不安がなかった、と言えば嘘になるだろう。 賈逵は押し寄せる匈奴軍に対し、応射を指示しながら、率直にそう認めた。 それは作戦を主導する者があまりに若すぎることへの危惧。 彼らのたてた策は確かに有効であると思えたが、机上の作戦はことごとく成功するもの。それは敵にも同じことが言えるのである。 だが、実際に敵と刃を交えれば、必ず勝者と敗者はうまれてしまう。敗者は、机上の作戦を現実にあてはめる際、どこかで失策を犯しているのだ。 河東郡は匈奴の勢力と境を接する地であり、賈逵はその恐ろしさを良く知っている。そして賈逵と同じように、あるいはそれ以上にこの地の将兵は匈奴の強さを骨身に刻んでいる。 ことに野戦における匈奴兵の破壊力は、中原のほかの戦ではまず目にすることの出来ないものであった。 匈奴が城攻めを苦手としているのは確かだが、急造の陣地でどこまで匈奴兵を防ぐことが出来るかは心許ない。何より、麾下の将兵の動揺を賈逵は案じた。怖じた兵士は、本来の半分の力も出せないからだ。 それゆえ、賈逵は、もし若者たちがそこまで気を配れていないようであれば、自身が動くつもりだった。 だが、と賈逵は周囲の将兵を見て、思う――自分の心配など無用であった、と。 河東郡の将兵は、敵が匈奴兵と知りつつ、怯え逃げ回るどころか、むしろ勇を揮って相手を迎え撃とうとしていた。 解池の惨劇を知らされ、憤った者もいる。 県城と、そこに住む家族に戦火が及ばないように決意した者もいる。 もっと単純に、勝利の後に約束された恩賞目的の者もいるだろう。 そして、彼らのすべてが一つの共通の認識を持っていた。この戦いは勝てるのだ、と。 敵が匈奴であろうとも、自分たちが力を尽くせば撃ち破れる。何故ならば―― 味方には、丞相子飼の精鋭である虎豹騎がいる。 そして、わずか数百の将兵でもって、十万の偽帝を退けた劉家の驍将がいるのだから。 麾下の将兵の士気の高まりを察した賈逵は、当初、首を傾げた。 淮南における戦いの趨勢は賈逵も聞き知っている。北郷一刀の名も記憶にある。 だが、それは賈逵が解池の官軍を統べる身であったからであり、この地の民や将兵が遠く淮南における戦いの顛末や、そこで活躍した者の名を一々記憶にとどめているとは思えなかった。 虎豹騎はすでに一度、匈奴勢を撃ち破ったという実績があるが、北郷の名が士気高揚に役立つものか、と首をひねる賈逵は一つの事実に気付く。 将兵の間を渡り歩きながら、さも大げさに淮南における大戦果を吹聴している者たちがいることに。解池の惨劇を口にし、故郷を蹂躙させてなるものかと気勢をあげる者たちに。その数は一人や二人ではなかった。 彼らが何のためにそんなことをしているかは瞭然であった。そして、誰がそれを命じたかも。 無論、ただそれだけで士気が一気に高揚するような即効性のある策ではなく、おそらくはやらないよりはまし程度に考えたものだろう。 その意味で言えば、賈逵があの村で助けられたことの方が、将兵の士気により良い影響を与えているというべきであった。 だが、効果の優劣など些細な問題。 うつべき手を抜かりなく打ち、幾つもの偶然と必然を積み重ねた末に、今の将兵の姿があるという事実に、いささかのかわりもないのだから。「……名将とはすなわち、兵士に必勝の確信を刻む将を指すというが……」 さて、あの若者たちは何と呼ぶべきなのか。そんなことを考えつつ、賈逵は配下を鼓舞して押し寄せる匈奴勢に対し、更なる斉射を浴びせ続けた。 匈奴兵の多くは軽装騎兵であり、鉄製の甲冑をまとわず、獣毛や牛革の防具で身を固める。ゆえにこそ、その機動力は恐るべきものがあるのだが、一つの陣地に縛られた今の彼らはその機動力を活かせない。 先日来、官軍が懸命に地面を掘ってつくった空堀や、その土を盛って出来た土壁、それに木で出来た馬防柵が邪魔をして、匈奴兵は思うように攻め込むことが出来ず、到るところで立ち往生してしまう。 そこを見計らって射こまれる矢の雨。軽装の人馬はかわしきれずに悲鳴と共に倒れこみ、またそのことで後続の味方の動きさえ止めてしまう。「射よ、射よ! 手を休めるな! 奴らに、蛮行の報いを与えてやるのだ! そして、骨身に刻んでやるのだ、ここは我ら漢族が生きる土地なのだ、とな!!」 賈逵の言葉に、兵士たちの喊声が続いた。◆◆◆「おのれッ、あの程度の敵に何をてこずっている?!」 予期せぬ苦戦を目の当たりにして、去卑は上ずった声で怒号を放つ。 官軍の陣地は決して大規模なものではなく、土を積み上げ、木の柵を並べた粗末なものだった。この程度で匈奴騎兵の突進を食い止めようとしている官軍に、哀れみさえ覚えながら、去卑は攻撃を指示した。 蹴散らすのに一刻もかかるまい。あるいは一千の匈奴騎兵が馬首をそろえて突進する様を見れば、官軍は戦うことも出来ずに逃げ散るかもしれぬ、そう考えながら。 だが、官軍は去卑の思いもよらない頑強な抵抗を示した。 陣地を活用し、矢を放ち、槍を連ねて匈奴騎兵の突進を食い止める。それどころかしばしば逆撃に転じて、出血を強いてきた。 南匈奴の将兵は、漢土に来てからというもの、ほとんど苦戦というものを経験していない。多少なりともてこずったのは皇甫嵩率いる官軍と戦った時くらいであり、それとて、最終的には白波賊との挟撃で全滅まで追い込んだ。 漢土の兵は弱く、寄せれば逃げ、攻めれば勝つ、というのが匈奴兵の認識であった。ゆえに、眼前のみすぼらしい陣地に居竦まっているはずの官軍から、思わぬ抵抗を受けた匈奴兵は驚きを禁じえなかったのである。 無論、それで怖気づくような匈奴兵ではない。 思わぬ反撃は、むしろ彼らの怒気を誘発する結果となり、攻勢はより勢いを強めていく。 それでも官軍は崩れない。かつてない粘りを見せながら、懸命に匈奴の攻勢を凌ぎ続けた。 膠着する戦況。 去卑は一部の兵力を後方にまわすなどして戦況の打開をはかったが、丘陵上の陣地からは麓の動きが手に取るようにわかる。いかに匈奴が機動力に優れるとはいえ、陣地内での展開よりも素早く動くことは不可能であった。 もしこの戦いが平野で行われていれば、同数の兵でも余裕をもって勝利できただろう。 敵に倍する兵力を率いていれば、強攻して陣地を攻略することも出来ただろう。 そのいずれも選ばなかった、または選べなかった去卑率いる匈奴勢は、官軍の頑強な抵抗に対して攻めあぐね、いたずらに被害を重ねていく。 早朝から始まった攻撃は、日が中天に達してもなお続けられ、いまだに朗報は届かない。指揮官である去卑の苛立ちは募るばかりであった。 去卑は周囲に百の兵士を配している。これは自らの身を守るためであり、同時に敵にとどめを刺すべく用意した切り札でもあった。 それは、逆にいえば全軍の一割を遊兵にしてしまったということ。それでも問題なしと判断した去卑は、己の計算違いを認めざるを得ず、不甲斐ない配下に舌打ちしつつ、ようやくみずからの部隊を動かそうとした。 だが。 後方から響く音は、幾千の馬蹄が地を蹴るもの。 大地を轟かして疾駆する人馬の音は、去卑にとって耳慣れたものであった。 それゆえに、去卑はそれを味方だと考えた。そして、表情を曇らせた。 於夫羅の気が変わって援軍を派遣してくれたというのであれば、何の問題もない。だが、あるいは密かにこの戦の様子を探るものがおり、苦戦の報告を聞いた於夫羅がもう去卑には任せておけぬと判断したのかもしれない。そうであれば、たとえこの戦に勝ったところで、去卑自身の命運は尽きてしまうのだ。「誰でも良い、こちらに向かって来る部隊に確認してこい。何のために来たのか、と」 いま少し早く動くべきであった、と舌打ちしながら、去卑が口を開く。 何人かの兵士が心得たように動き出す。 兵士たちは馬を駆って、接近してくる一団との距離を詰めていたのだが、双方の距離が近くなってくるにつれ、奇妙な胸騒ぎを覚えた。 その胸騒ぎが具体的な形をともなったのは、近づく騎馬の一団が陽光を映して眩い輝きを発した瞬間であった。鉄装備をつけない匈奴兵ではありえないその輝きは、必然的に彼らに一つの事実を突きつける。 そのことに思い至り、匈奴兵は慌てて馬首を返そうとしたが、すでに遅かった。迫り来る騎馬の一団が放った矢が、うなりをあげて彼らの頭上に降りかかってきたのである。 人馬ともにはりねずみのように全身に無数の矢を受けて絶命する匈奴兵。 その彼らの上を五百に及ぶ騎兵が通り過ぎていく。一団が去った後に残ったのは、原型もとどめず、土に染み付いた血肉だけであった。 だが、それを気に留める者は誰一人としていない。「……捉えたッ! 全軍、突撃せよッ!」 外縁部にいる騎兵の一団を視界に入れた曹純は、槍を振りかざして背後に続く将兵に命じるや、自ら先頭を駆けて突っ込んでいったのである。◆◆◆ 虎豹騎の突撃を受け、明らかに浮き足立った様子の匈奴勢を見て、俺は小さく首を傾げた。少し脆すぎるように思えたのだ。「こちらの接近に気付かなかったわけでもないだろうに。味方だとでも思っていたのか?」 だとすれば、随分と拍子抜けである。 仮にも右賢王は単于に次ぐ位なのだ、この程度の相手とは思えないのだが…… そんなことを考えていると、隣から声がかけられた。、「……偽報で相手の考えを誘導した張本人が口にする台詞ではないように思います」 平静な中に、どこか呆れた調子が含まれたその声は司馬懿のものだった。 俺と司馬懿の周囲には二十騎ほどの虎豹騎が護衛として残っている。 何故、俺が残っているのかといえば答えは簡単で、虎豹騎に混じって剣を振るい、騎射を行うほどの武勇が、俺にはないからだった。正直、遅れないようについてくるだけで精一杯だった。さすがは虎豹騎、曹操の誇る最精鋭という評は伊達ではなかった。 無論、司馬懿の手前、そんな情けない素振りは見せないように努めたが、あるいは司馬懿のことだから、とうに見抜かれているかもしんない。 それはさておき、俺は司馬懿の言葉に、もう一度、首を傾げる。「それはそうなんだけど、な」「……何か、気になることがおありのようですね?」 そう言うと、司馬懿は目線で先を促す。 それを受け、俺は一旦、司馬懿から視線を外すと、周囲を見渡して、何か異変がないかを確認した。 はっきり言えば、俺は足手まといのためにここに残されたわけだが、一応、見張りの役目も持っている。後方の解池から、もしくは城外に出ているであろう他の部隊がこの戦場に来ないとは限らないのだ。 無論、解池には見張りをつけているが、匈奴兵の機動力をもってすれば、見張りからの知らせが俺たちに届く前に、こちらの陣を襲来することも不可能ではないのである。 しかし、幸いそういった援軍が参戦する様子はない。であれば、多少、口を余計に動かしても問題はないだろう。「曹純から、敵の将帥である於夫羅の為人は聞いた。だから、全体の舵を取っているのはその下にいる部下なんだろうと思ってたんだけど」 その筆頭である右賢王が、自分で言うのもなんだが、こんな若造に振り回される程度の人物なのだろうか。 あの村で見た去卑という男、確かに人としての品性は劣悪を極めたが、人柄と能力は必ずしも比例しない。こと戦に関しては、それなりの力量を持っていると考えていた俺にとって、この展開はいささかならず意外なものであった。 俺の言葉に、司馬懿が思慮深い眼差しを向け、自らの見解を告げる。「王は武に淫し、宰相は策に淫する。それゆえに南匈奴は衰退したのでは?」「それはその通りだと思う」 頷きつつ、ただ、と俺は言葉を続けた。「それにしては、韓暹を殺し、白波賊を手中に収め、解池の攻略をなした手際が鮮やかすぎる。新しい才能が匈奴に現れたのかとも思ったんだが、この戦いを見る限り、その可能性も薄い」 あと、考えられるとすれば、新たに白波賊の頭目となった楊奉か。 韓暹の背後にあって、白波賊の勢力を拡げたように、今度は南匈奴の単于である於夫羅の影にあって、匈奴に力添えをしていると考えれば―― しかし、そうだとすると眼前の戦いに説明がつかない。楊奉が俺の危惧しているような人物なのだとすれば、去卑のような人物に、主力である匈奴兵の二割に及ぶ兵力を預け、空しく散らせるような愚策を選ぶとは思えないのだ。「――なるほど。解池を陥とした手際と、その後の無策な動きが、あまりにくいちがっている、と」 司馬懿の言葉に、俺は頷いた。正しくその通りなのだ。そう、まるで――「解池さえ陥とせば、後はどうでも良い……そんな風に見える。でも、それはおかしいんだ。たとえばこれが、都の官軍を引き出すための陽動だとしても、今ここで兵力を無益に損じて良いはずがない。丞相が動けば、十万以上の兵を動かせるんだから」 無論、許昌の守りを考えれば、許昌の全軍を動かすことは不可能だが、それでも解池にこもった白波賊と匈奴勢よりも、はるかに多い兵力を動かすことは可能なのだ。向こうにしてみれば、今は一兵でも惜しいはず。一千の軍勢を捨てるがごとき、今回の動きは明らかにおかしい。 これまで、俺は幾つもの戦いを経験してきた。 黄巾党とぶつかった大清河の戦い、曹操軍とぶつかった徐州での撤退戦、またその引き金になった曹家の襲撃。そして淮南で対峙した呂布と、袁術軍。 いずれも、相手からは強い意志が感じられた。目的は種々あった。それは野望であり、理想であり、ただ生き残るという意思であり、時にはただの獣じみた欲望であったりした。だが、いずれにせよ、勝利を望み、その先に何かを求める者との戦いだったのだ。 ――この戦いにはそれがない。何故か、そう思われてならなかった。得体の知れない寒気に、知らず背筋が震える。 そんな俺の顔に、何を見たのだろうか。 不意に司馬懿が手を伸ばし、俺の腕に触れた。「……仲達殿?」「――特に今でなければいけないわけではないのですが……この際なので、お願いがあります」「は、はあ? 何でしょう?」「そろそろ、年下の小娘に『殿』をつけるのはおやめくださいませ。曹将軍のように呼び捨てていただいて結構ですから」「あ、いや、それは……なんというか失礼では……」「れっきとした将軍を呼び捨てにしている方が、何をいまさら」 めずらしく、はっきりとした笑みを口元に浮かべながら、そう言う司馬懿に、俺は一言もなく押し黙るしかなかった。 では、今後ともよろしく。 そんな風に笑う司馬懿を見た俺は、了承の代わりに小さく肩をすくめる。 ――さきほどの悪寒は、いつのまにか消えていた。