聳え立つ巨躯から放たれる一撃。 込められた力は地を砕き、揮われる一閃は風を薙ぐ。 その口からは絶えず咆哮があがり、獲物を見定めた肉食の獣は、その目にただ戦意だけを滾らせて猛然と襲い来る。 夜闇に瞬く篝火に映し出されたその姿は、人外の化生、悪鬼羅刹を見るにも似て、官軍の将兵を恐れさせずにはおかなかった。 巨大な斧は、もはやそれ自体が一個の生物と化したかのように死の颶風となって荒れ狂う。宙を裂き、咆哮のごとく吼えたけるその旋風は、人と物とを問わず、形あるものを砕かずにはおけぬのだと、天地人、そのすべてに己が業を謳いあげるかのようであった。 さしもの丞相曹孟徳の誇る精鋭軍も、その猛威の前に立ちすくむしかない中で。 彼らは見た。 その颶風を遮る黒髪の乙女を。 その咆哮を断ち切る八十二斤の偃月刀を。 その傲慢を砕く中華の誇る武神の姿を。◆◆「がアアアッ!!」「はああァァッ!」 耳が焼け焦げるような甲高い金属音。鋼と鋼がぶつかりあい、宙空に火花を散らす。連鎖する斬撃の応酬は、篝火よりもなお強く周囲の光景を照らし出していった。 於夫羅の大斧が唸りをあげて関羽に襲い掛かる。巨木を砕き、頑強な匈奴兵が三人がかりでも押さえ切れない剛撃を、しかし関羽は真っ向から撃ち払う。 再び響く金属音。互いの手には重い衝撃が跳ね返り、耳には不快な音響が木霊する。「ふ、く、ははは! やるな、女! 余の撃をこうも容易くはねかえすとは!」 於夫羅はそう哄笑しつつ、更なる斬撃を繰り出していく。 そこに系統だった武は感じられない。そこにあるのは、師から受け継ぎ、昇華した技ではなく、ただ生まれもった膂力を揮い、幾多の敵の血肉を吸って鍛え抜かれた業であった。 先刻までの戦闘の疲労など微塵も示さず、於夫羅は巨斧を縦横無尽に振り回した。あえて技巧をこらす必要などどこにもない。膂力にまかせて撃ち込めば、相手の剣は折れ、槍は曲がり、甲冑は砕け、血肉が舞い散るのだから。これまで、於夫羅が打ち倒してきたすべての者たちがそうであった。 しかし。 眼前の女将軍は、於夫羅が繰り出すすべての攻撃をことごとく凌いでいる。 それは受け流し、力を逸らすのではなく。 真っ向から打ち合い、弾き飛ばす。 はじめの十合は流した。次の十合は試した。次の十合で期待した。 そして。「くは、はっははははッ! 余の渾身に耐えうる者が、まさか土民の中にいようとは!! 良いぞ、女! 見事だ、女! さあこれならどうだ! これならどうだ! く、ふ、ははっははははははッ!!」 死に直結する斬撃を繰り出しながら、その口からは哄笑がとめどなくこぼれ出る。否、それはもはや哄笑というより歓喜の絶叫とでも呼ぶべきであったろう。 於夫羅の瞳に浮かぶのはもはや戦意とは呼べぬ。それは性的な意味さえ伴う絶頂と恍惚であった。 その状況でなお、於夫羅は戦士としての冷静な部分を残していた。それは於夫羅が単于にまで上り詰めた資質の一つでさえあったかもしれない。 於夫羅が見るところ、相手は攻撃を凌いでこそいたが、攻撃に移るだけの余裕を欠いていた。その息は明らかに乱れており、こちらの一撃ごとに体力を殺がれているのがはっきりと見て取れる。 すでに刃を交えること四十合。しかし、それでもなお相手の構えに揺らぎはなく、隙もない。そのことを確認し、さらにこの至福の時が続くことを確信した於夫羅の口から、再び哄笑が迸った。◆◆◆ ――お尋ねしたいことがあります。 於夫羅の観察は決して間違ってはいなかった。 次々と繰り出される攻撃は重く、激しく、ただ受け止めるだけで体力を消耗する。 眼前で吼え猛る人身大の猛獣は明らかに卓越した力量を持っていた。この人物を武人、と呼ぶことは承服しかねるが、しかしその力量の巨大さを否定することはできない。関羽はそう考えていた。 ただ、実のところ関羽は眼前の相手にさほどの注意を払ってはいなかった。脅威を感じなかった、というわけではない。ただそれ以上に考えなければならないことがあったからである。 ――あの人……北郷一刀さんについて。 脳裏に木霊する静かな声。 自身と同じ黒髪を持ち、自身と異なる在り様を持った乙女の言葉。 司馬仲達と名乗った少女に声をかけられたのは、この戦いが始まる前日のことであった。◆◆ 迫る戦を前に、県城は城の内外を問わず喧騒に満ちていた。 関羽は事実上の総指揮官として、これを束ねる立場にある。新戦力である偏箱車の運用、展開についても、戦車隊の指揮官や北郷と話をしておかねばならない。 そういった諸々がある程度片付いた――司馬懿が声をかけてきたのは、ちょうどそんな時だった。「一刀……あ、いや北郷殿について尋ねたい、と?」 こくりと頷く司馬懿を見て、一瞬、関羽は言葉に詰まる。 別に司馬懿が無礼な行いをしたわけでも、隔意を示したわけでもない。丁寧に、礼節をもって問いかけてきたに過ぎない。 それなのに言葉に詰まってしまった理由は何であったろうか。 黒絹の髪、白皙の頬、黒曜石の瞳……などといった評はすでに北郷から聞かされていた。その時は、会って間もない少女の可憐さに半ば呆然とする姿に、胸中穏やかならぬものを感じたものだが、しかしなるほど、面と向かって相対してみると、そんな北郷の反応も無理からぬものであったと思う。 関羽とても自分の容姿に無関心ではない。いかに武をもって世に立つことを決めたとはいえ、女性であることを捨てたわけではないのだから。 皇帝陛下より美髪公などと呼ばれ、戸惑いはあったが、それでもそのことを喜ぶ心は確かに自らの裡にあったのである。 事実、関羽は決して司馬懿に劣るものではなかった。容貌、肢体、あるいは心の在り様。女性としての魅力を問われた時、司馬懿よりも関羽を選ぶ者も少なくないだろう。 にも関わらず、関羽がほんの一時であれ、司馬懿に見惚れ――否、気圧されてしまったのは何故なのか。 それは多分、司馬懿を見た人の多くが感じるであろう光――可能性を目の当たりにしたからだろう。 関羽はすでに選んでいる。 武人として立つことを。 そして劉玄徳という人物と共に歩むことを。 はるか彼方まで続くその道に踏み出された関羽の足は、もはや戻ることなく、その足跡を残しつつ、いつか途切れる時まで続いていくのだろう。 その在り様こそ関雲長の武人としての、人としての、そして女性としての魅力に他ならぬ。 一方の司馬懿は未だ選んでいない。 しかし、司馬懿を見た誰もが感じ取ることができるだろう。彼女の前に並ぶ、幾通り、幾十通りの道――そのどれもが眩い輝きを放っていることを。 秀麗な容姿に見惚れる者もいよう。傑出した才能にほれ込む者もいよう。そしてそれらすべてを越えて思うのだ。 未だ蕾に過ぎぬこの花は、どれだけ美しく艶やかに咲くものなのか、と。 そして、こうも思うだろう。 この少女がこれから歩む道を見てみたい、出来うるならば共に歩きたい、と。 関羽は深々と息を吐く。 それはため息ではなかったが、限りなくそれに近い色合いを持っていた。 当の司馬懿は、関羽の内心を知る由もなく、目を瞬かせながらその様子を眺めている。そのきょとんとした様子を見て、関羽は何故か頭を抱えたくなった。 司馬懿の聡明な眼差しを見れば、自身の価値をまったく知らないわけではないだろうが、おそらく――いや、間違いなくこの少女は、自身が他者に与える影響を過小評価している。 そこがまた、少女の未成熟さを見る者に感じさせずにはおかない。なまじしっかりしているように見えてしまうからこそ、そこに気付いた者はこの少女を放ってはおけないだろう。 なるほど、これは――「……男はひとたまりもあるまいな。一刀なら尚更だ」 北郷本人が聞いていたら、どういう意味だ、と不満の声をあげたであろう台詞を呟く美髪公。 そんな関羽を見て、司馬懿は当惑したように首を傾げるのだった。◆◆ 繰り出される剛力の斬撃。重く、激しく、荒々しく。かすっただけでも鎧は砕け、手足は千切れ、この広漠とした大地に叩きつけられるであろう死の乱舞。 これを絶え間なく繰り出す単于の膂力は、おそらく匈奴の帝国、中華帝国、その双方を見回しても屈指の域に達していよう。 だが、と関羽は思う。 ただそれだけだ、と。 はじめて関羽は自ら仕掛ける。 横なぎの一閃は大斧に弾かれたが、相手の体勢は大きく崩れた。 敵の一撃は確かに重い。しかし、重くとも、その一撃は粗いのだ。ただ振り回すだけだから。 乱れた息を整えながら、追撃を繰り出す。振りかざし、振り下ろされた青竜偃月刀が、於夫羅の額を断ち割らんと唸りをあげて襲い掛かる。 於夫羅はこれを大斧の柄をつかって受け止めたが、こめられた力にその口から驚愕の声がこぼれでる。 それでもすぐさま反撃をしてくるあたりはさすがというべきかもしれないが、関羽はこれをあっさりと弾き返す。 それを見て、於夫羅の目が見開かれた。さきほどまでたじたじとなって自らの攻勢を受け止めることに終始していた相手が、あっさりと攻撃を凌いだことに不審を覚えたのかもしれない。 しかし、関羽にしてみれば造作もないことであった。於夫羅の攻勢はたしかに激しい。だが、いくら激しくともその一撃、その一閃が次手へと繋がっていないのである。 両者の力量が隔たっているならば知らず、そうでない相手に、攻撃の組み立てを考えずに挑めんで、どうして勝利を得ることが出来るだろう。力任せに得物を振り回すなど、子供でも出来るのだ。 哄笑を撒き散らし、愉しげに戦斧を振り回す巨躯の男は、やはり武人ではない。 命を懸けて互いの武を競い合うべき武人では有り得なかった。 関羽は得物を握りなおして確信する。この血と戦いに淫した飢狼は、ただ血の匂いにひかれて、何者かに鼻面を引き回されているに過ぎない、と。 ならば、その何者かとは誰なのか。◆◆「何故、北郷殿のことを知りたいなどと? いや、そもそも私ではなく当の本人に聞けば良いのではないか?」 関羽の言葉に、司馬懿は小さくかぶりを振った。 小さな唇から、明晰な言葉が発される。「北郷様とは、許昌からこの地に到るまでご一緒させていただきました。一月にも満たない時間です、その為人を知るを得た、などとは申しません。ですが私が知りたかったことの多くは、知ることが出来たと考えています」 ただ、と司馬懿は続ける。「将軍様とお話している時の顔は、私が見たことのないものでした。ですから、将軍様にとっての北郷様をお聞かせいただきたいと思った次第です」 その言葉に、関羽はやや怯む。何故かは関羽自身にもわからなかった――ということにしておかねば、色々と支障が……(って、ええい! 何をわけのわからないことを言っているのだ、私は?!)「そ、それは、だな……」 内心の混乱も鎮められないままに、関羽は落ち着かなげに口を開く。 もしこの場に通りかかる者がいれば驚いただろう。外見はともかく、内実は十三の少女を相手に、あの美髪公があたふたと慌てているのだから。 だが幸か不幸か、二人が向かい合う一画を通り過ぎる者はおらず。 関羽はじっと自分を見つめる少女を前に、何とかこの場を切り抜けねばと一人で慌てていた。 そもそも答えなければいけない義務もないのだが、それを口にするのは何故か憚られたのだ――なんか負けてはいけないところで負ける気がして。 関羽は司馬懿の言葉を思い返し、ふと違和感に気付いた。「私と話している一刀の顔が、見たことのないもの、といったか?」「はい」「しかし、それは当然ではないのか? 私と一刀は許昌に来る一年以上も前から、同じ劉家軍として行動を共にし、幾多の戦場を越えてきた。そなたはもちろん、子和や仲康にしたところでその半分も時を経ていないのだ。私とそなたらに、多少なりとも親疎の差が出てもおかしくはないだろう?」 その言葉は至極当然のものであった。だが、司馬懿は首を横に振る。 関羽の顔に当惑が浮かび上がるのを見やりながら、司馬懿は口を開いた。「北郷様は表裏の少ない御方です。努めてそうあろうとしているというより、単に隠し事が出来ない性格なのでしょうね」「それは確かにそうだな」 うんうん、と頷く関羽を見て、司馬懿は口元を、それとわからないくらいにほころばせる。「素直、というには少し違うかもしれませんが、表裏のない方は、それゆえに他者に利用されやすい。でも同時に、他者の信頼を得やすくもある。これは想像ですが、北郷様は子供に好かれやすくはありませんか?」「む、確かに洛陽や小沛では桃香様と共に子供たちの相手を良くしていたな」 それを聞き、司馬懿はゆっくりと頷いた。「やはり。あの村でも北郷様はすぐに子供たちに懐かれていましたから。恩ある人、という事実があるにしても、子供たちの涙をたちまち笑顔にかえられる人はそう多くはないでしょう」 少なくとも、私には出来ません。 そう言う司馬懿の顔は、どこか翳りを帯びて見えた。 その表情を見た関羽の気配が、わずかに鋭利なものへと変わる。「つまり、そなた何を言いたい?」「表裏がないということは、つまり他者と自分を隔てる壁がないということ。もしくは、壁は存在するにせよ、薄く、数も少ない。他者との親疎は、互いの壁を幾つ乗り越えたかによって示されるものと私は考えていますが、北郷様の場合、その壁を乗り越える時間はとても短くて済むでしょう――特にあの人は、女性と子供に甘いですから」 くすくすと。 はじめてはっきりと微笑んでみせた司馬懿の顔には、つい先ほどの翳りは見えない。 それに安心したわけでもないが、関羽は知らず、満腔の同意を示していた。「それに関してはまったく同感だ」「だから、多分、一ヶ月が一年になったところで、北郷様と私たちの親疎に大きな差は生じないと思います。もちろんまったくかわらないということはないでしょうけれど」 優しげな、そしてどこか儚げな司馬懿の眼差しを、関羽は無言で受け止める。 そんな関羽を前に、司馬懿はなおも言葉を続けた。「将軍様と同じだけの時を過ごしても、将軍様に向けるものと同じ顔を、北郷様が私たちに示してくれるとは思えないのです。あの顔は――あの信頼は、時の経過だけで得られるものではないでしょうから」 そこまで言って、司馬懿は関羽の表情が、少し険しくなったことに気付いたのだろう。わずかのためらいの後、こう言い足した。「話す順番が前後してしまいましたが……私は北郷様の信頼を得たくて、将軍様に聞いているわけではありません。わかったところで、それをなす時間も私にはありませんし」「では、何故、聞こうとする?」「聞きたいから、では答えになりませんでしょうか。将軍様の武威は、そのお姿を見て、さらにこのようにお話しさせていただくだけで十分に感じ取ることが出来ました。その傍らに、必要な時に、必要な場所にいることができる方がいるならば……私たちがどれだけ足掻こうと、廃都の炎は燎原の大火にはなりません。それはもう確信に近いです。ただ、どうせなら……」 司馬懿は再び微笑んだ。だがそれは、先ほどのように明るくはなく、楽しげでもなく――ただ笑みの形に顔を動かした、というだけのものだった。 誰よりも司馬懿自身がそのことをわかっていたのだろう。空虚な笑みを関羽の視線から隠すように、司馬懿はかすかに首を傾げてこう言った。「どうせなら、確信に至りたい。それが理由です、美髪公関雲長様」◆◆ 荒れ狂う暴風を鎮めたのは、舞い躍る烈風であった。 五十合を過ぎたところで、攻守は完全に逆転した。 於夫羅が繰り出す攻撃はことごとくはじかれ、打ち込まれる打撃は単于の巨躯をしびれさせる。 長大な八十二斤の偃月刀が、飛燕のように舞い躍る。 繰り出される攻撃は重く、鋭利に。 激しく、精緻に。 暴虐の颶風は、精細に編まれた烈風の前に力を失うしかなかった。「女、きさまッ!」 於夫羅の怒号は、押されている自分への苛立ちか。単于たる身に加減をした相手への怒りか。 いずれであっても構わない。関羽はそう考えていた。 そうして、続けざまに於夫羅に鋒鋩を叩き込んでいく。 青竜偃月刀は、その重さと長大さを利して渾身の一撃を叩き込むもの。本来、連撃のように小回りを要する攻撃には向かない武器である。 だが、関羽にとってこの青竜刀はもはや半身に等しい。その扱いに苦慮することなどあろうはずがなく。 於夫羅は重く、鋭く、激しく、精緻に組み立てられた猛撃の前に、たちまち防戦一方に追い込まれていった。 そのことを自覚した瞬間、琥珀色の於夫羅の眼球が鮮血に染まった。 憤怒のあまり、目の毛細血管が切れたのだろう。その口から獣じみた咆哮が沸き起こる。「オォオオオオッ!」 叫びながら、於夫羅は両の腕で大斧を振りかぶる。 それを見た関羽は、反射的に隙だらけになった腹部へ青竜刀を叩き叩き込んでいた。牛革の鎧を切り裂き、於夫羅の腹部に刃先がめり込んでいく。 だが。「くッ?!」 関羽が小さく呻く。青竜刀の刃先は於夫羅の左の側腹部に深々とめり込み、下半身をたちまち赤く染めていく。だが、致命傷には至っていない。狩りと戦で鍛え抜かれた頑強な筋肉が、それ以上の刃の侵入を阻んだのである。 無論、それが於夫羅の狙いであった。 関羽がそこに思い至った時には、すでに於夫羅は小癪な女を両断せんと大斧を振り下ろす寸前であった。そのまま立ち尽くしていれば、関羽はあたかも薪のように身体を両断されるであろう。 腹部にめりこんだ青竜刀を引き戻すには時がない。身体を投げ出したところで、もう間に合うまい。 於夫羅の目に灼熱した勝利の確信が浮かびあがり、戦斧が大気すら両断する勢いで振り下ろされた。 関羽は凍りついたように動かない。 周囲の将兵から悲鳴にも似た声があがった。 関羽の頭が柘榴のように割れ砕ける様を、その場にいる将兵は幻視した。 誰よりも於夫羅自身が、その手に伝わる重い感触に勝利を確信する――が。 その確信は二秒ともたなかった。 於夫羅の耳に声が飛び込んできたからである。「――よほど力が自慢のようだな、蛮夷の王」 その声は、幻聴と呼ぶにはあまりに明晰で、力感に満ちていた。 脳漿を撒き散らしているはずの眼前の敵を見る於夫羅の目は、張り裂けんばかりに見開かれていた。「き、さ……」「力もて奪うがおまえたちの法ならば、力もて守るが私の法だ。草原の飢狼ども、中華の民がいつまでも狩られる立場に甘んじるなどと思うなよ」 斧は剣とは違い、刃の部位は先端のみ。当然、重心も先端部分にある。 これまで幾百、幾千もの敵兵をあるいは切り裂き、あるいは叩き潰してきたその先端を。「ぬ、ぐ、余を、おさえるだとッ?!」 関羽は掴み取っていた。 於夫羅が全力をもって振り下ろした戦斧の、その先端。もっとも重く、もっとも破壊力がこめられたその箇所を、両の掌で、左右から挟みこんでいたのである。 剛力を誇るあの於夫羅が、怒号と共に力をこめても、戦斧は微動だにしなかった。 それは並びなき膂力を誇ってきた於夫羅にとって、どれだけの屈辱であったのか。力を振り絞るために顔は赤をこえて土気色に変じ、唸り声さえあげて力を込める。於夫羅の身体が小刻みに振るえ、腹部に半ばめり込んでいた青竜刀が音をたてて地面へと落ちる。その傷口から血が溢れ出てくるが、於夫羅を気に留める様子も見せず、なおも戦斧を取り戻さんと力をこめ続けた。 ――だが、それでもなお、関羽の力を上回ることはかなわなかった。 そんな単于の姿を見た匈奴兵たちからもれたのは、驚愕を通り越した畏怖の声であった。 彼らは自分たちの王の強さを知っている。だからこそ、眼前の光景に恐怖を禁じ得なかった。 最強たるを望み、事実これまで個として不敗を誇ってきた巨躯の王が、その半分もない女性に力で及ばぬその不条理を、どうして恐れずにいられようか。「テングリ(天の意)……」 喘ぐような呟きが匈奴兵の口からこぼれでる。 匈奴はシャーマン信仰が盛んであり、巫師や祈祷師らが大きな発言力を持っている部族も存在する。神仏、精霊、悪神など人ならざるモノが人の身に宿ることを知る匈奴兵にとって、眼前の不条理な光景は『そういったもの』にしか映らなかった。 すなわち。「悪霊だ、悪霊が憑いて……」「東の悪しきテングリが降り立ったんだ! 祟りが起きるぞッ!」 於夫羅がみずから選び抜いた匈奴の精兵が、雷に怯える羊の群れのように統制を失って乱れていく様は、何かの策略ではないかと思われるほどに呆気なかった。 だが、匈奴兵の動揺はまぎれもなく事実。そして、曹操軍にとって彼らを見逃す理由など、どこを捜しても存在しなかった。「馬鹿者どもがッ! なにを血迷ったことを」 配下の混乱を見て、於夫羅は歯軋りする。 その途端、不意にこれまで於夫羅を縛り付けていた戒めがなくなった。関羽が両の手を戦斧から離したのである。「な……ッ!」 周囲に注意をそらしていた於夫羅は、この咄嗟の動きに対応しきれない。 斧はそのまま宙を断ち切りながら関羽の傍らを滑り落ちていく。そのまま斧を地面に叩きつけていれば、致命的な隙になってしまうだろう。 だが、ここで於夫羅は剛力に任せて、振り下ろした戦斧を中途で止めるという離れ業を演じてみせる。 その判断は決して間違っていなかった。が、すでに遅きに失したことを於夫羅は知る。 関羽は戦斧から手を放すと同時に、地面に転がる青竜刀の柄の端を踏みぬき、跳ねるように浮かび上がった得物を、自分の手に取り戻していたのである。 曹操軍が、匈奴兵を見逃す理由をもたなかったように。 関羽が、於夫羅を見逃す理由もまた存在しない。聞きたいことがないわけではなかったが、それを問う無意味さは今の戦いではっきりと知れた。 文字通り、鮮血に染まった眼差しで憤怒の叫びをあげようとする於夫羅。「おのれ、土民ごとき……ッ!」 だが、その言葉を言い終えるよりも早く、関雲長の青竜刀は唸りをあげて於夫羅の左の肩口を襲い――瞬きをする間もなく、右の肩口を通り過ぎていく。 宙を飛ぶ単于の首が地面に落ちたのは、そのすこし後のことだった。◆◆◆ 官軍勝利の報は、その日のうちに県城まで伝えられた。 元々、兵力の差は明らかであったとはいえ、これまで恐怖の対象でしかなかった匈奴の軍勢を撃ち破り、あまつさえ敵の王さえ討ち取ることが出来た。 大勝利の報告を受け、官、民を問わず人々はおおいに湧き立ち、声高らかに皇帝陛下万歳を唱え、その声は終日消えることはなかった。 報告はさらに続き、官軍がこれより解池攻略に取り掛かること。単于を失った匈奴の残兵はすでにはるか後方へ退いて解池に戻る気配はなく、おそらく漢土に留まることもないのではないか、との推測も付け足されていた。 となれば、残る敵は白波賊のみである。賊徒としては強大な勢力だが、無論、五万を越える官軍の精鋭にはかなうべくもない。 なにより所詮は賊徒。軍としての統率は匈奴とはくらべものにならない。押し寄せる官の大軍を前に、脱走する者も少なくないとも言う。解池の奪還は時間の問題といってよかった。 一時はどうなることかと思ったが、と太守の王邑は安堵の息を吐く。 解池が陥ち、塩の生産地を奪われたことで、今後起きるであろう混乱を思って青ざめていたのだが、それも杞憂で終わりそうだった。 無論、解池の陥落は大事であり、その復興も一朝一夕にはいかない。解池に蓄えられていた大量の塩はどうなったのか。それ次第ではしばらく混乱が続くことも考えられるが、それでも匈奴や賊徒がいなければ、王邑や賈逵らで十分に対処できるだろう。王邑はそう考えていた。 賈逵の心情はより深刻だった。 なにより実質的に解池を失ったのが自分の責任だという自覚がある。敵を追い払い、めでたしめでたしで済ますことができるはずもない。あの地獄を見てから、まだ半月も経っていないのだから。 何より、今こうしている間も、解池は白波賊の支配を受けているのである。迫り来る官軍を前に、荒んでいる賊徒の支配を受けている城内のことを思えば、今すぐにも駆け出したい気持ちに駆られてしまう。 無論、そんな衝動に負けるほど若くはないが、と賈逵は自嘲する。衝動を抑えてしまえる自分に失望するように。 それでも、すでに賈逵は解池の復興と民衆の救済に向けた準備を進めており、それはこの後の復興状況に少なからず寄与することになる。 だが、賈逵はこの時、一つのことを忘れていた。 解池が陥落したその日。何者かが城門を開いて城内に賊徒を手引きしたことを。 ただ、それは仕方ないことであったかもしれない。その後の混乱と略奪、逃亡と反抗の中では当時の戦況を思い出すことも稀であったし、たとえ思い至ったとしても、城内に賊徒が紛れ込んでいたと推測するくらいしか出来なかったであろう。 金城湯池と謳われた解池であったが、結局自分は賊徒に一夜で陥とされる程度の守備しか出来なかったのだという賈逵の自責が、賊徒が潜り込んでいたという可能性を現実にあてはめてしまうのである。 賈逵は知る由もない。 たしかに白波賊は解池に幾人もの密偵を送り込んでいたものの、実際に潜入に成功した者はいなかったのだという事実を。 では、何者が城門を開いたのか? それは――