この世に邪悪がはびこる時、必ずや現れるという希望の闘士――聖闘士(セイント)。
地上の愛と平和を守るため、女神アテナの元に集った彼らは自らの守護星座の名を冠した聖衣(クロス)という鎧を身に纏う。
その拳は空を引き裂き大地を割るという。
地上に住まう力無き者達のために戦う彼らの事を、いつしか人々はこう呼んでいた。
――アテナの聖闘士、と。
人の心が生み出す闇に、繰り返される争いによって汚れきった地上に絶望し、全てを破壊する事を――浄化からの再生を目指した海皇ポセイドン。
その意志に賛同し、海皇の元に集った戦士達が身に纏いし鎧は神話において海皇ポセイドンが生み出したとされる魔獣の姿を象った鱗衣(スケイル)。戦士の名は海闘士(マリーナ)。
今を生きる人々を守り共に明日を生きようとするアテナと、明日を生きる人々を守るために今を切り捨てようとするポセイドン。
互いに目指す果てにあるものが平和であっても、だからこそ両者はぶつかり合う。戦い合う。
「――それを、愚かしいと。そう思った事はありませんかなヒルダ様」
幼子に物語を聞かせる様に紡がれるドルバルの言葉を、茫洋たる目をしたまま、しかしヒルダは僅かながらにも頭を振る事で否定した。
彼女の銀糸の様な長い髪がふわりと揺れる。
「ほう。これはこれは」
己の顎をさすりながら、ドルバルは明確な否定の意思を示して見せたヒルダに素直に感心して見せた。
ドルバルの手が椅子に腰掛けたヒルダの左手を掴む。彼女の薬指には鉱石をそのまま削り出した様な無骨な指輪がはめられていた。
「いや、結構。私自身これの出来にはあまり自信を持っていなかったのですよ」
身じろぎ一つしないヒルダの身体をそのまま掴み上げる。力任せに引き上げたために、ドルバルに掴まれたヒルダの手首に赤みが生じる。
「強大な力を持ちながら、その力を己ではない他の何かのために振るうなど……。全く、愚かで矮小な人間である私には理解の及ばぬ事でして」
雪の様に白い彼女の肌にその赤は、まるで枷の様にも見て取れた。
「このアスガルドを統べるヒルダ様であれば、なるほど、お分かりになられると」
ひとしきり指輪を観察したドルバルは、それ以外にはまるで興味は無いとでもいう様にヒルダの腕をぞんざいに離すと何事かを呟いた。
ビシッ、という音が鳴り椅子に落ちたヒルダの身体が跳ねる。虚ろながらも開いていた目が閉じ、力無く椅子にもたれ掛かる彼女はまるで壊れた人形の様。
「だから、でしょうな。そんな私だからこそ分る事もありましてね。その点では彼らと私は同志と言えるのでしょう」
ワルハラ宮でも限られた者しか足を踏み入れる事は許されぬ教主の間。
ヒルダが意識を失った事でドルバルの話を聞く者は誰もいない。
「もっとも、行き着く果てに滅びしかないあの神の元に依るなど、彼らは実に愚かとしか言いようがない。さあ、貴様らの敵が現れたぞ聖闘士に海闘士よ。
あの神は破壊と騒乱、災いの渦だ。地上の守護者をかたるなら命を掛けてでも止めて見せるがいい」
それでもドルバルは声に出して語る。まるで、ここにはいない誰かに聞かせる様に。
「互いに戦い、潰し合い、殺し合うのだ。貴様らの尊い犠牲によってこの地上が清められる。本望であろう? フフフフフッ、フハハハハハハハ――」
聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~
邪悪に染まり聖域から追放された暗黒聖闘士。彼らの戦闘力はアテナの聖闘士に劣るものではない。
彼らが追放された理由は自らの力を私利私欲のために用いる、他者を顧みないその精神性故であり、決して振るわれる力の強弱によるものではなかったのだから。
とはいえ、如何に超常の力をふるう聖闘士であろうとも、生身の人間である事にも変わりはない。
個人に対して用いられる武器、兵器の類であればさほど脅威ではなくとも、ミサイルや化学兵器といった広域に影響を及ぼす様な大量破壊兵器相手には多少なりとも影響を受けてしまう者が大半だ。
ならばどうするのか。
使わせなければ良いのだ。
出した答えは――命の盾。つまりは人質である。それも世界的に影響力の大きな人物によるものだ。
ジャンゴ達にとっての幸運は、日本へと向かうために行ったシージャック、その客船が世界有数の財力を持ち、経済界への影響力も大きいソロ家の所有していた船であった事に尽きる。
日本までさしたる障害もなく訪れる事が出来たのは裏でソロ家と取引を行った結果であった。人質の命を保証して欲しければ無闇に騒ぎ立てるな、と。
「命は保証してやる、しかし――ってか」
海斗の脳裏に機上で聞かされた情報が浮かぶ。
乗組員や乗客達の中には見せしめとして傷付けられた者もいる。老若男女問わず、だ。
突如として目に前に現れた圧倒的な暴力、理不尽を前に、彼らは成す術もなく蹂躪された。それでも命だけは保証されていた事を、彼らは不幸中の幸いであったと思うべきなのだろうか。
「……その辺のアフターケアは任せるさ。俺の管轄外だからな」
そう呟き、海斗はジャミールでムウ達と共に暮らしている聖良の事を思い出す。
「気にしてはいない、って言っちゃあいたが……。絶対に嘘だ」
自分に関する一切の記憶を失くしていた少女であったが、それでも海斗と敵対し戦った事は覚えていたのか。二年程経った今でも、セラフィナや貴鬼達と比べて明らかに距離を置かれた付き合いであった。
「どれだけ強くなろうが心の機微ってヤツだけはどうにも、な。まあ、そんな俺でも――」
船上で確認された暗黒聖闘士の数は二十数名。
それぞれが異なる星座の意匠を施された暗黒の聖衣を身に纏っていた。
仲間の帰りを待つ彼らの戦意は皆一様に高い。皆が知っていたのだ。ジャンゴ達が黄金聖衣を奪取し、財団のキーマンである城戸沙織の誘拐にも成功した事を。
グラード財団の代表である城戸沙織。彼女の身柄を確保した事によって得る事が出来るであろう巨額の富。
アテナの聖闘士の最高位である黄金聖衣、それがもたらすであろう強大な力。
彼らはそれを手中にしたのだ。
富と力を得た。その先に訪れる享楽の世界。彼らはそれを夢想して沸き立っていた。
純白の翼を広げて舞い降りた聖闘士――海斗の姿を見るまでは。
「推察する事ぐらいは出来る。それはな、お前らを叩きのめせって事だろうさ」
お前達など敵ではない。言葉の裏に隠された真意を誰もが感じ取り、果たして誰もが動く事が出来なかった。
海上から音も無く立ち昇った巨大な水の柱が形を変えて海龍の姿と化し、彼らへと牙を向けたのだ。
幻覚ではない。実体でもない。それは海斗の小宇宙が生み出したヴィジョンだ。小宇宙を知る彼らだからこそ、その強大さを知り完全に呑まれてしまっていた。
「リ、リヴァイア……サン?」
誰かが幻獣の名を呟いた。それは旧約聖書に登場する海の王者だ。陸の王であるベヒモスと対をなす原初の怪物である。
海斗にとっては己の小宇宙が浮かび上がらせたヴィジョンが他人にどう見えたところでさしたる意味は無い。
ただ、今の自分の精神状態が海将軍シードラゴンに傾いている事を認識出来ただけの事。
それでも、その呟けたという事が、僅かでも行動を起こせたという事実が暗黒聖闘士達の生存本能を掻き乱し――意識を爆発させた。
怒号。そうとしか形容できない音が海斗へと向けて放たれた。
前後左右、そして空。海斗の周囲を殺意に満ちた黒が覆い尽くす。
「海の底で頭を冷やせ」
迫り来る黒に向けて海斗が両手を突き上げる。
「“ダイダルウェイブ”!」
海龍のヴィジョンが閃光と共に弾け、青い波濤となって迫り来る黒を呑み込んでいった。
「……あれが聖闘士の力か」
麻森博士の呟きが静まり返った機内に響く。
人知を超えた超常の力。聖闘士の力をそうと認識してはいても、今目の前で起こった事はそう易々と受け入れられるものではなかった。
正直に言って、彼には何が起こったのか理解出来てはいない。
暗黒聖闘士達が海斗へと襲い掛かったかと思えば青い閃光が船上を覆い、気が付けば船上には海斗の姿しかなかったのだ。
「光政様、貴方は……」
喉元まで出かかった言葉を押し止め、麻森博士はゆっくりと深呼吸をすると気持ちを切り替えるべく次の行動に移る事にした。外敵がいなくなった以上、彼らも人質救出に加わるのだから。
腕時計を見れば、海斗が船上へと降り立ってからまだ二分と経っていない。当の海斗は既に無人となった船上を後にして船室へと降りている。
「青銅聖闘士だよな、あの人」
「……だよな?」
潮と大地の言葉からは驚きを通り越した呆れの様なものが混じっていた。麻森博士には理解できなかった事が潮達には理解出来ていたらしい。
何事かと尋ねれば、彼らが指差す先、船から遠く離れた海上には幾つかの黒い何かが浮かんでいるそうだ。
「いや、オレ達も何が何やらサッパリですよ? ただ、こう、青い光が黒い影を押し退けたから……その先に何かあるかな、って」
カメラを通して映像をモニターに映せば、そこには聖衣を砕かれた暗黒聖闘士らしき者達が浮かんでいた。
「……」
「確かに凄いな。なら、聖闘士の最高位である黄金聖衣を身に纏った者にはどれ程の力が与えられるんだ?」
翔の問い掛けに潮と大地はハッとした様に顔を見合わせる。
これで船内の人質救出の目処が立ったとはいえ、射手座の黄金聖衣は奪われたままなのだ。
そして、沙織の無事も確認されてはいない。
「海斗君からの合図があり次第、我々も船に入るぞ。暗黒聖闘士達の足を奪ったとはいえ、これから先何が起こるか分らない。彼には直ぐにでもお嬢様と黄金聖衣の奪還に向かってもらおう」
「了解!」
第35話
生い茂る木々の間を縦横無尽に黒い影が走り抜ける。
しんしんと降り続ける雪の――白の世界を暗黒スリーの黒が侵食する。
「くくくっ、どうしたキグナス!」
「威勢の良さは最初だけか?」
前後左右。氷河を中心として囲い込むように駆ける暗黒スリー。彼らは決して一カ所に留まる事なく、また集まる事もない。
三人同時に仕掛けて来たかと思えば即座に分散して個々に攻撃を繰り出し、氷河が誰かに攻撃を繰り出そうとすれば死角に立っていた者が氷河の行動を阻害する。
即席のモノではない、確かな修練の元に培われた三位一体の技が着実に氷河を追い詰めつつあった。
「そもそも、我ら三人をたった一人で相手にしようなどと思い上がりも甚だしい!!」
「暗黒聖闘士の恐ろしさ、その身にとくと味わうが良いわっ! 行くぞお前達!!」
「おう! 我ら三人の真の力を、デスクイーン暗黒スリーの恐怖を思い知れ!」
三人の拳に、爪に、脚に、破壊の意思に満ちた小宇宙が、力が満ちる。
それまで決して一カ所に集まらなかった彼らが一列に並び、空を切り裂いて氷河へと迫る。
「“暗黒烈爪魔風拳”!」
身構えようとした氷河の目前で直後、三人が跳躍した。
肩を、肘を。それぞれの身体を支点として上方と左右、敵の目前から一瞬の内に三方へ分かれての同時攻撃。彼ら暗黒スリー必殺の連携である。
咄嗟の事に対応出来ない敵――氷河は、その攻撃を避ける事も反応する事も出来ずにその身を打ち砕かれる。
「……ふむ、まるで『三本の矢』だな」
はず、であった。
「な、なん、だ……と?」
怯ませる事すら出来なかった。
氷河に意に介した様子はまるでなく、よく見ればその身には傷一つ負っていない。
「ば、馬鹿な!?」
暗黒スリーの顔が驚愕に染まる。
必殺の連携だった。拳は、蹴りは、確実に氷河の身体を打ち貫いていたはずであった。
「一本の矢は容易く折れるが、三本束ねればそれも容易ではなくなる。だが、束ねる矢が脆ければ……束ねる意味もない」
そう言って氷河は足下に落ちていた枝を数本拾い上げると、暗黒スリーへと見せ付ける様に突き出し
「この様にな」
凍気によって一瞬の内に凍りついた枝が音を立てて崩れ去った。
淡々と紡がれる氷河の言葉に、目の前で起こった事によって。暗黒スリーは己の身に起きていた異変に気が付いた。
「なんだ、これは……氷のリングが!?」
「う、腕に力が――いや、感覚がないッ!!」
「脚もだ! な、何をしたキグナスッ!! なぜ我らの手足が凍りついているのだ!?」
「先にお前達の動きを封じた“カリツォー”。その凍気が、そして今なお周囲に満ちた凍気が、お前達の四肢を凍結させていた事に気付かなかったようだな。
凍傷を起こし、一切の感覚を失った拳足による攻撃など避ける必要もない。無闇に跳ね回るお前達の動きは確かに目障りだったが……それだけの事だ」
所詮は児戯よ。
そう告げる氷河の眼差しは、その名の通り氷原の如き冷たさと鋭さに満ちていた。
暗黒スリーの足下から這い上がる冷気が、降りしきる雪がその勢いを増す。
吹き付ける風が白く輝き、身動きできない彼らの身体を、その暗黒の聖衣を純白に染めてゆく。
「暗黒聖闘士の恐ろしさを味わえと、お前達はそう言ったな。ならばお前達にも教えてやろう」
身構えた氷河が描く拳の軌跡に、彼らは氷原から羽ばたく白鳥の姿を幻視した。
「この――ダイヤモンドダストの恐怖を!」
「ひぃ――」
「ま、まてーーっ!?」
「受けろ! 我が氷の拳を“ダイヤモンドダスト”!!」
氷河が突き出した拳から大小様々な無数の氷の結晶が放たれる。
悲鳴を遮る純白の凍気の風が暗黒スリーを包み込み、その身体を聖衣ごと凍りつかせた。
「……その身で戦う事を選んだのは紫龍よ、お前自身だ。オレは先へ進むぞ」
そう呟き、その場を立ち去る氷河。
後には、物言わぬ氷の彫像と化した暗黒スリーだけが残されていた。
血止めの急所――真央点を突き邪武の出血を止めた紫龍が立ち上がる。
振り返ったその視線の先では、つい先程一輝と共にこの場から立ち去ったはずのブラックドラゴンの姿があった。その足は紫龍へと向かっていた。
一歩一歩と着実に縮むお互いの間合い。それに合わせて紫龍の身体が緊張する。
(……この男!? 身に纏った聖衣こそ破損しているが、感じられる小宇宙にまるで澱みがない。
拳と盾を失い、ましてや死の淵から目覚めたばかりの今のオレで奴の相手が――)
そこまで考えて紫龍は頭を振った。
「星矢との戦いで何を学んだ、邪武の何を見た――紫龍よ!」
「ほう。今にも地に墜ちそうであった龍が……天高く飛翔したかの様な良い気迫だ」
賞賛の言葉の通り、ブラックドラゴンは紫龍に感心している様であった。敵意といったものが感じられない。その事が余計に紫龍を不安にさせる。
「勘違いしているようだが私は君と事を構えるつもりはない。ブラックスワンやブラックペガサス辺りが青銅の彼らをどう思っているのかまでは知らんがね」
「それを信じろと?」
「ふむ、ならばこう言おう。私にとって君達の存在などどうでもよいのだよ」
ブラックドラゴンの言葉が、それが挑発を込めた侮蔑であれば紫龍は憤ったであろう。
しかし、そうではなかった。そうはならなかった。それが本心からの言葉である事が分ってしまったのだ。
「何?」
紫龍の意識が僅かに逸れたその次の瞬間であった。
気が付けば、ブラックドラゴンは紫龍の横を通り過ぎており、地に倒れ伏しているブラックユニコーンの前に立っていた。
「一輝様がお命じになられれば話は別だがね。さて、いつまでそうしているつもりだ?」
「お前、一体何を? まさか!? ブラックユニコーンにまだ意識があるとでも――」
ボンッと地が爆ぜる音が響き、ブラックユニコーンが紫龍目掛けて飛び出す。
咄嗟の事に意識の反応は遅れたが、五老峰で鍛えられた六年間の経験が紫龍の身体を反応させた。
左手を開手として前面に、右手は拳を成して腰だめに構える。迫り来るブラックユニコーンに迎撃を繰り出そうとして紫龍は気付いた。
「違う! 奴に意識は無い!! ならばこれは――」
その瞬間。ぞくりと、背中に感じた悪寒に紫龍は己の不覚を悟る。
『げひゃひゃひゃーーっ!』
背後から聞こえた下卑た笑い声も気にならない。そんな事よりも優先すべき事があったためだ。
「ぐうっ、こ、これは……まるで鉱物でできた縄の様な……見えない何かが、オレの首に巻きついて! く、締め付けられる!!」
『馬~鹿め~~っ! 掛かりおったな、このブラックカメレオンのステルスウィップに!!』
誰もいなかったはずの紫龍の背後から、ゆらりと人影が現れた。
カメレオンの名の通り周囲の風景に溶け込むようにして隠れていたのか、小柄なその男の手には紫龍の首に巻き付いた鞭が握られていた。
姿だけではなく、気配すら消し去る事がブラックカメレオンの能力。
「クククククッ、青銅の小僧如きに敗れた暗黒聖闘士の恥晒しでも死体だけは役に立ってくれたなぁ」
「フンッ、姿を消し、地に伏せ、死体を蹴り上げるか。正義を語るつもりなど毛頭ないが、やはりお前達とは考え方が合わん」
「黙ってなぁ裏切者ぉっ! どうやって生きていたのかは知らんが良いさぁ。この青銅のドラゴンを殺した後にブラックドラゴン、お前をもう一度殺してやるぞぉッ!! そぉうりゃぁあ!」
「う、ぐわぁああーーッ!」
小柄なその体躯からは信じられない様な力でブラックカメレオンが手にした鞭を振り回す。
その先には首を絞められたままの紫龍の身体があるのにもかかわらずに、だ。
「さあ、このまま大地に叩きつけられて死ねよぉドラゴンッ!」
“デッドハウリング”
紫龍の身体が勢いのままに大地へと叩き付けられ様としたその時、一陣の風が吹き抜けた。那智だ。
空を切り裂く那智の必殺の拳。巻き起こされた風は刃となってステルスウィップを切り裂き、その先に囚われていた紫龍の身体を解き放つ。
「ぐっ、うう!!」
頭からの落下こそ免れたものの、大地に全身を打ち付けられた紫龍の口から血の混じった苦悶の声が上がる。
「紫龍!」
「小僧ぉっ! 邪魔をしたから貴様も殺してやるッ!」
紫龍へと駆け寄ろうとする那智の前に怒りに表情を歪ませたブラックカメレオンが立ち塞がり、新たに取り出した鞭を那智へと振るう。
「くぅっ!? うおぉっ!」
二度、三度と振るわれる鞭を紙一重でかわし続ける那智であったが、避ける事で精一杯となってしまい紫龍の元へ向かう事が出来ない。
「くひゃははははははっ!! 少しはやるじゃねぇかぁ! だったらご褒美だぁ、絶望をくれてやるぅ!!」
すうっとブラックカメレオンの身体が透けていく。驚愕する那智を余所に、瞬く間にブラックカメレオンの姿が消えてしまった。
「そんな馬鹿な、目の前から消えただとぉ!? うぐわぁああっ!!」
背後からの衝撃――振り下ろされたステルスウィップが那智の背中を聖衣ごと引き裂く。
駄目押しとばかりに、姿を消したままのブラックカメレオンの蹴りが身動きの取れなくなった那智の身体を弾き飛ばしていた。
「那智! ッぐぅあっ!?」
その身体を立ちあがっていた紫龍が抱き止めたが、これまでに蓄積されていたダメージと衝撃に二人してその場に倒れ込んでしまう。
『しぶといなぁドラゴンッ! 大人しく死んだフリをしておけば良かったものを。雑魚を庇って命を散らすかぁ!?』
生命力を、小宇宙を著しく消耗していた紫龍の纏うドラゴンの聖衣は既に重いプロテクターとしてしか機能はしていない。
盾にでもなれれば。そう思いここまで来たが、氷河の言っていた通り、今の自分では足手纏いにしかならないのだろう。
このまま命を落とす事は、ただただ己の不覚故。それを大人しく受け入れるつもりもないが理解は出来る。
だが、しかし、だ。
今、奴は何と言った?
「……訂正しろ」
『あぁあん? 雑魚を雑魚と言って何が悪い?』
「オレに対する侮蔑の言葉なら幾らでも吐くがいい。だが、那智に対しての言葉は聞き逃すわけにはいかん。オレを救おうとした男だ」
紫龍は今や重しにしかなっていない聖衣を脱ぎ捨てた。死に体となった今の自分には聖衣という鎧は不要とばかりに。
『おいおいぃ、気でも狂ったか? 敵を前に聖衣を捨てる馬鹿がいやがるとはよぉ!』
姿を消したままブラックカメレオンが笑う。馬鹿めと。お前は阿呆か、と。
紫龍はそれに対して一言も返さない。那智の身体を横たえると、そのまま両目を閉じてその場に立ち尽くす。
「……仇はこの手で討つつもりだったのだがな」
紫龍のその姿を見たブラックドラゴンが「許せ」と小さく呟いた。そしてブラックカメレオンに告げる。
見えぬ相手を見据える様に。姿を消したブラックカメレオンの立つ場所に向けて。
「お前の負けだブラックカメレオン。今のドラゴンにお前では勝てん」
『――ッ!? は、ひゃははは! 何を馬鹿な事を言ってやがるぅ!! 覚えていろぉ、こいつを殺したら次はテメエだぁッ!!』
姿の見えぬ敵が紫龍へと迫る。
紫龍は瞳を閉じたまま動かない。
――死ねぇ!
ブラックカメレオンが心の中で必勝の声を上げる。
このまま奴の背後からステルスウィップで切り裂くのだ、と。
その背中に浮かんだ龍の刺青ごと切り裂いてやる、と。
手にした鞭を振りかぶり、ブラックカメレオンは血の海に倒れ伏す紫龍の姿を幻視した。
「やはり――背後から来たか」
その瞬間、ブラックカメレオンの喜悦に満ちた表情が凍った。
見えていないはずの自分と、背後へと振り向いた紫龍の目が合っていたのだ。
「姿を消し、気配を消そうとも、お前は敵を仕留めるときは常に背後から仕掛けるのだろう? オレに対してそうした様に。那智に対してそうした様に」
――どうして?
「来る方向が分っていれば後はタイミングだ。小宇宙を広げ己の感覚を天然自然の一部と化す。此処に至ってようやく老師の仰られた境地の一端に爪先を踏み入れる事が出来た」
紫龍の身体に燐気が浮かび、淡い光が右拳に集まる。
「これぞドラゴン最大の拳」
振り上げられる紫龍の拳をブラックカメレオンはまるでスローモーションの様だと思い見ていた。見ている事しか出来なかった。
“廬山昇龍覇”!
空高く舞い上がる昇龍の勢いは天を貫く。
ブラックカメレオンは紫龍の拳を受けて天高く舞い上がり地上へと墜ちていった。
「……」
全身全霊を込めた昇龍覇によって著しく小宇宙を消耗した紫龍はその場に膝をつき、やがて力無く崩れ落ちる。
「見事だ」
意識を失うその間際、紫龍はそんな声を聞いた気がした。