名実ともに漢王朝の主導者となった曹操は多忙を極める日々を送っていた。 かつては中華全土を統べる強大な国家であった漢も、現在は各地への影響力こそ残しているものの、実質的な支配権を握っているのは、中原とその周辺――すなわち、曹操が実力で切り取った領土に限られる。 河北の袁紹、荊州の劉表といった朝廷の威光に従わない大諸侯の存在、中でも淮南の袁術などは自ら帝号を名乗って堂々と漢朝に叛旗を翻す有様であり、のみならず虎視眈々と許昌への侵攻の機会を窺う気配すら示している。 それらの外憂にあたるのは漢の丞相たる曹操の責務であり、それに併行して戦乱で荒れた都市の復興、農地の開拓を行い、盗賊を討って街道の治安を守り、商人らの陳情に対処して経済基盤を整え――時間などいくらあっても足りないほどの責務を、その両の肩で背負う曹操は、その日も精力的に政務をこなし、配下の報告を聞き、指示を下し、不明なところは再度の調査を命じるなどしていたのだが。 ふと曹操は思いついたように傍らに立つ夏侯淵に問いかける。「そういえば、関羽は最近どうしているのかしら?」「は。これまでどおり、晴耕雨読の日を送っていると流琉が申しておりました。霞(しあ 張遼の真名)も三日とあけず、屋敷に通いつめていると」「そう、霞も関羽にほれ込んだものね。それともまだ、徐州でのことを気にかけているのかしら」「おそらく、両方かと。副将の手綱を握れなかったこと、かなり気にしていたようですからね」 徐州侵攻の際、張遼は小沛から南に逃げる劉家軍を追い、関羽と一騎打ちを演じた。結果として張遼は敗れるのだが、その際、副将である魏続、侯成らが、張遼が口にした約定を破って劉家軍に追撃をかけた。曹操たちが口にしているのは、その一件である。 その追撃が関羽らの渡河を阻んだことを考えれば、今、曹操が関羽を麾下に迎えることが出来た要因の一つは、その追撃であることになる。結果だけを見れば、手柄とさえ言えるのだが、副将たちに面目を丸つぶれにされた張遼は烈火の如く怒り、あやうく副将たちに斬り捨てるところだったのである。 よほど、そのことを気にしていたのだろう。張遼は関羽が降伏した時も、また劉家軍の張飛、趙雲の二将の処遇で意見が分かれた際も、一貫して約定の遵守を主張し、関羽が許昌に来てからは、ほぼ毎日のように屋敷に顔を出していたのである。 軍務が忙しくなった最近では、さすがに毎日というのは無理であったが、それでも時間をとっては関羽を訊ね、武芸を競い、用兵や軍略を語りあうなどして時を過ごしているらしい。「その様は、あたかも恋する乙女のようだ、と黒華(張莫の真名)様などは申されておられました」 親友の言に、曹操はそれとわからないくらい、かすかに頬を膨らませる。「まったく、この私を差し置いて。かなうなら私がそうしたいくらいだというのに」「華琳様がそれをなされば、朝廷の仕事が軒並み止まってしまいますよ。関羽を丞相府に呼び出すのも一つの手だと思いますが?」 曹操のすねた態度に、夏侯淵が頬を綻ばせながら助言すると、この場にいたもう一人、荀彧が口を開いた。「関羽が丞相府に来たところで、何もできないでしょう。あれは戦に関わらないことには、たいした役には立たないわ。それに、劉備の下に帰ることを宣言している者を、朝廷の枢機に触れさせるなんて百害あって一利なしよ」「さて、関羽が政務に役立たない、というところは疑問の余地が残ると私は思うがな。だが、確かに桂花の言うとおり、丞相府に招くのは差し障りがあるかもしれん」 それは、関羽に情報を盗まれるから――というわけではなかった。「……関羽と姉者が顔を合わせでもしたら、部屋の一つ二つは吹き飛んでしまいそうだからな」 夏侯淵がそう言うと、全く同じ表情で、荀彧は頷いた。「猪二人、人間の働く場所で暴れられては迷惑よ。だから、関羽はつれてこないでちょうだい、本気で。ただでさえ猫の手をかりたいくらい忙しいのに、これ以上無用の騒動を起こされてはたまらないわ」 曹操は部下二人の話を苦笑しながら聞いていた。 関羽の武名の高さと、曹操の執心を知る夏侯惇が、関羽を毛嫌いしているのは周知の事実であった。 だが、実のところ、それは荀彧も似たようなものであった。その証拠に、荀彧はまだ言い足りないことがあるようで、なおもぶつぶつと言葉を続ける。「仲徳(程昱の字)も奉孝(郭嘉の字)も、おまけに藍花(らんふぁ 荀攸の真名)までいないし。関羽にしろ北郷にしろ、いるだけで迷惑よほんとに」 その言葉に、さすがに夏侯淵は眉をひそめる。「皆、各々の職分を果たした上でのことだろう。桂花、さすがにそれは誹謗というべきではないのか」「わかってるわよ、秋蘭! だからこうやって小声で言うだけでとどめてるでしょ」 きー、という感じで噛み付いてくる荀彧に、夏侯淵は小さく肩をすくめる。程昱と郭嘉はともかく、荀攸まで自分を置いていなくなってしまったのが、お気に召さないらしい。(まあ、男嫌いの桂花に、北郷のところに行って来ると声をかけられなかった藍花の気持ちもわかるのだが) ならばせめて、行き先を伏せるくらいの配慮は示してほしいと思う夏侯淵であった。もっとも、荀攸は頻繁に関羽邸に足を運んでいるので、伏せたところで荀彧に看破されてしまうに違いないのだが。 腹立ちをおさえきれない荀彧の胸元に、曹操の手が伸びる。 そして。「きゃッ?!」 次の瞬間、曹操は強い力で荀彧を引き寄せていた。不意のことで、体勢を崩した荀彧は曹操の膝の上に倒れる格好となる。 眼前にある荀彧の髪に手をうずめながら、曹操は囁くように呟いた。「桂花」「は、はい、華琳様」 それだけで、すでに蕩けるような表情を浮かべた荀彧に、曹操はゆっくりと言葉を向ける。「桂花は私と政務を執るのが窮屈なのかしら?」「え、と、とんでもありませんッ!! そんな、華琳様と共にいられるだけで望外の幸福だというのに、窮屈だなんて、天地がひっくりかえってもありえませんッ!」「なら、むしろ今の状況は喜びをおぼえても良いくらいだと思うけど」 曹操の指先が、荀彧の髪から頬へ、頬から唇へ、順々に触れていく。「あ……あ、は、はい……」 愛する主君の指が顔を撫でる感触に、荀彧は先刻までの不満などかけらもなくなった表情で何度も頷いてみせる。「そう、可愛い子。ご褒美をあげないといけないわね」「ああ……華琳様」 彼方で響く扉の音は、夏侯淵がそっと退出したことを示すものであったが、すでに荀彧の脳裏に夏侯淵の存在はなく、曹操もまた、あえて気に留める様子を示すことはなかったのである。◆◆◆ 淮南での戦いの後、思いもかけず許昌で日々を送ることになって数月。俺は事前の想像などおよびもつかない厚遇を受けていた。 無論、金銀珠玉に囲まれた生活という意味ではなく、日々の糧と戸外を歩く自由、その二つを保障されたということである。くわえて、傷が治るまでの間、毎日、都の名医の診療を受けさせてもらっているのだから、これを厚遇と言わずして何といえばよいのだろう。 さらに言えば、丞相である曹操推薦の料理の達人が、三日に一度はたずねてきて、腕を振るってくれるのだから、文句のつけようがなかった。 関羽のように名が知られ、曹操自身が望んだ将であればともかく、俺程度の相手にどうして曹操がここまで礼を尽くすのか。確かに俺は徐州の危難において、結果として曹凛様をお救いしたが、劉家軍の一員として曹操軍に――ひいては朝廷の軍に刃向かったこともまた事実。牢に入れられないだけでもありがたいくらいだというのに……などと考えていると。「まったくもう。おにーさんは相変わらず、自分への評価だけは適正にできないのですね」「それに関しては風に同意せざるを得ませんね。北郷殿は、今少し自分を客観視なさるべきです」「――と、言われてもなあ。淮南での戦は綱渡りの連続だったし、要になったのは子義だったし。言われるほど活躍したとは到底思えないんだけど」 そういって、俺は卓をはさんで向かいあう程昱と郭嘉の二人、そしてもう一人の人物に肩をすくめて見せたのである。 許昌に吹く風は冷たく乾いているが、そこには確かな春の兆しが感じられる。 高家堰砦で被った戦傷も大分癒え、俺は外を歩く程度なら支障ないまでに回復していた。それでも、少し歩くと息が切れてしまうあたり、失った体力を完全に取り戻すまでには、まだしばらくかかりそうではあったが。 もっとも、この街で特にやることがない俺には、時間は余るほどあり、のんびりと怪我からの回復を待っても問題はない。ないのだが。「無為徒食に甘んじるのは心苦しいからなあ」 衣食住の心配がなく、すべきこともないという状況は気楽ではあったが、この安逸にひたろうという気にはなかなかなれない。かといって、積極的に曹操軍に協力できる立場でもない。 どうしたものかと考えている時、俺はとある人物の訪問を受けたのである。 それが、今、程昱、郭嘉と共に俺の前にいる人物である。 亜麻色の髪を腰まで伸ばし、微笑む姿は清楚そのもの。薄緑色の瞳に宿る深い思慮は郭嘉や程昱に優るとも劣らず、その発する言葉は穏やかでありながら、的確に真理を衝く。 この人物こそが、漢の丞相曹孟徳の股肱、荀攸、字は公達その人であった。◆◆◆ 俺ははじめて荀攸と会ったのは、許昌に来てから一月ほど経ってからのこと。 当初、荀攸が俺を訊ねてきたのは、淮南における戦いの詳細を知るためであった。これは荀攸自身の口から聞かされたことであり、俺にはそれを拒む自由も、また理由もなかった。 高家堰砦における一連の攻防、その詳細を出来る範囲で教え、荀攸はそれを熱心に聞き取り、時に質問を挟んで、すべてを語り終えた時には中天にあった陽が地平の彼方に沈みかけていた。 そのことに気付き、荀攸は慌てて俺に謝罪した。荀攸としては、あそこまで長居をするつもりはなかったらしい。俺としては体力的に少しきつかったくらいで、ちょうど良い時間つぶしになったので、気にしていない旨を告げ、その日はそれで終わった。 荀攸の姉(正確には違うらしいが)である荀彧は、一度だけ顔をあわせたことがあるが、俺や関羽に敵意を隠そうとしない狷介な人柄であると、俺の目には映った。だから正直、荀攸と相対する時、すこし身構えていたのだが、思ったよりもはるかに友好的な人物だったので、俺は逆に拍子抜けしたほどであった。 そして、もう滅多に会うことはないだろうなどと思っていたのだが――あにはからんや、荀攸はその後、何度も屋敷に足を運んできたのである。 その問うところは、主に淮南の戦いに集中していたが、時に徐州時代の俺の行動にまで及ぶ時もあって、俺としてはそれに答えながらも、荀攸が何を知ろうとしているのかがさっぱりわからなかった。 荀攸の口からその真意を聞いたのは、それほど前のことではない。 奇妙なまでに真摯な眼差しで、荀攸は俺にこう言ったのである。すなわち―― 高家堰砦に攻め寄せた袁術軍の狙いは、俺だったのではないか、と。 ぽかん、と。開いた口が塞がらなかった。 それはそうだろう。なにも自分が、誰の恨みもかっていない聖人君子である、などと主張するつもりはないが、善悪は別にして一国に叛旗を翻すほどの者たちに命をねらわれる理由など、あるはずがないではないか。 ただ、そう反論しようとはしなかった。率直にいって、反論する価値もない暴論、というより妄想だとしか思えなかったからだ。 荀攸も、自分の言っていることが荒唐無稽であるという自覚はあったらしい。俺の呆れたような眼差しに、やや恥らうように顔を伏せた。だが、その顔が再びあげられた時、その瞳には先刻と同じ真摯な輝きが宿ったままであった。「妄言を、と思われても仕方ないと思います。でも、淮南での仲軍の動き――とくに、広陵に達してからのそれは、明らかに戦理に反していると私には見えるのです。いえ、これは私だけではなく、姉様や仲徳殿、奉孝殿も同じ意見を持っておられます。あの時点で、あなたが篭っていた高家堰砦は、戦略上捨て置いても問題はない砦だった。仲の将軍がたとえ排除の必要を感じたにせよ、淮南侵攻の全軍を挙げて潰すべき必要などあろうはずもありません。でも、仲軍はそれをした。どうしてでしょうか?」 戦略上、その土地も、砦も、必要ではない。もし、それでもどうしても攻め落とさなければならない理由があるのだとしたら。 荀攸はそう言って、じっと俺の目を見つめる。「それは、あの時、あの場所に、なんとしても殺さなければならない人がいたから。そう考えれば、あの時の仲軍の奇妙な動きに、ある程度の理由が見出せるんです」 俺はそれに対し、当然のように反論する。「しかし、あの時、砦にいたのは私だけではないでしょう。砦の守将は子義――太史将軍でしたし、広陵の陳太守、それに陶州牧の亡骸も高家堰砦に安置されていた。私は、それに太史将軍もですが、あの戦に先立って急遽任命された将軍とその長史に過ぎません。淮南を制圧しつつあった仲軍が、全軍を挙げて抹殺を望むほどの理由がどこにあります?」 言いながら、俺はいまだ行方が知れない太史慈のことを思って、胸を痛めていた。すでにあの戦からかなりの時が経過しているが、太史慈の行方は杳として知れなかったからだ。 廖化と月毛がいるから、仲に捕らえられることはないとは思うが、太史慈の傷は決して浅くなかった。俺とちがって、至れり尽くせりの治療を受けられたはずもなく、不慮の事態が起こる可能性は低くないのである。 曹純を通じて、諜報に通じているという曹洪殿に捜索を頼んではいるのだが、淮南は広陵をのぞいて仲の支配下にある。情報は遅々として集まっていなかった。 一方、荀攸は俺の言葉を受け、ゆっくりとかぶりを振る。「陳長文殿、あるいは陶州牧が目的であるのなら、広陵を陥とした際、あえて解き放つ理由がありません。しかし、仲は長文殿を一族もろとも解き放ち、陶州牧の亡骸を委ねさえした。老人、女子供を抱えた長文殿が、もっとも近くの砦に向かうのは必然です。私は、あれは砦の劉家軍の方々に対する楔ではないかと考えているのです。事実、あなた方は、長文殿らを守るため、砦に篭らざるを得なくなりました」「それは確かにその通りですが、それは結果論ではありませんか。私たちが彼らを捨てて逃げ出す可能性だとて無いわけでは……」 と、俺が口にしかけると、荀攸は小さく首を傾げてみせる。その口元には、どこか優しげな笑みが浮かんでいるようにも思えた。「本当に、その可能性はありましたか? 見ず知らずの曹家一行を助けるために、ただ一人、百の賊徒の前に姿を晒したあなたが、顔を知り、言葉をかわし、恩義さえある人たちに背を向ける可能性が」「う……それはもちろん」 言葉を詰まらせつつ、俺はそう口にする。 事実、俺はその手段を考えはしたのである――まあ、即座に却下したのだが。 荀攸はそんな俺の葛藤を見て、なにやらくすくすと笑っていた。なまじ綺麗な顔をしているものだから、そんな仕草を眼前で見せられると照れやらなにやらで頬が赤くなってしまう。 荀攸は笑いをおさめると、すぐに頭を下げて謝罪してきた。「すみません、笑ってしまって。私も、自分が荒唐無稽なことを言っているとは思うんです。けれど、あの時の仲の動きに説明をつけられるとしたら、この考えしかないとも思っています。一国の軍が、ただ一人を討つために戦略目標さえ無視して軍を動かす――そんなことはありえない。ありえないですが、それが実際に起こったのならば、それこそが事実であり、真実。そこに相応の理由があると考えるべきです」 そういって、荀攸はじっと俺を見つめ、囁くように言った。「北郷一刀。あなたは何者ですか?」◆◆「お人よしで、からかい甲斐のある奴じゃないか?」 あっさり言ったのは張莫、字は孟卓。「母者と仲康(許緒の字)、子和(曹純の字)の恩人だな」 肩をすくめ、興味なさげに言ったのは曹仁、字を子綱。「くわえて、今では寡兵にて飛将軍を退け、偽帝軍から長文殿や陶恭祖さまの亡骸を守りぬいた勇将でもありますね」 好意を湛えた口調で言ったのは曹洪、字を子廉。 北郷は知らなかったが、それはある時、荀攸が丞相府にいた面々に、同じ問いを向けた際の答えであった。 その場に同席しながら、一人、首を傾げていた曹純は怪訝そうに荀攸に問いかける。「公達殿は、北郷殿が何か秘めておられるとお考えなのか?」「はい。ただ……」 曹純の問いを肯定しながら、ややためらいがちな荀攸に、今度は張莫が口を開く。「ただ、それが何なのかはわからない、といったところか」「は、黒華さまの仰るとおりです」 荀攸の言葉に、張莫は腕組みしながら首をひねる。「正直、藍花の考えすぎとも思えるんだけどな。ただ、鐙の件といい、曹凛様のことといい、そして今回の淮南での戦といい、北郷の行動が、少なからず中華の歴史に関わっていることは確かだな」 陳留の太守である張莫は、常に許昌にいるわけではない。そのため、さほど北郷と関わりがあるわけではなかった。曹家襲撃の件でたずねたのが一度。そして、北郷が関羽と共に丞相府に赴いた折、たまたま顔を合わせたことが一度。その二度だけである。 ただ、その人柄は不快を感じる類のものではないと認めている。否、飛将軍を退けた智勇が本物であるのなら、配下にほしいとさえ思っていた。 その張莫の考えは、曹仁や曹洪と半ば重なる。 かつて、劉家軍と行動を共にしていた程昱や郭嘉から、その陣容の為人については聞き知っている。 彼女らは、北郷に関して、実質的に鐙を開発した人物として、その稀有な発想に感嘆こそしたが、それだけだ。関羽や張飛、趙雲ら劉家軍が誇る勇将や、諸葛亮、鳳統らの軍師とは比べるべくもないと考えていた。 だが、今回の偽帝の淮南侵攻における太史慈と北郷の活躍は傑出したものであり、その詳細を知るにつれて、高家堰砦を守り抜いた二人への評価は曹操軍内では急激に高まっていた。 ことに先の徐州での一件とあわさって、北郷への関心が高まるのは致し方ないことであったろう。あの働きがなければ、曹純らが高家堰砦へと赴くことはありえず、結果として高家堰砦は陥落していたのだから、すべては北郷あってこその勲であるとさえ言えた。 実のところ、それは荀攸も同様であった。今回の戦いにおける高家堰砦の奇跡的な奮戦を、結果論、の一言で済ませることが出来ない何かを感じ、その焦点に北郷がいることを知った。 その時、思ったのである。 あるいは、仲軍はこれをこそ恐れていたのではないか、と。◆◆◆ めずらしく、なにやらぼんやりしている荀攸に、俺は小首を傾げて声をかける。「公達殿、いかがなさいました?」「……え? あ、いえ、何でもありましぇ……せん。失礼しました」 いたそうに口元を押さえる荀攸に、程昱が俺と同じ仕草で話しかける。「どうしました、ついに公達ちゃんもおにーさんの毒がまわってきたのです?」「ど、毒?」「そうです。女性限定、可愛い子限定の局地的暴風雨たるおにーさんの最後の切り札。それに感染した子は、朝と夕とを問わず、おにーさんのことしか考えられなくなり、ついにはその言うことに逆らえなくなり、どんな言葉も頷いてしまうという恐怖の毒なのですよ」「ひ、ひぃッ?!」 がたがたがた、と音を立てて俺から遠ざかる荀攸。「……北郷殿、何も反論なさらないのですか?」「……突っ込みどころが多すぎて、どこから反論すれば良いのやらわからないんです、奉孝殿」 というか、なんだ、可愛い子限定の局地的暴風雨って?! 自慢ではないが、自分から女の子をくどきにいったことなんて一度もないぞ、おれは。 などと憤慨すると、そんな俺を見て郭嘉はぼそっと一言呟いた。 「それは本当に自慢になりませんね」「う……い、いや、まあそれはともかく。仲徳殿! 妙なことを公達殿に吹き込まないでください!」「感染者たる風が言っているのです。とっても真実味があるですよ?」「……ほほう。それはつまり、仲徳殿は俺の言うことなら何でも聞く状態である、ということですね?」「見ましたか、公達ちゃん。この欲望と扇情に満ちたおにーさんの顔を。きっと風はこの後、一糸まとわぬ姿で、おにーさんの部屋に呼びつけられることでしょう」「そ、そんなッ?! 北郷殿、いかに相手が言うことに逆らえないとはいえ、相手の意思を無視して、その、えーと、その、そのような行為に及ぼうとは、なんと非道なッ?!」「仲徳殿の戯言を真に受けないでください、公達殿ッ!」「お気遣い痛み入ります、公達ちゃん。でも、風は慣れているから大丈夫。それより、公達ちゃんは早く毒を抜かないと、風と同じ目に遭ってしまうのですよ?」「ひッ?!」「……あの、そんな恐怖に震える目で見られると、すごい切なくなるんですけど……」 もしかして、本気でそういうことをやる人間だと思われてるんだろうか。 俺はがっくりと頭を垂れた。 俺が本気で落ち込んでいることに気付いたのだろう。それとも、さすがに妙だと思ったのか。荀攸が、首を傾げて問いかけてきた。「あの、ど、毒、というのは嘘なのですか?」「当たり前ですッ」 そんな毒があったら、恋に悩む人間なんぞ一人もいなくなるだろう。「とすると、仲徳様の意思を無視して、閨に呼ぶというのも?」「当然ですッ! というかそんなことして何が楽しいんですか」「し、しかし、男というものは、皆、飢えた獣。皮一枚をはがせば、そこには常に女体をつけねらう眼光が迸る、と姉様が……」 姉様、というのは荀彧のことか。なんか男に恨みでもあるんだろうか。まあ、まったく見当違いだとも言い切れないところが少し悲しいのだが。「まあ、多少はそういう面もありますが……」 がたがたがた、とまた俺から遠ざかる荀攸。いや、もうそれはいいですから。「真っ当な男なら、きちんと手順を踏んで、相手の同意を得た上で行動します。皆が皆、そこらの野盗のような真似をするわけではありませんよ」 それを聞いた荀攸は、まるで新たな戦術理論を耳にした、とでも言わんばかりに目を見開く。「そ、そうなのですか?」「そうなんですッ!」 というか、今まで男をそんな目で見ていたんですか、あなたは。 呆れた口調でそう言った俺を見て、荀攸はなにやらしゅんとしょげ返ってしまった。「公達ちゃんは、桂花ちゃんの男嫌いの影響をもろに受けてしまってますからねー」「確かに。それに華琳様の周囲に、それを是正してくれる方は見当たりませんし」 言われてみれば、曹操軍の高官は、軒並み女性ばかりだった。「だから、これは良い機会だと思ったわけです。ご協力感謝です、おにーさん」「……いや、協力はまあ良いんだけど、毒云々のたわけた設定は必要あったのか?」 「一切合切、欠片もありませんですよ」「…………なら、なんで使った?」「その方が面白いからに決まってるだろ、にーちゃん」「宝慧、久しぶり……じゃなくてッ!」「つまりは面白ければすべて良し、ということですね♪」「『ね♪』じゃないだろッ?! それに、それを言うなら終わり良ければ、だッ!」「はい。ほら、公達ちゃんの男性への誤解も解けたし、終わりよければ、ですよ」「ぐ……」「北郷殿の負け、ですね」 澄ました顔で言う郭嘉の言葉に、俺はがっくりと肩を落とすのだった。 余談だが。「ところで、公達殿は、男が獣だと思いながら、俺に話を聞きにきてたんですか?」 荀攸は特に護衛も連れていなかったし、向かい合って話をしたことは一度や二度ではない。 危険だとは思わなかったんだろうか。 そんな俺の疑問に、荀攸はやや頬を赤らめながら、懐から筒のような物を取り出してみせた。 笛、いや、まさか、とは思うが。 俺は冷や汗を流しながら、確認してみた。「吹き矢、ですか?」「はい。私は非力ですから、剣や槍は使えません。でも、身を守る手段は持っておくべきだと華琳様に言われまして。今ではそれなりに使えるんですよ」「な、なるほど……ちなみに、矢には何を塗っておられるんでしょうか?」「姉様からもらったものを。たしか、その――」 と、そこで荀攸はなぜか再度頬を赤らめ。「男の方の場合、三日三晩、七転八倒して苦しんだ上、身体の一部が二度と使えないようになる薬、だと」 ……それ、普通は毒っていいませんか? 俺は内心でそんなことを呟きつつ、虚ろに笑うことしか出来なかった。