司州河東郡県城。 今、その城内はかつてないほどの喊声に包まれていた。 先日の虎豹騎の凱旋とは比べるべくもないほどの熱狂と歓喜。今やそこに不安の影は微塵もなく、すべての民が解放の喜びに浮かれ、騒いでいた。 まだ、解池が取り戻されたわけではない。白波賊と匈奴はいまだ健在であり、虎視眈々と県城を狙っているに違いない。 にも関わらず、人々は口々に言い合った。もう大丈夫だ、と。もう怯える必要はない、と。 何故ならば――城外で跳梁する賊徒など及びもつかない援軍が来てくれたのだから。 隊伍厳正、歩武堂々。あたかも一つの生き物であるかのような統率の下、県城の門を潜るは許昌を発した精鋭五万。 それを率いるは黒髪を風になびかせ、軍勢の先頭に立って馬を進める鮮麗なる姫将軍。美髪公、関雲長その人であった。 ◆◆◆「では、解池奪還は以上の作戦で行うこととしたい。異存のある方はおられようか?」 県城の一室に関羽の声が響く。 室内にいるのは太守である王邑、解池の城主であった賈逵、朝廷の援軍である関羽、曹純、許緒。そして作戦立案者として俺、司馬懿、徐晃。 これだけの人数が集まる中、解池奪還のための作戦会議は開かれ――そして今、あっさり終わった。 というのも、こちらは新たに参戦した五万が加わり、向こうは去卑率いる一千が失われたわけで、戦力比ははっきりとこちらが上だったからである。正攻法で押せば、必ずとは言わないが、ほぼ確実に勝てる戦いであった。 多くても一万と予想されていた関羽の援軍が、どうしていきなり五万もの大軍に膨れ上がったのか。その理由は関羽の口から語られた。「一刀が許昌を発って間もなくのことだが、北平より程仲徳が戻ってきてな。河北の袁紹殿を封じる手立てが成ったのだ。それゆえ動かせる兵力が大きく増した。おかげで少し到着が遅れてしまったが」 関羽は当初率いる予定だった編成済みの一万だけで先発しようとも考えたらしいが、その後、解池陥落の報がもたらされた。敵が解池を陥とすほどに強大だと明らかになったため、各個撃破される危険を避け、全軍を率いた上で必勝を期したのだという。 白波賊と匈奴の連合は多く見積もっても一万。解池に援軍が到着した形跡もない。 相手に優る兵力を用意したなら、あとはそれを正面から叩きつけるのみ、つまりは奇策を弄さず正面から攻め寄せる。 県城には河東郡の軍兵を残し、関羽率いる五万を本隊とし、曹純率いる虎豹騎を遊撃部隊として配する。 敵が出撃してくるか、城に篭るかは不明だが、いずれにせよこちらの有利は動かない。相手にしてみれば、遮るもののない平野で五倍の敵とぶつかるか、先日陥としたばかりの不穏な城に立て篭もるかの眩暈のするような二択である。 もっとも厄介なのが城を棄てて逃げられることなのだが、それは敵の掃滅に視点を据えた場合の話である。解池の奪還という目的が無血で果たせることにはかわりない。「……相手より大きな兵力で戦うって、楽ですねえ……」 思わず、しみじみと言ってしまった。 すると――「うむ、まったくだ……」 即座に関羽が同意する。 しみじみと頷きあう俺と関羽の姿に、周囲から戸惑った視線が注がれる。いや、劉家軍での戦いはほとんどの場合、相手の方が兵力が多かったから、関羽にしても俺にしても、こういう優勢な立場で作戦をたてるという経験に乏しいのである。 あまりの選択肢の多さに、昔日の苦難に満ちた逃避行を思い起こして、ついついため息も出ようというものであった。 「出陣は明朝。県城には王太守、佐には梁道殿(賈逵)、本隊は私、佐には北郷殿。遊撃部隊は子和殿、佐には仲康と公明殿」 関羽が配置を告げると、各々がしっかりと頷く。 ちなみに司馬懿の名前がないのは年が年だけに戦力に数えていないからである。明日の出陣も県城に残ることになっており、この点は本人も了承していた。 ただ作戦の立案を手伝ってもらったことと、本人の希望もあって、関羽に頼んでこの軍議に司馬懿の席を設けてもらったのだ。司馬懿もそのあたりのことをわきまえているのだろう。軍議の際は一度も口を開かず、じっと軍議の様子を観察していただけであった。 徐晃に関しては、またさらに話がこみいってきてしまう。 どう関羽に説明したものかと俺が頭をひねっていると、関羽はさして気にする様子もみせず口を開く。「いや、特にこみいってはいないだろう」 これまでの経緯を説明しつつ、徐晃の参戦を告げた俺の言葉を聞き、うむうむ、と頷きながらそう言う関羽。 その口調は平静そのもので、特に怒気を感じさせるものはない。ないのだが……なんでだろう、机の上の椀がカタカタと鳴っているのは。部屋には少しの風もないんだけどな。 あと曹純たちはなんでいきなり壁際に移動しだしたんだ? 司馬懿まで? などと考えていると、関羽はにこやかにこう続けた。「――つまり解池を探るという任務に従事していたら、何故か年端もいかぬ少女に手玉にとられ、匈奴に襲われた村を助けて村娘に懐かれ、情報を集めようと尋問を試みたら敵方の女将に泣かれ、挙句その涙を拭うために解池を陥とすことを約束した、と。そういうわけだな、一刀?」 ……あれ? 今の話を聞いた上でそのまとめ方はおかしくないですか、雲長殿?「け、決して間違ってはいませんが、白波賊とか楊奉とか於夫羅とか、そういった単語はどこに消えてしまったんでしょうか?」「うむ、そうであったな。白波賊の副頭目である楊奉の娘を言葉たくみに抱きこんで於夫羅に一泡ふかせるから力を貸せ、とこういうことだったか」 ええ、まあそういう……ことか?「こ、言葉の上では決して間違っていないのですが、なんかこう、刺々しいものを感じるのは気のせいなのでしょうか、か……雲長殿?」 おそるおそるの問いかけに、関羽はなおもにこやかに――その実、額に青筋たってたりするが――応じた。「なに、そんなことはない。洛陽では猛火の中から高順を救い、河北では黄巾党の党首らを助け、北海では……いや、あれは平原だったか、太史慈を導き、北海では王修を見出し、徐州では――きりがないな。ともあれ、いつもどおりではないか。一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している――そして、今回もまたいつもどおりになるのであろうな?」「い、いや、『あろうな?』って言われましても。あと、篭絡っていうのは何か違うと思うんですが……」 あとこっそり激怒しているように見えるのは気のせいですか? な、なんか咽喉が乾いてきたので、お茶お茶、と。「気にするな。後宮の候補が増えて結構なことではないか」 ぶふ、と含んだお茶を吐き出しそうになった。「な、何を趙将軍みたいなことを言ってるんですか?!」 「いやいや、男児の本懐を邪魔するつもりはないぞ? それに陛下より授かった勅命を果たすためであれば、多少の不如意には目を瞑らねばならん。ここで我らが功績をたてることは、ひいては桃香様の御為にもなることだしな。ゆえに一刀が一刀であることに文句を言うつもりはさらさらない。この城でお前を見たとき、また見慣れぬ女子の顔が左右にあるのを見ても、私の心にはさざ波一つ立たなかった」「と、穏やかに言いつつ何故に青竜刀に手を伸ばすッ?!」 あと、今回は俺的にかなりがんばったんですが。徐晃の説得とか、玄徳様の麾下として恥ずかしからぬと思うんですけれど?!「うむ、それを認めるに吝かではない」 ――だが、と関羽はゆっくりと口を開く。般若みたいに。「いかになんでも十三歳は見逃せん」「は?!」「劉家軍とは関わりなく、人として、その性根を叩きなおしてくれよう」「ちょ、将軍、冷静にッ?! 俺たちの間には致命的な認識のずれがあると愚考するんですがって、いた、いたたたたッ?!」「妙なことを。私はこの上なく冷静だ。ともあれ、人がお前の身を案じて、援軍の編成をはやく済ませようとやっきになっている間、とうのお前は何をしていたのか、ことこまかに聞かせてもらおうか。王太守、しばし錬兵場を借りますぞ」 関羽の言葉に、こくこくと機械仕掛けの人形のように首を動かす河東郡の太守様。 その周囲に、今の関羽に声をかけられるような猛者も、俺に助け舟を出してくれそうな勇者も、いそうになかった。 まあ、劉家軍ではこの状況はいつものことだったので慣れたものです。危機は独力で回避すべし。「い、いや、関将軍、雲長殿。今はそれよりも眼前に迫った匈奴との戦いについて、互いの見解を語り合う方が有益だと、不祥北郷一刀は考える次第でありますが――って、痛ッ?! なんか俺の腕の骨がくだけそうなくらいに力を込めて引っ張らないでくださいッ!」「なに、武人たる者、得物をあわせれば互いの考えを伝えることは難しくあるまい」「もう理屈も何もないですね?!」 しかし抵抗は一瞬で潰え去り。 錬兵場で鍛えなおされることと相成りました。◆◆ 「……ふむ、行ったか。不覚にも震えが止まらん」 関羽の覇気だか何だかにあてられ、微妙にがくがくと身体を震わせながら呟く曹純。その横で、同じような状況の許緒が震える声で問いを発した。「し、子和様……にーちゃん、なんであの関将軍の前で平然と口がきけるんだろう……?」「慣れ、なのだろうな……あれに慣れるとか、どれだけ苛酷な日常を経ているのだ劉家軍恐るべし」「い、いや、しかし、このようなことをしている暇はないのではないか? 解池の敵がいつ動くともしれぬのだぞ」 王邑が困惑しつつ口を開くと、隣の賈逵がため息まじりに応じた。「では、太守が関将軍にそのように仰いますか?」「……ここはそな――」「お断りします」「即答ッ?!」「今のはたわむれですが、すでに夜襲への警戒は指示してありますゆえ、問題はありますまい」「そ、そうか、ならばよかろう」「はい、君子危うきに近寄らずと申します」「……なるほど。あれが美髪公。飛将軍と並び称されし、中華の武神」 司馬懿がぽつりと口を開くと、隣の徐晃はこちらもぽつりと呟いた。「こちらへ疑いの眼差しすら向けない……信じているのか、それとも裏切られても問題はないって自信のあらわれなのかな……」「単にあなたの存在が眼中になかっただけのような気がしますが」「逆にあなたは思いっきり敵視されてたよね……」「人は生まれる時と処を選べません。ならばそこで足掻くことこそ人の生。敵視されたとて、自分の在り方は変えようもないのです」「時と処は選べない、か……そうだね。あ、ところで」「なにか?」「あの人、助けにいかないで良いの?」「助けを求めてもいないようでしたから……」 そういって、司馬懿は踵を返す。 司馬懿の目には、あの二人はじゃれあっているようにしか見えなかった。 そして。「そう、変えようもないんです……」 再び発されたその言葉は、誰の耳に入ることもなく、県城の闇の中に溶けていくのだった。◆◆◆ 司州河東郡解池。 県城が朝廷の大軍を迎え入れて沸きかえっている頃。 未だ血と屍の色が薄れていないこの城でも大きな喊声が響いていた。 とはいえ、それは数万の民の口から出る希望と安堵とはまったく異なる類の、更なる血と死を欲する野獣の咆哮であった。「ふ、はっははは! ようやっと来たか、しかも五万だと! ようやく歯ごたえのある輩と戦えそうだわ」 報告を受けた於夫羅は高らかに哄笑しつつ、すぐに麾下の全軍に集結を命じた。遅れる者は斬る、との言葉を付け加えて。 斬るといったら斬る単于であることは、すべての将兵が承知するところである。配下は素早く応諾してその場から立ち去った。 配下の後姿を見送った於夫羅は、傍らの楊奉に向かって口を開く。「よもや、これ以上待てとは言うまいな?」「もちろんです。どうぞお望みのままに駆け回り、殺戮の颶風となりて、朔北の恐怖を中華の者どもに刻みつけてやってくださいまし。白波の者も出しましょうか?」「不要ぞ。かえって足手まといになる。十倍の大軍とて、所詮は土民の寄せ集め。匈奴が騎兵の真髄を見せ付けてやるわ」 くつくつと笑いながら、於夫羅は愛用の大斧を手に取った。 赤黒い染みが残る得物を持った於夫羅は、ふと心づいたように愛妾に目を向ける。「叔父が死んだということは、貴様の娘は生きているのだろう。どうするのだ?」「どうする、とは?」「殺してもかまわぬのかと問うておる」 その言葉を聞き、楊奉は右手を口元にあて、さもおかしげに笑った。「おかしなことを仰る。すでにそう申し上げておりましょうに、何をためらっておられますやら」「ふむ。率直に言えば、あの叔父がしくじることは予想できたこと。件の子供らにせよ、もしやそなたが……」「わたくしが密かに手をまわした、と? ほほ、旦那様は面白いことをお考えになる。あれがどうなろうと、あれが可愛がる者たちがどうなろうと、わたくしの知ったことではございません。いつぞや申し上げたことはわたくしの本心でございますよ」 於夫羅がかすかに目を細めた。「我らの血族に孕まされた子が、それほど疎ましいか」「この上なく。あれの髪と目を見るだけで怖気を催します。この身を嬲りし弱き者を思い出してしまうから」「では、何ゆえ、わしに侍る?」「御身がお強いから」 迷う素振りもなく、楊奉は断言する。「優れた容姿などいりませぬ。高い地位など知りませぬ。中華の奴隷でも、朔北の蛮族であってもかまいませぬ。その力、山を抜き、気は世を蓋う。腐りはてたこの世を粉微塵にしてくれる強き者こそ、わたくしが焦がれてやまぬ方。ゆえに証明してくださいませ、旦那様。官の大軍を破り、中華を喰らいて、御身が蓋世の雄であることを」 そのような御方の子をこそ、わたしは産みたいのでございます。 そう言って繊手を伸ばした楊奉は、於夫羅の胸板にそっと指を滑らせる。 その目に映るは、底の知れない井戸の底。深く、暗く、一片の光りさえ差さない闇を映して、白波の頭目はなおもその手を滑らせ続けるのだった。◆◆◆ 同時刻。 許昌。 後漢帝国第十三代皇帝劉協が住まう宮中の一隅に、一組の母子が暮らしていた。 室内の調度は皇帝のそれに劣らず、常にその周囲には侍女と宦官たちが侍っている。それほどに、この母子は尊貴の身であった。あるいは現在の皇帝よりも。 母は先の皇帝の寵姫。子は先の皇帝の実子であり、長子。すなわち今上帝の兄にあたる弘農王劉弁である。 先帝の死後、長子でありながら後継者から外された劉弁は、その後の混乱とは無縁でいられない身であった。事実、劉弁の身柄と、先帝の長子であるという正当性を利用して権勢を得ようとした者は少なくない。 だが、一部の心ある臣下によって劉弁は守られ、一連の乱が曹操の台頭によって鎮まった後、宮中に帰ることが出来たのである。 とはいえ、宮廷が洛陽から許昌に移っても、その存在が危険を孕んでいることにかわりはない。たとえ本人にその意思がなくても、今上帝に叛意を抱く者――すなわち曹操を敵視する者に利用される可能性はきわめて高いのである。 そう判断した曹操だが、だからといってこれを排除することは出来ない。 存在を隠そうかとも考えたが、隠すことは、すなわち弱みを持つことにつながる。四方の群雄と対峙する今、そんな悪手を打つことは出来なかった。 結果、宮中の一画に部屋を与え、いずれしかるべき処遇を用意する、という――いわば厄介ごとを先送りする形となった。 無論、その周囲には常に曹操の目が光っている。この皇兄を担ごうという不届き者には相応の処分が下されるはずであった。 それゆえ母子の部屋を訪れる者はきわめて少ない。無用な訪問は、曹操の疑惑を招き、宮中での栄達を妨げることが明らかだったからである。 そして、そんな状況を、皇帝の寵姫として権勢に浸った経験を持つ者が快く思うはずはなかった。 世が世であれば、皇帝とその母として、権勢と栄華を両手に抱えているはずなのに。そう考える者にとって、現在の空虚な在り方はなお耐えられぬ。 そんな憤懣を抱える者と、その子のもとへ、とある臣下が伺候してきた旨が伝えられた。 今、この部屋を訪れる者は片手で数えられるほど。その名は母子ともに知っていた。ことに弘農王にとって、その人物はかつての乱の折、一命を捨てて自らを守ってくれた人の娘であり、匿われていた当時から、自分を可愛がってくれた人であったから、その伺候を告げられ、思わず顔がほころんだ。 当然のようにここまで連れて来るように命じる。 しばし後。室内に入ってきた黒髪の麗人を見て、弘農王劉弁はわずかにはずむ声で言った。 ――よく来てくれた、伯達。