鮮麗な黒髪を表現するものとして、烏の濡れ羽色、という形容がある。 青みを帯びた黒、艶のある黒髪を指すこの言葉が、今、俺の眼前にいる白波賊の頭目、楊奉という人物を見ていると、自然に浮かび上がってきた。 美しいといえば美しいし、綺麗と言えば綺麗なのだろう。豊麗な肢体を見せ付けるような衣服をまとって、こちらを見つめる表情は、不思議に穏やかであった。 地下水路の屍の山をようやく抜けたと思った途端、そこには楊奉と、その部下たちが待ち構えていた。楊奉の周囲には白波賊と思われる男たちが鏃をまっすぐ俺たちに向けている。腰まで汚水に浸かっていた為、ろくに身動きが取れない状況だった俺は、咄嗟に動くことも出来ず、その場に立ち竦むしかなかった。 待ち伏せを予測していなかったわけではなかったが、積み上げられた屍に意識を向けすぎて、そちらへの注意と対策を怠ってしまったことを悔やむ。しかし、それはすでに遅すぎた。 徐晃は楊奉が姿を現した折、母さん、と呟いたきり動かない。 こちらに向けられた複数の鏃を見て、死、という言葉が俺の脳裏をよぎった。 だが、しかし。 楊奉は俺たちをその場で殺そうとはしなかった。俺たちに武器を捨てるよう命じ、それに従ったのを確認するや、配下に命じて俺たちを捕らえ、解池城内に連れてきたのである。 そこで俺と徐晃は着替えを命じられた。 死虫を張り付かせたままでは落ち着かないでしょう、と笑う楊奉によって、俺は敵城で湯浴みした挙句、新しい衣服までもらうことになったのである。 当然、周囲には逃亡できないように白波賊の見張りがつく――と、俺は考えていた。 だが、実際には表立って俺を見張る者はいなかった。侍女――おそらく元々、解池城内で働いていた人たちなのだろう――が二名ほど近くにいたが、どう見ても武芸に通じているようには見えない。 逃げだそうと思えば、決して不可能ではない状況だった。 だからこそ、俺は逃げて城外に待機している味方に合図するという選択肢を採れなかった。 楊奉が何を考えているのか、何をしたいのか、それがまったくわからない以上、迂闊なことはできないと考えたからだが、もしかしたら、俺はただ単に楊奉に気圧されていただけかもしれない。その命じた以外のことをすれば、たちまち心臓を射抜かれてしまうような、そんな予感があったのである。 その感覚は、着替え終わって、こうして楊奉の前で座っている今なお続いている。 そんな俺を見て、楊奉が口元に手をあてて微笑んだ。「ふふ、落ち着かないようね。たった二人――しかも共に来る一人は敵の娘と知って、この城に潜り込むつもりだったのでしょう。もう少し肝が据わっていると思ったのだけど」 ころころと。楊奉はさも楽しげに卓についた俺に笑いかけてくる。 娘の連れてきた男友達を迎えた母親のような、ごく自然な態度。そこにはこちらへの敵意や警戒など微塵も感じられない。 地下水路での邂逅が悪い夢であったかのようにさえ思われる態度だが、その語る内容は、やはり笑って話すようなことではない。 一体、楊奉は何を考えているのか。この時点で俺にはまったく理解できなかった。 次の瞬間、扉から白波賊が雪崩れ込み、俺を切り刻んでもおかしくない。そう考えた途端、扉が開く音がして、俺は反射的にそちらを振り返った。腰をあげ、手は剣にかかっている。 そう、楊奉は俺に武装することさえ許したのである。着替え終わった後、取り上げられた剣を返された俺は、唖然とするしかなかった。 それはさておき、扉から入ってきたのは武装した白波賊――ではなく、こちらも着替え終えた徐晃だった。 といっても、先刻まで来ていた戦袍ではない。俺に与えられた服もそうなのだが、どんな相手の前に出ても、それこそ朝廷に出仕しても文句は言われないだろう高雅な服装だった。 徐晃はいつも後ろで束ねていた髪も下ろしており、そこには武人としての面影はほとんど残っていない。一瞬、どこの令嬢かと本気で考えてしまった。衣装一つでこうまで印象がかわるか、と知らず感嘆の息を吐く俺。 そんな俺の様子に気付いたのか、徐晃は顔をしかめてそっぽを向き、楊奉は楽しげに微笑んでいる。 本当に、今の状況を忘れてしまいそうな光景であった。 徐晃もまた、母親の様子に驚きを隠せずにいるようで、戸惑いがちの視線を楊奉に向けている。 その徐晃に向け、楊奉が口を開いた。「こちらにおいで、公明」「は、はい、母様ッ」 穏やかに声をかけられ、徐晃は背筋をぴんと伸ばして楊奉に歩み寄る。 そこに大斧を縦横無尽に揮う武人の姿はなく、母の差し伸べた手を掴んで良いのか否か、おずおずと迷う少女の姿があった。 徐晃としてはすぐにもその手をとりたいのだろうが、そもそもここまで来た目的がある。それを確かめないうちに、母の手をとることはできないと考えているのだろう。その顔は緊張と不安に塗りつぶされていた。 そんな娘の顔を、楊奉は静かに見つめている。 白波賊を率いる頭目であり、匈奴と手を組んで解池を陥とした人物。 徐晃の話を聞いた限り、楊奉は実の娘である徐晃に対し、穏やかならぬ感情を抱いているように思われた。その徐晃が官軍である俺と一緒に解池に潜入しようとしたところを捕らえたのだ、もはや敵とみなしてもおかしくはない。 にも関わらず、どうしてかくも穏やかなのか。 あるいは何かの拍子に親子の情愛を思い出した、ということもないわけではない。 だが、だとしても俺を生かしておく理由はないはずなのだ。徐晃と異なり、俺は間違いなく楊奉の敵であり、地下水路で問答無用で殺されていてもおかしくはなかった。あるいは殺す価値もないと思われたのかもしれないが、だとしたらこの厚遇の意味がわからない。湯浴みの上に衣服を着せ、挙句、武装したまま室内に招き入れるなど、どう考えてもおかしいのである。 眼前の光景が穏やかであり、微笑ましければこそ、この場の異質さが際立って感じられる。 その答えを知る者は俺でも徐晃でもなく、微笑を浮かべて徐晃を見つめている人物以外にありえなかった。 自然、楊奉を見据える俺の視線が鋭くなる。 その視線に気付いたのか、楊奉が不意に俺の方を見やると小さく笑った。「どうなっているのか説明しろ、と言いたそうね」「今の私は捕虜同然の身。要求するつもりはありませんが、しかし聞かせてもらえるなら聞かせてほしいとは思っています」「口にせずとも立場をわきまえてくれる子は嫌いではないわ。御褒美に一つ教えてあげましょう。あなたたちが見たあの死体、誰のものだと思う?」 地下水路で俺たちを遮った、あの死者の山。おそらく官軍ではない。城内の住民でもないだろう。風貌からして匈奴兵でもありえない。であれば、必然的に白波賊のもの、ということになるのだが…… しかし楊奉の答えはそのいずれでもなかった。「あれは塩賊よ。ある者は潜み、ある者は溶け込み、この解池に巣食っていた者たち。解池がどのように陥落したかは、もう知っているのでしょう? 戦局の終わりに、解池の城門を開け放ったのはあの者たちの仕業よ」 あっさり、楊奉はそう断言した。のみならずこう続けた。「約定に従えば、戦が終わった後、解池の塩はあの者たちに引き渡さなければいけなかった。今の塩賊は、都の小娘に追い詰められているから、挽回のための資金を咽喉から手が出るほど欲したのでしょう。だから――」 ――解池が陥ちてすぐ、貯蔵していた塩の引渡しを求めてきたあの者たちを、私は皆殺しにしたの。 笑みを絶やさぬままに、そう口にした楊奉に対し、俺は束の間の沈黙の後、ゆっくりと問いを向けた。「そして、あの地下水路に積み上げておいた、ということですか?」「ええ、そうよ。どのみち、今回のことで解池の塩賊は壊滅した。あの水路が使われることはもうないわ。あの通路を埋め立てるだけの時もないし、死体の山を積み上げておけば、侵入者を防ぐことは出来る。一々、土を掘り返して死体を処理する手間もかからない。一石二鳥というものでしょう」 自分の言葉に、一片の疑問も抱いていない楊奉の顔と言葉だった。 その言葉に頷くつもりはなかったが、効率だけを見れば、その言葉が誤りではないことは理解できた。繰り返すが、楊奉の行動を是とするつもりはない。ただ、そういう考え方もあるだろう、と俺が考えたに過ぎない。 問題はそこではなかった。「何故、塩賊を殺したのですか? あなたがたは官軍を敵とするという一点で、共通の利害を持っていたはずです。だからこそ、塩賊は解池を陥とすために動いたのでしょう?」 俺のその言葉に、楊奉は楽しげに笑う。言葉の内容よりも、俺が選んだ言葉そのものに興を覚えたらしい。「共通の利害、ね。味方を裏切ったと非難されるものと思ったのだけれど、なるほど、身の程をわきまえた言い回しね。小賢しくはあるけれど、それすら出来ぬ無能な輩よりよほど良いわ」 そう言ってから、楊奉は卓の上に置かれていた茶をすすり、あらためて俺に視線を据えなおす。激情など微塵も感じさせない、相も変らぬ穏やかな視線であった。「何故、塩賊を殺したのか。答えは邪魔だったからよ。この城は塩の生産地としての価値はもちろん、ここに蓄えられている膨大な塩そのものにも価値がある。城と塩、どちらも官軍にとっては欠かせないものでしょうけれど、そのうちの一つがなくなったと知られれば、ここに向ける戦力が他に割かれてしまうかもしれないでしょう? それでは困るのよ。より強大な敵と戦いたいと於夫羅は望んでいたのだし」 もっとも、と楊奉は続ける。「塩賊が以前ほどの勢力を持っていたのなら渡しても良かったのだけれどね。滅びに瀕して足掻くことしかできない今の連中にそんな価値はないわね」 曹操と荀彧の政策、そして許昌の四尉(司馬朗、李典、于禁、楽進)らによって、霊帝の時代に跳梁していた塩賊のほとんどは致命的な痛手を被っている、と楊奉は俺に教えた。 今回の一挙は、塩賊にとって窮余の一策であったということか。そして楊奉はそれを見透かして手を差し伸べ、挙句に切り捨てた――と、そこまで俺が考えかけた時だった。「あら、怖い顔ね。塩賊を利用するだけして利用して、用が済んだら切り捨てた。あなたが考えているのはそんなところかしら。そう思ってしまうのも仕方ないけれど――」 楊奉はそう言って、傍らの徐晃の髪に手を伸ばす。 徐晃はその手に応じかけ――咄嗟に、踏みとどまる。かすかに涙の滲んだ眼差しで、じっと母を見つめている。 そんな娘の様子を見やりながら、楊奉は声だけをこちらに向けた。「塩賊を動かしたのは私ではないわ。元々、あれらの半ばは高騰する官塩に耐えかねた市井の者たち。地下に潜み、官の目を盗んで私塩を売りさばく彼らと白波が繋がりを持っていたことは確かだけれど、その程度の繋がりで塩賊が動くはずはないでしょう。こちらに命令をする権利があるわけでもなし――彼らを従わせるだけの力の差はなかったのだから」 その最後の言葉が、引っかかった。「力の差……?」 その言葉。 それはつまり、塩賊が従わざるを得ないだけの力を持つ者が、塩賊を動かしたということなのだろうか。 その考えを敷衍すれば、眼前の楊奉の背後にもその勢力が存在する、ということになる。 俺がそう考えたことを察したか、俺を見る楊奉の笑みが一段、深みを増したように思えた。 思い出す。『解池さえ陥とせば、後はどうでも良い……そんな風に見える』 そう司馬懿に言ったのは他ならぬ俺自身である。解池を陥落させた白波賊の手際と、その後の無策な行動に疑問を覚えた。 あの時点で、その真意を知りようもなかったから、疑問は封印していたのだが、今、楊奉が語る言葉を聞けば、白波賊の目的は解池を陥とし、官軍をこの地に引き寄せることだという。それも出来るかぎり多くの兵を。 大量の討伐軍を引き出してしまえば、白波賊はこの地で孤立するしかない。まさか匈奴が十倍の敵軍を掃滅できると信じていたわけでもないだろう。それならば、匈奴が敗れた後、なおもこうして戦う理由がない。 今、楊奉自らが敵の鋭鋒の前に身を晒している以上、何らかの成算があるとしか考えられないのである。 ではその成算とは何なのか。 討伐軍をこの地まで引き寄せれば、その分、許昌は手薄になる。そこを衝かれれば、朝廷も慌てざるを得ないだろう。 とはいえ、今の朝廷――曹操軍は、この地に五万の兵を派遣してなお許昌に数万の常備兵を残しているはず。そこらの賊徒や領主に太刀打ちできる相手ではない。 そう考えれば、自然、背後にいる者は浮かび上がってくる。 河北の袁紹か、あるいは淮南の袁術か。 ただ、袁紹はここまで小細工を弄する人柄ではない。曹操と対決を決意したなら、麾下の全軍で真っ向から許昌に押し寄せてくるのではないか。実際、袁紹を見たことのある俺にはそう思えてならなかった。 となると、残るは一つ――淮南の偽帝袁術。 あの国なら小細工はお手の物だし、今上帝や曹操の政策を敵視する塩賊を従わせるだけの国力もある。 白波賊と匈奴が北方で暴れれば、当然、朝廷は討伐軍を派遣する。そうして手薄になった許昌を、荊州、豫州、揚州の総力を挙げて襲撃する。 いかに曹操軍といえど苦戦を余儀なくされるのは明らかであった。 くわえて言えば、袁術が袁紹や曹操にくらべて有利な点が一つある。 それは後背に憂いがないということだった。 江南は未だ群小の勢力が割拠して争い合っており、荊州の劉表は積極的に動く型の君主ではない。かつて袁術が淮南に侵攻した折も、その後背を衝く動きを見せなかった劉表が、今回に限って動くことになるとは考えにくい。 つまり、袁術は文字通りの意味で総力をあげて許昌に侵攻できるのである。 そう考えれば、今回の白波賊の行動に一応の説明はつけられる。 ただし疑問に思う点も少なくない。 解池を陥とした後の無策な動き。楊奉ならば、去卑と於夫羅の動きを掣肘することが出来たのではないか。たとえば袁術軍が許昌を攻撃するにしても、匈奴勢がいらないということはなかったはずだ。 ほかにも、楊奉が塩賊を殲滅したこと。おそらく袁術側は、協力の報奨として塩賊に解池の塩を与えると約束していたはず。それを楊奉の一存ではねのけた挙句、こともあろうに皆殺しにしてしまった。戦後、袁術側から咎められるのは火を見るより明らかであろう。 大枠では戦理にそって動きながら、随所で不要な争いの種を撒き散らす。 俺が気付く程度のことを、楊奉が気付いていないとは思えない。それを意図してやっているのだとすれば、それはつまり、楊奉は戦いを拡げるために戦っているということに―― 俺がそれらの推測を口にした、次の瞬間。 不意に楊奉の口から、迸るような哄笑が響き渡った。◆◆「か、母様……?」 徐晃が唖然として楊奉を見つめる。 だが、楊奉はそれにも気付かず、なおも笑い続けた。さも可笑しげに。さも愉しげに。 それは娘である徐晃さえ見たことのない母の姿。 そして。 楊奉がようやく笑いを収め、俺に目を向けたその途端。 部屋の空気が一変した。あたかも春から冬へと季節が遡ったかのように、穏やかであった雰囲気が凍えるようなそれにとってかわる。 楊奉の表情が変質したわけではなかった。その顔は、俺はこの部屋に入ってきた時から、ほとんど変わっていない。にも関わらず―― 何故、俺の身体は凍りついたように動かないのだろう? 蛇ににらまれた蛙のように、指の一本も満足に動かせない俺に向かい、楊奉がにこりと笑って口を開く。ぬめるように蠢く舌が、何故だか異様に目についた。 そして、俺はその言葉を耳にする。「なかなかに面白いことを言う。劉家の驍将……あやつらが気にかけるだけのことはあるな」 楊奉は確かにそう言ったのである。 ぞわりと背筋に走る悪寒。 哄笑をおさめた楊奉は相変わらず穏やかに――怖気を感じるほどに表情をかえず、俺を見て言った。劉家の驍将、と。 その瞬間、俺の中に発生した得体の知れない違和感は、たちまち沸点にまで達し、膨れ上がる恐怖に耐えかねた俺は、弾けるように卓から――楊奉から遠ざかった。 そうしなければ飲み込まれてしまいそうだった。目の前の人身の大蛇に。 そんな俺の様子を見て、楊奉はくすくすと笑う。まるで童女のような邪気のない笑顔に、俺は思わず剣の柄に手を伸ばしてしまう。「ふふ、突然どうしたというの? 十万を越える仲の軍勢を追い返した勇将が、この身一つを恐れる理由などないでしょうに」 その言葉に俺が応えるより早く、俺の前に立ちはだかった者がいる。 言うまでもなく、この場にいるもう一人――徐晃であった。 徐晃は俺とは違い、何の武器も持っていない。だが、たとえ素手であっても、俺を叩きのめすのにさして手間はかからないだろう。 それを無言で証明するように、琥珀色の瞳を底光りさせた徐晃が冷たい声を俺に向ける。「母様に、何をするつもりですか?」「……ッ」 その声に込められた威圧が、俺の中の何かを急速に冷ましていく。 得体の知れない悪寒を感じ、咄嗟に剣に手を伸ばしてしまったが、楊奉は何一つ具体的な害意を示していない。くわえて、楊奉と話をするという選択肢を徐晃に示した俺が、ここで楊奉を斬ってどうするというのか。今、この場で咎められるべきが誰であるのかは、誰の目にも明らかであった。「……申し訳ありません。無礼をいたしました」 徐晃と、卓についている楊奉に向けて、俺は小さく頭を下げる。「かまわないわ。こちらにも何か粗相があったのでしょう。席に戻りなさいな」 楊奉はそう言って席を指し示す。 徐晃はまだ腹立ちが鎮まらない様子であったが、楊奉にそう言われては黙らざるを得ないのだろう。自らも席に戻った。 一見、寛厚で、友好的な態度だ。 だが、だからこそ違和感が拭えない。敵である俺に、どうしてこんな真似をするのか、と。 もう何度目かもわからない疑問が脳裏に浮かび上がるが、考えたところで答えが出ることはない。 今、見極めるべきは楊奉の目的である。楊奉は袁術の関与を否定しなかった。だからといって、ただ袁術の言うがままに動いているわけではないことは、塩賊への仕打ちを見れば明らかである。 一体、この女性は何を目的として動いているのだろうか。 いっそのこと、直接問いただしてみようか。俺はそう考えて口を開こうとする。 だが、その機先を制するように、楊奉は徐晃へ呼びかけた。「公明」「は、はい、母様ッ!」「何か、私に問いたいことがあるのではなくて? そのために、戻ってきたのでしょう?」 その楊奉の言葉に、徐晃が小さく息をのむ。 咄嗟に何と言うべきかわからなかったのだろう。場に沈黙が舞い降りた。 だが、その沈黙はすぐに徐晃によって破られる。 よほどに覚悟を決めて、ここまで来たのだろう。楊奉を見つめる徐晃の目は、かすかに揺れていたが、一度も逸らされることはなかった。「はい、母様。教えてください、あの子たちの居場所を匈奴に教えたのは……か、母様なんですか?」「ええ、そうよ」 振り絞るように放たれた娘の問いを、楊奉はためらいすら見せずに肯定する。 お前の弟妹たちを、匈奴の慰み者に差し出したのは自分だ、と。「……何故、ですか?」 掠れた声で、徐晃はなおも問い続ける。「それはあなたが一番良く知っているのではなくて? 私の言いつけに背き、あろうことか官軍に――漢に尾を振った者に、罰を与えるのは当然のことよ。そしてあなたは自分に与えられる苦痛は耐えられても、近しい者たちのそれは耐えられない。自分が原因であれば、なおのこと、あなたは苦しむでしょう。なら、罰としてこれ以上のものはないのではなくて?」 だからそうしたのだと、淡々と言う楊奉。 そんな母を見る徐晃の目は、はりさけんばかりに見開かれていた。「……母様」「もっとも、あの去卑という下郎は、隠れ潜む幼子を嬲る程度のことも出来なかったようだけれど。ふふ、そういえばあの子たち、今はあなたのもとにいるのよね。みんな無事だったの?」「は……は、い……」「そう、それは幸いだったわね、公明。匈奴に襲われて、なお無事だったなんて……あの子たちの並外れた幸運に感謝しなくてはいけないわね」 そういって、楊奉はさも愉しげにくすくすと笑うのだった。 その楊奉を見ながら、徐晃は身体を震わせていた。その目に浮かぶのは当惑。 その眼差しは言葉よりも雄弁に語っていた。 年端もいかない子供たちを蛮族に差し出しながら、その無事を知り、運が良かったわねと微笑みかけるこの人物は、一体、誰?「……かあ、さま?」「あら、どうしたの、公明。そのように泣きそうな顔をして」 表情を曇らせた楊奉が、そっとその手を徐晃の髪へと伸ばす。 子供の頃から、泣いた娘をあやす時にはそうしていたのだろう。俺がそうわかるくらいに自然な動作であった。 ――その手は、しかし。 ――娘の髪に届かない。 「……公明?」 空を掴んだ手をそのままに、楊奉が不思議そうに口を開く。 母の手を避けた娘に向かって。「どうしたの、公明? 何か気に障ることでもあったのかしら?」 さも不思議そうに問いかける楊奉。 一方の徐晃も、意識してその手を避けたわけではないらしい。自分の行動に戸惑ったように、首を左右に振っている。「まだ、この身を母と呼んでくれるのでしょう、公明。なら、どうして私を避けるの?」「か、母様、あの、これは……」「大丈夫、怒ってはいないわ。あなたは確かに私の期待に応えなかったけれど、それ以上の成果を持ち帰ってくれたのだから」 ――そう言う楊奉の視線は、何故か、まっすぐ俺に向けられていた。「どうやって司馬の目を逃れられたのかは知らないけれど、要となる驍将をあなたが連れてきてくれたことで、ふふ、あの男の策謀を覆す目処がついた。新帝が廃都で陣容を整えてしまえば、許昌の小娘も終わりだったけれど……これで、何とかなりそうね」「母様、一体、何を言って……?」 徐晃の問いに、しかし楊奉は応えない。じっと俺を見据えたまま、なおも奇妙な言葉をはき続ける。「廃都の新帝、許昌の現帝、寿春の偽帝。互いに潰しあい、殺しあえばよい。けれど、いずれかの勢力が大きくなりすぎてはいけないの。許昌の勢力は削ぐ。けれど削ぎすぎて潰してしまうのは良くないわ。それでは勢力が統合されてしまう。それでは戦いが終わってしまう」 この時、俺が楊奉の言葉を冷静に聞いていれば、それが恐るべき意味を秘めていることに気付けたかもしれない。 だが、俺は楊奉の言葉をほとんど聞いていなかった。 俺を見据える楊奉の視線。穏やかで、静かな、その表情を、俺はじっと見つめていた。 穏やかで/穏やか過ぎて 静かで/静か過ぎて その先があることにさえ気付かなかった。 静かな淵こそ、水はより深いとは誰の言葉だったのか。 思い浮かぶのは、底の見通せない古びた井戸。 溜まった水は穏やかに/濁り 静かに/腐り その奥底に埋もれた『それ』を隠していた。 ああ、ようやく気付く。 俺が感じていた違和感は、ただの勘違い。 平静に見えた楊奉の行いに『それ』を感じたから、違和感を覚えた。 そうではなかったのだ。 俺が、勝手に穏やかだ静かだと思い込んでいただけで。 楊奉は最初から最後まで、己に忠実に考え、話し、行動していたのだ。 己の奥底に潜む『それ』――いかなる言葉も受け付けず、いかなる思いも通じない、そんな静謐な狂気に従って。 凍りついたように止まった室内の時間は。「か、頭、大変ですッ!!」 飛び込んできた一つの報告によって、再び動きます。「じょ、城門が、誰かに開けられました! か、官軍が一斉に動き出してますぜッ!」 その報告を裏付けるかのように、彼方から喊声が響いてくる。 戸惑いは短い時間だった。おそらく、いつまでも俺から合図がなかった為に、待機していた虎豹騎が独自に地下水路を突破したのだろう。 地下水路の構造自体はさほど複雑ではなかったし、俺が合図をしていない以上、妨害があることは容易に予測できる。虎豹騎ならば地下水路を抜けることはさほど難しくなかったに違いない。 慌てきった配下の報告に対し、楊奉は対照的に冷静さを保って応じた。「何を慌てることがあるのやら。あらかじめ命じていたとおり、解池の民を盾として、城外に押し返せ。所詮、我らは賊。賊は賊らしく、戦えば良い。皆にそう伝えよ」「しょ、承知しましたッ!」 配下が配下が慌てふためいて出て行くと、楊奉はゆっくりと立ち上がると、俺や徐晃には目もくれず、そのまま扉へと歩み寄る。 その背にかけるべき声を俺は持たず、徐晃もまた口をつぐんだままであった。 不意に。「公明」 楊奉が娘に呼びかける。 応じて視線を向ける徐晃を、楊奉は束の間、じっと見つめていた。 まるで何かを待っているかのように。 だが、徐晃が何も口にしないとわかると、興味を失ったように、すぐに踵を返して扉の外へと出て行ってしまったのである…… ◆◆◆ 徐晃は声もなくその場に立ち尽くしていた。 その脳裏をよぎるのは、出て行く間際の母の顔。黙ったままの徐晃を見る目は、冷たくはなかった。しかし、暖かくもなかった。 そこにあったのは、ただただ静かな――無関心ゆえに波が立たず、それゆえに静かな母の表情。それを見て、徐晃は指一本動かすことが出来なかったのである。「公明殿」 声をかけてきたのは、北郷だった。 ゆっくりとそちらに視線を向ける。北郷は何かを言いよどんでいる様子だったが、今の徐晃にとってはどうでもいいことだった。 そんな徐晃に向かい、北郷は言葉を続ける。「解池の民を戦に巻き込むわけには、いきません。俺は楊奉を止めないといけません」 この状況で、あの母を止めるということは、すなわち殺すということだろう。 それは理解できた。正直、北郷にそれが出来るとは思えなかったが、だからといって母に刃を向けるのを止めようとも思えなった。あの人が、もう自分には何の期待も抱いていないだろうこと、むしろ何をしたところで余計な世話だと疎んじられるであろうことは、先刻の眼差しを見れば明らかだったから。 そんなことを考えている徐晃に向かい、なおも北郷は続ける。「楊奉の真意を知りたければ話し合えと言ったのは俺です。けれど、劉家軍の一員として、民を盾として戦おうとする者は止めなければいけません。公明殿がそれを止めるというのであれば――」 ここで相手をする、と北郷の目が語っていた。 多分、それは北郷なりの誠意であったのだろう。徐晃が呆然として、判断力を失っていることは察しているだろうが、だからといって黙って先刻の二の舞を演じることは出来ないと考えたのか。 しかし、その気遣いは徐晃にとってわずらわしいだけだった。行くならさっさと行ってほしい、そんな風にすら思う。今は、何も考えたくない。 その内心を示すように、徐晃は項垂れ、床面に視線を落とす。その姿を見た北郷が痛ましげな眼差しを向けるが、無論、徐晃は気付かなかった。 しばしの沈黙の後、北郷は踵を返して外へと向かう。 その足音を聞きながら、徐晃が小さく息を吐こうとした、その時。 またも、北郷の口が開かれた。もう何も聞きたくもなかったが、しかし、その内容が徐晃の注意を惹かずにはおかなかった。 すなわち、北郷はこう口にしたのである。「心が正道を踏み外してしまっていることには、気付いているだろう」 誰の、とは問うまでもない。「解池で聞いたことを考えれば、その目的もわかったように思う」 それは母の生い立ちのことだろうか。確かに解池でその一端は口にした。 目的――先刻の母の哄笑を思い出す。戦いを拡げるために戦うのかと、そう北郷に問われた時の、あの哄笑を。「あの業は、誰かが断ち切らなければいけない。その役割は――」 業を断ち切る。何を気取った言葉を言っているのだろう。それは要するに母を殺すということだろう。そんなことを今の自分に話して、何をしたいのだろうか。報復を恐れてでもいるのか。「……すまない、ここから先は俺の勝手な推測だけれど」 今までのも推測だろう。多分、間違ってはいないけれど。でも、それはもうどうでも良いから。お願いだから、これ以上、私の心をかき混ぜないで。「その役割を、あの人は君に求めている、とそう思う」 なんだ、結局、私を戦わせたいだけか。母を殺す? あはは、そんなことできるわけが――「――だから、あの人は、君を真名で呼ばないのだろう」 思わず顔を上げていた。「な、何を……?」 何を言っているのだろう。そんな徐晃の疑問に、北郷はこちらに背を向けたまま答える。 徐晃の顔を見ないことが誠意だとでもいうように。 あるいは、気に食わなければ、いつでも頸骨をへし折ってくれとでもいうように。「地下で聞いたときから不思議には思ってた。仮にも親が娘を、公明、と字で呼ぶのが。今まで俺が会った親子は、例外なく真名で呼び合っていたからな」 そう。字で呼び合う親子などほとんどいない。現に楊奉も、昔は徐晃を真名で呼んでくれていた。それがかわったのは何時からだった? そんな疑問に、北郷は答えを返す。「君たちのことを、俺はほとんど知らない。わかることなんて無いに等しい。でも、ほんのわずかではあっても、わかることもある。多分、漢に戻ってから……白波賊に関わり合った頃からじゃないか」 白波賊に関わりあった頃……母が韓暹に近づいていた頃。 そう、あの頃、そんな母の姿を見るのが辛くて。そんな心が、言動にあらわれてしまったのか、母との距離が一日毎に遠くなっていった。それを引き戻すために、ただひたすら母の言うことに従ってきた。 確かにあの頃だった。母が徐晃を呼ぶとき、『鵠』ではなく『公明』になったのは。 それは、徐晃を疎んだ母が、もうお前を娘だとは思わないと、言外にそう言っているものだと…… しかし、北郷が口にしたのは、まったく別のこと。 権利の放棄ではなく、権利の喪失。 徐晃を娘ではないと考え、真名を口にしなくなったのではなく。 徐晃を真名で呼ぶ資格を喪ったと考え、真名を口にしなくなったのだ、と。 北郷の言葉に、徐晃は首を横に振る。 そんなはずはない。だって、それではまるで――「……気付いて、いたんじゃないかな。自分が薄明に踏み入ろうとしていることに」 それでは、まるで――母が、助けを求めているようではないか。 気付いてくれと、そう徐晃に言っているようではないか。「もっとも、これは俺の勝手な想像だから。的外れなことを、言っているのかもしれない。だから、確かめたいのなら、君がもう一度聞かなきゃいけない。それを望むなら、急いで。俺が倒れても、今の白波に官軍の攻勢は押さえ切れないから」 機会は、多分、今しかない。そう言って、北郷は駆け出していく。 その後ろ姿に手を伸ばし――その姿が扉の向こうに消えた後、その手は何も掴めず、力なく下ろされた。 あまりにもたくさんのことが起こりすぎた。徐晃はそう思う。 何が正しいのか、何が間違っているのか、その判断さえ容易ではない。 ――そう、そのはずなのに。 何故か、わかってしまった。あの青年の言うことは正しいのだと。それは多分……「……気付いてたんだ、母さん。私の真名を呼んでくれなくなった、あの時から」 呼びたくないのだと考えて、うちひしがれていた。もう一度呼んでもらおうと、必死にその言うことに従った。 薄明に堕ちた母が、娘の真名を呼べなくなったのだという可能性に、自分は……「……気付いてたんだ、私も。ただ、目を瞑っていただけで」 誰よりも母の近くにいたのは自分だった。だからこそ、その行動がおかしいことに気付くことができた。なのに、ほんのわずかなズレだからと、気付かなかったふりをした。 わずかなズレは、先に進むほどにその幅を大きくする。時を経るごとに、正道との隔たりを拡げていく。 いつか、それは取り返しのつかないものに変じてしまった。 もし。 ああ、もしも、最初の最初に戻れたなら。 まだ何もずれていない母娘であった頃に。ただほんのすこし数奇な人生を歩んでいただけの、普通の親子であった頃に戻ることが出来たなら。 自分は、何かを変えられるのだろうか? 母の心を、あの暗く澱んだ井戸の底から、引き上げることが出来るのだろうか? 出来るわけはない。戻ることなど、変えることなど、出来るわけはないのだ。 遅かった。あまりにも遅すぎた。 今、眼前にあるものこそが現実。もう、あの頃に戻ることなど出来ない。 それは終わってしまった選択肢。今、考えるべきは別にある。 今の自分に出来るのは何だ? 楊奉の娘である自分に出来るのは何なのだ?! ――そう考えて、気付いた。そう、道はさきほど示された。示してくれていたのだと。 母さん、と。 徐晃はゆっくりと呟き。「……今、参ります」 琥珀の双眸が不動の決意を映し。「――あなたの業を断ち切るために」 その顔からは、何かが確かにとりのぞかれていた。