「……一刀」「なんでしょう、関将軍?」「なんだか周囲からの視線がくすぐったくて仕方ないのだが」「ああ、まあそれは仕方ないことかと」 どこか居心地悪そうに口にする関羽に、俺は苦笑しつつ応じた。 匈奴の単于を一騎打ちで屠る女将軍なんて、中華の歴史でも空前の出来事だろうから仕方ないだろう。絶後かどうかはわからんけど。 単純な武の力量で言うなら、曹操軍にも夏侯惇や張遼といった関羽に劣らぬ猛将がいる。この軍を率いたのが関羽ではなく、彼女らであっても、関羽に近しいことは出来たに違いない。 しかし、現実に於夫羅を討ち取ったのは――漢民族にとって積年の怨敵である匈奴の単于を討ち取ったのは関羽に他ならない。官軍の将兵が驚嘆ないし畏敬の念を抱くのは当然といえば当然であった。 彼らの視線はさながら武神を仰ぎ見るごとく。元々、名だたる武将として、また丞相の賓客として、関羽は相応の敬意を払われていたが、将兵が関羽に向ける視線は、昨日までのそれとは明らかに一線を画していた。 ――なんか目の中にお星様がきらきら光っている感じの人もいるような気がするのだが……あと、関羽と話していると無言の重圧が俺にまで押し寄せてくる。これは明らかに昨日まではなかったことである。 ふと思い出す。黄巾党にいた頃、張角たちと話していた時、周囲から寄せられる視線がこんな感じだったなあ。 そんなことを話しながら、五万の大軍は一路、北へ、解池を目指して軍を進めていた。 先夜の襲撃によって王である於夫羅を失った匈奴は大混乱に陥り、南から於夫羅と共に突っ込んできた兵士はほぼ壊滅。北から夜襲をかけてきた部隊も、こちらの反撃と、曹純ら虎豹騎の横撃を受けて千以上の死傷者を残して潰走した。 先に戦った去卑に与えた損害とあわせると、これで匈奴は全軍の半ば以上を失った形になる。さらには単于である於夫羅と、右賢王である去卑を失った軍は、事実上無力化したといえるだろう。 事実、匈奴勢は解池には戻らず、北西方面へ逃亡。おそらくそのまま漢土を抜け、北の草原に逃げ込むものと思われた。 本来なら追撃して後の禍根を断っておきたいところだが、彼らを追うだけのまとまった数の騎馬隊はおらず、あるいは追撃しても手痛い反撃を食らう可能性が高かったため、去るに任せることになった。 ついでに言うと、なにやら関羽を悪霊扱いして勝手に怯えているらしいので、その評価を本国に流してもらえたらもうけものである。 武神になったり悪霊になったり、美髪公も大変だ――と、つい口に出してしまったら、わりと本気で関羽に頭をはたかれ、悶絶する羽目になった。すみませんすみません。 ともあれ、匈奴の退路にあたる河東郡と西河郡の城や砦には手出し無用との急使を出し、俺たちは眼前の解池奪還に傾注する。 偵察した兵士の知らせでは、解池の白波賊は匈奴の敗北を知って、一時はかなり大きな混乱を来たしていたらしい。それも当然といえば当然のことで、兵数を見ても、また互いの錬度を見ても、白波賊に勝ち目などないことは誰の目にも明らかであった。 にも関わらず。 頭目である楊奉が動くや、その混乱はぴたりと鎮まり、白波賊は周辺に出ていた部隊を集結させ、解池で篭城の構えを見せているという。 それどころか城内にいる民衆に武器をもたせて城壁に立たせようとする気配すらあるという。 おそらくその背後には武器を構えた白波賊が並び、督戦隊の役割を果たすつもりなのだろう。 しかし、賊徒と民衆、数を比べれば圧倒的に賊徒の方が少ないのだ。反抗される危険はきわめて大きい。まして官軍が攻め寄せれば尚更である。 それでもそんな手段をとるということは、それだけ追い詰められて判断力を失っているのか、城内の女子供を人質にとっているのか。あるいはその両方か。 いずれにしてもこのまま攻め寄せれば血なまぐさい戦になることは間違いなかった。 単純に勝利だけを望むなら、と俺は内心で考える。 このまま解池を包囲して、圧力をかけ続けていけば、解池は勝手に自壊する。賊徒と民衆の間で高まる不穏な気配に衝き動かされ、いずれ誰かが城門を開くに違いない。 だが、それは城門が開かれるまでの間、城内を白波賊の恣意に任せるということでもある。どれだけの民衆が犠牲になるのか、考えたくもなかった。 よってこの案は没。 しかし、常道にそって城攻めを行えば、背中に槍を擬された民と血みどろの攻防戦を演じることになる。これも避けたい。 速戦、持久戦、どちらを選んでも、そこには相応の犠牲が求められる。将兵ではなく、解池の民の犠牲が。 そんなことは許されぬ。 その認識は、この場にいるすべての将が共有するところであった。 そしてもう一つ、彼らは共通の認識を持っていた。 民を犠牲にした戦は避けなければならない。しかし、だからといって手をこまねいてはいられないのである。 解池の重要性を鑑みれば、一刻も早く官軍の手に取り戻す必要があり、それは丞相である曹操からの命令であり、皇帝からの勅命でもあった。 ゆえに選びえる作戦は最初から速戦しかない。 たとえ、それで民に犠牲が出ようとも、時間をかければより多くの犠牲が出てしまうのだから、選択肢など初めからあってないようなものだったのである。 ――とはいえ。 ――犠牲を避けるための策略が禁じられているわけではなかった。◆◆◆ そんなわけで、今、俺は徐晃と一緒に解池へと通じる地下通路を歩いている最中であった。 てくてくと。 てくてくと。 てくてくてくてくてくてくてくてく……「……どこまで続いてるんだ、これ」 ぼそっと呟くと、少し離れたところを進んでいる徐晃が、これも呟くように答えた。「今、半ばを過ぎたあたりです」 そう言うと、徐晃はふいと顔をそむけて再び歩き出す。 俺を避けているというよりは、これから先のことを考え、俺のことなんか気にしてはいられない、といったところか。 元々、徐晃は好き好んで官軍に協力しているわけではない。 この解池への潜入にしたところで、母である楊奉の真意を知りたいと願うなら、話し合うしかない、という俺の言葉に従ったに過ぎない。 具体的にどう説得したのかというと。◆ 楊奉のこれまでの経歴を考えれば、捕虜となれば死罪しかありえない。その真意を知りたいならば、そうなる前に――解池での戦いが始まる前に、楊奉のもとへ赴かねばならない。 史渙や韓浩ら弟妹たちを保護されている徐晃は、今さら白波賊として砦に戻ることはできない。であれば、官軍に従って解池攻撃に加わり、城攻めに先んじて楊奉の下へと駆けつけるしかないのである。 楊奉を説得するなり、解池奪還のために何らかの功績をたてれば、あるいは助命のための一助になるかもしれない……◆ 自分で言うのもなんだが、ほとんど脅迫である。 だが、少なくとも前半は紛れもない事実であった。だからこそ、徐晃もかなり悩んだ末にではあったが頷いたのだろう。 後半の助命の件に関しては、正直なところはっきりしない。そもそも楊奉が今回の事態にどう関わっているかも判然としないのである。人材を愛してやまない曹操のこと、徐晃という武将を引き入れるためであれば、かなりの無理も通すであろうが……もし楊奉が今回の一連の争乱の主導的な立場にいたのであれば、たとえ曹操といえど、いかんともしがたいだろう。 ……脅迫の上に詐欺も追加か。どの口で、劉家軍として頑張ったとか関羽に言ったんだろうか、俺。 とはいえ、ほんのわずかではあっても、楊奉を救える可能性があるとしたらそれしかない、と俺が考えたのも事実であって、決して徐晃を騙したつもりはない。 事態がどう転ぶにせよ、楊奉自身の口から、今回の件の真意を聞かなければならないことに違いはなく、徐晃もそれを承知しているからこそ、こうして動いてくれたのだろう。 先を急ぐ徐晃の様子を見て、俺は小さく息を吐いた。 ◆◆ 徐晃の案内のもとに向かった地下通路の入り口は、解池を取り巻くように流れる水路の一画にあった。 周囲には見張りらしき人影もなく、入った当初は土がむき出しになった通路を、少し腰をかがめて歩いたのだが、どうやらその通路は枝道の一つであったらしく、ある一画から、あたりの光景は一変した。 手に持つ松明の灯りに照らされた通路は、天井は高く、通路自体も広い。いや、正確にはここは地下通路ではなく、地下水路であったらしい。 まずは俺と徐晃でこの通路を抜け、城内に入ったら城外に合図を送る。それを確認したら待機している虎豹騎三十名が同じく水路を使って城内に潜入し城門を開ける手筈であった。 先に入るのが俺と徐晃の二人だけ、という点で異論を唱える者もいたのだが、そこは俺が説得した。徐晃が一番恐れているのは、城内への道を教えた段階で官軍に掌を返されることである。虎豹騎をぞろぞろと引き連れていけば、自分を捕らえるためではないかと警戒されてしまうだろう。 その点、俺一人なら徐晃はいかようにも行動できる。そのことは村でも証明済みですしねと笑ったら、周囲から冷たい眼差しで睨まれてしまったが。無論、罠があった際の用心のためとか理由はあるが、それはわざわざ口にするまでもないだろう。 そんなわけで、俺は徐晃と二人で水路に潜入した。 中央には小型の舟であればすれ違うことができるほどの幅広の水路、その両脇には石畳が敷かれた通路がある。 地下であるためか、空気がよどみ、どこかすえたような異臭が鼻をさす。一瞬、下水道を連想したのは、水路を流れる水が赤黒く汚れていたからである。 だが、冷静に考えれば、この時代にここまで整備された下水道があるとも思えない。それにここが本当に下水道で、流れる水が汚水ならば「どこかすえたような」程度の異臭でおさまるはずがない。それこそ鼻がもげるような悪臭が漂っていなければおかしいだろう。 ここは一体、何なのだろう。松明の火が消えない以上、空気の流れがあることは確かであったが、足元の石畳といい、水路の造りといい、一朝一夕でつくれるものではない。 そんな疑問が顔に出たのだろうか。俺から少し離れて隣を歩く徐晃が、ちらとこちらを見てから、再び顔を前に向けて口を開いた。 「ここは塩賊が解池の地下に張り巡らせた隠し通路です。解池の塩は中華の各地に運ばれることは衆知の事実。塩賊は長い時をかけてその流れに食い込み、物資を掠め取って、この通路を用いて自分たちの販路に持ち出していたと母さんから教えてもらいました」 かつて、解池に潜入を命じられた折、徐晃は楊奉にここを教えられたそうだ。 その言葉に、俺はあたりを見回す。 古来より、解池の塩は時の権力者にとって重要な産物であった。 塩賊は大胆にもその懐へ潜り込み、それを掠め取っていたということか。当然、見つかれば死罪は免れない。仲間や家族も同罪となる。 それらを覚悟の上で、官軍の膝元とも言える解池で、死を賭して活動し続けた塩賊たち。この通路は、そんな彼らが長い年月をかけて築き上げ、拡げてきたものか。 何故そんな重要な道を楊奉が知っているのかと疑問に思ったが、白波賊がこの地で活動する塩賊と関わりを持っているのは別に不自然ではない。 しかし、それにしてもこの静けさはどうしたことか。 荷を運ぶ舟はもちろん、人っ子一人通りかからないのだ。いや、ここが塩賊の隠し通路ならば、通りかかってもらっては困るのだが、それにしてもここまで無人であるのは妙ではないだろうか。 白波賊と塩賊、どちらが主でどちらが従かは知らないが、解池を支配した今、彼らは膨大な量の塩を手にいれたことになる。塩賊にとっては金銀珠玉にまさる宝物であろう。それを運ぶ塩賊が、この通路に溢れていても不思議ではないのに。「……いや、そうでもないか」 俺は自分の考えを否定する。解池自体が賊の手に落ちたのだから、こそこそ地下に隠れて運ぶ必要はない。堂々と正面から運び出せば良いのだ。ここが無人であってもおかしくはない。 おそらく徐晃もそれを計算にいれ、ここを選んだのだと思われた。 もっとも、と俺は先を歩く徐晃の姿を見て胸中で呟く。 あの少女はそこまで考えたわけではなく、ただ単にもっとも手っ取り早く城内に入れる道を選んだだけなのかもしれない。背に追う大斧を見れば、妨害する者がいれば、即座に排除しようという意思は誰の目にも明らかであった。 俺が異変に気付いたのは、それからまもなくのこと。 徐晃と共に進んでいた方向から、これまでに倍する異臭が漂ってきたのだ。 その臭い自体は、この水路に足を踏み入れた時から感じていたが、今、淀んだ風と共に流れ込んできた『それ』は、これまでとははっきり異なっていた。 異臭ではなく、悪臭。いや、もっと正確に言えば、これは――「腐臭……」 足を止めて呟く俺の声に、ほぼ同時に足を止めた徐晃が緊張した表情で頷いていた。 戦場を往来すれば、誰もが嗅がざるを得ない臭い。 慣れたくなくても、慣れざるを得ないそれは、異なる表現を採れば、死臭、と言い換えることも出来た。 俺と徐晃はそれぞれの松明を掲げつつ、ゆっくりと歩を進める。 蛮族と賊徒に占領された城市。地下水路に濃厚に淀む死臭。 この先に何があるのか考えたくもないが、それでも幾度も戦場に臨んだ身心は、勝手に答えを弾き出してしまう。 その推測が、暗闇を点す灯火に照らされ、現実として俺たちの前に立ち塞がったのは、そのしばし後のことであった。◆◆ 屍の山から一斉に虫が飛び立つ。あたりを這いずりまわる音は虫か獣か。胸の悪くなる光景、むせ返るような腐臭。肌に張り付く湿り気が、不快を通り越して悪寒に変わる。 通路の両脇に山と積み上げられたそれは、紛れもなく人間の屍であった。視界に映るだけでも数十人はくだらないだろう。 それだけの死者が、山となって俺たちの行く道を阻んでいる。俺は腰に提げていた剣を抜き放つと、左手で松明を掲げ、右手に剣をもって、その死者の山に近づいた。 予想していた光景――とは、少しだけ違ったからだ。「男だけ……それも明らかに屈強な体格をした、か。官軍、というわけでもないよな、武装がばらばらだし」 不意の出来事に備えつつ、俺は屍の山を見て呟いた。 正直、匈奴か白波賊がここを死体置き場として利用していると考え、女子供の屍を見るのを覚悟していたのだが、ここに積み上げられている死者は、見るかぎりすべて屈強な男性だった。そしてもう一つ、皆、明らかに戦いの結果と思われる傷が刻まれており、それが致命傷になっていることは容易に推測できたのである。 この死者たちは何者かと戦い、敗れ、こんな薄闇の水路に積み重ねられ、腐るに任されているのだ。もっとも、遺体の状態が確認できるあたり、死後何十日も経過した、という感じはしない。おそらくは解池陥落以後のものだろう。 問題は彼らがどこの勢力に属していたのか、そして敵は誰だったのかということだ。そして、彼らをここに積み上げたのはどうしてなのか――そこまで考えた時、それまで黙っていた徐晃が不意に口を開いた。「あの……平気、なんですか?」 俺が驚きもせず、屍の山を調べだしたので驚いたらしい。目を瞠っている。徐晃は目に見えて怯えたりはしていないが、ためらいはあるようだ。 もちろん、俺とて平気かと問われれば平気ではないが、将兵の死屍であれば、たとえ表面だけであれ冷静さを保つことはできる。劉家軍に加わった当初から、戦い終わった後の死者の埋葬や負傷者の手当てには携わってきたのだから、こういった光景にも耐性がつこうというものだった。 武勇では到底徐晃に及ばない俺だが、戦に臨んだ数でいえば俺の方がまさるようだ。まして高家堰砦の激戦を経た今の俺は、眼前の光景程度で取り乱したりはしなかった。 それはともかく。 冷静に考えれば、この水路の存在を知っている以上、これをしたのは塩賊ということになる。 しかし、こんな形で通路を埋めてしまえば、自分たちが通ることも出来なくなってしまう。塩賊がそんなことをするだろうか。とはいえ、死体で埋められているのは通路のみで、真ん中に流れる水路にまで及んでいない。舟があれば簡単に通り抜けられるから問題ない、ということかもしれないのだが。 くわえて、舟を使わないにしても、水路の底はそれほど深くないため、歩いて通り抜けることも出来そうだった。ただ、そのためには、両側の屍の山から絶えず流れ出る、何かが腐ってとけた赤黒い水に腰までつからなければいけないのだが……しかし、他に方法がないとなれば、それをするより仕方なかった。 というわけで。 奇妙にぬめる水底ですべって転ばないように気をつけつつ、俺と徐晃は汚水をかきわけて進んでいた。 城内に入るためには、この通路を抜けなければいけないと徐晃が言ったためである。もしかしたら、他に道があるかもしれない、と徐晃は付け足したが、この危急時にそんな隠し通路を探してる暇があるはずもなかった。 もう絶対ヒルとかなんかいるだろこれ、などと内心でうめきつつ、一歩一歩、足を進める。一刻も早く駆け抜けたいのだが、そんなことをすれば水底に足をとられて、汚水で全身浴をする羽目になりかねない。半身浴でさえ気が狂いそうなのだ、全身浴など本気で御免被りたい。 両側に積まれた屍の山、鼻ごともげそうな腐臭、下半身を嘗め回るおぞましいぬめり。一人であれば、あるいは同行している少女が冷静さを保っていなければ、大声だして絶叫していたかもしれない。いくら戦による死傷者に慣れたとはいえ、さすがにこれは次元が違った。 しかし、ここを通らなければ、この惨劇が地上で現出することになる。いや、解池が陥落した段階で似たような状況になっているだろうが、それがさらに大規模になってしまうのだ。 それを承知の上で、大の男がこの場から悲鳴をあげて逃げ去れるはずがない。先ほどまで装っていた冷静さをかなぐり捨てながら、それでも俺は歯を食いしばってまた一歩、足を踏み出していった。◆◆◆ 足首を何かが這い回る感触。口から飛び出しかけた悲鳴を、徐晃は咄嗟にのみこんだ。一体何がと疑問に思ったが、確かめようにも、濁りきった水は足首はおろか膝すら隠している。それに正直、確かめたいとも思えなかった。むしろ確かめてしまえば、今度こそ我慢できなくなると確信してしまう。 母に逢う、という一念がなければ。あるいは徐晃の少し前を歩く人の姿がなければ、すぐにも引き返していただろう。 互いに言葉はない。ぬめった水音と共に足を進めるごとに、両脇の通路から耳障りな羽音が聞こえてくる。松明の火にぼんやりと照らされたそこに、何が密集しているのかなど考えたくもなかった。 そして同時に、誰がこんな真似をしたのかも考えたくなかった。 北郷が気付いているかどうかはわからないが、この死者の山は明らかにこの水路を使う者への足止めである。が、今、徐晃たちがこうして進んでいるように、足止めにしては詰めが甘い。そもそも本当に水路を使われたくないのなら、それこそ土で埋めるなり何なりしてしまえば良いのだ、わざわざ手間をかけて死体を運んで積み上げる必要などどこにもない。 であれば、この惨状をつくった者の狙いは――(嫌がらせ? そのためだけに、こんなことをしたの? 戦いが終わった後、この水路を使うのにどれだけの労力がいるのかもわからないのに) それはつまり、この戦の後のことなどどうでも良い、という考え。 この水路を使う者――すなわち解池を早期で陥とすために、この水路を使えば良いと考えるであろう何者かを、精神的に追い詰めるためだけに、不要と思われる労力を平然と費やすその考えは、明らかに破綻していた。将としても、人としても。 脳裏に浮かぶ母の姿。『鵠……』 そういって優しく髪を梳いてくれたのは、匈奴の天幕の中であったか。 楊奉は匈奴の陣営で決して粗末に扱われていたわけではない。むしろ厚遇されていたと言っても良いだろう。ただ、その事実が母の矜持を満たすものではないことは、幼心に徐晃も感じ取っていた。 ただ、それが何故なのか、あの頃の徐晃にはわからなかった。 漢族には凶暴凶悪と思われている匈奴であったが、何も年中略奪に狂奔しているわけではない。 野の獣を狩り、羊を放ち、広大な草原を馬で駆けぬける。遊牧民族の質実で素朴な生活を、徐晃は決して嫌ってはいなかった。 その気持ちは、草原を離れ、母と共に漢土に至り、それまでとはまったく異なった生活をするようになった今でも変わっていない。 母が白波賊に入り込み、韓暹に取り入り、事実上の頭目に成り上がっていく様を、徐晃は胸を痛めながら見ているしかなかった。 母が心の底で草原を嫌っていることは察していた。だから、草原に戻ろうとは思わなかったし、口にすることもしなかった。ただ、こんなことをするために草原を離れたわけではないのでしょう、と問いかけたかった。韓暹のような男の傍らに侍る母を見るのは、徐晃にとってただただ辛いだけだったのである。 そんな気持ちが、あるいは知らずに表情や態度にあらわれていたのかもしれない。いつか、徐晃は母が自分を疎んでいることに気がついてしまった。 ――否、正確に言えば、そのことはずっと前から気付いていた。匈奴の血をまざまざと伝える自分の髪と瞳、それを見る母の目が、ときおり凍土さながらの冷ややかさを放っていることには気付いていたのだ。その眼差しが、年を経るごとに深みを増していることにも。 だが、気付いたからといってどうすれば良かったのだろう。 その言うことに従い、その歓心を得られるように努める以外に何が出来たのだろうか。 徐晃にはわからなかった。 わかったのは、一つ。 その道の果てに、この死屍累々たる光景があるというなら、自分は間違っていたのだろうという、ただそれだけ。 そして、そんな徐晃の思いを肯定するように。 暗く濁った暗闇の奥。ようやく左右の屍山から抜けることが出来た二人の耳に、濡れたような艶のある声が響いてきた。 その声を――この場にあって微笑みを宿したその声を、徐晃は知っていた。他の誰よりも。