考え事に没頭していたせいか、俺がソレに気が付いた時には既に日は沈み辺りは夜の闇に包まれようとしていた。
「ひょっとしたら、と思ったんだけどな」
聖域から出れば、何らかのアクションはあるのではと期待をしたが、どうやらハズレを引いたらしい。
「お前らはさ、聖域の聖闘士候補たる者、みだりに離れてはならない。この掟ぐらい知っているだろう?」
振り返った先には、聖域で見覚えのある顔がちらほらと。
岩影から、海岸から、出るわ出るわで、あっという間に二十人近くが集まっていた。
雑兵達だけでは無く、その中には聖闘士候補やゴンゴールの姿もあった。
皆、聖域での服装のままである。
百歩譲って服は良しとしよう。しかし、プロテクターやらヘルメットやらは目立ち過ぎやしないだろうか?
まさか身に着けたまま聖域から此処まで来たのだろうか?
秘匿義務はどこへ行った?
いや、むしろあまりにアレ過ぎて、何も知らない人からは古代ギリシャをモチーフにした仮装としか思われないだろうから逆に大丈夫なのか?
恐るべし聖闘士。少なくとも俺には真似できない。
「フンッ、馬鹿な事を言うな。俺達は勝手に聖域を離れた貴様を捕えるためにやって来たのだ!」
俺を指差し見得を張るゴンゴールに、周りのやつらも「そうだそうだ」と気勢を上げる。
「勝手にって、許可は取ったぜ。教皇直々にだ」
これは嘘では無い。
実際にそれを許可する旨の書状を俺は受け取っていた。
取り出した書状を見せると、何がおかしいのかゴンゴール達が一斉に笑い始めた。
「それが、本物ではないとすれば?」
何がおかしいと、問い質そうとする俺の前にシャイナが立つ。
聖域での服装のままで。
シャイナよ、お前もかと突っ込もうかと思ったが、どうにもそういう空気では無い。
「……ナルホドね、そう言う事か」
つまり、俺は嵌められたと言う事。
「この書状は真っ赤な偽物。ノコノコ出て行った俺をそれを口実に私刑にかける、ってか。お前ら、自分のやった事が分っているのか?」
聖闘士を騙しただけでは無く、教皇の書状を偽造するなど死罪となってもおかしくは無い大罪だ。
「ハッ、馬鹿を言うな。そんな書状など知らんなぁ。俺達はただ無断で聖域を飛び出した貴様を連れ戻しに来ただけよ。力尽くでな」
そう言って出てきた大柄な男に俺は見覚えがあった。
確か――ジャンゴといった筈。
候補生の中でもずば抜けた実力を見せつけ、その小宇宙は既に聖闘士の域に達していると聞いた事がある。
それにしても、これ程までに恨まれる覚えは全く無かったのだが。
日々を地味に過ごし、人付き合いも最低限に留めていたというのに。
よくもまあと、俺は呆れを通り越して素直に感心してしまう。
「テメエ、人気のない所で散々俺らをボコった事を忘れてやがるのか!」
失礼な事を。
「……シャイナ、お前も同意見か?」
「さてね。本物か偽物か、嘘か真実かなんてあたしが知るわけ無いだろう? こいつ等に見届ける様に頼まれただけさ」
お前の言葉が嘘であった方が面白いんだけどね。
俺の問いにシャイナはそう呟くと肩を竦めてみせた。
「このサディストめ。……覚えとけよ」
どうやらシャイナには連中を止める気は無い様だ。
こうなるともう書状の真偽は問題では無くなってしまった。
要するに、奴らは知らぬ存ぜぬで通すと。
「余所見をするとは余裕だな」
ジャンゴはそう言い終えるや否や、俺目掛けて拳を放つ。
ブチッ、と聖衣箱を担ぐ為のベルトが断ち切られた。
ドン、と音を響かせて聖衣箱が足下に落ちる。
「フフフッ、見えたか? 気付いたか? 今のは手加減をしてやったのだ。理解できたろう? たかが青銅如きがこのジャンゴに適う等と思わん事だな」
「ス、スゲエ。俺には全く見えなかった!」
「さすがはジャンゴさんだ!」
「……」
盛り上がるゴンゴールと雑兵達。
周りからの賞賛の声に気を良くしたのかジャンゴは胸を張って続ける。
「俺の小宇宙は青銅を超え白銀の位まで高める事が出来るのだ。やがては黄金の域に達し、聖域を、いやこの地上を手にしてくれるわ!!」
ジャンゴ、ジャンゴ、ジャンゴ!
「フフフフッ、うわはははははははっ!!」
「…………」
もう、何と言えば良いのやら。
本当に大丈夫なのか聖域は?
思わず瞼に込み上げて来る熱いモノを抑え、俺はシャイナを見た。
「……好きにしな」
俺の視線に気付いたシャイナは、こめかみを抑えながら投げやりに言った。
この場にまともな感性の人間がいた事を神に感謝したくなった。
どの神に感謝すればいいのか分らなかったので止めた。
取り敢えず、馬鹿騒ぎを始めた有象無象は無視して俺はゴンゴールに話し掛けた。
「お前、この間負けたのにまだやるのか?」
「アレはオレの本気では無かった!」
「……」
その答えに、俺はもう何もかもどうでも良くなった。
「お前らさ、泳げるか? 泳げない奴がいたら手を上げろ」
「ハァ? イキナリ何を――」
「……泳げるのかどうかと聞いている」
「ちょ、ちょっと待ちな。落ち着きなって海斗!?」
シャイナが慌てているがどうしたというのか。
冷静だ。至って俺は冷静だ。
「ようし、誰も手を上げていないな。ならば遠慮はせん」
何やら有象無象共が直立不動で固まっている。
誰一人として口を開こうとはしていない。
静かなのは良い事だ。
右腕をゆっくりと振り上げる。
エクレウス(子馬座)を構成する四つの星をなぞり描かれる小宇宙の軌跡。
歪な台形はかざした俺の手の前で完全な四角形となり、その内側では高められた小宇宙が集中、集束、圧縮を繰り返し、限界を超えたそれは今にも爆発しようとしている。
無論、本気で放つつもりは無い。
有象無象共は確かに馬鹿者共には違いは無いが、まだ笑って済ませられる馬鹿共だ。
今の自分にどの程度の事が出来るのかを試すだけ。
「死ぬなよ? ヘルメスの足となりお前達に終焉を告げる――最終宣告(エンドセンテンス)」
何かが光った、そうとしかジャンゴには感じる事が出来なかった。
「な、何が?」
思わず目を閉じたジャンゴであったが、身体には何のダメージも無い。
目を開けば、腕を組みこちらを見ている海斗と、その横でこちらを見ながら立ち尽くしているシャイナの姿。
「目くらましか? 小癪な……真似……を?」
そこで、ジャンゴは何かがおかしい事に気が付いた。
自分の周りが余りにも静か過ぎる事に。
気配が無い。
自分の後ろに控えていた筈の者達の気配が。
背中を流れる冷たい汗に、ゆっくりと振り返ったジャンゴは言葉を失っていた。
そこには誰もいなかった。
まるで最初から此処に来たのが自分一人であったかの様に。
夢でも見ていたのかと、現実を疑いそうになったジャンゴであったが、海岸や砂浜に残された足跡が痕跡となってこれが現実であると物語っていた。
「……ば、ばば」
呂律の回らぬまま、全身を襲う震えを必死に抑え込み、ジャンゴは海斗へと振り返る。
そのジャンゴの額に、ピタリと海斗の人差し指が付き付けられていた。
「どうやらお前が主犯かな?」
その指を掴もうと手を伸ばしたジャンゴであったが――
「聖域に連れて帰るぞ」
その言葉を耳にしたのを最後に、ジャンゴは意識を失った。
第4話
「か、海斗、アンタ一体何を。いや、それよりも今見せた力は?」
「何って、ちょいと軽く吹っ飛ばしただけだ」
エンドセンテンス(最終宣告)――四角形の中で極限にまで高めた小宇宙を破壊のエネルギーとして変換し、その波動を対象目掛けて一気に放出するエクレウスとしての俺の新たな必殺拳。
前世のオレが放ったダイダルウェイブ(大海嘯)には威力では劣るものの、片手で放てる分使い勝手としては上だ。
小宇宙の更なる圧縮という工程に手間取っていたが、溜めて放つという師アルデバランの居合拳からコツを得てどうにかモノにした。
「あいつらも鍛えてるんだから、その内泳いで戻って来るだろ。それにしてもコイツ重いな」
二人ぐらいはこの場に残しておけばよかったか、と軽く後悔するが今更だ。
「取り敢えず、アテネまでタクシーにでも乗せて……いや、金が無いしな。バスは……もう最終が出てるか。シャイナ金持ってない?」
「何なんだって聞いてるんだ。一瞬だったけど確かに感じたあの馬鹿げた小宇宙。それに今の技。試験の時にも思ったけどね、アンタは今まで手を抜いていた」
一言一言を噛み締める様に、静かに俺へと詰め寄って来るシャイナ。
確かに手を抜いていたと言われれば否定出来ない。
それに、理由など話せる筈も無く、言ったところで到底納得出来るモノでも無いだろう。
「落ち着けって、マスクが外れるぞ?」
「そんな事はどうでもいい!」
どうでもいいって、お前自分が何を言ってるか分ってるのか?
そう軽口を叩こうとした俺だったが、ジャケットの襟元を掴みそのまま首を締め上げようとするシャイナの尋常では無い様子に、俺は何も言う事が出来なかった。
「……ふざけんじゃないよ。アタシらはね、聖闘士となるために命懸けでやってきたんだ! 再起不能になった奴もいれば死んだ奴だっている!! それを何だ!?」
ギリギリと締め付けられる力が強くなる。
「それだけの力があったんなら、アンタにとってアタシらが必死になってる姿はさぞ滑稽だったんだろうね? 陰で笑っていたんだろう? 馬鹿にするのもいい加減にしな!!」
パシンと、乾いた音が鳴った。
掴んでいたジャケットが破れ、行き場を失ったシャイナの手が俺の横っ面を叩いた音。
「なんで避けないのさ? 同情かい? 憐れみかい? 余裕過ぎて避けるまでも無いって?」
「……」
「何とか言ったらどうだい?」
俺を見上げるシャイナのマスク、その隙間から流れる涙が見えた。
言える筈が無い。
何を言ったところで言い訳にしかならない。
謝罪の言葉を述べたところで、それは侮辱でしかない。
そのまま、互いに無言で向かい合う。
そうしてしばらく経った頃、ハァと大きく息を吐いたシャイナがトンと俺の胸に拳をあてた。
「……悪かったね。あんまりだったからさ、ちょっと驚いちまってね。アンタには才能があった、それだけの事だろ?」
そう言うと、シャイナは倒れているジャンゴの下へ歩み寄り、その身体を担ぎあげると肩に乗せた。
「心配しなくても聖域にはちゃんと報告してやるさ。連絡の行き違いがあったってね。ただ、コイツの言った言葉は聞き逃せるもんじゃない」
「……ああ、そうだな。頼むわ」
俺とシャイナはそれ程親しいわけでもなかったが、それでも雰囲気が俺の知る普段のシャイナに戻った事で、気持ちが少し軽くなった気がした。
「アンタもさっさと聖域に帰りなよ。知らないだろうけどね、アンタも星矢も『上』の連中から目を付けられているんだ。今日みたいに難癖を付けられるのが嫌なら迂闊に聖域から出ようとはしない事だね」
「名指しかよ? そんなに東洋人が嫌いなのかねぇ」
聖闘士はギリシア発祥とは言え、閉鎖的にも程がある。
ぼやきであって、特に返答を期待したものでは無かったのだが、シャイナに聞こえていたのだろう。
「確かに聖域の連中には快く思われていないけど、意外と聖闘士の中には東洋人も多いんだ。理由は別にあると思うけどね」
東洋人以外で、俺と星矢に共通する点といえば城戸光政かグラード財団しか思い付かない。
こうなると、ますます城戸の爺さんが聖域の反感を買う様な余計な事をしていたんじゃないかとの仮定が信憑性を帯びて来る。
「ご忠告感謝するよ。それにしても、今日は随分と優しいな」
「フン、みっともない所を見せちまったからね。これでチャラにしといてやるから他言は無用だよ!」
そう言い残し、ジャンゴを担いだシャイナはこちらを振り向く事無く去って行った。
「意外といい女かもねアイツは」
人気の無くなった海岸で、打ち寄せる波の音を聞きながら、俺はシャイナに言われた事を思い出していた。
「馬鹿にするな、か。全く、痛い所を突く」
あえて考えない様にしていた事だけに、それを指摘されてはかなりクルものがあった。
「俺は……どうしたいんだろうな」
ずるずると先延ばしにしていた結論。
地上粛清を完全に否定する気は無いが、海闘士として生きるには俺にはオレ程の熱意は無い。
現世では時期尚早であるという、オレと俺の知識から得た確信もある。
海皇の完全なる覚醒にはあと二百年は必要であり、不完全なままの海皇の下ではその加護をどれ程得られるのかが分らない。
相手は人の身とは言え女神アテナとその加護を受けた聖闘士。
冷静に考えて、海皇が負けるとは思わないが、加護を得られぬ海闘士が勝てるとも思えない。
無駄に被害を出すのは俺の本意では無い。
こう考えてしまう時点で、俺はオレに比べてかなり聖闘士寄りになってしまっている事が分る。
だが、シャイナにも言われた通り、俺が聖闘士を目指したのは打算であり成り行きに過ぎない。
師匠に真実を打ち明ける事も出来なければ、女神アテナに対する忠誠も無い。
オレと違い、俺には海闘士としてやがて聖闘士になるであろう星矢達孤児仲間に拳を向けるつもりもない。
思考はいつもぐるぐると同じところを回る。
何も変わらず回り続けるだけならば、それはある意味で停止と変わらない。
「結局、中途半端でも今のままがいいんだろうな」
現状維持、行き着くのはそこだ。
「なら、せめて最高の一手は無理でも最善の一手は打たせてもらおうか」
聖衣の箱に手を伸ばす。
箱の正面に描かれた馬の口に咥えられた握りを捻り、一気に引き抜いた。
ドンという音を立てて開かれる聖衣の箱。
そこから立ち昇るのは、夜空へと向かい飛翔するエクレウスのオーラ。
残されたのは、馬の顔を模した白いオブジェ――エクレウスの青銅聖衣。
オブジェ形態から、弾かれるように四散した聖衣が俺の身体へと装着される。
膝、腰、胸、腕、肩そして額へと。
海将軍の鱗衣や黄金聖衣に比べて必要最低限の保護しかないが、それでも内なる小宇宙の高まりに応じる様に、エクレウスの聖衣が俺の力を増しているのを感じる。
「聖衣は……俺を聖闘士として認めた」
嬉しくもあり悩ましくもあり。
思わず苦笑してしまった。
これでは、ますますどちらを選ぶべきかが分らなくなってしまった。
「どちらにせよ、する事は一つ」
ゆっくりと視線を動かす。
スニオン岬の崖下、女神アテナが捕えた敵を懲らしめるために使ったとされる岩牢へと。
人影があった。
ゆっくりとこちらに歩み寄る人影は、月の光に照らされてその姿を晒し出す。
シードラゴンの鱗衣を纏った男。
その身から感じる小宇宙は間違いなく前世の俺を殺した男と同一。
十中八九、この世界でもこの男が海皇復活に関わっているのは間違いないだろう。
「ほう、奇妙な小宇宙に興味を持ってやって来たが、まさか聖闘士とはな」
「そういうお前も、鱗衣で誤魔化している様だが俺には分る。海闘士とはやはり少し違う。思った通り――聖闘士か」
ハズレを引いたと思ったが、最後に大当たりが来てくれた。
「……貴様、何者だ?」
その男の問い掛けに、俺は笑いを抑えきれなかった。
「何がおかしい」
「ハハハハハッ! いや、あの時とはまるで逆だと思ってな。気にするなよ、『お前』には分らない事だ」
拳を握り、真っ直ぐに相手を見据える。
あの時と同じ。
いや、あの時と今の俺は違う。
「俺が誰かって? 見て分らないのか? 聖闘士さ、お前を倒す為の聖闘士」
「エクレウスの海斗だ」