右賢王である去卑の首級を掲げながら虎豹騎が県城に入るや、街路の両側に立った民衆から凄まじいまでの喊声があがった。 白波賊の跳梁、二度に渡る官軍の敗北、さらには解池の陥落と凶報が続き、状況が悪化の一途を辿っていることは誰の目にも明らかだった。 解池から避難してきた民によって、解池とその周辺で起きている暴虐が伝えられ、やがてその波が自分たちをも飲み込んでしまうのではないか、と恐れおののいていた県城の人々の士気を高める意味で、匈奴の王の片腕をもぎとった今回の戦いの意義はきわめて大きかったのである。 一際大きな歓声に包まれたのは、凶猛な朔北の軍勢を二度に渡って撃ち破った曹純であった。 丞相曹孟徳麾下の最強兵団たる虎豹騎の名と共に、その武勇と智略を人々は激賞し、未だ解池に留まる白波賊と匈奴の悪しき連合軍も、曹純と虎豹騎さえいれば物の数ではないと口々に言い合う。 だが。 彼らの顔には等しく翳りがあった。あるいは彼ら自身もわかっていたのかもしれない。 止まぬ歓声と高まる賛辞は、同時に、人々の心に巣食う不安がいかに大きなものであるかの証左でもある。 不安を散じる声は、不安が消せないからこそ必要なものであった。 ◆◆「あ……ッ!」 そんな驚きの声と共にぱたぱたと駆け寄ってくる女の子の姿。 その後ろにはやや年嵩の少年の姿が見える。 いずれも、俺には見覚えのある子供たちだった。「よかった……ご無事だったんですね」 そう言って胸をなでおろしているのは、あの村で去卑たちと対峙していた浩という少女だった。後ろにいるのは同じくあの村にいた渙という少年である。 ちなみに、彼らの姓は少女が韓、少年が史――つまるところ韓浩と史渙だった。てっきり徐姓だと思っていた俺はそれをきいて面食らったものだ。本当にこの世界はどこに有名人がいるかわかったものではない。いや、まあ今さらではあるんだけどね。 ともあれ、二人とその弟妹たちは無事に県城に辿りついていた。当然、その保護者である徐晃も辿りついているはずだった。 その徐晃と少し話がしたかったのである。いきなり刃を交えた――というか交えることさえ出来ずに叩きのめされたファーストコンタクトのせいで気まずくて仕方ないのだが、白波賊と匈奴について、今、城内で一番詳しいのが徐晃以外にありえない以上、そんなことは言っていられなかったのである。「鵠姉さんですか、それなら……」 俺の言葉を聞いた二人が顔を見合わせる。 その奇妙な仕草を不思議に思って問いかけると、なんでも徐晃も俺のことについて二人に色々聞いていたらしい。 ただ、あの場ではじめて俺と会った二人は、当然のように俺についてほとんど何も知らない。「だから、鵠姉さんもあなたを捜していると思いますよ」 とは史渙の言葉だった。 背中の傷が痛むのだろう。時折、顔をしかめながらも律儀に村での礼を繰り返すあたり、実に礼儀正しい少年である。 史渙を見てると、なんとなく田豫のことが思い出された。我が馬術の師だが、元気でやっているだろうか。伯姫様(張角)たちのおもちゃにされていなければ良いのだが。 急に遠い眼差しで黙り込んだ俺を見て、史渙と韓浩は顔を見合わせて不思議そうにしている。 そんな二人を見て、俺が口を開きかけた時だった。「……あ」 後ろから、驚いたような、戸惑ったような、そんな呟きが聞こえてきた。 振り返った俺の目に移ったのは、亜麻色の髪をポニーテールの形で束ねた琥珀色の瞳を持つ少女の姿であった。◆「あの時は本当にすみませんでした……」「いや、あの状況では仕方ない面もありましたし、幸い無事に済んで……ないか、目、怪我したし」 つい、そう口にしてしまうと、徐晃が涙目になりつつ深々と頭を下げる。 俺は慌てて頭を上げるように言った。「あ、いや、でもほら、大した怪我でもなかったですし。耳元を通り過ぎる大斧の音が、頭にこびりついて離れないくらいですので……」「うう……ごめんなさい」 フォローをしたはずなのだが、徐晃はますます項垂れてしまう。気のせいか、ポニーテールもしゅんとしてしまったように見えた。 聞けば、史渙からは遠まわしに、韓浩からは直接に、あの時の行動について、城に着いてから改めて苦言を呈されたらしい。 なるほど、それで元気がないのか、などと納得しつつ、これではいつまで経っても本題に入れないと考えた俺は話題を転じることにした。「弟さんたちに聞きましたが、何か私に聞きたいことがあるとか?」 そう口にした、その途端だった。 徐晃の右目がすがめられ、俺は思わず息をのむ。まるで咽喉元に刃を突きつけられたかのような威圧感が全身にのしかかる。 言うまでもなく、徐晃はその場から動いていないし、いきなり刃を抜き放ったわけでもない。 ただ右目を細めた――それだけでこの威圧。つい今の今までしゅんと項垂れていた少女とは思えない。 威圧感そのものよりも、そのあまりの落差に、俺は悪寒を禁じ得なかった。 俺の顔色がかわったことに気付いたのだろう。徐晃はかすかにかぶりを振り、それによって辺りに張り詰めていた空気はわずかに和らいだ。 それでも身体から汗が滲むのを止めることは出来ない。先の誤解が解けた以上、これほどの重圧を浴びせられるような覚えはないのだが。俺が内心でそんなことを考えた時だった。「……一つだけ、教えてください」 徐晃が呟くように問いを発した。「何故……知っていたのですか?」「知っていた……?」 一瞬、徐晃の問いの意味を図りかねた俺は、眉を顰める。それは匈奴が村を襲ったことを指しているのか、いや、あるいは――「官軍の将軍から聞きました。北郷一刀、あなたが私の名前を示して注意を促した、と。私はあなたを知らない。あの村で出会うまで、言葉を交わしたこともなく、顔を合わせたこともないはずです。なのにあなたは、この地に到る前、許昌にいた頃に、すでに私を危険視し、それを忠告という形で官軍の将軍に伝えていた――」 淡々とした口調で、疑問を詳らかにしていく徐晃。 口調は平静、されど眼差しは勁烈。下手な言い訳やごまかしは通用しそうになかった。いや、立場が立場だけに、徐晃は俺を相手に強く出ることはできない。答えたくないと言えば、無理強いすることは出来ないのだ。 ただ、その場合、こちらからの質問にも答えてもらえないだろう。 俺が問いただしたい内容は、おそらく徐晃にとって口にしたくない類のことであり、そこに問いを向ける以上、こちらも出来る範囲で誠意を示すべきであろう。 そんなことを考えている間にも徐晃の言葉は続いていた。「私は母さんの娘として、白波の中でも名前はそれなりに知られていたと思います。でも、それは個人の武や智とかかわりの無い、副頭目の娘として知られていたに過ぎません。皇甫嵩将軍を討ち取ったことも、あの曹という将軍が出陣する頃には許昌で知る者はいなかったはずです。あるいは何かの拍子に私の名を知る機会があったとしても、頭目である韓暹や副頭目である母さんよりも、私を警戒する理由なんかあるはずがない……」 しかし、俺はそれをした。 その結果として、曹純は徐晃の策を逆手にとり、徐晃を捕らえ、匈奴の軍に打撃を与えることに成功した。「――於夫羅は私に欺かれたと激怒したでしょう。母さんは……きっと、それを利用した。あの子たちの居場所を於夫羅と去卑に教えたのは……きっと、母さんだから。期待に応えられなかった私への罰。そして、韓暹よりも強大な力を持つ於夫羅を自分のものとするために……」 震えているのは言葉なのか、身体なのか。それとも、心なのか。 母と呼ぶ人が、自らを罰するために弟妹たちを匈奴に売ったのだと、そう告げる徐晃の顔は蒼白で、寒さに凍えているかのように自らの身体を抱きしめている。「……すべては、あなたの言葉から始まった。責めているわけでも、恨んでいるわけでもなく、ただそれが事実なんです。あなたが私の名前を出し、そのために私の策が見破られ、匈奴は敗れ……母さんによって、あの子たちは報復のために差し出された……」 そして、と徐晃は言葉を続ける。 ――そのあなたが、あの子たちを助けてくれた、と。「これは偶然? こんな偶然があるんですか? あなたが、あの子たちの誇りを守ってくれたことは聞きました。それが偶然であれ、なんであれ、私は感謝しなければいけない。でも、もし偶然ではないのなら……」 そう言ってこちらを見る徐晃の目は先刻とは違った理由で潤んでいた。熱に浮かされたように言葉を紡ぎ続ける徐晃の姿は焦燥の塊であった……知らず、憐れみさえ覚えてしまうほどに。「教えてください。どうして、私の名を知っていたのかを。それを教えてくれたなら、私はあなたに感謝して、その言うことに従います。話せというなら、何でも話します。だから教えてください。あなたはもしかして――」 徐晃は問う。 母さんのことを知っているのではないか、と。すべては母さんの計画通りなのではないか、と。 ――母さんは、自分も、弟妹たちも、決して見捨ててはいないのではないか、と。 ……沈黙は、長くは続かなかった。 必死に……それこそ溺れる寸前に藁に縋るような徐晃の願いを、自分の手で打ち壊すために、俺は口を開く。「――皆が笑って暮らせる世の中をつくる」「え?」「私が、命を懸けて戦う理由があるとしたら、それだけです」 そんな夢物語を、夢物語と承知して、それでも笑顔で語り、そこに至ろうとしている人の姿を脳裏に思い描きながら、俺は徐晃に向かって首を横に振ってみせた。「あなたにも、あなたの母親にも、それはないでしょう。だから――それが答えです。私はたしかにあなたの名を口にした。あなたの弟さんたちを助けることも出来た。でも、それは決してあらかじめ頼まれていたからでも、命じられていたからでもありません」 それを聞いた徐晃の表情を、なんと形容すれば良いのだろう。 ああやっぱりという納得と。 そんなはずはないという否定と。 どうか嘘といってくださいという懇願が。 ない交ぜになったその顔を。「……でも、だって、ならどうして私のことを知ってたんです? 気をつけろなんて言うことが出来たんですか?」「私のことを聞いたのは子和からか、それとも仲康からかな。ならこうも言っていたはずです。徐晃という名前はわかる。でも性別も、年齢もわからないんだ、と俺はそう伝えました。それでどうやって注意するんだと二人には笑われましたよ。『あなた』のことを知っているなら、こんな言い方をする必要はないでしょう」 信じるか信じないかは任せますが、と前置きした上で、俺は口を開く。「昔、あなたの名を聞いたことがあった。楊奉という人物の下に、智勇ならび優れた徐公明という人物がいる、と。そのことを伝えただけです」 それは嘘ではなかった。俺にとっては。 だが、その内実を明かすことは出来ないし、明かしたところで信用されないだろう。だから、徐晃が俺の言葉を受け容れなかったとしても、それは仕方ないことだったかもしれない。事実、この世界の徐晃にとって、俺の言葉は虚構に等しいのだから。 徐晃は激しく首を横に振りながら、口を開く。「そんな……じゃあ、どうしてあの子たちを助けることが出来たんですか? 司馬家の人と解池の近くまで来たことも、あの子たちが襲われた時に近くにいたことも偶然だっていうんですか? しかもあなたが――私の名を知るあなたが? たまたま討伐の官軍の将軍と知り合いで、私の名を口にして、結果としてあの子たちが襲われて、たまたまそこにあなたがいた? そんな偶然が……」「すべてが偶然というわけでもないですが……」 言い募る徐晃の言葉を、俺は中途で遮った。「でも、そこは措いておきましょう。それよりももっと根元のところで、あなたが私に期待している役割は的外れなんです。どれだけ偶然が重なり、あなたの目に必然に映ったとしても、私があなたの母親のために働く理由がない以上、それはやはり偶然なんです――言ったでしょう、私が戦う理由は一つだと」 なによりも、と俺は付け加えた。「あなた自身が知っているのでしょう。あなたの母親が、そんな甘い人ではないことを」 だからこそ、俺などに縋っているのだろう。徐晃の力をもってすれば、曹純をはじめ俺たちが去卑と戦っている間に抜け出すことは容易かったはずだ。 それが出来なかったのは、曹純らとの約定があり、弟妹を気にかけたためでもあろうが、最たる理由は母親に会う勇気がなかったからではないか。 勇気がないということは、つまり母親に会えば何を言われるか、徐晃は自分でもわかっているのだ。それを認めたくないからこそ、こうして俺に問いかけているのだろう。 ――俺が、楊奉に依頼されて動いていたのではないか、と。 考えるまでもなく、そんなわけはないのだ。 俺の行動、楊奉の行動、すべてがそんな可能性を否定する。可能性というよりは妄想といってもよいくらいに破綻した推理。 確かに俺の行動と結果には、偶然と断じるには奇妙な点が多々あった。だが、それは決して徐晃の推論を肯定するものではない。 誰よりもそれを理解しているのは徐晃であろうに、それでも必死に俺に食い下がるその姿は――正直、痛ましいというしかなかった。 俺の言葉を聞いた途端、徐晃の動きが凍りついたように止まる。 身体も、表情も、何もかも。瞬きすらしていない。 やがて、ゆっくりとその唇が動き出し、あえかに言葉を紡ぎだす。「じゃあ……母さんは、ほんとに……私たちを……私を、捨てたんですか?」 身をちぎるようなその声に、俺は否定することも、頷くことも出来なかった。「それに答えることが出来るのは、解池にいるあなたの母親だけです」 表面にあらわれた事象が答えなのか。何か秘めた思惑があるのか。そんなことが、昨日今日関わっただけの俺にわかるはずもない。 わかるのは、答えが欲しいなら、徐晃が自分で問わなければいけないということだけだ。 だから、俺はそれを口にするしかなかった。俺が豊富な人生経験を持った大人であれば、もっと別の言い方や方法が見出せたかもしれない。だが、今の俺には、そう言うしかなかったのである。