ジャミール。
中国とチベットの国境近くに存在する山岳地帯である。
標高六千メートルを超えるその場所は、極端に空気が薄く、その険しい道のりもあって地元の者達ですら足を踏み入れる事は無い。
迂闊に近付けば二度と返っては来れぬ魔の山として、チベット族の人間から恐れられていた。
何人たりとも訪れぬ秘境。
それがジャミールであった。
今より二百数十年前。
ここは女神アテナと冥王ハーデスの繰り広げた前聖戦、その地上に於ける最後の戦いの地であり、多くの戦士達の魂が眠る場所でもある。
「それ故に、彼らの眠りを妨げる事が無い様にと、その事実を知る者が結界を張る事でこの地にみだりに近付く者が現れない様にした――で、あってる?」
「ええ、完璧よ貴鬼。そのメモが無ければ満点だったのにね」
そのジャミールの奥深く。
霧に閉ざされたその場所に、一人の少女とまだ幼い男の子の姿があった。
透き通るような銀色の長い髪に見る者の心を温かくする、そんな笑顔を浮かべる少女と、やや吊り目がちではあるが、くりっとした大きな眼のいかにも活発そうな男の子である。
小さな岩の上で向かい合う様に腰掛ける二人の間には、数冊の本が置かれていた。
どうやら、少女が貴鬼という男の子に勉強を教えているらしい。
「え? あはははは……ムウ様にはナイショだよ?」
「ん~、どうしようかな?」
人差し指を顎に当て、首をかしげて見せる少女。
「いじわるだよお姉ちゃん」
貴鬼と呼ばれた子供は不満そうに頬を膨らませる。
その様子にしょうが無いなと、少女――セラフィナは苦笑した。
「ふふふっ。それじゃあ、ここを間違えずに読めたらムウ様には内緒にしておいてあげる」
「え~~っ」
ちょっと可哀そうかなとも思ったが、セラフィナは彼女の師匠――ムウより貴鬼の勉強を見る様にと頼まれた以上ここは心を鬼にするところだと、厳しくする事に決めた。
「ううう」
涙目でセラフィナを見上げる貴鬼。
「……」
厳しくするのだ、決心したのだと、セラフィナはその視線に耐える。
「ううううううううッ」
「……それじゃあ、ここからここまでね」
「あはっ、やったあ! だからお姉ちゃんは好き!!」
視線に耐えきれず、セラフィナは一分も持たずに陥落した。
嬉々としてはしゃぐ貴鬼と、がっくりとうなだれるセラフィナ。
いつもと変わらぬ風景。
繰り返される日常の一コマ。
「へへへっ。……アレッ?」
はしゃぎまわっていた貴鬼がピタリとその動きを止めて、じっと空を見上げた。
「貴鬼? どうしたの、何か見えるの?」
釣られる様にセラフィナも空を見上げたが、特に変わった様子は無い。
霞がかったジャミールの空である。
「そう言えば、あなたもムウ様と同じ様に超能力が使えたものね」
自分では感じ取れない何かを感じているのだろうか。
そう思い、セラフィナが貴鬼に声を掛けようしたその時であった。
「来るよ」
貴鬼の言葉に何がと問う事は出来なかった。
その時にはセラフィナも何が起きたのかに気が付いたのだから。
二人が見つめる先から眩いばかりの黄金の輝きが放たれる。
そして、それと同時に強大な小宇宙が生じていた。
そこからゆっくりと現れる人影。
黄金に輝く聖衣を纏い、艶やかな絹糸の様な黄金の髪がふわりと広がっていた。
その人物は瞳を閉じていながら、まるで自分の全てを見透かされる様だとセラフィナは無意識の内に胸元を握り締める。
彼女は目の前の人物から威圧感とは違う、奇妙な圧迫感の様なモノを感じていた。
人影が地上へと降り立った。
そこで、ようやくセラフィナは目の前の人物が黄金聖闘士である事に気が付いた。
その手には、黒髪の少年が抱きかかえられていた事も。
良く見れば、少年は治療されている様ではあったが、その顔に生気は無く意識も無い様子であった。
「ッ!?」
慌てて駆け寄ろうとするセラフィナの腕を貴鬼が止めた。
その表情にはつい先ほどまであった活発さは無く、むしろ怯えの色が濃い。
「ダメだよ、お姉ちゃん。あの人は――違う」
「貴鬼?」
「ほう、君は『感じ取る事』は出来るのですか。成程、ムウが手元に置くだけの理由はある」
瞳を閉じていながら、まるで全てを見通すかのように呟く黄金聖闘士。
「来ましたかシャカ」
そう言って、セラフィナ達二人の背後から現れたのは彼女達の師であるムウであった。
「すまないが理由は先刻話した通りだ。急いで貰いたい」
黄金を纏い現れた男、シャカの言葉にムウは頷いて見せた。
ジャミールのムウ。
アテナの聖闘士であり、十二人の若き黄金聖闘士の一人である。
牡羊座(アリエス)の黄金聖闘士として本来であれば聖域に赴かねばならない義務があるのだが、彼はそれに応じる事無くこの地にて隠者の様に過ごしていた。
「少し力を抑えて貰えないでしょうか、この者達が怯えてしまっている」
そう言ってセラフィナ達の肩にムウが手を置くと、それまで感じていた奇妙な圧迫感が消え去っていた。
「貴鬼、杯座(クラテリス)の聖衣をここに。セラフィナはあの少年を」
「は、はい!」
「分りました」
ムウの言葉に従い、貴鬼は自らの念の力により杯座の聖衣をこの地へと呼び寄せる。
セラフィナはシャカの手より傷ついた少年――海斗を託された。
変わらぬ風景、繰り返される日常。
それは今終わりを迎え様としていた。
この時を境に、彼女達の時間は動き始める事になる。
第7話
ドンという音が鳴り響き、貴鬼の横に聖衣の収められた箱が出現する。
そこに描かれたのは杯。
セラフィナが触れると箱が開き、その中から白銀の輝きを放つ杯の形をしたオブジェが姿を現した。
杯座の白銀聖衣である。
「聖衣よ」
セラフィナの言葉に応える様にオブジェが弾け、彼女の身体へと装着される。
海斗の身体を横たわらせると、セラフィナは両手を使い、その掌で器を形作った。
小宇宙を高め、掌により湧き出る水をイメージする。
「ほう、彼女が杯座の聖闘士であったか。神の酒を注いだ杯、その杯で汲んだ水には癒しの力が宿ると言われるが」
「そうです。しかし、杯座の聖闘士であれば、己の小宇宙によって癒しの水を生み出す事が出来るのです」
ムウの言葉を証明する様に、セラフィナの手より美しく澄んだ水がまるで星屑を散りばめられたかの様に輝きを放ちながら溢れ出し、傷ついた海斗の身体に降り注ぐ。
すると、みるみるうちに海斗の傷が塞がり、血の気の失せた顔に赤みが戻り始めていた。
「そうか、ソーマ(※インド神話上での神々の霊薬。口にした者に活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらすと言われる)の力なのだな。聖闘士の中には戦いの力では無く癒しの力を持つ者がいると伝えられている。しかし、過去の聖戦に於いても杯座の聖闘士は現れなかったと聞いていたが?」
「杯座の聖闘士の力は聖戦の行方を左右しかねないものです。過去幾度かの聖戦に於いても真っ先にその命を狙われたと聞いています。故に、アテナの命によりその聖闘士の存在は秘匿とされていました。それに――」
ムウが視線を向ければ、快方に向かう海斗に反してセラフィナの小宇宙が急激に低下し、その表情に苦悶の色が現れ始めている。
「そこまでです。良く頑張りましたねセラフィナ」
「……ハァ……は、はあッ……ムウ様? この人、は……?」
ぐらつき、倒れそうになった彼女の身体をムウが支える。
「大丈夫ですよ。あなたのおかげで彼の傷は癒されています。安心なさい」
穏やかに語りかけるムウの言葉で張り詰めていたモノが切れたのか、セラフィナは微笑みを浮かべるとその意識を失った。
「貴鬼、二人を館へと連れて行きなさい。私はいましばらくここでする事があります」
「ハイ!」
貴鬼の手が海斗とセラフィナに触れる。
瞳を閉じ、集中する貴鬼。
「んっ!!」
シュンと、気合いの声を残して貴鬼達の姿がこの場所から消えた。
「相手の傷の深さに比例する様に小宇宙を激しく消耗するのです。その献身故に命を落とした者もあったと伝えられています」
「ならば、事が済めば彼を彼女の護り手にでもすると良い。異論を唱えられる立場では無いのだからな」
「セラフィナは必要ないと言いますよ。あれはそういう子です。……さて。ではシャカよ、エクレウスの聖衣を」
「うむ」
ムウに促される様に、シャカがその手を掲げる。
すると、瞬く間にシャカの前に聖衣の箱が現れていた。
まるで聖衣から働き掛けたかの様に、ひとりでに箱が開かれる。
ムウは牡羊座の黄金聖闘士であるが、彼にはもう一の顔があった。
この地上に於いてただ一人、破損した聖衣を修復する技術を伝えられた者としての顔である。
そこにあったのは、かろうじて形を保っているとしか言えない程に破壊されたエクレウスの聖衣。
「……駄目ですね。やはりこの聖衣は死んでいます」
ムウにはそれが一目見ただけで分った。
聖衣にも命がある。
持ち主が死亡したとしても聖衣が死ぬ事は無い。
新たなる持ち主が現れるまで眠りに付くだけである。
その間に、軽微な損傷程度なら自らの力で修復を行い、場合によっては自らその形を変える事もあると言われている。
「死んでしまった聖衣を生き返らせる事は、このムウにも出来ぬ事。それを知らないあなたや教皇では無いでしょうに」
「其れは承知。だからこそ教皇は手を打たれた」
シャカの言葉にムウがもう一度エクレウスの聖衣を見た。
「な、これは!?」
ムウの表情が驚愕に変わる。
エクレウスの聖衣に近付くと、何かを確かめる様に触れ始めた。
「死んだ聖衣を生き返らせるためには聖闘士の、小宇宙が宿った大量の血を必要とする、だったか」
「聖衣から微かに感じる生命の鼓動、それに無数の亀裂に沁み込む様に与えられたこの大量の血液は……まさか!?」
あり得ないと言う思いと、それ程の価値がこの聖衣に、いやあの少年にあったのかと。
立ち上がったムウはその視線を館の方へと向けていた。
「そう、その血は教皇が流されエクレウスの聖衣へと与えられた物だ」
ムウの驚愕を余所に淡々と語るシャカ。
役目は終わったとばかりにその身体が色を失い、まるで空間に溶け込むかの様に薄れ始める。
「その血と君の力で聖衣を蘇らせて貰いたい。そして彼に新たなる力を」
「シャカよ。教皇は、いや君は何を考えている?」
ムウが振り返った時には、その場にはシャカの小宇宙の残滓が残されているだけであった。
溜息を一つ吐き、ムウはその長い髪を掻き上げる。
「いや、今は何も言うまい。私は私に課せられた使命に従い、ただ目の前にある聖衣を修復するだけだ」
そう呟くと、ムウは瞳を閉じて――念じた。
すると、ムウの前に色とりどりに輝く無数の鉱物が出現する。
「オリハルコン、スターダストサンド、そしてガマニオン……」
そこから必要と思われる鉱物を見繕う。
「……これ程までに破壊された聖衣を元の形とする事はこのムウにも不可能。大幅に形を変える必要がある」
シャカは言った、新たなる力をと。
そして聖衣から感じる教皇のものとは異なる小宇宙の残滓。
「求められるのは青銅を超えた青銅、と言う事ですか。やれやれですね、これは一筋縄ではいきそうもありません」
懐から黄金に輝く槌と鑿(のみ)を取り出したムウは、その刃先をそっと聖衣に当てる。
言葉とは裏腹に、ムウの表情は真剣そのもの。
ふうと一息を吐くと、その顔から表情が消え去り、その視線はただ聖衣にのみ注がれる。
「新生の時だ――エクレウスの聖衣よ」
そうして振り上げた槌を、ムウは鑿の柄へと振り下ろした。
聖域、教皇の間。
暗闇の中、ただ一人玉座に腰掛けた教皇は何も無い宙をじっと見つめていた。
「やはり生きていたか、カノンよ」
その呟きに応える者はいない。
「岩牢から姿を消して十一年。いつかは姿を現すと思っていたが、まさか海闘士となっていたとはな」
『何故あの場で殺さなかったのだ? 袂を分ったとは言え、やはり弟は可愛いのかサガよ』
「あの場で争えば海斗は死んでいただろう。あれ程の小宇宙の持主を殺すのは惜しい」
『シャカの言っていたギガントマキア、あの小僧をそれに当てるつもりか?』
いや、応える者はいた。
それは、教皇――サガにのみ聞こえる声で続ける。
『しかし、だからと言ってたかが一聖闘士の命と海皇軍とを秤に掛けるとは――愚かな事を』
「アテナの封印はそこまで柔な物ではない。おそらく現世では神話の時代の様な力は振るえぬ筈だ。ならば俺の敵では無い」
『あの小僧を助けた理由にはなっていないが……。フン、まあ良かろう。だがサガよ、これだけは忘れるな』
「……」
『貴様が何を企もうとも、俺を出し抜ける等とは思わん事だ。何故なら俺は――お前なのだからな』
「黙れッ!!」
玉座から立ち上がり叫ぶサガ。
『クククククッ、フハハハハハハハハハッ!!』
脳裏に響くのは、サガが最も憎むべき男の――己の笑い声。
「黙れッ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」
暗闇の中で、サガの慟哭だけが響き渡っていた。