どこまでも続くかと見えた緑の野。 やがてその彼方から濛々と土煙が上がり、赤錆色の軍団がその全容を示すまで、大した時間はかからなかった。 軍装は去卑が率いていた兵と特にかわりはない。牛革の戦袍に獣毛の帽子、指揮官とおぼしき者たちは臙脂色の布地をマントのように背に流している。 そして彼らの先頭で馬を駆る巨躯の男。 五千対五万。十倍を越える敵勢を前にしながら傲然とこちらを見下すその様は、兵力差など微塵も気に留めていないことをはっきりと示している。 跨る馬が子馬のように見えるのは、その体躯があまりに巨大だからだろう。匈奴随一の名馬でさえ、この男の身体を支えることはかなわないのだと思われた。 先ごろ対峙し、首級をあげた右賢王去卑などとは比較にもならぬ。 零落し、漢土に落ち延びてきたとはいえ、その姿はたしかに漠北の覇王たるに相応しい威容であった。「あれが南匈奴の単于、於夫羅か。なるほど、その武威、離れていても肌をさすように伝わってくる」 関羽の慨嘆にも似た感想に、しかし俺は小さく首を傾げた。 そのことに気付いたのだろう。関羽が訝しげに俺の顔を覗き込んできた。「どうした、一刀。何か言いたいことでもあるのか?」「いや、つい先日、あれとは比べ物にならないほどの武威をまざまざと見せ付けられたもので、あの男を見ても、そこまでの脅威は感じないのですよ、雲長殿」「……ふむ。参考までに聞くが、誰のことを言っているのだ、一刀?」 その問いに対し、俺は爽やかに笑って言った。「はっはっは――思えばこうやって雲長殿と戦場で轡を並べるのははじめてかもしれませんね」「質問にこたえ……」「しかも曹丞相の兵を率いて、とは……いやはや、人生万事塞翁が馬というやつですねえ」 俺はなにやらふるふる震えている関羽をよそに、そ知らぬ顔で続ける――決して先日の意趣返しではないのである。 そんなことをこっそり考えていた俺に対し、関羽は不意に言った。「……うむ、そうだな」「え?」 予期せぬ言葉に、俺は思わず問い返していた。 あれ、ここはもう少し会話を引っ張って、俺がどつかれて、関羽の気負いを和らげるという予定だったんだけど。「何を妙な顔をしてる? 今、口にしたとおり、こうして一刀と轡を並べるのは初めてだろう? いつかこの日が来ることを願っていたが、しかし、確かに朝廷の軍を率いてとは考えもしていなかった」 そう言うと、関羽は澄んだ眼差しでこちらを見つめ、落ち着いた声音で語りかけてきた。「……にも関わらず、こうして一刀が隣にいることに不思議と違和感を覚えないのは何故なのだろうな」「さ、さて、何ででしょう?」 穏やかで優しげな笑みを向けられ、俺は咄嗟に関羽から視線をそらす。 何故だかその視線を受け止めることが気恥ずかしく、頬が紅潮してしまうのがわかる。 それは関羽にも明らかだったのだろう。くすくすと笑い声が聞こえてくるが、その関羽らしからぬ女の子のような笑い声に、ますます照れくさくなる俺であった。 戦場に似つかわしくない、穏やかで気恥ずかしい雰囲気。 しかしそれはやはり一時の幻に過ぎず。すぐに先陣から伝令が駆け込んできた。「申し上げます! 匈奴勢、動き始めました!」 その言葉で、俺と関羽の間に立ち込めていた何かはたちまち霧散する。「とと、こんなところで話し込んでいる場合ではなかったですね」 俺が照れ隠しを兼ねて苦笑すると、関羽も同じ表情で頷いた。 だが、すぐに表情を改めると、真摯な眼差しで俺を見つめる。「……では、頼むぞ、一刀」「御意です、雲長殿……や、ここは関将軍、とお呼びすべきですね」「そんな軽口を叩ける余裕があるのは結構なことだ、さすがは劉家の驍将殿」 ……どっかで聞いた妙な名称を耳にして、その場を去りかけていた俺は思わず動きを止める。そしておそるおそる振り返り、関羽に問いかけた。「…………もしかして、その名称って結構広まってるんですかね?」「私の耳に入る程度には広まっているようだな。ふふ、結構なことではないか」「うぅ……誰だ、最初に言ったやつは」 微妙にへこんだ状態のまま前線に出て行く俺。 いや、まあそういった評判があるからこそ、俺がいきなり関羽の副将として兵を指揮する立場になっても、将兵から苦情の一つも来ないのだから(というか関羽が有無を言わせなかったのだが)、むしろ感謝するべきなのだろうが、しかしなあ……趙雲の耳にでも入った日には、腹を抱えて笑われそうな気がするぞ。 などと俺がぶつぶつ言っている間にも、大地を蹴る馬蹄の音は地響きとなって官軍へと押し寄せつつあった。 間もなく騎射の射程に達するだろう。こちらの十分の一にも達しない寡兵だというのに恐れる色もなく、悠然と突進してくる様はいっそ不気味なほどであった。 自らの武力に対する圧倒的なまでの自負と自信。相対する官軍を塵ほども気にかけていないその疾走ぶりは、敵ながら王の――単于の名に値する勇姿であるといえたかもしれない。 もっとも於夫羅の自信は確かな実績に基づくものであった。 匈奴兵はいわゆる弓騎兵であり、その機動力と騎射の技術を活かした一撃離脱戦法を得手とする。 これに対し漢土の軍は基本的に歩兵を中心とした部隊が多く、騎兵でも鉄甲、鉄鎧を重ね、防御力と突破力を重視した重装騎兵が一般的である。 正面からぶつかって矛を交えれば、重装備であり、なおかつ兵力の多い軍が有利であろう。そして大体において漢土の軍は重装備であり、国力の高さゆえに兵力も多い。 にも関わらず、騎馬遊牧民族の帝国は漢民族にとって脅威の対象として君臨する。 その理由はどこに求められるのか。答えは簡単である。 そもそも、騎馬民族は正面から戦わないのだ。 その機動力を活かし、敵との距離を保ちつつ騎射で敵を射続ける。 歩兵の足と騎兵の脚とでは比べるべくもない。また同じ騎兵であっても、重い鉄装備で身を固めた騎兵と、軽装備の騎兵とでは馬にかかる負担が大きく異なるのは誰の目にも明らかである。 敵軍に正面から突撃などしない。敵が槍や剣を掲げて突っ込んできたら、即座に馬首を転じて逃走、馬上で振り返り、追って来る敵を騎射で撃ち倒していく。これを続けられれば、機動力で及ばない敵軍には為す術がない。剣を交えることすら出来ず、ただ射殺されていくしかないのである。 軽装弓騎兵による一撃離脱戦法――パルティアンショット。とある古代国家の名をとったこの戦法こそ、匈奴をはじめとした騎馬遊牧民族が得意とし、長きにわたって農耕民族が屈従を味あわされてきた要因の一つなのである。 ただ、それは逆に言えば、この戦法をとることが出来ない状態に持ち込めば、勝利を得ることは出来るということでもあった。 端的に言えば、それは先日のように敵に攻城戦、陣地戦を強いることであり、さらには西河郡で曹純が去卑の部隊を打ち破った時のように、策略なり奇襲なりで敵部隊を直撃することである。 過去、騎馬民族相手に勝利を得てきた名将たちの多くは、距離をとって対峙されない戦況を形作り、そこに敵を誘導することで勝利を得てきたのだ。 その点を鑑みた場合、今回の官軍――つまるところ俺と関羽は、兵数こそ揃えたが、戦場の選択を完全に誤ったといえる。 なにせ遮るものとてない平原で匈奴の騎兵と相対しているのである。当然のようにあらかじめ陣地をつくっていたりはしない。 於夫羅もそう考えればこそ、不動の自信をもって突進してくるのだろう。やがて騎射の距離まで近づけば、射で陣形を乱し、突で将兵を蹂躙する常の戦いを仕掛けてくるものと思われた。 ――そう、こちらの意図したとおりに。 ……などと思わせぶりな言い方になってしまったが、その『意図』に関して、今回の俺は一切合財関わっていない。 匈奴兵を掌の上に乗せたのは、遠く許昌にいる稀代の軍師。今頃は眼鏡をくいっとしつつ「すべては私の掌の上です」などと言っているかもしれない。程昱によると、案外、決め台詞が好きな人らしいし。 そんなことを考えつつ、俺は前線の将兵に命令を下す。「偏箱車(へんそうしゃ)、展開せよ!」 その声に応じて引き出されてきたのは車輪を備えた戦車の一種であった。 通常、戦車というと馬に牽かせた車体に弓兵、槍兵などを乗せて戦場を疾駆するものを指す。もっともこの手の戦車は小回りが利かず、難路の走破も難しいため、騎兵の充実と共に戦場から姿を消しつつあるのだが、官軍――より正確に言えば曹操軍の軍師郭嘉が用意したのは、そういった戦車とはまったく異なる役割を持っている。 まず、外観だが、その名のごとくやたらと大きな――大の男が並んで二、三人入れるような木製の箱を思い浮かべてもらえばわかりやすいかもしれない。その箱から左右と後方の壁面を取り払ったのが、この偏箱車である。 車体は馬に引かせず、偏箱車一台に付き、二名の兵士が人力で押して移動させる。 進行方向には槍状の突起が突き出ており、これが騎兵の接近を阻む。 弓を射掛けられても、前述したように進行方向と上方部分はしっかりと板で覆われているため、その内側にいる兵士には届かずに済むという寸法であった。 車体を馬に牽かせないのは、馬自体を狙い打たれて移動力を殺がれないようにするためである。そのために車体も、極力、軽量化が計られている。壁面や車体が鉄ではなく木で造られているのもそのためであった。当然、皮革を張り付けるなどの補強はしてあるにせよ、正面から歩兵部隊と相対すれば、比較的容易に打ち壊される程度の代物でしかなかった。 だが、それは欠点ではない。何故なら、この偏箱車は対弓騎兵用に用意された――ただそれだけに特化した戦車だったからである。 この偏箱車が、何十台と連なって押し寄せてくるのを目の当たりにした匈奴兵は困惑した。彼らにしてみれば、いきなり眼前に槍が突き出た壁が現れたようなものだから当然であったろう。 だが、困惑しながらも彼らは馬上、弓に矢を番え、次々に射始める。 たちまち偏箱車の壁面に矢がつきささり、まるでハリネズミのような有様になっていくが、それだけだった。戦車同士の空隙を縫った矢が不幸にも命中した例を除き、将兵の被害はほぼ無しといってよい。 三十台を一隊とし、横に三隊を並べ、さらにそれを縦に三重に布陣する。 合計九隊、二百七十台の戦車、五百四十人の兵士をもって一軍とする戦車部隊。 この戦車部隊を、曹操軍は今回の遠征に四軍動員している。 それはつまり、敵が機動力に任せて左右に展開すれば左右を、後方に回り込めば後方を、同じ戦車部隊によって阻止することが可能である、ということだった。 匈奴兵は騎射に優れ、またその弓自体も工夫を凝らし、短弓ながら飛距離、射程に優れてはいたが、三重に展開している戦車兵によって射程を奪われ、また狙いを定めることもままならない状況では、その優れた弓術を活かしようもない。 機動力に任せて回り込もうとしても、そちらの方面に戦車兵を繰り出し、同じように騎射を阻む戦法を崩さない。 当然、こちらとてただ黙って矢を射掛けられているだけではない。戦車同士の隙間から、また戦車の壁面と上方部分に設置された狭間(さま)――矢を射るために手動で開け閉めする小窓――から猛然と射返し、敵に少なからぬ損害を強いている。 その損害にたまりかねたのか、今度は匈奴兵から火矢が放たれてきた。無数に突き立った矢を見れば、壁面が金属製でないことは明らかであり、火で一掃しようと考えたのだろう。 その考えは正鵠を射ていた。 車体を軽くするために大半を木で造り、強度を増すために獣皮を用いている以上、どうしたところで火には弱くなってしまうのだ。 だが、弱いとわかっていれば、それに備えるのもまた当然のこと。偏箱車には冷たい泥を塗り込め、容易に火を通さないようにしてあった。 たまりかねた匈奴兵の一部が弓を剣に持ち替え、突撃してくる。 偏箱車には槍状の突起がついているとはいえ、静止した状態であれば、馬術に長じた騎馬民族にとって障害にすらなりえない。車体同士の隙間をぬって馬を駆り、小癪な敵兵を蹴散らそうとするが、こちらとて備えは十分してある。それぞれの車体には弓矢以外に槍も剣も置いてあるのだ。 さらには敵の突撃を受けた場合、二人一組を保ち、騎兵に対処する術も十分に訓練されている。まずは馬を刺し、敵兵を馬上から引き摺り下ろして、二人がかりでこれを討つ。少数の兵の突破など恐れる必要はなかった。 では多数の匈奴兵が突撃してきたらどうなるのか。 その時こそ、戦車兵の内側で待機してきた重装歩兵の出番である。 軽装弓騎兵の長所は機動力と騎射の妙。 直接に矛を交えるのなら、重装備で、兵力が多い方が勝つのだから。 敵が不利に気付いて逃げ散るようならば、偏箱車の陰に隠れ、騎射の的にならないようにすれば良い。しかる後、前進するか、その場に留まるかは指揮官の判断次第といったところか。 偏箱車は前進の際は戦車となり、その場に連ねれば鹿角と壁を備えた簡易の陣地に早代わりする。そして、戦車兵と呼称しても、実質的に歩兵と特段の違いはなく、どちらがどちらの代わりとなることも可能であった。 匈奴の弓騎兵が得手とする平原にあって、歩兵を中心とした自軍が勝利するための、戦車を用いた簡易移動陣地――車営陣。 偏箱車を用いた、この簡易性と柔軟性に富んだ用兵こそが、対騎馬民族戦に備え、神算鬼謀の郭奉孝が考案した切り札の一つであった。◆◆◆「……なんというか、恐ろしい錬度だな、相変わらず」 日はとうに地平線の彼方に落ち、匈奴勢の姿は周囲から消えている。 夜空に浮かぶ星の光を霞ませるほどに煌々と焚かれた篝火。その赤々とした輝きに目を細めながら、俺は偏箱車に囲まれた本陣の中で、しみじみと呟いた。 実際、関羽からこの車営陣の話を聞いた段階で成功は間違いないと確信していたものの、将兵の動きは、そんな俺の予想をはるかにこえて、驚くほど速やかであった。 偏箱車の造りもしっかりしたものだし、将兵の弓や槍の腕前はいわずもがなだ。 今回、関羽が引き連れてきた曹操軍の主力部隊が、農民を徴兵した兵士ではなく、職業的に兵士として雇われた者たちであることは承知していたが、それでもなお将兵の錬度は俺の予測を越えていた。 生産に従事しない職業兵を大量に抱えることが出来るのは、その国の国力がそれだけ高い証である。かつての徐州侵攻の段階で、すでに万単位の職業兵を有していた曹操だから、今ではさらにその数を増しているのだろう。 かつては敵として、その精強さをまざまざと思い知らされたものだが、味方として見てみると、また違った凄みが感じられる。 関羽の指揮は的確であり、俺もきちんとそれに応じた動きをしてみせたつもりだが、おそらく、俺はもちろんのこと、たとえ関羽以外の将軍が指揮官であっても、今日の勝利は容易であったに違いない。それほどに、この軍は――曹操軍は強い。匈奴の軍を、赤子の手をひねるように退けてしまえるほどに。 とはいえ、まだ敵を撃ち破ったわけではなかった。 今日の戦いにおいて、こちらの被害は少なかったが、それは敵も同様である。基本的に陣地に篭って駆け回る敵に矢を射掛けていただけ。最後に多少の混戦はあったが、敵は執着せずにすぐに退いた。決定的な打撃を与える機会はなかったのである。 であれば、明日以降の敵の動きは、今日よりもさらに注意を要する。 この車営陣は、当然だが機動力に欠ける。人力で押す戦車が、馬で駆ける騎兵に追いつけるはずもない。それゆえ、敵に戦いを避けられてしまうと、延々と戦いが長引いてしまうのである。 もっとも騎馬民族の戦いは基本的に速戦であり、持久戦はこちらに一日の長がある。くわえて、今回、敵は解池という根拠地を持っているため、草原での戦いと異なり、どこまでも逃げ続けることが出来るわけではない。 ただ、漢土への拘泥を捨てれば、匈奴はそういう選択肢を選ぶことも可能ではある。そうすればこちらは匈奴の妨害なく解池奪還にとりかかれるわけで、損はないのだが、伝え聞く於夫羅の為人を聞けば、その選択肢を選ぶ可能性はまずないと見て良いだろう。 むしろ、今日の一連の戦いにおいて、ほとんど沈黙を保っていたことに違和感を覚えるほどであった。 おそらくは、新たな戦術を用いてきたこちらの動きを観察していたのだろう。その上でこちらに襲い掛かるつもりなのだとすると、やはり―― そこまで考えを進めた時、不意に地面が揺れるのを感じた。 地震か、などという寝ぼけた呟きはもらさない。この感覚は、今日一日でいやというほど味わったのだから――幾千の馬蹄が大地を蹴る、この感覚は。「申し上げますッ! 北東方面より敵騎兵が出現、一直線にこちらに向かってきます!」「応戦準備。各自、持ち場につくよう伝えてくれ。あらかじめ伝えておいたから問題ないと思うが、早急に」「は、了解いたしましたッ」 昼間、確たる成果を挙げられなかった敵が、夜襲を試みてくる可能性は高い。むしろ常套手段といっても良いだろう。そのため、夜営をはじめる段階で麾下の将兵には注意するよう伝えてあったのである。 もっとも、たとえ俺が指示しなくても、この精鋭たちであれば自分たちで勝手に判断したに違いない。そんなことを思いつつ、俺は彼方から押し寄せる馬蹄の濁音と匈奴兵の喊声に意識を向けなおすのだった。◆◆ 彼方に広がる敵陣のちょうど反対側。 刀槍の音と、人馬の声が絡み合い、こちらまで響いてくる。予定どおり、別働隊が敵陣に喰らいついたことを於夫羅は知った。 夜空の下、煌々と浮かび上がる敵の本営の位置は今さら確認するまでもない。昼間、こちらの進撃を阻んだ戦車は、敵陣の背面にあたる南側にも配置されているが、将兵は未だこちらに気付いてはいないようであった。「まあ気付かれたとて、蹴散らすだけ。かまわぬがな」 於夫羅は手に持った大斧を構えなおし、不敵に口元を歪ませる。 その周囲には於夫羅直属の匈奴の精鋭が居並ぶ。いずれも於夫羅には及ばぬながら、頑強な体躯と優れた膂力を持つ者たちだ。 数は五百に満たないが、於夫羅にとっては十分な数であった。「余に続け。こざかしき土民の軍勢を食い破る」 士気を高める口上を口にすることもせず、於夫羅はかすかに身体を揺らす。それだけで騎手の意を感じ取った軍馬はたちまち走り出した。 その単于の後ろに、匈奴の精鋭たちも続く。 彼らは特に喊声をあげたりはしなかったが、五百の人馬が突進してくる騒音は隠しようもない。北側で激しい戦闘が交えられていたとしても、その物音を聞き逃す曹操軍ではなかった。「南より、騎兵、百騎以上! 突っ込んできます!」「迎え撃て! 弓兵、斉射準備! 槍兵は敵の突入に備えよ! たかが数百、陣を破られては他軍に笑われようぞ!」 その敵軍の様子を観察しつつ、思ったよりも敵兵に動揺がないことに於夫羅は気付く。どうやら気付かれてはおらずとも、分撃の可能性は考慮していたのだと思われた。「だからといって、余を止められると思っているのか」 呟く於夫羅の耳元を、音をたてて矢が通り過ぎる。敵が戦車の陰に隠れながら、射放ったものであろう。 だが、於夫羅は顔色一つかえず、そのまま猛然と馬脚を速めた。たちまち戦車に近づくや、突起を避けつつ、大斧を振りかぶる。 そして。「ぬんッ!!」 ただ、一言の気合と共に放たれた単于の一撃は、奇妙に乾いた音をたてて、そこに置かれていた戦車を、文字通りの意味で吹き飛ばした。その陰で弓を構えていた兵士ごと。 単于の猛威はそれだけでは終わらなかった。 自ら突っ込み、車営陣に穴をあけ、そこに将兵をさしまねく。単純な、呆れるほどに単純なその行動を、しかし曹操軍は止められなかった。 於夫羅の斧が一閃する都度、必ず血煙と共に首が舞った。時に臓物と共に身体ごと両断される者もいる。ただ力を込めて振りまわすだけで、戦車さえ子供の玩具のごとくに破壊された。 昼間、あれほど見事に匈奴勢を食い止めた車営陣が、ただ一人の膂力によって引き裂かれていく。それは悪夢というよりも、子供の戯画じみて、現実感が喪失した光景であった。 だが、それはまぎれもない現実であった。 於夫羅が引き裂いた空隙に、匈奴兵が次々と躍りこみ、さらに穴を広げていく。 曹操軍も懸命に反撃しようとするが、於夫羅にはその一切が通じなかった。両者の差は、武芸の力量ではなく、もっと根源的な膂力の差であったのかもしれない。鍛え上げられた曹操軍が、まるで赤子の軍隊でもあるかのように次々と屠られていく。 その光景に、周囲の将兵は怯みをおぼえずにはいられなかった。 そして、そんな敵軍の怯みを見逃す於夫羅ではなかった。 全身を敵兵の血で染め上げながら、息一つ乱さず、周囲を睥睨する。「他愛もない。机上の策だけで戦に勝利しえるなら、敗者など存在せぬわ。多少は歯ごたえがあるかと思ったが、所詮はこの程度か」 自軍に数倍する敵軍の真っ只中に躍り込み、暴れまわりながら、匈奴の単于はさも退屈そうに言い放った。興が削がれたとでも言わんばかりに。 刀槍の音で、曹操軍にその声は届かない。あるいは届いたとしても、於夫羅の猛攻に押し込まれている今、言い返すだけの余力も余裕もありはしなかったろう。 ――事実、その場で口を開く者は誰一人としていなかった。 ――にも関わらず。 「……ぬ?」 於夫羅は視線を敵陣の奥へと向けた。 より正確に言うならば、向けざるを得なかった。その在り様はどうあれ、優れた武人として鍛え上げた彼の本能が告げたのだ。 そこに、いるのだ、と。 何が? 誰が? そんな疑問は於夫羅の脳裏から刹那で消えた。 姿を見せたのは、身の丈以上の得物を構える黒髪の乙女。 夜空に溶けてしまいそうな艶のある髪が戦塵に靡く様は、戦場にあってなお美しいと称するに足りたであろう。 無論、そんな詩的な表現は於夫羅の脳裏には浮かばない。 浮かんだのはただ一言――あれは敵だ。ただそれだけ。 望んで得られなかった敵。望んでやまなかった敵。それが今、目の前にいる。 それを知って、他に何かを考える必要があるだろうか? いいや、そんなものがあるはずはない。 今はただ、こちらを射るように見据えるあの女に、この大斧を叩きつけることだけ考えていればそれで良い! 次の瞬間、匈奴の単于の口から迸った咆哮は、どこか歓喜の声にも似ていた……