『海斗、お前に聞いておきたい事がある。まあ、今更ではあるがな』
これは夢か。
しかし、また懐かしい記憶だ。
目の前の光景を見てそう思う。
『お前は本当に聖闘士になりたいと思っているのか?』
確か、二年程前だ。
その日の修行を終え、宿舎に帰ろうとする俺を珍しく師アルデバランが呼び止めて、そんな事を聞いてきた。
俺は、何と答えたのだったか。
誰もが納得する様な、模範的な、当たり障りのない事を答えた様な気がする。
『アテナのために、地上の平和のために、この力を正しく振るう事こそが我ら聖闘士の本分だからな』
さすがは夢。
脈絡も無く場面が飛ぶ。
これは……三年程前だったか?
『ウワハハハハッ! まさかオレが一撃を貰うとは思いもしなかったぞ!?』
『拳の引きが遅い。聖闘士にとって速度は命だ』
『お前は小宇宙こそ強大だが、あまりにも制御が雑過ぎる。そうだ、もっと意識を集中させろ』
『出来が良過ぎるのも考えモノだな。これではオレの教える事が無いではないか。ワハハハハハッ』
次々と浮かび上がる光景。
僅か数年前の出来事がひどく懐かしく感じる。
ただ、そのどれもが師との修行であったのは何故か。
また場面が変わった。
俺と師匠が組手をしていた。
師の攻撃を避けて、その懐に潜り込んだ俺がボディーブローを放とうとしている。
「そうだ、この拳は受け止められ、俺はカウンターの一撃を貰った」
言葉の通り、師は難無く俺の拳を受け止める。
あの一撃は効いたなと、その時の事を思い出して腹に手を当てた俺は、そこで違和感を覚えた。
直後に放たれた筈の一撃が来ない。
師は俺の拳を受け止めたまま、微動だにしていなかった。
それだけでは無い。
「これは!? 俺が観ていた筈なのに、俺の拳を師が掴んでいるだと!?」
傍観者であった筈の俺が舞台に立ち、師と向かい合っていた。
『お前の拳は――軽い』
「……何?」
師の口から出た言葉。それは俺の記憶に無い言葉。
夢の雰囲気が変わった。
俺の周り、いや周りだけでは無い。全てが闇に包まれて何も見えなくなる。
『お前は何のためにその拳を振るうのだ?』
暗闇の中で師の声だけが響く。
『お前は強い。同じ条件の下で戦えば、オレとて容易く勝てるとは思わん。だが、その力でお前は何を望むのだ?』
『己のためだけに振るう拳は空しいぞ』
『言葉は悪いかも知れんがな、お前の拳には執念が無い。命を賭してでも何かを成そうとする覚悟、とでも言えば分り易いか。それが他の者達と比べて感じられんのだ』
「……まさか、夢の中で説教を喰らうとは思いもしなかったな」
そうぼやいた俺の背後に、暗闇の中であっても眩い輝きを放つ黄金聖衣を纏った師の姿が浮かび上がる。
いつもの様に両腕を組み、どっしりと構えたその姿は、しっかりと大地に根付いた一本の大樹の様。
胸を張り、常に前だけを見ているその姿勢、その力強さは俺には無いものだった。
今思えば、俺はその姿に憧れを感じていたのかもしれない。
「フッ……師の前では言えないな」
何と言うか恥ずかし過ぎる。言えるわけが無い。
『女神アテナは戦(いくさ)を司る神ではあったが、その戦いは常に護る為の戦いであった』
師の言葉が続く。
『デスマスクやシュラ、ああ、俺と同じ黄金聖闘士だがな。彼らは勝利にこそ意味があると言う。何に於いても勝たねば意味は無いと』
それはそうだ。負けてしまえば何も言えない。勝たなければ何も成せない。
そう、あの時だって俺は勝たなければならなかったのだ。
『真理ではあるが、オレはそれだけが全てだとは思っておらん。何かを護る事、誰かを護り抜こうとする意志こそが重要なのではないか、とな』
この言葉は、一体いつ聞いたものだったか。
覚えていない。
馬鹿馬鹿しいと聞き流した言葉だったか。
そんな事を思案していると、気が付けば師の姿は消え去り暗闇の中で俺一人となっていた。
何も無い空間に、全力を込めた拳を突き出し蹴りを放つ。
「勝利の為では無く……護る為……」
そう呟いて、ようやく俺は気が付いた。
「はははっ、無いな。星矢達やシャイナ、師匠とはただ戦いたくないだけだ。何かを護ろうなんて考えちゃいない」
海闘士達の事だってそうだ。
戦いたくないと思いこそすれ、彼らを護ろう等とは考えていない。
不意に自分の身体が浮き上がるような感覚を覚えた。
周囲の闇を消し去る様に、白い光が俺の周りから溢れ出す。
ああ、目が覚めるんだなと、漠然と考える俺の下に再び師の声が響いた。
『何かを護ろうとするその想いこそが、己の拳に力を与える。オレはそう考えている』
『アテナのため、それを強要はせんよ。そうである事が望ましくはあるがな』
『お前も早く見つける事だ、お前自身の護るべきものを、な』
第8話
ゆっくりと瞼を開く。
視界に映るのは一面の白。
まだ夢の中にいるのかとも思ったが、よく見てみれば天井が白いだけだった。
「ここは病院……か? カノンに負けた俺は……」
どうなったと、その後の事を思い出そうとするが、意識を失っていたのだから思い出すも何も無い。
「取り敢えず起きるか」
身体に掛けられたシーツをどけようとして、俺は自分の右腕が動かせない事に気が付いた。
「ん?」
何か温かいモノが俺の腕に乗っている。
犬か? 猫か? 病院に? いやまさか?
昔見たTVドラマや漫画であれば、この重さの正体は――期待せざるを得ない。
細心の注意を払い、俺が目を覚ました事を気付かれない様に、ゆっくりと視線を動かした。
そこには、俺の腕を枕にして――
涎を垂らして気持ちよさそうに眠る見知らぬ子供の姿があった。
「まあ、現実なんてこんなモンだろうさ」
「……うぇへへへ~」
「……」
一体どんな夢を見ているのか。
落胆する俺に対して、この見知らぬお子様は実に幸せそうでいらっしゃる。
「……いただきま~す」
ガブリと、大口を開けてシーツごと俺の腕に噛み付いた。
虫歯は無い様で結構な事だ。
上半身を起こして周囲を見る。
俺のいるベッドの横には簡素なテーブルに椅子が二つ。
奥には古びたクローゼットと思わしき家具が一つだけと言う、聖域も真っ青の質素かつシンプルな部屋だと言う事が分った。
「病院では無い。それにこの空気の薄さは、聖域でも無い」
自分の身体を見れば、貫頭衣の様な服を着せられて所々に包帯を巻かれていた。
それは別に構わないのだが、思っていた程の傷が無い事の方が気に掛かった。
まさか、ここまで回復する程眠り続けていた、などという事は無いと思うが。
「分らない事を考えていても仕方が無い」
ならば分る人間に聞けばいいと、未だ腕をかじり続けるお子様を見た。
「ムグムグ……マズい~……」
「……これは虐待ではない。教育だ」
自分でも何を言っているのか分らなかったが、俺はこの幸せそうなお子様に目覚めの一撃をプレゼントする事にした。
「まあ、良かった。目が覚めたんですね! それに、人見知りをする貴鬼を相手にもうそんなに仲良くなるなんて!」
「んが?」
「あん?」
ドアを開け、取っ組み合う俺とお子様の姿を見たそいつの第一声がこれだった。
胸の前で両手を合わせて心の底から嬉しそうに笑う銀髪の少女。
これが、俺とセラフィナの何とも締まらない出会いであった。
「つまり、俺はシャカって黄金聖闘士の手でここ――ジャミールに運ばれて来た、と」
「そーだよ、三日前にね。なんかおっかない人だったケド。にーちゃんの知り合いじゃないの?」
『……あうぅぅう……』
軽く自己紹介を済ませた俺は、早速貴鬼にこれまでの経緯を尋ねる事にした。
貴鬼は見た目に反して意外としっかりしている様で、六歳児とは思えぬ利発さを見せている。
「知らん知らん。そりゃあ名前ぐらいなら聞いた事はあるけどな」
それにしても、乙女座のシャカか。
最も神に近い男、だったか。
何を考えているのかまるで分らない男だと、師匠はそう言っていた。
俺を助けたと言う事は、あの時の戦いを知られたと思って間違いは無い。
知られるのは構わないが、だとすればカノンや海闘士の事はどうなったのだろうか。
海皇の事までは知られていないのか、それとも既に手は打たれた後なのか。
「なあ貴鬼。そのシャカって奴は何か言っていたか?」
「さあ? おいらはムウ様の命で直ぐににーちゃん達をここに運んだから知らないよ」
貴鬼は、傾けた椅子の上で器用にバランスを取りながら遊んでいる。
この事はこれ以上聞いても分らないだろう。
「ところで、さっきから言ってるムウ様って、もしかして――」
ならばと、俺は次の質問をする事にした。
師匠から聞かされた事がある。
ジャミールのムウ。聖闘士となるのなら覚えておかなければならない名前だと。
「にーちゃんはさ、お姉ちゃんに感謝しなよ」
しかし、貴鬼はそんな俺の言葉を遮って話し始めた。
「死に掛けてたにーちゃんの怪我を治したのはお姉ちゃんなんだからな」
杯座の白銀聖闘士。
自らの小宇宙によって傷付いた者を癒すという、八十八の聖闘士の中でも一人しか持ち得ない治癒の力の持主だと言う。
「ずっと付きっきりだったんだぞ。感謝しろよ!」
『……バカバカ、私の馬鹿……ッ!』
「ああ、それは……そうだな、感謝するよ。でもな、何でお前がそんなに偉そうなんだ?」
「おいらだって看病してやったぞ?」
寝てたじゃねーかと言ってやりたかったが、気分良さ気にしているところに態々水を差す必要も無い。
「ありがとな」
素直に礼を言うと、照れくさそうに笑っていた。
「へへっ!」
「ふ~ん。このお茶美味いな」
「でしょ? セラフィナお姉ちゃんの淹れてくれるお茶はおいしいんだよ、お茶は」
あれから暫く、貴鬼の分る範囲ではあったがあらかたの質問を終えた俺は、セラフィナが持って来てくれていた茶を飲みながらのんびりと無駄話をしていた。
『……うぅぅぅ、どうしよう、どうしよう』
「そこを二回言うのが気になるが。まあ、確かに美味いよ」
『……そうだ、さっきのは無しって事でもう一回始めからやり直せば……』
「……」
いい加減、無視するのも疲れて来た。
ちらりと貴鬼に視線を送る。
サッと目を逸らしやがった。
……仕方が無い。
覚悟を決めた俺は、部屋の隅でしゃがみ込んでいる不審者に声を掛ける事にした。
こちらに背を向けたまま、先程からずっと何かをブツブツと呟いている。
瀕死であった俺の治療をしてくれたと貴鬼から聞かされている以上、このまま放っておくわけにもいかない。
「……セラフィナ」
「ひゃい!?」
いや、そこまで驚かれても困るんだが。
「な、何でしょうか、か、海斗しゃん?」
ピンと背筋を伸ばして立ち上がったセラフィナだったが、その言葉は噛みまくりで気が動転しているのが良く分る。
おまけに顔をこちらに向けようとしない。
理由は分らんでもないが、今更気にしても仕方が無いと思うのだが。
「……見なかった事にしておいてやるから気にするな。俺か貴鬼が言わなければ分らない事なんだからさ。素顔を見られた事なんて」
「あぅううううううう」
がっくりと肩を落とすセラフィナ。
ずっと観察していて思ったが、随分と喜怒哀楽の激しい奴だ。見ている分には面白い。
聖闘士の女子は――以下略。
貴鬼から聞かされ、セラフィナも言っていたが、このお間抜けなお嬢様は、俺は今でも信じられないが聖闘士だと言う。
しかも白銀の。
更に十六歳だと言う。俺よりも二つ上だ。精神年齢はどうか知らんが。
滅多に人が訪れる事の無いジャミールで、この館の周囲には人避けの結界まで張られているらしく、セラフィナは普段から仮面を付けていなかったらしい。
「親兄弟、家族や師匠の前では外してもいいんだよ」
とは貴鬼の弁だ。
で、普段から仮面を付けない事が当たり前となっていたセラフィナは、素顔のままで俺の様子を見に来てしまった、と。
「まあ、掟だか何だか知らないが、別にそれで死ぬわけでも――」
無いだろうと、そう続けようとした俺は目を見張った。
「じゃあ、責任とってくれますか!?」
「――は?」
イキナリ何を?
部屋の隅でうなだれていたかと思ったら、俺の目の前へとあっと言いう間に移動したセラフィナ。
成程、さすがは白銀聖闘士、良い速さだと感心している俺の肩をがっしりと掴む。
「責任とってくれますか!?」
ずいっと身体を乗り出して俺に迫って来る。
男なら喜ぶべきところなのかもしれないが、そんな色気のある状況では無い。
正直言って眼が怖い。
この感覚は、闘技場を吹っ飛ばしてしまった時の魔鈴やシャイナから感じた威圧感に匹敵する。
否とは、とてもではないが言えない。
言っている意味は分らないが、つまりは「素顔を見た事を悪いと思うなら、この事を一生他人に口外するな」と言う事なんだろう。
そんな必死に念を押さなくても、元々言いふらすつもりは無い。
「あ、ああ、分った」
だから、もう気にするな。
そういうつもりで言ったのだが。
「~~ッ!?」
セラフィナは俺の肩を掴んだまま、何故か顔を真っ赤にして動きを止めてしまっていた。
「オイ貴鬼?」
コイツ大丈夫かと、そう思って貴鬼を見れば、何とも生暖かい視線をこちらに向けていた。
「あのさ、にーちゃん。意味分って……無いね。分ってたらそんな間抜けヅラじゃいられないもんね」
誰がマヌケか。
六歳児にマヌケと言われる日が来るとは思いもしなかった。
「聖闘士の女子はね、素顔を見られたら相手を殺すか――愛するのが掟なんだよ。ムウ様が言ってた」
「……ちょっと待て。何だそのぶっ飛んだ掟は!? やはりおかしいぞ聖闘士!!」
「にーちゃんだって聖闘士じゃん」
どこから出て来るんだ、そんな二択が。極端にも程があるだろうが!!
じゃあ何か、昔俺が聖闘士候補の女子達に白い目で見られたのはそういう事だったからか?
知っとけよ師匠!
そりゃあ、聖域の女子から敵視もされるわ!!
「ええっと、海斗さんは日本の人なんですよね。こういう時は……二日物ですが、でしたっけ?」
「分ってたんなら止めろよ貴鬼! それから、二日物じゃナマモノだ! 違うからな、俺はそういうつもりで言ったんじゃないからな!?」
「そんな!? それじゃあ、私は海斗さんを殺さないと!?」
「だからその発想がおかしい事だと気付け!!」
「……騒がしいですね、何をしているんですか貴方達は?」
結局、騒ぎに呆れたムウが止めに入るまで、延々とセラフィナとの噛み合わない問答が続けられた。
貴鬼はただ面白そうにケラケラと笑っていた。
聖域だけかと思ったが、古代ギリシアを彷彿とさせる内衣(キトン)と外衣(ヒマティオン)という服装は、どうやら聖闘士にとっては普通の様だ。
とは言え、さすがに現代の『外』の事情も考慮する気はあるのだろう。当然下着とズボンは着用している。
外衣を纏い現れたムウを見て、俺は一瞬彼を女性だと見間違えてしまった。
長い髪を後ろで結んだ、長身の美しい大人の女性だと。
静かで穏やかな物腰、その落ち着いた様子は俺の知る聖闘士像とはまるでかけ離れており、一見しただけではとても戦いを行う人間には見えない。
「……やれやれですね。阿呆ですか貴女は」
外見に反して、随分と辛辣な言葉を仰る方の様だ。
「いざ戦いとなった時に、マスクが外れるかどうかを気にする者がいますか。本来、女性聖闘士にとってのマスクとは、聖闘士である事の証であり誇りの様な物でしかありませんよ」
ムウの言葉に、俺は貴鬼を見てセラフィナを見た。
二人ともぶんぶんと首を振っている。
「他人の手でそのマスクを外されると言う事は、女性聖闘士にとっては誇りを汚される事と同意。そして自らの手でマスクを外すと言う事は、相手への、相手にとっても、これ以上無い信頼の証となるのです」
納得した。
成程、それが長い年月の間に徐々に歪んで伝えられた結果があの究極の二択になったと。
「ヒドイですよムウ様。それならそうと教えておいて下さっていれば!」
セラフィナが頬を膨らませてムウに詰め寄っている。
その点は同意だ。
「わたし子供の名前まで考えちゃったじゃないですか! 男の子だったらユニティとか、女の子だったら――」
「……」
「……」
「……さて、海斗でしたか。君には少々聞きたい事があります。後ほどで構いませんので下まで来てもらえませんか?」
貴鬼は課題を済ませておくように。
そう言ってムウは踵を返し、この部屋を後にした。
何食わぬ顔で。
「は~い、分りました」
ひょいっと、軽快に椅子から飛び降りた貴鬼がその後に続く。
その際、俺を見て手を合わせ――ニヤリと笑いやがった。
「……」
「そうですね、犬を飼うのも良いかもしれませんね。大きい子だったら子供達の枕代わりになって貰うんです。こう、おなかのところに――」
少女がやがて年老いて、ひ孫に看取られて息を引き取る。
とある家族の半世紀上にも渡る壮大な物語が語り終えられるまで、俺はそのまま一人でセラフィナの相手をするハメになっていた。