并州河東郡解池郊外。 その時、俺はお世辞にも冷静であるとは言えなかった。真名を弄ぼうとした匈奴兵の蛮行を目の当たりにして冷静でいられるはずもない。 それでも、司馬懿の援護と村の人たちの協力によって、子供たちを助けることは出来た。 しかし、と俺は周囲を見渡す。 村の中にいた匈奴兵の数は二十名ほど。その中の半数近くが俺の視界に倒れ伏している。逆に言えば、半数近くを逃がしてしまったということでもあった。 村の人たちの中にも、幾人かが匈奴兵に斬られて重傷を負っている。幸い、命に別状はないとのことだったが、一歩間違えれば、死者が出ていてもおかしくはない状況だったのである。 より正確に言えば――あの右賢王とやらが真っ先に逃げ出さず、最後まで踏みとどまっていれば、間違いなくもっと多くの死傷者が出ていただろう。 その意味で言えば、あの男の卑劣さが被害を少なくしたとも言えるかもしれない。 だが、それは一時だけのこと。あの手の輩がこのまま黙っているはずはなく、間違いなく近いうちに、もっと多くの兵を連れて襲ってくるだろう。 出来れば一人も逃がしたくなかったのだが、俺一人が馬に乗って追撃したところで返り討ちに遭うのは目に見えている。 否、それ以前に――「そもそも、鐙のない匈奴の馬じゃあ、俺には乗りこなせないからなあ」 そう言って、俺はすぐ近くで落ち着きなく嘶いている馬に手を伸ばす。 幾度か首筋をなでてやると、馬は間もなく落ち着きを取り戻し、円らな目を俺に向けた。俺が何者なのか、確認しているようであった。 問題は、と俺は右手で馬をなで、左手で血に濡れた剣を持ちながら考え込む。 右賢王が再度、来襲するまでにどれくらいの時間があるのかであった。解池へ退き、ここに戻ってくるまで馬であれば一日かかるまい。 あるいは解池まで戻らずとも、このあたりに他の匈奴の部隊が出張ってきている可能性は少なくない。もしそうであれば、最悪、すぐにもあの連中が戻ってくることも有り得るのだ。 そんなことを考えていた矢先だった。 慌しい馬蹄の音と共に、一人の少女が視界に飛び込んできたのは。 寸前まで匈奴の再襲を案じていたこと。 亜麻色の髪と、琥珀色の瞳という少女の容貌が、先刻まで戦っていた匈奴兵の多くと酷似していたこと。 この二つは、突然現れた少女に対し、俺が警戒の念を持つには十分すぎる要素であった。 ――まあもっとも、この時、俺がいま少し冷静であれば、また異なる対応をとれたかもしれない。少女が本当に匈奴の援兵であれば、一人で突入してきた挙句、馬から下りるはずもないのだから。 しかし、俺はその違和感に気付くことなく、警戒の為に剣を構え。 その動きに、少女は反応した。そう俺が思った、次の瞬間。「なッ?!」 俺とその少女の距離は、確かに十歩以上離れていたはずだった。そして、少女の手には、華奢な外見とは不釣合いな大きな斧。あれでは斧を振り回すことはおろか、持って歩くことさえ出来ないのではないか。そんな俺の考えを嘲笑うかのように。「……殺(シャア)ッ!」 俺の眼前に、いっそ軽々と大斧を構えた少女の姿があったのである。 必殺の気合と共に横薙ぎに振るわれる斧を、俺は咄嗟に剣を立てて受け止めようとする。 これもまた、俺が冷静を欠いていたことを裏付けるものだった。少女の常人離れした瞬発力、そして大斧を軽々と振るう膂力。目の当たりにしたその事実を考えれば、真っ向からその攻撃を受け止めるなど不可能だと気付かなければならなかったのに。 だが、俺は気付くことが出来ず。 奇妙に空疎で、甲高い音があたり一帯に響き渡る。玻璃が割れるにも似たその音は、俺の剣刃が砕け散る音。そして。「ぐ、ああァァッ?!」 その反動を受けた俺の身体は、凄まじい勢いで後方に吹っ飛ばされ、民家の壁に叩きつけられた。 強い衝撃に打ち据えられ、呼吸さえままならない。喘ぐように空気を吸い込もうとするが、その途端、右目に激痛がはしる。 不意の痛みに耐え切れず、思わず苦悶の声をもらしてしまう。砕けた剣の破片が目に入ったか。だが、傷を確かめている暇などあろうはずもなく。 赤く染まる視界の端で何かが光るのを確認した俺は、それが何かを確かめるよりも早く、柄だけになった剣を手放すと同時に、全力で真横に倒れこむように転がった。 間髪いれず、襲い来る大斧の猛撃。轟音。 少女が振るった大斧が、一瞬前まで俺が倒れこんでいた空間を、背後の壁ごと叩き壊した音だと、わずかに遅れて俺は悟った。 これだけの重量級の得物を、小刀でも扱うかのように軽々と操るとは――「なんつう、でたらめなッ!」 知らず、そんな言葉が口をついて出る。言いながら、次撃を避けるために、身体は勝手に動いていた、が。(間に合わない……ッ) 壁を砕くほどの一撃を放ったにも関わらず、少女はすでに得物を高々と抱え上げていたからだ。それを振り下ろせば、地面に倒れこんでいる俺の身体は胴のあたりから綺麗に両断されてしまうであろう。 それでも、俺は諦め悪く、その攻撃を避けるために這うように動き出す。 そんな俺の姿がどう映ったのか、無表情な少女からは読み取れない。俺にわかったのは、俺を見下ろしながら、少女が呟いた一言。「……さよなら」 という、その言葉だけだった。 そして、少女が容赦もためらいもなく、俺に斧を叩きつけようとする――その寸前。◆◆「ちょ、ちょっと待ってください、鵠姉さんッ?!」「こ、鵠姉さん、お、落ち着いてッ!」 大慌てで、その腰に抱きついたのは渙と浩である。突然の激突に呆然としていた二人が、ようやく我に返って止めに入ったのだ。 渙などはまだ背中の傷の手当ても終わっていなかったが、みずからの恩人と、敬愛する姉が殺し合いをしている状況では、手当てなんぞ後回しにするしかないではないか。 二人の弟妹の行動に対し、鵠――徐晃の口からは、意外に明晰な言葉が発された。「大丈夫だよ、二人とも」 その声に、二人はほっと安堵の息をこぼした。正気に返ってくれた、とそう思ったのだ。しかし。「私は落ち着いているよ?」 そんな言葉と共に振り下ろされた大斧は、殺意と言う名の明確な感情を宿して揺ぎ無かった。 あと、全然落ち着いてなかった。『だから駄目ですってばッ?!』 異口同音に叫ぶ弟妹の声は徐晃の耳に届いてはいた。が、その内容を吟味するための冷静さとか落ち着きとか、そういったものが、今の徐晃には致命的なまでに欠けていたのである。 それでも、二人が腰にしがみついたことで、攻撃そのものの鋭さは大幅に減じられ、北郷は危ういところで避けることが出来た。 それでも、いまだ虎口を脱するには至らない。腰にしがみつく子供たちをひきずるようにして歩み寄ってくる徐晃の姿を見て、北郷の背に冷たいものが走る。北郷の目には、今の徐晃の姿は、先刻の匈奴兵なんぞ比べ物にならないくらいに恐ろしいものとして映し出されていた。 無論、子供たちの行動は北郷の目に入っていた。それでも北郷は徐晃に向け、制止の声も、誰何の声も発しない。ただひたすらその攻撃に意識を集中させている。そうしなければ、たちまち自分の首が宙を舞うであろうことを、本能的に察していたのである。 その感覚が間違いないことを証明するかのように、唸りをあげて眼前の空間を薙ぐ斧。 幸いというべきか、子供たちのおかげで徐晃の俊敏さは封じられる形となっており、あとは力任せに振るわれる一撃から、ひたすら身を避けるだけ――なのだが。 それとて決して簡単なことではなかった。なにせ、かするだけでも肉が散り、骨が砕けるのは間違いない、という攻撃なのだ。怪我で狭まった視界では遠からず追い詰められてしまうだろう。だからといって、この女怪の攻撃が他の人たちに向けられたらと思うと逃げることもできぬ。 断続的に襲ってくる右目の痛みに耐えながら、どうすれば良いのかと、北郷は苦悩で顔を歪ませていた。 一方の徐晃にとって、事態はすこぶる簡明だった。 眼前の人物をたたっ切る。ただそれだけ。 今も怯えて泣き縋る(と徐晃は思い込んでいる)弟妹たちには、もう二度と手を触れさせない。 ミシミシ、と。柄から発する異音こそ、もっとも徐晃の心情を代弁するものだった。「こ、鵠姉さん、駄目ですよッ」「お願いですから、落ち着いてッ」「うん、大丈夫だよ。もうちょっと待っててね――すぐに、終わるから」『終わらせちゃだめーッ?!』 悲痛な弟妹たちの叫びも届かない。ちょこまかと小賢しく逃げ回る敵に対し、徐晃は今度こそ、との必殺の念もて大斧を振り上げる。 その意を察したか、相手の顔に緊張がはしるのを徐晃は見たように思う。 こちらに向けられる鋭利な眼差し。相手は右の目を傷つけ、得物もなく、反撃の手段は無いに等しい。徐晃の勝ちは揺らがない、そのはずだった。 だが、若者の目に諦めの色は微塵もなく、今、この時も反撃の方法を模索して、めまぐるしく頭を働かせているのだろう。若者の眼差しを見て、徐晃はそう確信する。 油断をしたら、やられる。 理屈ではなく、直感で徐晃は悟る。この手の人物に対しては、首を刎ねるその時まで、一瞬たりとも気を緩めてはいけないことを、徐晃はすでに学んでいた。 ゆえに。 油断なく、容赦なく、躊躇なく――「――今度こそ、さよなら」 振りかざした大斧を、振り下ろす。 応じて、若者が動き出そうとした、その瞬間。「い…………」 なにやら大気が鳴動するような不穏な気配が巻き起こる。 少なくとも、渙にはそう感じられた。否、渙だけでなく、近くにいた二人――徐晃と北郷もそれを察したのだろう。なにやら戸惑ったように渙たちを見つめていた。正確には渙たちではなく…… 渙はおそるおそる二人と同じ方向――すなわち、隣にいる浩を見た。不穏な気配の発生源は、間違いなくそこだったから。 浩の顔は伏せられ、その表情をうかがい知ることは出来なかった。だが、渙は見た。いつも笑みを浮かべている浩の口元が、真一文字に引き結ばれていることを。「い……」 可憐な唇から、ぼそりと声がこぼれでる。優しくもなく、暖かくもない、ただただ平静。静かな淵にも似た声音にどうしてこれほど身体が震えるのだろうか。 凡庸な目では見抜けようはずもない。 猛々しき激流よりも、静穏なる淵の方が、水はより深いことを。 ゆえに、一度溢れたならば、それをとめることは困難を極めるのであって…… そのことに思い至り、慌てた渙は、決死の覚悟で浩へと呼びかける。「浩――」 だが。 遅かった。 次の瞬間、天地を震わせるような雷喝が周囲一帯を――というか、村全体を包み込んだ。「いい加減にしなさーーーーーーいッッ!!! ――後に、北郷は語る。当時のことを思い出し、痛そうに耳をおさえながら。『あれは、母さんの必殺技に、優るとも劣らなかった』と……◆◆◆「じゃあ、あの……全部、私の勘違い……?」「な、なるほど、徐公明殿か――道理で……」 あの後。 浩という女の子に一喝され、正座させられた俺と徐晃は、改めて互いの立場を説明され、呆然と顔を見合わせることになる。 ちなみに浩は滔々と俺たちにまくし立て、怒ってます、と言わんばかりに頬を膨らませつつ、俺の目の手当てと渙の背中の治療をしてくれた。それが済むや、今度は徐晃に抱きついてわんわん大泣きする浩。 浩のように小さな女の子にとっては、あまりにたくさんの出来事が、いっぺんに起こりすぎたのだろう。挙句、駆けつけた姉と俺の殺し合いを眼前で見せ付けられれば、それは穏やかな気性の子であっても、爆発せずにはいられまい。申し訳ないことをしてしまった。 今は泣きつかれて、徐晃の腕の中で眠っている浩の顔を、俺は忸怩たる思いで見つめるしかなかった。 そんな俺の視線に気付いたのか、徐晃は硬い表情で俺の視線を遮るように浩を抱きしめる。 すでに誤解は解け、互いに謝罪は済ませているのだが、ついさきほどまで真剣に殺し合いをしていたのだ。すぐに笑顔で語り合えるはずもなかった。 そんな俺に、背後から声がかけられる。「――おや、嫌われてしまったようだな、一刀」「否定はしないけど……そもそも、そっちがきちんとあの子の手綱を握っていれば、何の問題もなかったんだぞ、子和」 俺はじと目で声をかけてきた人物――曹純を睨みつける。「む、面目ない。ここに来る途中、匈奴の斥候とぶつかってしまってな。やりあっている間に、公明殿が先行してしまったんだ」 「それなら仕方ないか。まあ、幸い、大事には至らなかったし」 曹純の言葉を聞いて、俺はほぅっとため息を吐く。 つい先刻まで対峙していた少女が、あの徐晃だと知った時は、しばらく身体の震えが止まらなかった。なるほど、それならあの尋常ならざる少女の武芸も納得できる。あの徐晃を相手にしてよくも命があったものだ、と我がことながら感心してしまう俺だった。 ともあれ、曹純が来てくれたことはおおいに有難い。これでこの村の人たちを逃がすことが出来るからだ。 俺の言葉に頷きつつ、曹純は口を開いた。「ここに来たのは五十騎だけだが、南に行ったところに虎豹騎と河東郡の軍兵、あわせて千五百が待機している。斥候程度なら問題ないが……ただ、解池から敵の主力が出てくると厄介だ」「右賢王を逃がしてしまったからな、それなりの兵力で来ると思うけど……」 村での出来事は、すでに曹純にもおおまかに説明してある。俺は首をひねりつつ、言葉を続けた。「ただ、いきなり千を越える援兵が来ているとは知らないはず……って、そうか、子和がぶつかったっていう斥候は?」「すまない、何人か逃がした。さすがに匈奴は馬の扱いに長けていてな」「……そうすると、あまり楽観もしていられないか」 総兵力はわからずとも、官軍が来ているとわかれば、向こうも相応の対策を練ってくるだろう。それとも、いきなり全軍で向かって来るか。 白波賊だけならまだしも、匈奴の動きを読むのは難しい。ましてこちらは向こうの情報がまったくわからないのだから尚更である。 そうやって俺と曹純が顔をつきあわせて相談していると。「あの……」 不意に横合いから声をかけられた。見れば、どこか複雑な顔をした徐晃がいつの間にか、すぐ近くに立っている。浩という女の子は弟たちに託したようだ。「右賢王、と聞こえましたが、去卑が来ていたのですか?」「あ、いや、名前はわからない。ただ兵の一人が右賢王と呼んでいたのは確かだな」 そう言って、俺が大体の人相や風体を教えると、徐晃は小さく頷く。「去卑に、間違いないみたいですね。なら、急いで行動した方が良いです。あの人は執念深くて、同じくらいに用心深い性格ですから、恥をかかされたら黙っていません。そして官軍がいるとわかれば、少数の兵で来るようなこともしないでしょう」「――解池に戻ったら、動かせる限りの兵を連れて来る、ということだな。確かにあまり猶予は無さそうだ。礼を言う、公明殿」「……いえ、こちらも弟妹の命がかかっていますから」「そうか――ところで、一刀」 曹純の呼びかけに、俺は怪訝そうに首を傾げた。「お前と司馬家の令嬢、何か目的があってこの地に来たのだろう。この後、どうするつもりだ?」 曹純は村人の手当てをしている司馬懿に視線を向ける。 ちなみに曹純は司馬懿の顔を知っており、最初にその顔を見たときは目を丸くしていた。司馬家の麒麟児として、司馬懿の名は許昌ではかなり有名であるらしい。「年端もいかぬ齢ながら、衆に優れた才知と秀でた容貌を併せ持てば、自然、人の口の端にのぼる機会も多くなるだろう。むしろ一刀が知らなかったことの方が驚きだ」「……知っていたら、あんな無様を晒さずに済んだんだけどね……」「…………な、なんだかよくわからないが、気を落とさないようにな、うん」 知らず、どんよりと生気のない表情をしていたらしく、曹純が引いていた。いかんいかん。 俺は気を取り直して、この地に来た事情を曹純に説明する。さっきはそこまで説明する暇はなかったのだ。「……解池に不穏な動きがあるから調べてこいっていう伯達殿(司馬朗)の命令だよ。で、俺はその護衛役らしい」「なんだ、その『らしい』というのは。自分のことだろう?」 そう言われても、自分より強い上に頭も切れる子の護衛役とか、胸を張って言えることではないのですよ。「そうなんだけど……まあ、それはともかく、解池の情報を集めるためにここまで来たんだ。この状況じゃあ潜入なんて無理そうだし、子和たちと行動を共にさせてもらえると助かる」 後で確認はとるつもりだが、多分、司馬懿も異存はないだろう。「それは助かる。では遠慮なくこき使うとしよう」「お手柔らかに、将軍閣下」「それは聞けんな、長史殿」 そう言って短く笑いあう俺と曹純の姿を、どこか戸惑った様子で、徐晃がじっと見つめていた。 その視線に気付いた俺が徐晃の方を見ると、さっと視線を逸らされてしまう。 俺としても、ついさきほどの猛撃はそうそう記憶から消せるものではなく、あえて声をかけようとは思えなかった。 気まずいというには、いささか重過ぎる沈黙が、俺たちの周囲にはびこっていた…… ――したがって。 この出会いから数年の後、次のようなやりとりをすることになるとは、この時の俺はまったくもって予想だにしていなかったのである。◆◆◆◆ 解池陥落から数年後。とある城内にて。 第一印象、というのは重要である。少なくとも俺にとっては。 たとえば、とある青竜刀をもった黒髪武将に対する苦手意識(今となっては笑い話でしかないが)は、初対面の時の記憶が濃厚に作用していたし、とある金髪弓武将の腹ぺこキャラ疑惑(別の意味で笑い話にしているが)もこれに類する。 ゆえに、初対面でいきなり斬りかかってきた亜麻色の髪の少女のことを、ヒト科うっかり属の生物扱いしたり、時にそれを口に出してからかったりすることは、決していきなり斬りかかられたことへの意趣返しなどではないのである。「う……」 無論、最初の一撃で剣を叩き折られ、飛び散った破片が眼球をかすって、あやうく失明しそうになったりしたことへの報復でもなく。「うう……」 勿論、唸りをあげて襲い来る斧撃の恐怖を心底に植えつけられてしまい、今なお思い出す度に夜な夜な飛び起きることへの恨みでもなく。「ううう……ッ」 ただ、半泣きになってこちらを睨む徐晃が面白いから、からかっているだけなのである。「今、本音出たッ!」「気のせいです」「面白いから、からかっているって言いましたよね?!」「空耳です。あと、今、書いている名人録(誤記にあらず)、渙くんと浩ちゃんの次に徐公明の名前があるんだが、これも他意はないので」「……内容は、なんて書いてあるんですか?」「ええと……『史公劉――姓を史、名を渙、字を公劉。徐晃の義理の弟。後漢末期の動乱にて親を失っていたところを徐晃に保護され、以後、その下で扶育される。若年の頃より文武に長じ、朝廷に仕えてからはその武勇と、寡黙ながら誠実な為人を見込まれ、近衛隊である虎豹騎の一員となる。曹純の転任後、曹操直々の命令にて部隊長に抜擢され、見事に期待に応える働きを見せている』」 俺が史渙の項を読み上げると、徐晃はそれまでの不機嫌が嘘のようににこにこと笑顔になった。弟の活躍が嬉しくて仕方ない、といった様子だ。 ちなみに曹純も史渙も、男にしておくにはもったいない容姿の持ち主のため、虎豹騎の隊長になるためのハードルが無駄に高くなってしまった観がある。 また、なまじ曹純が人望、統率力ともに優れた指揮官であったため、後任の史渙の力量を疑問視する声もあがったのだが、曹純が去った後、兵士たちは新隊長である史渙に、曹純に勝るとも劣らない崇敬の念を向けているとのことだった――それはそれで別の意味で心配だ。大丈夫かな、渙くん。あ、いや、もう公劉殿と呼ばないと駄目か。月日が経つのは早いものだ。 そんなことを心中で呟きつつ、俺は続いて韓浩の項を読む。「『韓元嗣――姓を韓、名を浩、字を元嗣。徐晃の義理の妹。史渙と同じく、徐晃の下で扶育される。武に関しては兄ほどの適性はなかったが、優れた統率力をかわれて兄と同じく虎豹騎に抜擢される。先陣に史渙、本陣に韓浩という陣立てが新たな虎豹騎の戦術として確立されつつある。本人はほんわか癒し系の女の子。だがしかし、怒ると怖いのは、幼少時から変わらず。その柔和な笑みが顔から消えたら要注意。折悪しくその場に居合わせてしまった者の中で、心当たりのある者は即座に平謝りすること。なお心当たりがない者は、脱兎のごとく逃げることを推奨する』」 俺が読み上げると、徐晃が戸惑ったように首を傾げた。「……な、なにかいきなり文体が変わってませんか?」「俺の趣味で、思いつくままに書いてるだけだから」「そ、そうなんですか……あの、それで、その」 私のは、と、どこか緊張した面持ちの徐晃に促されるように、俺は眼前の人物の項を口にする。「『徐公明――姓を徐、名を晃、字を公明』」(……どきどき)「『ヒト科うっかり属に属する三国一のうっかり武将』」「……は?」「『彼女ほど、うっかり属の存在を世に知らしめた者が他にいるであろうか? いや、いないに違いない』「反語ッ?!」「『うっかりに始まり、うっかりに終わる。ああ、これ以上は記すことさえはばかられる……』「はばかられたッ?! しかも『……』までしっかり書いてありますッ?!」 たまらず覗き込んできた徐晃が悲鳴じみた声をあげるのを聞き、俺は充実感すら覚えながら名人録を閉じた。「以上」「『以上』、じゃないですよッ! もう、もうッ!!」 拳を振り上げる徐晃から、笑い声をあげながら逃げ出す俺。顔を真っ赤にした徐晃が追いかけてくるのを見やりながら、俺は名人録を懐にしまった。 別に徐晃をからかうためだけに書いたわけではない――その目的があったことは否定しないが。 趣味だと言ったのは本当で、折に触れて自分の好き勝手に書き綴ってきたのだ。いずれ完成したら本として出版――したら、一部の人間に半殺しにされそうなので、こっそり書棚にしまっておこう。間違っても、歴史の史料に供されるようなものではないので、それで十分だろう。 この時の俺は、そう考えていたのである……