「お久しゅうございます、我が主よ。徐州では大言を吐いておきながら、あの体たらく。面目次第もございませぬ」 深々と頭を下げる趙雲の姿を見て、その場にいた者たちは程度こそ違え、それぞれに驚きの表情を浮かべた。 趙子竜は常は飄々としているように見えて、その実、中華でも類稀な武芸の腕と明敏な頭脳の冴えを併せ持つ豪胆の将。その趙雲が慙愧の念もあらわに深々と――地にすりつけるように頭を下げているのである。 常の趙雲を知る者にとって、それは驚きを禁じえない光景であった。「今さら何のかんばせあってまみえようか。そう思いはしたのですが……」「顔を上げてください、子竜さん」 言葉を続けようとした趙雲は、劉備の言葉を聞いて口を噤む。劉備の声は穏やかで、趙雲の罪に激しているわけでも、あるいは突然の趙雲の行動に慌てているわけでもない。ただ穏やかで――にも関わらず、趙雲はごく自然にその言葉に従っていた。 顔をあげれば、目の前に劉備がいる。顔はやつれ、おそらくは涙をこらえてのことだろう、瞳はかすかに震えていた。 それでも、劉備の声は穏やかに、威厳さえともなって趙雲の耳に響いたのである。「子竜さんが懸命に戦ってくれたことは、誰に聞かないでもわかります。だって、こんなに……」 そう言って、劉備はそっと趙雲の頬に触れた。趙雲が劉備の顔のやつれに気づいたように、劉備もまた趙雲が秘めようとしていた心労の痕跡をしっかりと見抜いていた。「こんなになるまで、戦ってくれたんですから。その勲を、誰にも否定なんてさせません。たとえ子竜さん自身にだってさせません。だから、顔をあげてください」「主……」 劉備の言葉に、趙雲は半ば呆然として言葉を返す。 劉備の顔をまじまじと見つめ、しばし後、こくりと素直に頷いてみせた。「承知仕った。主の命とあらば、従わざるを得ませぬな。まずは何をおいても大言の責任をとらねばと思っておったのですが……玄徳様」「は、はい、何ですか?」 趙雲の眼差しが真摯なものにかわったことに気づき、劉備は何事かと背筋を正すが、趙雲は不意にみずからの迂闊さに気づいたように小さくかぶりを振った。「……いえ、これを口にするのは後にいたしましょう。今はわが身のことよりも先に、お伝えせなばならぬことがありますゆえ」 その言葉に劉備の顔が緊張に染められていく。 淮北に残った趙雲が伝えなければならないこと――それは、今この場にいない者たちの消息であることは明らかだったからだ。「あ、あの、趙将軍、他の皆さんは……ッ!」 真っ先に声をあげたのは、それまで黙って劉備と趙雲を見守っていた軍師の一人――鳳統だった。 最近、とみに目立つ冷静さ、その対極に位置する叫びに、周囲の人々が驚きを示すが、当の鳳統はそんな周りの視線に気づかず――あるいは気づいても気にも留めず、食い入るように趙雲を見つめている。 反応が一番激しかったのは鳳統だが、この場にいる者たちも皆、鳳統と同様の心境である。 もちろん、趙雲もそれはわかっていたのだろう。いつものようにもったいをつけることも、遁辞を構えることもせず、周囲が求めているであろう答えを口にした。「詳しいことは措きまする。淮北に残った将、それがし、愛紗、益徳は皆無事にございます。兵に関してはさすがに無傷というわけにはいきませず、五十二人が討たれました。もっとも、曹操殿が加減をしておらねば、この数が十倍になっても不思議ではありませんでしたゆえ、これは不幸中の幸いと申すべきかも知れませぬ。淮南の戦が終わった後、愛紗は曹操の下に残り、それがしと益徳は玄徳様の所在を求めてこの地に向かったのでござる」 詳しいことは措く、とあらかじめ言ったように、趙雲は詳細は後に述べることにしたらしい。 どうしてそうなったかはばっさりと切り落とし、ただ結果だけを口にしていった。 そして。「淮南に残った将でござるが……」 室内に満ちる無音の緊張。その張り詰めた空間を、趙雲の沈痛な声が響き渡った。「子義の行方は知れず、一刀はかろうじて命だけはとりとめました。しかし、その麾下の兵は……袁術軍の猛攻に晒され、最後まで一刀と共に生き残ったはわずか十七名。彼ら以外は、皆、淮南の地で果てた由にござる」 北郷の生存のところでわずかに緩まった室内の空気は、しかし、それに続く趙雲の言葉で再び張り詰めた。 噂で聞き、予測もし、覚悟もしていたことである。砦に篭っていたとはいえ、十万を越える敵軍に対し、わずか五百で抗戦して無事に済むはずがない。 しかし、五百名を越える兵士が篭った砦の生き残りがわずか十七名……河北から続く劉家軍の転戦の中で、ただ一戦でこれだけの被害を被ったことはかつてない。文字通りの意味で、高家堰砦の劉家軍は壊滅したのである。 その事実に、室内にいる人々は等しく顔を俯かせた。亡き戦友を悼むため、そしてその勲功を受け継ぐみずからの責任を、今一度、胸奥に刻み込むために。 同時に、彼らが簡略にすぎる趙雲の報告の細部を聞きたいと思ったのは当然であった。 というよりも。 今この時、何故にわざわざ詳細を省く必要があったのか。 その理由にいち早く気づいたのは劉備であった。あるいは、趙雲がそれを口にした瞬間から、とうに察していたのかもしれない。別に驚くことでもない。この場にいる誰よりも、その人物に近い劉備であってみれば、それは当然のことでさえあったろう。「子竜さん、鈴々ちゃんは今、どこに?」「は……城門に入ったところから、動こうとしま――」 趙雲の言葉が終わるよりも早く、劉備は脱兎のごとく部屋から駆け出していた。 普段は、むしろおっとりとした観のある劉備の機敏な動きに、歴戦の諸将も呆気にとられている。「ちょ、趙将軍、玄徳様はどう……あ、いや、それよりも張将軍はどうされたのですか? もしや怪我なり病なりに……」 それまでじっと趙雲の話に聞き入っていた陳到が、突然の劉備の行動に驚きつつも、事情を知っているであろう趙雲に問いを向ける。「負傷したと言えばそのとおり。病であるとも言えますかな――ただし、身体ではなく心の方でござるが」「心、ですか?」 陳到は怪訝そうにそう呟いたが、すぐに趙雲が言わんとしていることを察し、はっとして口を閉ざした。 そんな陳到に、趙雲は一度だけ頷いて見せる。「さよう。一騎当千の武人とはいえ、あれはまだまだ幼い。戦に敗北したこと自体はもちろんのこと、愛紗と一刀を敵の……曹操の下に残し、自分たちだけ逃げ出したことを悔やみ続けているのですよ。そして、玄徳様に何と思われるかと怯えてもいる。ここまでは半ば無理やり私が引っ張ってきたのですが、いざ玄徳様に会う段になって不安がぶりかえしたのでしょうな。城門のところから梃子でも動こうとせず、私では如何ともしがたかったのです」 だからこそ、趙雲は一人でここまで来たのである。 戦の詳細を省いたのは、とりあえず最低限の報告をした後、張飛の現状を話して、劉備にあの幼い虎将の傷を癒してもらおうと考えたためであった。 もっとも――「私が説明するまでもなく、玄徳様はすべて察しておられたようですな。益徳のことを誰よりも知っておればこそ、此度の戦で何を感じたのかも手に取るようにわかったのでしょう」「……なるほど、そういうことでしたか。であれば、我らも張将軍を迎えに……」 そう言って席を立ちかける陳到だったが、それを遮ったのは張家の姉妹たちだった。「それはよした方がいいんじゃない? 今は玄徳たちを二人きりにさせてあげるべきよ」「そうだねー、他の人が傍にいると、素直に弱音も吐けなくなっちゃうと思うし」「私も同感。めずらしくちい姉さんが良いことを言ったわ。今は二人きりにさせてあげましょ」 最後の張梁の言葉を聞いた途端、張宝が頬を膨らます。「ちょっと人和、めずらしくってどういう意味よ?」「非常にまれ、めったにない、そういった意味よ」「誰も言葉の意味なんて訊いてないわよッ! この美麗秀才の地和様が、物事の道理を見据えて意見を述べるなんていつものことでしょうがって言ってんのッ」「うん、さすがに姉さん。この中でもっとも張将軍と精神年齢が近いだけあるなって感心した」「ふふん、最初からそういいなさいよ……って、ちょっと待って、何もほめてないじゃん、それッ」「あら、私は褒めてるつもりなんだけど。いつまでも童心を失わないちい姉さんはすごいと思う」 やっぱり褒めてないじゃない、といきり立つ張宝に対し、張梁はなおも言い募る。 唐突にはじまった姉妹の口げんかに、陳到も周囲の者もぽかんとするが、その言わんとするところは皆が理解した。 席を立ちかけていた者も、再び座りなおす。 そんな中、口を開いたのは張角だった。「じゃあ益徳ちゃんのことは玄徳ちゃんに任せるとして、私たちは趙将軍のお話の続きを聞かせてもらおう」 口調は普段と大差ないのんびりとしたものだったが、その眼差しは思わず息をのむほどに真剣そのものである。少なくとも、その眼差しを向けられた趙雲にはそう感じられた。「承知した……やはり一刀のことから話した方が良いのかな?」 張飛の心配がなくなったからか、趙雲はここでようやく皆が見慣れた、からかい混じりの笑みを浮かべた。 張角が北郷に思いを寄せていることは、ここにいる全員が知っている。なにせ小沛にいた折、張角自身がそう宣言したのだから。 しかし――「んー、私としては関将軍のことを先に聞きたいかな。なんで丞相さんのところに残ったのかは大体わかってるつもりだけど、本当のところがどうなのかがわからないと、戻ってきてもらうために、どうすれば良いかもわからないでしょ? それに――」 そこで張角はにこりと微笑んだ。「多分、関将軍のことを訊けば、一刀のこともわかるだろうしねー」 その笑みに、趙雲もまた笑みで応じる。「ふふ、さすがは伯姫(張角の字)殿、見事な洞察ですな。仰るとおりゆえ、まずは淮北で我らが曹操に降ったところからお話ししよう」 そう言って、趙雲は当時のことを思い起こしながら、口を開く。 鳳統や諸葛亮をはじめとして、皆がその一言一句を聞き漏らすまいと口を噤む。 しわぶき一つ起きない室内に、趙雲の声がゆっくりと紡がれていった。◆◆◆「鈴々ちゃんッ!」 襄陽城は荊州の首府であり、当然のように城門の周囲は大勢の人で混雑している。 その中に分け入った劉備であったが、手がかりなしに義妹の姿を見つけるには、やはり人の数が多すぎた。 趙雲の言葉を聞いた瞬間、慌てて飛び出してしまったが、これでは探しようがない、と劉備は唇を噛む。 しかし――「あッ!」 劉備は思わず声を高めた。 城門前から少し離れた、やや開けた場所。旅立つ者を見送り、訪れた者を迎える広場の隅に、小ぶりの劉旗が翻っているのを見つけたからである。 当然だが、襄陽に劉旗はめずらしくない。しかし、その傍らに立つ長大な蛇矛は見まがいようもなかった。 おそらく、それは趙雲の計らいだったのだろう。 何故なら当の張飛は、みずからの得物のすぐ傍で、膝を抱えて座り込んでおり、劉備の方を見てもいなかったからだ。 否、劉備だけではない。膝頭に顔を埋め、凍えるように身体を震わせている張飛は、誰一人として見ようとはしていなかった。「鈴々ちゃんッ!」 それを見た瞬間、劉備は駆け出していた。 その劉備の声が聞こえたのだろう。視線の先で、張飛はわずかに肩を揺らすと、おそるおそる顔を上げ……「……お、ねえちゃ……」 他の誰にも聞こえないような小さな声でそう呟くと、張飛は座った体勢のまま、あとずさろうとする。 その動作、涙で濡れた円らな瞳、そして別れた時から一回り小さくなったように見える身体つき。 張飛を苛んできた苦悶の大きさを指し示すそれらすべてを蹴散らすように、劉備は飛びつくように張飛の身体を抱きしめた。 一瞬、張飛はそれを拒むかのように、身じろぎするが――劉備はきつく抱きしめ、義妹が離れることを許さない。。 そして、万感の思いを込めて、その耳元に囁いた。「よかったぁ……やっと、鈴々ちゃんに逢えたよ」 負けてしまったこと、逃げてしまったこと、置いて来てしまったこと……桃園の誓いに背いてしまったとさえ、張飛は思っていた。そんな自分を、劉備が受け入れてくれるだろうかという不安があった。 しかし、泣きそうに震える劉備の声と、自身の身体をかき抱く抱擁は、張飛が密かに抱いていた恐れをあっけなく粉砕する。それくらい、劉備の全身からは、張飛への強く、確かな愛情が溢れていた。「……お、ねえちゃ……ごめんなのだ、ごめんなさいなのだ……鈴々、頑張って、いっぱい、いっぱい戦ったけど……でも、何も、できなかったのだ……鈴々、ばかだから、戦う以外に、何にもできなくて、わかんなくて……」 しゃくりあげながら、張飛は幼い胸に秘めてきた後悔を口にする。「愛紗も、おにいちゃんも……置いてきちゃったのだ……鈴々がいれば、だいじょうぶだから、一緒に行くのだって、愛紗に言ったけど……愛紗、ついてきてくれなかったのだ……自分は行けないからって、子竜と、鈴々だけでも、おねえちゃんを守ってくれって……」 その時のことを思い出したのだろう。ここで張飛は耐えかねたように劉備の胸に顔を埋め、大声を張り上げた。「そのかわりにおにいちゃんは自分が守るから、それで、いつかまたみんなで会おうって言ったのだッ! 愛紗、泣いてたのだッ! 愛紗、泣いてたのに、鈴々、鈴々、何もできなくて……ッ」 泣き叫ぶ張飛を、劉備は強く抱きしめる。 それ以外に、今の張飛にしてあげられることは何も無かったから。 幼い口からほとばしる悲痛な言葉。やがてそれは意味を為さない嗚咽になり、年相応の子供の泣き声へと変わっていく。 そのすべてを、劉備は胸に刻み込む。それを言わせてしまった自分の不甲斐なさを、今一度――否、何度だって心に刻みつける。もう二度と、あんなことが起きないように。もう二度と、あんなことを起こさせないくらいに強くなるために。 繰り返し、自分にそう言い聞かせながら。 劉備は、張飛がやがて泣きつかれて眠り込んでしまうその時まで、ずっとその身体を包み込み続けたのである……◆◆◆ その夜。 劉家軍に与えられた宿舎の屋上に、鳳統は一人、足を運んでいた。 屋上には先夜までなかった旗が高々と掲げられ、襄陽の夜空に翻っている。 緑地に『劉』の一文字。かつて劉家軍が河北で手に入れたその旗こそ、劉家の牙門旗。 淮南の地に残してきたその旗は、趙雲と張飛、二人の手によって再び劉家軍に戻ってきたのである。 ただ戻ってきただけではない。 今や、この旗の持つ意味はかつての比ではなかった。飛将呂布を退け、偽帝袁術を破るという無二の武勲を誇る征旗。袁本初にも、曹孟徳にも持ちえぬその旗を見上げながら、鳳統は唇をかみ締める。 ともすればあふれ出そうになる気持ちを飲み込むためには、それが一番だとこれまでの経験から承知していたから。 しかし、昨日までは押さえ切れていたそれが、今宵は押さえきれるかどうか鳳統にはわからなかった。 広陵郡高家堰砦の戦い。 実のところ、高家堰砦が呂布の軍を退けたことに関しては、鳳統はさほど驚いてはいない。 牙門旗をもって呂布をひきつけ、告死兵の白衣白甲を利用することで敵陣を突き崩す。その策は鳳統自身から太史慈と北郷に伝えた策であったからだ。 無論、彼我の戦力差はかけ離れており、策の成否は実際にそれを行う将兵の資質に拠ったとはいえ、あの二人であればやってくれるはず――その信頼ないし期待があった鳳統にとって、その勝利は予想外のことではありえなかった。 しかし。 その後に続く袁術軍の猛攻に関しては、まったくといっていいほど予測の外にあった。 鳳統と諸葛亮は荊州へ来るや、すぐに淮南の情報をかき集めた。それゆえ、かなり早い段階で高家堰砦で起きた戦いについて掴んではいた。 だが、掴んだ情報の中で、袁術軍の動きは戦理に反すること甚だしく、おそらくは誤報であろうと結論付けていたのである。 全軍の一部を向ける――その程度であればともかく、戦略的価値のない小砦に、袁術軍が全軍をもって攻め寄せるなどどうして予測できようか。 しかし、趙雲が語った高家堰砦の戦の詳細は、鳳統らが集めた情報とかわりないものだった。 否、それどころか、趙雲が高家堰砦の生き残りの兵士から聞いたという実際の戦ぶりは、掴んでいた情報よりもさらにとんでもないものだったのだ。 まるで高家堰こそが天下の要だとでも言わんばかりに四方から攻め寄せる袁術軍。そして、それを孤軍耐え凌いだ劉家軍の奮戦。聞けば太史慈も北郷も、みずから最前線に立って敵と刃を交え続けたというが、将がそれほどの気迫を示さなければ、砦はもっと早い段階で陥落していたことは間違いない。 しかし、北郷らの奮戦で圧倒的な戦力差が覆るほど、中華を包む戦乱は優しくない。それは陥落までの時をわずかに引き伸ばす――ただそれだけの、悪あがきに等しい抗戦に過ぎないはずだった。 だが、そうして得たわずかの時間。その時間が、勝敗の天秤を揺り動かす。 おそらくは北郷らもその存在を知らなかったであろう三つの援軍。 西の洪沢湖を炎で染めた火船。北からは関羽が身命を懸けて導いた曹操軍が淮河を渡り。東からは徐州での恩義に報いんと曹操軍の別働隊が独自の判断で動いていたという。 それらすべてが、まるであらかじめ定まっていたかのごとくに高家堰の地で結びつき、偽帝の軍勢を退ける。「……なんて、でたらめ」 思わず、そうこぼしてしまう。軍略に長けた鳳統といえど……否、そんな鳳統であればこそ、淮南の戦の不可解さを、余人よりもはっきりと理解できるのだ。 そして、理解できるゆえに―― 鳳統は零れ落ちそうになる笑いを懸命に堪えていた。 ――涙ではない。嗚咽でもない。笑いを、堪えねばならなかった。 期待していたものを。それ以上のものを。もしかしたら、どこかで予測さえしていたかもしれない、そんな奇跡の精華たる劉旗を前にして、鳳統の心の奥底から湧き上がってくる感情。 それに名前をつけるとしたら、一番ふさわしいのは歓喜に違いなかった。 きっと、こんな気持ちを抱いているのは自分だけ。鳳統はそれを自覚している。 袁術軍を退けたとはいえ、高家堰砦の惨状は目を覆わんばかりであったという。将軍である太史慈は北郷によって逃がされて行方知れず。その北郷も、趙雲たちが旅立つ時には、まだ昏睡から目覚めておらず、曹操軍の軍医によれば、命はとりとめるだろうとのことだったらしいが、張飛はむろんのこと、あの趙雲が絶句するほどに凄惨な姿であったという。 そんな話を聞いた後に、笑いが零れる人間なんているはずがない。 いるとしたら、その人は普通じゃない。そこまで思う。 それでも。「……それでも、私は笑ってるんだよね。ふふ、もう化け物みたい、なんて言えないよ……今の私は――」 化け物、そのものだよね。 その鳳統の呟きに応じるかのごとく、一際強い風が襄陽の夜空を吹き抜けた。 劉旗がはためく音が鳳統の耳朶を振るわせる。まるで劉家軍に相応しからぬ人物を忌むかのように、激しく、猛々しく。 厚い雲に覆われた暗灰色の夜空の彼方に、本物の竜が潜んでいたとて、今の鳳統は不思議には思わなかったに違いない。 身体は震えている。 怖かった。自分の内に棲む化け物が。この状況で笑おうとしている自分が。 口元を笑みの形に歪めつつ、その目には涙が滲む。 しかし、鳳統はかぶりを振ってその雫を振り落とす。 泣いてはいけない。涙で、怖れから目を背けてはいけない。それでは今までと――鳳雛であった頃と何一つかわらないのだから。 鳳統は化け物に自分を渡すつもりなどない。だからこそ、こみあげる笑いを必死で堪えていたのだ。 だがその一方で、これまでのように自身の裡に化け物を押し隠すつもりもなかった。 古来、鳳凰は聖天子の出現を世に知らせる霊鳥であったという。 ならばその雛が孵るために必要なことは何なのか――今さら考えるまでもないことだろう。「一刀さん」 自然に口にしていたのは、かつて鳳統が化け物に怯えていたとき、それを否定してくれた人の名前だった。 あの時、どれだけその言葉に救われたのか、今なお鳳統ははっきりと思い出せる。 でも。「……ごめんなさい。やっぱり、私の中には化け物がいました」 その言葉によりかかっている限り、この先には進めない。もっと早くに気づいていたら、北郷たちをあんな死地においやらずに済んだかもしれない。 認めよう、そのことを。 認めた上で―― 「でも、安心してください。私は負けませんから。一刀さんたちが負けなかったように……ううん、負けないだけじゃ駄目、ですよね。一刀さんたちは勝ったんだから。なら、私も勝ちます。私だって一刀さんたちと同じ劉家軍の一員。化け物なんて逆に呑み込んじゃいます。そのくらいに大きくなってみせます。だから……」 だから、どうか無事でいてください。 最後の言葉だけは、胸の中で呟くに留める。 その鳳統の頭上、さきほどまで雲に覆われていた空から月が顔をのぞかせる。 淡い月光が燐光のように襄陽城に降り注ぐその光景を、鳳統はじっと見つめる。 気がつけば、いつのまにか風は止んでいた。