉琮の跡目争いをはじめとした幾つものきな臭い問題を抱えている。今は劉表が健在であるから表立った問題にはなっていないが、もし劉表が倒れてしまえばその限りではない。 その時、客将として過分な恩を被っていた場合、劉家軍もまたその争いに巻き込まれかねないのである。 まあ、もっとも――と簡擁は頭をかいた。 「……桃香様はすでに片足を突っ込んでしまわれているような気もするがのう」「……玄徳様の為人では致し方ないというべきか」 糜竺が浮かべた表情は苦笑ではないが、限りなくそれに近いものであった。 荊州の後継者問題の一方の当事者である劉琦と、彼らの主である劉備が付き合いを深めているのは周知の事実であった。 ともあれ、出来るかぎり荊州に借りをつくりたくない、という原則がそれによってかわるわけではない。独立独歩とまでは行かずとも、荊州からの援助は最低限のもので済ませい、というのが劉備に仕える者たちの考えであり、それを具体的に実現するのが簡擁と糜竺の役割であった。 とはいえ、糜竺の言うとおり、何千という人数を養い、軍としての形を維持するのは容易なことではない。なるべく劉表や荊州の重臣たちの援助を得ずに、という前提がつけば尚更である。 状況に変化が生じたのは、つい先日のこと。 一つの知らせが劉家軍に届き、劉家軍の現状に一筋の光明をもたらした。 簡擁は安堵と悔いを等分に宿した、なんとも微妙な表情で口を開く。「幸い雲長殿や北郷殿らの勇戦で朝敵の汚名は返上することができましたし、襄陽の商人の中からも桃香様と誼を通じようとする者も出てきたところ。孔明殿や士元殿も故郷の人脈を駆使して動いてくれておることですし、これまでよりは随分と楽になりましょう。しかし……」「うむ、それは確かに喜ばしいが、だがこの好ましい流れに、我らがいささかも寄与していないあたりは問題だな。率直に言って、役立たずの観を拭えぬ」「然り。いやはや、いい年をして面目ないことでござる」 糜竺の言葉に、簡擁はやや情けなさそうに頷くしかなかった。 実際のところ、糜竺は糜竺で徐州以来の外交手腕を活かして、荊州内部に人脈を広げていたし、簡擁は簡擁で襄陽の商人連に幾度も足を運ぶなどして、それぞれに成果を挙げてはいた。二人がいなければ、劉家軍を取り巻く状況がもっと過酷なものとなっていたことは疑いない。 しかし、年少の者たちが自分たち以上の働きをしている現状で、己の成果を誇るほどに二人とも厚顔ではなかった。「とはいえ」 糜竺は肩をすくめる。「どうされた、子仲(糜竺の字)殿?」「いい年した男二人が、不景気な顔をつきあわせていたところで良策が出るわけでもないのだがな」 その言葉に、簡擁が苦笑しつつ口を開きかけた時、部屋の扉が叩かれた。 簡擁が扉の外に立つ者に入るように促すと、ゆっくりと扉が開き、一人の少女が室内に足を踏み入れてくる。 その少女の顔を見て、簡擁は驚いた。「これは叔治殿、いかがされた?」「はい、憲和様に昨日頼まれた分が終わりましたので、別の仕事をいただきにあがりました……あ、子仲様もいらっしゃったのですか。す、すみません、大事なお話の途中でしたでしょうか?」「いや、そう大した話をしていたわけではないのでかまいませんぞ。しかし、終わったと言われたか?」 叔治――北海の戦いから劉家軍に加わった王修の言葉に、簡擁は目を丸くする。 劉家軍の諸将は、文武どちらかといえば武に偏った者が多い。必然的に簡擁や糜竺、さらにその下で働く王修らの負担は大きくなってしまいがちである。 簡擁が王修に頼んだ仕事は、質量ともに一日二日で終わるようなものではなかったはずなのだが。「は、はい。仲穎(董卓の字)さんや文和(賈駆の字)様も手伝ってくださいましたので、なんとか終わらせることが出来ました」 俯きながら、ぼそぼそと口にする王修を見て、簡擁は口にしかけていた賛辞を寸前でおしとどめる。 王修から手渡された成果を見れば、いつもながらに見事な仕上がりである。董卓と賈駆の手助けがあったとはいえ、それは王修自身の能力を否定するものではない。 簡擁としては幾重にも感謝したいところなのだが、王修の沈んだ表情を見るに、それを口にしても哀しげに首を横に振るだけであろうと思われるのだ。これまでそうだったように。 先の敗戦以来、王修は明らかに無理をしている。それは簡擁ならずとも感じるところであった。 元々、生気溌剌といった為人ではない。執務室の一画で、静かに、黙々と自分の仕事に取り組んでいた少女にとって、淮南の敗走と、その過程で失われたものはあまりにも大きかったのだろう。 本人は不安も不満も一言半句とて口にしなかったが、生気の失せた眼差しや、こけた頬を見れば、その内心は明らかであった。 新たに与えられた仕事を持って王修が退出すると、簡擁は深々とため息を吐いた。 傍らの糜竺はそんな簡擁を見ても皮肉を口にせず、めずらしく気遣わしげに口を開く。「よいのか? あの者、かなり参っているように見受けたが」「休んでくれと言うて聞き入れてくれる子ではなくてのう」 実際、簡擁はすでに何度も王修にそう言っていたが、その都度、王修はそれこそ泣きそうになりながら、首を横に振るのが常であった。「無理にでも休ませようかと思ったが、劉佳様はそれも良くないと仰る。今は忙しさで何とか悲しみを堪えているところ、時間が出来れば、今よりもさらに不安に押し潰されてしまうだろう、とな」「玄徳様の御母堂がそう仰るのであれば、たしかに無理やりというのは良くないのだろうな。大方の者たちは子竜殿と益徳殿の帰還で多少なりとも持ち直しているが……」 糜竺は眉根を寄せ、難しそうな表情で首をひねる。 簡擁も同輩と似た表情で一つ頷いて見せた。「友である子義殿は敵地である淮南で行方知れず、恩人と慕っておる北郷殿は曹軍の虜囚ときては安堵できるはずもない。叔治殿に限っていえば、今回の知らせは凶報に他なるまいよ」「くわえて今の劉家軍に淮南と許昌に人を向ける余力なぞない以上、不安の晴らしようもなし、か」 簡擁と糜竺は顔を見合わせ、ため息を吐いた。 休めと言うわけにもいかず、かといって簡擁や糜竺といった上役が仕事に口や手を出せば、今よりさらに王修を追い詰めることになりかねない。 さらに言えば、現状で王修に抜けられてしまうと、ほぼ確実に仕事に支障をきたしてしまうことがわかりきっているので、それもまた簡擁にとっては頭痛の種であった。 というのも、常は簡擁の上で文事を総攬している諸葛亮が、現在、鳳統と共に故郷の人脈をたどって劉家軍への援助を得るために駆け回っているところであり、簡擁にかかっている負担は並大抵のものではない。ただでさえ人手が足りない文官から、今、王修が抜けてしまうのは、はっきりいってまずいのだ。下手をすると、将兵の間から不満の声があがる事態になりかねないのである。 王修に負担をかけたくはないが、それを担ってもらわないと劉家軍が立ち行かない。 どれだけその身を案じようと簡擁らに出来ることはなく、結局のところ、王修への配慮は劉佳や董卓に頼るしかないわけである。 役立たず、ここに極まれり、と簡擁がもう一度ため息を吐こうとした時だった。「――ふむ、なにやら辛気臭い空気が漂ってくると思えば、大の男が二人もそろってため息ばかりとは」 不意に耳朶を震わせたその声に「大の男二人」はそろってぎょっとした顔をした。 その声は入り口の扉からではなく、室内から響いたように聞こえたからだ。 慌てたように声が聞こえてきた方を見やった二人は、すぐに自分たちの勘違いを悟る。声の主は室内に潜んでいたわけではなく、きちんと外から部屋へ入ってきたからだ。 ――もっとも窓から入ってくることを「きちんと」と言うべきかどうかは議論の余地があるかもしれないが。「ちょ、趙将軍、驚かせないでくれい」「これは失礼、憲和殿。おお、子仲殿もこちらでしたか。叔治を探していたところ、なにやらどんよりとした空気が漂ってきたので、誰かと思えばお二人とは」 趙雲の言葉に、糜竺が小さく肩をすくめる。「お言葉恐れ入るが、今現在の情勢を考えれば、ため息の一つ二つは致し方ないと思われませぬか?」 対して、趙雲ははっきりとかぶりを振ってみせる。「否とよ、子仲殿。和気致祥という言葉もある。苦しく辛い時にこそ、笑い励み、部下を力づけることこそ我ら文武の官の務めではござらんか? ため息ばかりの陣営では、折角やってきた幸運も我らに愛想を尽かしてしまいましょうぞ。それに――」「それに?」「少なくとも、我らは許昌の公祐(孫乾の字)殿や一刀よりは恵まれておりましょう。塞ぎこんでいる暇などありますまい」「……ふむ、確かにそれも道理であるか」 糜竺は右の手で顎をさすりつつ、なにやら納得したように頷いていた。「ところで、叔治がこちらにいると聞いてきたのですが」「おう、叔治殿ならつい先ほど出て行かれましたぞ」 簡擁が応じると、趙雲はむむ、と眉をひそめた。「入れ違いであったか。邪魔をしました。それがしはこれにて」「……いや、趙将軍。何も窓から出て行かずとも、普通に扉から出ればよろしいのでは――」 そう言って扉の方を見やった簡擁が、趙雲に視線を戻したときには、すでにその姿は室内にはなく、窓から枯葉と共に冷たく乾いた風がはいりこんでくるところであった。「っと、もうすでにおられぬか。いや、まったく風のごときお人よな」 簡擁が呆れ半分に感心すると、その傍らでは糜竺が感じ入ったように深々と頷いていた。「武人らしく大胆にして不敵な為人であるとは思っていたが、細やかな心配りもされる方なのだな、子竜殿は」 その言葉に、簡擁は頬をかきつつ頷いた。「うむ、おそらく、ああやって諸方をまわっておられるのだろうよ。確かに身動きとれぬ者たちからしてみれば、荊州の地で自由に動ける我らが陰々としていては面白くなかろうて。ため息なんぞ吐いている暇はないのう」「然り、だな。しかし、この年で年少の女子に励まされるとはな。これは猛省せねばなるまい」「確かに。劉家軍の男どもは基本的に引き立て役になる定めとはいえ、その立場に甘んじるようでは男児の沽券に関わるというもの。せめて置いていかれぬように励むことにしましょうぞ」「……それはそれで情けない話ではあるがな」 そう言って、文官二人は苦笑を交し合う。 それは決して朗らかといえる笑みではなかったが、しかし、先刻までの重苦しい雰囲気がいつの間にか消え去っていたことは、確かな事実であった。 ◆◆◆「おお、やっと見つけたぞ、叔治」「わあッ?! ちょ、ちょ、趙将軍、ど、どこからいらっしゃったんですか?!」 執務室に向かう道すがら、ふと立ち止まり、ぼんやりと外をうかがっていた王修は、煙のようにあらわれた趙雲を前に驚きの声をあげてしまう。 対して趙雲は事も無げにこう言った。「見ればわかるであろう、屋根を伝って窓から入ってきたのだ」「いえ、それは見てもわからないんですが……」 王修は表情の選択に困りながらも、律儀にそう指摘した。「ふむ、良い日差しだ。やはり、こういう日は外で飲むにかぎるな」 話があるという趙雲に、中庭にある東屋の一つにまで連れ出された王修は、早くも酒盃を手にしている趙雲に困ったような眼差しを向けた。「あ、あの将軍様、お話というのは……?」「まあそう急くな。仕事があるから早くしろ、と言いたいのだろうが、そなた、見るからに不健康そうな顔色をしているぞ。大方、ずっと執務室に篭りっぱなしだったのではないか?」 図星を指され、王修は言葉に詰まる。 その王修の表情を見て、趙雲は軽やかに笑ってみせた。「そう硬くなる必要はない。別にそのことを咎めたり、健康に気をつけよと説教するつもりではないのだ」「は、はい……」 趙雲の言葉に王修は頷いたが、その表情はさして変化しなかった。 実のところ、趙雲と王修はこれまでもさして親しかったわけではない。廊下ですれ違えば挨拶はしたし、仕事で言葉を交わしたことは幾度もあるが、積極的に言葉をかけるような間柄ではなかった。 これは何も趙雲に限った話ではなく、王修は基本的に太史慈や北郷以外の武官との付き合いはなかったのだ。 それゆえ、趙雲に連れ出されたことで過度の緊張を覚えるのは致し方ないことであった。 そんな王修の様子を見て、趙雲はそれと気づかれないほどわずかに目を細めた。言葉を重ねて緊張を解すつもりだったが、それをすればするほどに王修を追い込んでしまいかねないと見て取ったのである。 ここは余計な前置きをせずに本題を切り出すべきか、と考えた趙雲は表情を改めてから、ゆっくりと問いを放った。「淮南の戦のことは、誰ぞより聞いたかな?」「は、はい。劉佳様から、それと憲和様からもお聞きしました」「では、子義と一刀がどうなったかも知っているな」「……はい」 力なく王修は俯いた。あるいは頷いたのかもしれないが、いずれにせよ相貌に浮かぶ深い憂いは隠しようもない。「ならば前置きは省こう。子義がどうして行方知れずとなったのか、その理由を伝えるためにそなたを探していたのだ」「え……?」 趙雲の言葉に、王修は怪訝そうな表情を見せる。「一刀が曹軍に捕らわれたにも関わらず、子義の方は逃げ延びることが出来た。そこにはそれなりの理由があるのだよ――子義の友であるそなたには少々酷な話になるゆえ、口にするべきか否か、いささか迷っていたのだが、詳細を知らずに心痛のみを抱えるのもそれはそれで辛かろう。無論、そなたが聞きたくないというのであれば、あえて語るつもりはないが……」 そう言って、趙雲は王修に問う眼差しを向ける。 対する王修は、びくりと小さく身体を震わせた。 知りたいか否かで言えば知りたいに決まっている。しかし、それを聞いてしまえば、王修が胸に抱えているわずかな希望を打ち砕いてしまうかもしれない。趙雲の言葉を聞いた瞬間、王修の胸によぎったのはその恐れであった。 高家堰の戦以降、太史慈は行方知れずとなっているが、偽帝を退けた勇将として、その名はここ荊州でも人口に膾炙するまでになっている。当然、煮え湯を飲まされた袁術や、その配下の将軍たちは太史慈のことを知っているだろうし、知っている以上は報復を考えないはずがない。 淮南のほぼ全域は袁術軍の支配下にあり、その捜索の手を逃れるのが容易でないことくらい、王修にも想像がつく。明日にも太史慈処刑の報告が届いたところで、なんら不思議ではないのである。 それでも太史慈であれば、袁術軍の追及の手を逃れることが出来るかもしれない――王修はそう自分に言い聞かせながら、日々を過ごしている。 しかし、趙雲の語る話を聞けば、明日からそう信じることさえ出来なくなってしまうかもしれない。 王修はそこまで考えた。 考えた末に――ゆっくりと、しかしはっきりと趙雲に頷いて見せた。 王修の表情に怯えと等量以上の覚悟を見て取り、趙雲はあえて問い返すことはせず、太史慈が逃がされるに至った状況を説明しはじめた。 無論、それは趙雲自身が見聞したものではなく、高家堰の戦を生き残った兵士から伝え聞いたものであり――だからこそ、余計な言葉を付け足すことは出来なかった。 それは予想どおり王修の望みを打ち砕く凶報であり、同時に、太史慈が立っていた戦場が王修の想像もつかないほどの過酷な場所であったことを思い知らせるものでもあった。「……小さな傷は数知れず、右の足を射抜かれて歩くこともままならず、敵将に顔を幾度も足蹴にされ、常の秀麗な容姿は見る影もないほどに腫れ上がっていたそうだ。さらに幾日にもわたる死戦の疲労と、傷から発した熱とで意識を保つことさえ出来ず、高家堰砦から連れ出された時の子義は、文字通りの意味で満身創痍であったという。いつ事切れても不思議はないように見えた……私に話をした兵士はそう言っていたよ」「……そん、なに……?」 王修は両手で口元をおさえ、うめくように呟く。 趙雲は厳しい表情を湛えたまま、あえて王修の反応を無視して言葉を続けた。「その子義を、一刀は自分の馬に乗せ、廖化という副将に託して砦から逃がしたそうだが、逃がしたといっても、周囲は袁術に十重二十重に取り囲まれていた。月毛――これは一刀の馬の名だが、あれは良馬ではあっても、呂布の赤兎馬、曹操の絶影といった名馬には遠く及ばぬ。廖化とやらにしても、それなりの腕はあったようだが、千や万の軍勢を蹴散らすほどの武勇を持っているわけもない。ましてや子義という重荷を抱えた状態だ。正直、敵中を突破できたかどうかさえ怪しい、と私は思う」 それを聞いた時の王修の顔色は、半ば死者のそれに近かったかもしれない。 いつ死んでもおかしくないような傷を負った身で、趙雲ほどの武将が危惧を示す戦場を駆け抜ける……どうして昨日までのような楽観を抱けようか。あるいは趙雲は遠まわしに太史慈の生存を諦め、その死を受け入れろと言っているのだろうか。半端な希望に縋り、現実を見ようとしない自分を叱咤しているのだろうか。そんなことまで王修は考えてしまった。 無論、王修の考えは間違っている。趙雲の意図はそんなところにはなかった。 それどころか、むしろまったくの正反対であったのだ。すなわち、趙雲はこう続けたのである。「いつ事切れても不思議ではないと言われるだけの傷を負い、ただ逃げることさえ容易でない戦場に放り出され、その上でいまだ行方が知れぬというのなら――案ずることはない。子義の命に別状はあるまいよ。すぐにとは言えぬが、いずれ再会することは出来るだろうさ」 その言葉を聞き、王修はぽかんと口を開けた。 何故といって、まったく意味がわからなかったからだ。より正確に言えば、趙雲が口にした言葉の意味はわかる。しかしながら、前後の文がまったくかみ合っていないと王修には思えた。 しかし、趙雲は疑惑と困惑に満ちた王修の表情を見ても、さして気に留めた様子を見せない。「ふむ、何を言っているのかさっぱりわからぬ、といった顔だな」「……え、ええと、恐れながら、そのとおりです……」「さして難しいことを言ったつもりはないのだが――では、もっと砕いて言うことにしよう」 王修が固唾をのんで見つめる中、趙雲はあらためて口を開く。「まず負傷のことだが、これは一刀が子義を逃がした時点で案ずる必要はないとわかるだろう。何故といって、あの砦には広陵の陳太守をはじめ、死なせてはならない高官が幾人もいたし、広陵から逃れた女子供も少なくなかった。そんな彼女らをさしおいて、一刀は子義を逃がしたのだ。子義の負傷が真に命に関わるものであり、助かる可能性がないとわかっていれば、一刀は他の誰かを逃がしたであろうよ」 だから重傷ではあっても、命に別状はない。 その趙雲の言葉はかなり強引な解釈によって成り立つものであったが、それなりの説得力を有していた。少なくとも王修にはそう聞こえた。「問題は無事に包囲を抜けたかどうかだが、これはもっと簡単だ。仮に抜けられなかったのであれば、子義はとうに処刑されているに違いなく、それは我らの耳に届いているはずなのだ。なにしろ、袁術にとっては淮南侵攻における唯一の敗北だからな、高家堰の戦は。その敵将を捕らえたのであれば、衆目の元で盛大に、かつ残酷にこれを処刑し、天下に対して、仲に逆らった者の末路はかくのごとし、と喧伝するのがあれらのやり方だ」 しかるに、未だに太史慈は行方知れずのままとなっている。それこそが、太史慈が袁術に捕らえられていないことの何よりの証左である、と趙雲は言う。「無論、だからといって無事であるとは断言できん。子義の負傷は一月やそこらで完治するものではないだろう。傷の手当をしながら、敵地である淮南で、袁術の目を潜り抜け続けるというのは、いかにも無理がある。子義は無論、廖化とやらも淮南の産というわけではないそうだから、地の利はないだろうしな」 あるいは淮南の何者かが二人を匿っているのかもしれない、と趙雲は考えていた。いまだ袁術に捕まらず、しかし荊州や許昌に姿を見せたわけでもないとなれば、その考えが穿ちすぎであるとは断言できまい。 この場合、その匿った者の考え一つで太史慈も廖化も再び危険に晒されることになるのだが、高家堰の戦から今日まで、ある程度の日にちがすでに過ぎている。これだけの期間、危険をおかして二人を匿い続けたのであれば、おそらく匿った者にも相応の理由があるはずであり、それが一日二日で急激に変じる可能性は少ないだろう。 趙雲はそこまで語ると、眼前でみるみる生色を取り戻しつつある王修に笑いかけた。「つまりはそういうことだ。私が言わんとしていることが理解できたかな?」「はい……はいッ」「いずれ時が至れば、子義は――そして一刀も帰ってくる。二人が帰ってくる場所を守ることこそ我らの務め。俯いている暇などないのではないかな、王叔治殿?」 趙雲の言葉に、王修は目元の涙を拭い、はっきりと頷いて見せた。「その……そのとおりでございますね、将軍様。私は皆様と違って矛をふるって戦うことは出来ませんけど、でも、この場所を守るお手伝いくらいなら、きっと出来ると思います。下を向いている暇なんてないんですよ」「そのとおり。そうして、戻ってきた二人を笑顔で迎えてやれば、これに過ぎたるはない。ついでに――」 そういって、趙雲は指を伸ばして王修の胸元をつつく。「きゃッ?! しょ、将軍様、ななな、なにを?!」「いやなに、戻ってきた一刀をたわわに実ったそれで包んでやれば、さらに喜ばれるだろうと思ってな」「あ、え。いや、あの…………将軍様?」「ふむ、こんなところにも後宮の妃候補がいたとは。やはり一刀は侮れんな」「こッ?! きさッ?! あの将軍様、ほんとに何をッ?!!」 なんと反応すれば良いやらわからず、あたふたとする王修の声に、趙雲の軽やかな笑い声が重なった。