官軍が解池を奪還してから数日後。 司州河東郡県城。 早馬によって解池の奪還ならびに白波賊の壊滅が伝えられ、城民は歓声をあげると共に安堵の息を吐いていた。 匈奴の軍勢が壊滅し、白波賊が滅んだ。河東郡の動乱が、ようやく終結を見たと考えたからである。 無論、解池の復興をはじめとして、やるべきことは山のように積み重なっているが、当面の脅威はこれで去ったと多くの人々が考えていた。 ――だが、一方で、そうでないことを知る者も少数ながら存在する。 県城の闇の一画に集った彼ないし彼女らは、緊張と怒りをない交ぜにした表情を浮かべ、今後の対応策を検討していた。「みろ、言わないことじゃない。この城の防備に穴をあけておくなど意味がなかっただろう。南陽の指示で潜入したが、とんだ骨折り損だ。この城を陥とす軍がどこにいる?」「結果論だな。白波なり匈奴なりが勝っていれば、無駄になってはいなかった――許昌からあれだけの軍勢が来るなど、誰にも予測できん」「繰言はいいッ! どうするんだ、解池の同胞とは連絡がとれない……一人もだぞッ?! 地下水路も含めて、官軍がこちらの動きを掴んでいるなら、この城にいる俺たちだって無事じゃ済まない。いずれ狩り出されちまうぞッ!」「完全にこちらの動きを掴んでいるなら、とうにこの場所に踏み込んできているはずです。それがないということは、官軍にすべてが筒抜けになっているわけではないでしょう。だからといってずっとここに潜んでいれば無事に済むという保証もありませんけれど」 額を寄せ合い、口々に言い募る。 だが、言葉の応酬は白熱すれども、そこから有効な打開策が導き出されることはなかった。 それも仕方ないのかもしれない。口には出さずとも、ここにいる全員が知っていた。自分たちが追い詰められ、駆逐されようとしていることを。 だが、それを承知している彼らの顔には苛立ちこそあったが、恐慌や自棄は浮かんでいなかった。 何故なら、彼らにとって、この劣勢は昨日今日はじまったことではないからである。 圧倒的に不利な戦いに臨む気構えを持てない者、逃げられる場所がある者は、とうの昔に逃げ散っている。それだけの時間はあった。 彼ら――塩賊の衰退は、丞相曹孟徳が、皇帝を許昌に迎え入れたその日から、とうに始まっていたのだから。 塩賊は官の扱う塩をより廉く民衆に提供するため、民衆と深い繋がりを持つ。白波賊のようなれっきとした(?)賊徒とくらべ、民衆との境界が曖昧なのだ。そのため、政治状況によってはたちまち巨大な勢力に変貌するし――当然、その逆もありえる。 積み重ねられた歴史、そして組織の全貌が容易に窺えないことから、塩賊は官吏や、あるいは他の賊徒からもおおいに警戒されているのだが、実のところ、その勢力はとうの昔に衰亡していたのである。 今や塩賊の実働部隊は五百名に満たず、そのほとんどは洛陽に集結していた。 洛陽以外では、この城にいる五十名がまず挙げられる。もっともこの場にいるのは頭だった四名だけで、あとは城内で指示を待って潜伏していた。 この城以外では、解池の城門を開けた者たちがいるが、今日まで何の連絡もないところを見ると、おそらく彼らはすでに命を奪われているのだろう。 今、この城にいる者だけで現在の戦況をかえることなど出来るはずはない。本来なら、解池から早馬が来るまでに、この城を出て洛陽に戻るべきであったのだが……「くそ、あの方士、どこにいきやったッ?! 肝心なときに役に立たんッ!」「確かに妙だな。知らせるだけであれば、あれらは馬よりもよほど早く動けるはず」「何かがあった、と考えるのが妥当ですね。解池を攻めた官軍を率いる関羽は、匈奴の単于を一刀の下に斬り伏せたとか。方士ごときの歯が立つ相手ではないでしょう」「南陽の指示なく動けば面倒なことになるが、このまま木偶のように突っ立って捕らえられてもまずい、か……潮時だな」 その言葉に、皆が一斉にうなずいた。「官軍を混乱させるために用意していた火はどうする?」「無論、使う。このあたり一帯を焼き払うことくらいは出来るだろう。どの道、俺たちが城門を抜けるためにも陽動は必要だ」「そうですね。何の成果もなく逃げ出すのも腹立たしいです」「はッ、イタチの何とやらってやつか」 口々に言い合いながら、塩賊は素早く動き出そうとする。 ――が、その動きが、不意にとまった。 ざり、と。 彼らの背後から響いてきた足音によって。 咄嗟に振り向いた塩賊たちは、出口から歩み寄ってくる人影を見て、表情を強張らせる。一切のためらいがない歩みは、その人物がたまさかここに入ってきたわけでないことを示していた。 塩賊の配下が無言でここに足を踏み入れることはありえない。そして、ここを知るのは塩賊以外には、あの方士しかいないはずであった。 しかし、歩み寄る人物は闇に溶けるような黒い服をまとっており、白装束の方士とは明らかに別人である。 くわえて、闇の中でなお映える黒髪は長く、どうみても女性にしか見えなかった。「……誰だ、てめえ」 押し殺した誰何の声は、いわば儀礼のようなもの。問いを向けた塩賊も、まさか相手が素直に応えるとは考えていなかった。 だが。「司馬仲達」 答えは拍子抜けするほどあっさりと与えられ、塩賊は呆然とした。 正直に答えたという事実もそうだが、その名前も、塩賊にとって無視しえない意味を持っていたのである。 帝都である許昌の四方を守る役職。東西南北四つの尉。彼女らは丞相である曹操の命令の下、塩賊の拠点を次々に潰していった。 その活動は許昌の内だけにとどまらない。中でも四尉の上席である北部尉の司馬朗は、温和な為人にそぐわない仮借なき掃討を展開し、各地の塩賊の勢力を次々と屠り、塩賊とそれに関わる者たちを震え上がらせた。 今や塩賊にとって、司馬家は不倶戴天の敵といっても過言ではない。 現在では、紆余曲折の末、奇妙な共闘関係を結ぶにいたっているが、それは自分たちの背後にいる者たちの威を恐れただけのこと。塩賊の司馬家に対する敵意は、増しこそすれ衰えることはなく、その名を思わぬところで聞いたことで、塩賊たちはたちまちいきり立った。 しかも仲達といえば司馬家の直系、あの司馬朗の実の妹である。塩賊たちがいきり立ったのも当然といえば当然であった。 相手の狙いはわからないが、他に兵を連れている様子はない。本物か、という疑いは当然あったが、それは司馬懿が黒布の頭巾をとり、素顔を晒したことでたちまち解決した。薄闇の中に浮かび上がった白皙の美貌は、写し絵で見た姿そのままだったからである。「……司馬家の者が、何故ここにいる?」 塩賊の問いかけへの返答はなかった。声にしては。 司馬懿が腰に差した剣をすらりと抜き放った――そう見えた途端。銀色の閃光が、闇の一隅を引き裂いた。 そして。「がァッ?!」 咽喉を押さえて倒れ伏す仲間の姿に、塩賊たちは一瞬、何が起きたのかわからず呆然とする。が、瞬時に事態を察し、次々と武器を手に取った。「何をする、貴様ッ?! 我らを裏切るつもりか!」「――裏切るも何も」 司馬懿は剣先を、蝶が舞うように不規則に揺らしながら口を開く。「私も、司馬家も、塩賊と手を組んだ覚えはありません。我らは漢室の臣。仲の指図に従ういわれはなく、惨禍を撒き散らそうとするあなたたちを見逃す理由もないのです」 そう言った瞬間、後方に回り込もうとしていた塩賊に向け、司馬懿は剣を振るった。寸前までの不規則な動きとは対照的な、空を飛ぶ燕のように速く、鋭角的な斬撃は、防ぐどころか、反応すら許さない域に達している。 あがる悲鳴、何かが倒れる重い音。 残った二人は、それを聞き、もう言葉が意味をなさないことを悟る。一斉に躍りかかる塩賊たち。 迎え撃つ司馬懿はほんのかすかに目を細め。 城内の誰の目も届かない闇の一隅で、白刃が交錯した。 ◆◆◆ 一刻後、司馬懿の姿は県城の南門にあった。 城内は平穏そのもので、火災が起こる気配もない。ただ、わずかに慌しい雰囲気が漂っているのは、衛兵が塩賊の残党を狩り立てているためだろう。 とはいえ、それも間もなく終わる。塩賊は数自体が少なく、また彼らが潜伏している場所は、投降した塩賊の一人によって明らかにされていたからである。 南門は多くの人々でごった返していた。 賊徒や匈奴に怯えて逃げてきた人々が、解池奪還、白波賊壊滅の知らせを聞いて郷里に戻ろうとしているのだ。おそらく他の門も似たような状況だろう。 塩賊がこの隙に逃げようとする恐れがあるため、衛兵によって一応の確認が行われていたが、明らかに人手が足りていない。 足止めされている人々から不満の声があがっており、おそらく、じきに太守から何らかの指示が伝えられると思われた。 その騒がしさの輪から少しだけ離れたところで、司馬懿は民家の壁に背をもたせかけていた。 司馬懿は協力者ということで、太守である王邑や賈逵に面識がある。優先的に城門を通れるようにしてもらうことも出来たが、そうすれば当然、司馬懿がこの城を離れることを知られてしまう。 姉から託された任務が終わったと言えば筋は通るが、その場合、北郷を置いていく形になってしまうし、司馬懿の年齢が年齢だけに護衛をつけるなどという話に発展しかねない。というより、まず間違いなくそうなるだろう。 しかし、様々な意味で、それは好ましくない。そのため、司馬懿は民に混じる形でここまでやってきたのである。 しばらく後。 人の波が城外へ動き出したのを見て、司馬懿も壁から離れて歩き出す。 愛馬と共に城の外へと続く列に並んだ司馬懿は、髪はいつものように頭の横で縛り、顔を隠すための黒布は、今は首に巻きつけて口元あたりまでを覆っていた。この状況で顔を隠せば、賊と疑ってくださいというようなものであろう。 周囲を見渡せば、皆、賊徒の脅威から解放された喜びで湧き立っているように見える。だが、その表情に拭い難い影のようなものがこびりついていることに、司馬懿は気がついていた。 匈奴が去り、白波賊が討たれたとはいえ、戦乱の足音はいまだ止まない。これから先の暮らしを考えれば、心の底から安堵するというわけにはいかないのだろう。 その点、司馬懿も似たようなものであった。 もっとも、その内容はといえば、新帝の擁立やら廃都の復興やら、周囲の人々とはかけ離れたものであったのだが。 城門の衛兵は、若い女性である司馬懿が一人であることに怪訝そうな顔をしたが、腰に差してある剣、そして司馬懿の落ち着きぶりを見て、かすかにためらいながらも通行を許した。まさか司馬懿が年端もいかない少女だとは思わなかったのだろう。 司馬懿もまたそう思われるように心がけて衛兵に対したのだが――いつものこととはいえ、こうも簡単に年齢を誤魔化せてしまえる自分に、少し複雑な気分になってしまう司馬家の麒麟児であった。◆◆ 城門を出た司馬懿は街道を南に下っていく。 この先には黄河の渡しがあり、そこを利用して対岸に渡り、あとは河水の流れに沿って東へ向かう。 洛陽へ行くにしても、許昌へ戻るにしても、これが一番早く着く道筋だろう。 そこまで考えた司馬懿は、馬上、小さく息を吐いた。 洛陽か、許昌か――それは司馬懿にとって、意味のない選択肢であった。 すでに洛陽における挙兵の準備は九割方終わっている。そして、残り一割を担う司馬朗も許昌で動いているはずだった。 今から不眠不休で馬を駆けさせたとしても、許昌に着く頃には何もかも終わっているだろう。ゆえに、許昌へという選択肢は採りえないのである。 司馬朗が計画に加わることを肯い、司馬懿がその姉の下へ戻ると決めた以上、行くべきは洛陽以外にない。「――洛陽起義」 司馬懿は小さく呟く。 それが司馬家の姉妹が参画する計画の名称である。 起義とはすなわち正義の蜂起。 先帝の正当な後継者であった太子劉弁を廃嫡に追い込み、洛陽を灰燼に帰さしめた董卓の悪行。そして、その混乱に乗じて不正な権力を獲得した曹操の専横。彼ら奸臣たちによって、中華帝国は本来あるべき姿を捻じ曲げられた。 今回の挙兵は、それを糾すためのもの。玉座に正当の皇帝を迎え、奪われた権力を取り戻し、中華帝国のあるべき姿を取り戻すための戦いである。 それが仲帝――もっと正確に言えば、その臣下である南陽太守李儒が持ちかけてきた計画であった。 もし。 この計画が直接司馬家に持ち込まれたものであれば、考慮する必要もない夢物語だと一蹴して終わっていたであろう。 李儒が言わんとしていることは間違っていないが、計画を実行に移すのは困難を極め、実現性にいたっては皆無であったからだ。万に一つ、成功したとしても、それは中原に更なる混乱を招き寄せるだけに終わることも明らかであった。 しかし、この計画が司馬家に伝えられたとき、すでに計画は了承された後であった。弁皇子の生母である何太后は、一も二もなく計画に飛びつき、司馬朗に命令という形で計画に参画するよう指示してきたのである。 当然、司馬朗は計画が実現性に欠けていることを事をわけて説明し、自重を請うたのだが、何太后を説得することは出来なかった。宮中の片隅で不遇をかこっていた太后の忍耐心は、とうに限界に達しており、李儒の甘言は的確にそこを衝いていたのである。 同時に、司馬朗は何太后の命令を拒否することも出来なかった。弁皇子への親愛、同情もある。また亡き父の「司馬家は弁皇子に殉じるべし」という言葉も、司馬朗から拒絶の選択肢を奪う一因であった。 宮中の奥深くで、半ば幽閉の身であった何太后に、偽帝の臣下がどうやって近づき、その信を得ることが出来たのか。 それ以前に、漢王朝の存在を無視し、みずから皇帝を名乗った袁術が、どうして今さら漢室の正当を持ち出そうと画策するのか。 疑問は尽きなかったが、それを追求する術も権限も司馬家には与えられず、時は無情に過ぎていくばかりであった。 司馬朗と司馬懿――二人の姉妹は幾度も話し合い、この計画に関して、ある程度の推測は立てていた。その行き着く先も予測できている。 だが、その末路がどれだけ悲惨なものであれ、すでに賽は投げられており、引き返すことは出来なかった。 なにより、ここで司馬家がどういう形であれ消えてしまえば、弁皇子と何太后の下に残るのは、袁術配下の李儒と、得体の知れない方士だけになってしまう。 彼らが何を企むにせよ、それは皇子のためにも、また中華帝国のためにもならないことは火を見るより明らかである。その惨禍から皇子を守るために、傍らに一人で良い、権力ではなく、皇子自身を守るための人間が必要だと司馬朗は考えたのである。 そう、一人で良いのだ。父の言葉に殉じる者は。 姉がそう考えていることは、何となく司馬懿も悟っていた。司馬朗が一度も言葉にしなかったのは、それを口にしても司馬懿が首を縦に振るはずがないとわかっていたからだろう。 そんな司馬懿の推測が確信に結びついたのは、あの日――数奇な縁で知り合った一人の若者を、司馬懿が家に連れ帰った日であった。 仲に属する者たち――李儒、そして方士でさえも警戒心を抱いている劉家の驍将。その訪問を知った司馬朗は、妹に対していとも気軽に解池へ赴けと命じてきた。若者を思いっきり巻き込む形で。 若者の為人を確かめ、もし信ずるに足る人物であれば戻ってこなくても良い。そんな司馬朗の心の声が聞こえてくるようであった。あまりにも急であったのは――家宰を死に追いやった者の手が、司馬懿の身に伸びてくることを恐れたゆえであろう。 姉の心を察した司馬懿は、しかし、姉の望む行動を採るつもりはなかった。 弁皇子を孤立させることは出来ない。同じように、姉を一人にさせることも出来なかった。出来るはずがなかった。 残された司馬孚らにかかる負担は計り知れないであろう。それがもっとも気がかりであったが、あの子たちであれば何とか切り抜けてくれるだろうという信頼もある。 かくて、司馬懿は河東郡へとやってきたのである。 そしてこの地で見るべきものはすべて見た。そう思う。 たとえ自分たち姉妹が全力をあげて弁皇子を補佐しようと。 仲が何を目論み、李儒が何を企んでいるとしても。 洛陽から発する炎は、決してかつてのような燎原の大火にはならないだろうという確信を、司馬懿は得ることが出来た。 あの若者――北郷一刀という人と行動を共にすることで。一ヶ月にも満たない、ほんのわずかな間であったが、その確信は大樹のように揺ぎ無く司馬懿の胸奥に根を張り、こうして県城を離れた今もしっかりと感じられる。 心残りがあるとすれば、きちんと北郷に別れを告げられなかったことか。 敵味方に分かれるのが決まっているとしても、それが礼儀というものだろう。だが、今の司馬懿の立場でそれが許されないことは自明であった。 だから、せめて手掛かりだけでも残そう。そう思って、関羽と話をしたのである。 白波賊の頭目である楊奉は事態の裏面を知る数少ない人物であるし、その娘である徐晃と共に城内に潜入する北郷が、城内で有用な情報を耳にすることは十分に有り得る。 くわえて姿を見せない方士も気にかかる。北郷や関羽が、解池でなんらかの情報を得た可能性は高い。 北郷らが解池で得るであろうそれらの情報と、司馬懿が関羽に口にした言葉。それらがあわされば、あの人たちのことだ、こちらの動きを推測することは難しくないだろう。 司馬懿はそう考えていた。 そして――「……あ」 その考えが間違いでないことを司馬懿は知る。視線の先に、今まさに脳裏に思い浮かべていた人の姿を目にしたことで。◆◆◆「……あ」 そんな呟きをもらし、両目を見開き、驚きをあらわにする司馬懿を見て、俺は小さく笑った。司馬懿の様子が微笑ましかったことと、もう一つ、黄河の渡しへと繋がるこの道で待ち構えていて正解だった、という安堵を込めた笑みであった。 解池陥落の知らせをもって俺が県城へ駆けつけた時(要するに俺が三人の早馬の一人を務めた。到着は案の定最後だったが)には、すでに司馬懿の姿は城になく、賈逵や韓浩たちも行方を知らないという。 厩舎を見れば、司馬懿の馬の姿も見当たらない。県城は許昌には遠く及ばないとはいえ、一郡の首府、人一人を探し回るにはあまりに大きすぎる。事情が事情だけに大々的に探し回るわけにもいかなかった俺は、一計を案じてとっとと城外に出たのである。 司馬懿がいつ、どの門を使って城外に出るにせよ、洛陽なり許昌なりに戻るためにはここを通るだろうと考えたのだ。 そうしておおよそ三時間。これはしくじったかなと冷や汗を流しつつ、いやいや、ここで場所をかえて行き違いになってはと思いとどまることを繰り返した結果、幸い、目的の人物と出会うことが出来た。 これで一安心とこっそり胸をなでおろす俺とは対照的に、司馬懿の方は安心どころではない様子だった。俺がここにいるという一事で、大体のことを察したのだろう。 とはいえ、具体的に俺がどこまで知ったかまではわからないようで――まあ、当然といえば当然だが――言葉を選びかねている様子がありありと見て取れた。 あるいは、俺が姿を現した理由を計りかねているのだろうか。であれば、さっさと用件を切り出すべきだろう。 確認したいことが一つ。問いたいことが一つ。 その答えを得たいがために、俺は解池から馬を飛ばしてきたのである。 そう口にすると、司馬懿はよほどに意外だったのか、幾度か目を瞬いた。 最近気付いたが、司馬懿の感情は表情ではなく、こういった仕草によくあらわれるようである。 俺がそんなことを考えていると、司馬懿はゆっくりと口を開き、問いを向けてきた。「――確認したいこと、というのは何でしょうか?」「ああ、俺の護衛の任務は終了、ということで良いのかな?」「……はい、結構です――短い間ではありましたが、ありがとうございました」 馬上、深々と頭を下げる司馬懿。 司馬懿は俺が解池から早馬として戻ってきたことを知らなかった。その上でこの場にいるわけだから、俺に別れを告げる意思はなかった、と考えて間違いないだろう。 そのあたりの謝罪も弁明もなく、ただ頭を下げる司馬懿。それらが意味をなさないと考えていることは明らかで、それはつまり、司馬懿が異なる陣営にいるという俺の推測を肯定するものであった。 知らず、俺は小さく息を吐いていた。「……そんな丁寧な礼に値することはしてませんよ。護衛の身で、仲達殿を危険に晒してしまったこともあったのですから。ただ、結果としてあなたを無事に伯達様(司馬朗の字)のもとにおかえしできることは嬉しく思ってます」 いまだに司馬懿に対する口調から堅苦しさがとれない。時間が解決してくれるかと思っていたら、この事態だ。世の中、ままならないものである。 これまでの経緯、そして解池で耳にした幾つもの情報から、司馬懿が何かしらの意図を持って、俺と行動を共にしたことは間違いないと思われた。ある程度の推測もできている。 だから「どうして」「何故」という問いかけは発しない。言ったところで詮無いことだし、短い付き合いしかない俺が何を口にしたところで、今さら司馬懿と、そして姉である司馬朗の二人が翻意することはない。その程度の覚悟で事に臨む人たちではないことくらいは、俺にもわかっていた。 だから、俺が向ける問いは二人を止め、あるいは説得するためのものではない。 単純に、俺が、自分の中の二人の像を確かなものにするための問いに過ぎなかった。 すなわち、俺は司馬懿にこう問いかけたのである。「家宰殿は、塩賊の手にかかったということでしたが――それは、どちらの理由だったんですか?」 ここへと到る切っ掛けともなった、あの事件。 司馬家の家宰は、官軍に追い詰められていた塩賊が、官軍を主導していた司馬家へ報復するための残忍な標的となったものと思われた。 だが、事ここに到ると、もう一つの可能性が浮かび上がってくる。 司馬家の家宰は、主家の意向に従って塩賊に殺されたのではなく。 主家の意向に逆らったがために殺されたのではないか、と。 司馬家が叛意を持っているという事実は様々な意味を持つ。 それを知った家宰は何を考えたのか。丞相府に知らせて大利を得ようとしたか。あるいは皇帝や丞相に逆らうことを恐れたか。 それとも――それとも仲の策謀や、新帝の擁立など、一歩間違えれば姉妹がもろともに処刑されかねない陰謀の巷から、主家の姉妹を連れ戻そうと考えたのか。 いずれにせよ、事を決した司馬家にとって邪魔な存在であることにかわりはない。これを殺せば、他の司直から司馬家に向けられる疑いの目をそらすことも出来るのだ。 抽象的な問いかけだったが、司馬懿は俺の問いに含まれた意味を察したのだろう。 次の瞬間、司馬懿の目に恒星さながらの勁烈な光が躍った。 此方を射抜く眼光は、秀麗な容貌とあいまって尋常ならざる重圧をかけてくる。 ――はじめて、だった。司馬懿が本気で怒気を発したところを見るのは。 それは同時に、万言にもまさる解答でもあった。 俺は無礼を謝するために、そして内心の安堵を押し隠すために、先刻の司馬懿のように深々と頭を下げた。「無礼な問いを発したことをお詫びします。引き止めてしまって、すみませんでした、仲達殿」 そうして、馬首を県城に向ける。 司馬懿と行き交う形になるが、それは県城に戻るためである。 もとより、俺はここで司馬懿を捕らえるつもりはなかった。俺一人ではそもそも司馬懿を取り押さえることは難しいし、衛兵を連れて来る理由も権限もない。 司馬家への疑惑――俺の中ではもう確信だが――は確たる証拠がなく、王邑も賈逵も、俺の言葉だけで動いてはくれないだろう。 仮に動いてくれたとしても、司馬懿の才智であれば何とでも言いぬけることが出来る上に、実力で斬り破ることさえ不可能ではない。王邑たちが確認のための使者を洛陽なり許昌なりに出したとしても――おそらく、もうすでに間に合わないだろうという予感があった。 聞くべきことは聞いたし、見るべきものは見た。問題は言うべきことを言ったかどうかなのだが……正直、今は何を口にしても意味がないような気がする。 だから、俺は無言で司馬懿の横を通り過ぎる。あたりに人影はなく、街道にはただ蹄の音だけが木霊している。ふと見れば、北の方から家族連れらしき人たちがこちらに向かって歩いてくるのが見て取れた。このあたりから避難した一家か、それとも戦禍を避けて黄河を渡るつもりなのか。 後者なら、むしろ河北に留まった方が戦禍からは逃れられるのだが、などと俺が考えた時だった。 後ろから、囁くような司馬懿の声が追いかけてきた。「結局――」 その声は耳に慣れつつあったいつもの司馬懿の声だった。ついさきほど垣間見せた怒気は感じられない。 口調をかえないまま、司馬懿は言葉を続けた。俺が振り返っていないように、多分、司馬懿もこちらを見ずに口を開いているのだろう。なんとなくそう思った。「最後まで『仲達殿』のままでしたね」 少し残念です。 そんな言葉が耳朶を震わせる。 しばし後、俺の馬とは異なる蹄の音があたりに響いた。 去り行く背にかける言葉を俺は持っておらず。その背を振り返ることさえ出来ない。 これで良いのかという自問は、他に何が出来るという自答によって封じられ、俺は県城への帰路についたのである……◆◆◆ それから数日の後。県城の城門を、血相をかえた急使が駆け抜ける。 その使者が口にした知らせを聞いた者は、皆、等しく表情を凍らせた。 弘農王劉弁、何者かの手引きにより許昌を脱出、先の帝都である洛陽にて第十三代皇帝を称す。 新帝劉弁、弟である今上帝劉協を皇帝を僭称する悪逆無道の罪人として弾劾、これを討つため、大陸全土に追討令を発す……