営業周りの途中でのほんの僅かな休憩。目に付いたからと、軽い気持ちで入った喫茶店。注文を待つ間に慣れた仕草で煙草に火をつけ、男は何気なく外へと視線を向ける。
車道を走る人影を見た。
それだけならば、あり得ない話ではない。
しかし、行き交う車よりも速く走る人影を見た。こう言ってしまえば、それは途端に胡散臭い話として受け止められてしまうのだろう。
しかも、その人影が鎧の様な物を纏った少女だった、となればなおさらだ。
「疲れが溜まっているのかなぁ。……課長に言って明日は休みをもらおう。9月に入ったってーのに夏バテか?」
吸いかけの煙草の火を消し、眉間を押さえた男はコップに入った水を一気に飲む。
彼は翌日、半年ぶりに会社を休んだ。
ジャラリ、ジャラリと金属同士の摺れ合う音が継続的に鳴り響く。
聖衣を纏った瞬がコロッセオを離れて一人、握り締めた鎖に問いかける様な仕草を見せながら市街を駆ける。
「……こっちか?」
立ち止まり、周囲を見渡す。
直ぐ側をクラクションを鳴らして車が通り過ぎる。
ごめんなさい、と内心で謝りながら、瞬は手頃な高さのビルを見つけた。
周囲のビルよりも背が高く、視界を遮るものが無い。
「あそこからなら」
アスファルトを蹴り、街灯にを足場にして更に跳躍。
隣り合うビルの外壁を足掛かりとして一気に屋上にまで辿り着く。
「頼むよ」
そう言って瞬は自分を中心として二対の鎖による円陣を敷いた。
瞳を閉じ、全神経を鎖に集中する。
瞬の意思に応える様に、鎖が音を立てて動き出す。
コロッセオで鎖が探知した“何か”。それはほんの僅かな、瞬きすら敵わぬ一瞬、鎖に最大限の緊張を強いていた。
アンドロメダの鎖がその様な反応を取った事など瞬は知らない。だからこそ気になった。
そして、あの時、あの場でその異常に気が付けたのは瞬のみ。
隣で試合を観戦していた氷河にこの場を離れる事を伝え、瞬は鎖の反応に従って“何か”を調べる事を決意する。
その最中、海斗の立ち寄っていた喫茶店の惨状に遭遇し、店員の話を聞いてその場に未だ姿を見せていないエクレウスの聖闘士がいた事を知り、そこで“何か”があった事を確信したのだ。
「確かに、何者かの小宇宙の残滓の様な物は感じられる。でも……」
エクレウスと思われる聖闘士がコロッセオを飛び出してから、自分がその後を追うまでに時間が空いた事は事実。それでも行く先を見失う程か、と瞬は首を傾げる。
「それ程までに“速い”聖闘士なのか? だとしても……。ううん、違う。これは……途切れている? どういう事なんだろう」
鎖が行くべき道を指示す
目を開けた瞬が視線を向けた先には港が見える。
「……行ってみよう」
円陣を解除し、鎖を手元に引き寄せると、瞬は居並ぶビルを足場に港へと向かい駆け出した。
大地が振動し、大気が揺れる。
大気が振動し、大地が揺れる。
巻き上がる飛礫と砂塵が晴れたそこには、アイアコスが刻み込んだ十字の痕は見る影もなく。
「ぐっ、うぐ、あ……」
砕かれた大地には呻きを上げて横たわる海斗の姿。
流石と言うべきか。幾多の激闘を経てなお新生された聖衣には傷一つ無く。
それに守られた海斗の身体にも目立った外傷は見受けられない。
「ッ、ぐ……かぁ、あ……ガハッ! オェフッ……グ……」
とは言え、全身に加えられた衝撃は確実に海斗の内臓にダメージを与えていた。
咳の中には血が混ざり、立ち上がりはしたもののその足元はおぼつかない。
それでも。
「ほう、一撃では倒れんか。まあ、多少の歯応えはあってもらわねばつまらん」
アイアコスが口元を歪めて笑う。
海斗の眼が死んではいない。その闘志は、小宇宙には乱れこそあれ衰えがない事に。
「そうだったな。聖闘士は意識がある限り何度でも立ち上がる、そんな存在だった」
「……はーっ、はーっ、ハァーーッ……。ふぅ、まるで……まるで見てきた事があるように言うんだな」
「フン。どうやら減らず口を叩けるほどには回復したのか。しかし、解せんな。その回復力は異常だ。人間か貴様?」
アイアコスが海斗の姿を見ていぶかしむ。
冥衣が伝えるかつての聖戦の記憶。そこには、傷付き倒れながらも不屈の闘志を持って幾度となく立ち上がった聖闘士の姿があったが、今の海斗のような回復力を見せた相手はいない。
何かがおかしい、と感じてはいるが、それが何に対してなのかがアイアコスには分らない。
「まあ、構うまい」
アイアコスの身体から立ち昇る冥界の、闇の小宇宙が曲刀のような反りと鋭さを持ったガルーダの羽を伝わり周囲へと広がる。
「息の根を止めさえすればよいだけの事」
メフィストの仕掛けた結界の中、色褪せた世界を自身の闇色で染め上げるように。
「だったら、それが一番難しいって事を教えてやろうか」
一撃を受けて目が覚めた、とでも言うべきか。
海斗の身体から立ち昇る小宇宙からは揺らぎが薄れ、今の闘志を表すかのように鮮烈な輝きを放ち始める。
「フッ、教わる事など何もない」
「そうかよ!」
立ち昇る小宇宙が天馬の姿となり、海斗の意思に応じるようにアイアコスへと向かい駆け出した。
「“レイジングブースト”!!」
その場から跳躍し、天馬のオーラを纏ってアイアコスへと必殺の蹴りを放つ。
エンドセンテンスよりも効果範囲こそ狭いが、一撃の威力は上回る。
「ッ!?」
だが、それも当たらなければ意味はない。
「低いな。そして遅い」
アイアコスは海斗よりも高く跳躍し、そして海斗よりも速く落ちて来る。
「地に落ちて平伏せ。オレを見上げろ――」
上空から得物を狙う猛禽の如く。
鳥の王の意を持つ言葉をアイアコスが口にする。
「“ガルトマーン”!」
アイアコスが放った技は、奇しくも海斗のレイジングブーストと同種の蹴り。
かわし切れないと悟った海斗は咄嗟に全神経を防御に集中させる。
「ぐあああっ!」
再び大地へと叩き落とされる海斗。
覚悟があった分、さすがに先刻程のダメージは受けなかったがそれでも動きを鈍らせるには十分。
「クッ、奴は!?」
立ち上がり上空を見上げる。
「遅い、と言ったぞ」
声は正面から聞こえた。
視線を戻すよりも速くその場から飛び退こうとして――頭部と右肩を掴まれる。
「さて、今一度これを喰らって耐えられるか?」
「グッ!?」
ギシリと、掴まれた聖衣のマスクとショルダーから音が鳴る。
振りほどこうと力を込めた海斗であったが、まるで全身が何かに拘束されたかの様に動かす事ができない。
「さあ、仕舞いだ。落ちて死ね――“ガルーダフラップ”!」
第30話
ギャラクシアンウォーズ第2回戦第一試合。
ペガサス星矢対ドラゴン紫龍の戦いは、その場にいた誰もが予想だにしなかった展開を迎え、そして結着をしようとしていた。
観客達は声を押し殺し、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
それは、観客席上部に備えられた特等席に座る沙織や辰巳も同じ。
リング中央には夥しい血の跡と、破壊された聖衣の破片、そして脱ぎ捨てられたペガサスとドラゴンの聖衣。
戦っていた星矢と紫龍の姿はそこにはない。
「分っているんだろうな星矢。テメエが外したら終わりなんだ」
「……ハァ…ハァ……」
二人の姿はリングサイドにあった。
星矢に背を向ける形で邪武に支えられた紫龍と、額から血を流し、意識を朦朧とさせながらも構えを取ろうとする星矢の姿が。
「ああ、紫龍。お願いします……星矢さん……」
その傍には財団の医療チームと檄や那智達、五老峰から日本へとやって来た春麗の姿もあった。
「う……お……」
ぼやけた視界の中で、星矢はそれでも紫龍の背に浮かぶ、今や消えかけようとしている龍の姿を、その“龍の右拳”だけは見失わんと残った気力を振り絞る。
拳を握り、構える。
狙うはただ一点。
「待て星矢」
繰り出されようとした星矢の拳を氷河が止めた。
「慌てるな。この距離ではまだ近過ぎる。停止した紫龍の心臓を動かすどころか逆にぶち抜くぞ。もう三歩下が……おい、星矢?」
「……」
「む、出血多量のせいか。意識を失ったな」
「ああ、そんな……!? お願いします星矢さん! 老師が言っていました、聖闘士の拳によって停止した心の臓を動かす事が出来るのは、その場所に同じ力を与えられる聖闘士だけだ、と。
紫龍を助けて!! あなたしかいないんです!! あなたにしかできないんです!」
「きみ、無茶を言ってはいけない。彼はもう拳を振るえる様な状態じゃないんだ。一刻も早く治療をしなければ彼も危ないんだよ」
涙を流し懇願する春麗。今にも星矢の元へと駆け出そうとするその身体を医師が引き止める。
「星矢……」
「チッ、星矢め。しかりしやがれってんだよ! このバカヤローが……ッ!!」
悪態をつく事しかできない己の無力さに邪武が歯噛みをする。
抱きかかえた紫龍の身体からは心臓の鼓動が聞こえず、熱が急速に失われていく事を否が応にも感じ取ってしまう。
時間は無い。
紫龍の背に極限まで高められた小宇宙によって浮かび上がった龍の姿は、紫龍の命そのものでもあった。
その龍が急速にその姿を消そうとしていた。
星矢と紫龍の戦いは、これまでの試合のどれとも違う正しく死闘の様相を呈していた。
聖闘士として王道とも言うべき己の五体を用いた、とりわけ拳による攻撃を主体とする正統派の星矢にとって、聖衣の中でも最高位に位置するという硬度を持ったドラゴンの拳は、そのまま最強の矛と盾として星矢の前に圧倒的な壁となって立ち塞がった。
そして、身体能力だけではなく、技量においても星矢を上回る紫龍は当然の如く聖衣の能力に頼るだけの聖闘士でも無かった。
星矢は必殺拳である流星拳を見切られ、逆に紫龍の“廬山の大瀑布すら逆流させる”必殺拳“廬山昇龍覇”の前に初のダウンを受け、絶体絶命の窮地へと追いやられてしまう。
誰もが紫龍の勝利を確信し、星矢の敗北を決定的なものと考えていた。
「なぜだ星矢。左腕を破壊され、頼みの流星拳も見切られたお前に最早勝機はない。そうまでして立ち上がる意味がどこにあるというのだ。お前の事だ、あの黄金聖衣にそこまで執着しているわけではあるまいに」
「……見えたからさ、勝機が。お前の最強の盾と拳を一瞬の内に砕く術が。そして、オレには……こんな所で立ち止まってはいられない理由があるんだ!」
「ふむ。この紫龍にも理由はある。オレをここまで育ててくれた老師のご恩に報いるため、と言う理由がな。よかろう、ならば来い星矢! この紫龍、敵が手負いの身であろうとも全力で迎え撃つ」
「行くぞ紫龍!!」
「来い星矢!!」
星矢の捨て身の戦法によって宣言通り、紫龍の最強の拳と盾は砕かれた。
構えた紫龍の懐に飛び込み、盾と拳を聖衣に覆われていない内側からヘッドバットによって破壊する。そう見せかける事で、迎撃しようとした紫龍の盾と拳を互いに打ちあわさせる。
一歩間違えれば頭部を破壊されて死を迎える。それ程のリスクを背負って星矢の成した奇策は故事にある“矛盾”を体現させて見せたのだ。
見事紫龍の盾と拳を砕いた星矢であったが、その代償としてマスクを破壊され頭部に甚大なダメージを負う事となる。
「盾も拳も砕かけた今、聖衣などオレにとっては無用の長物。星矢よ、ならば最期は生身で葬ってやろう」
「いいだろう。だが、こちらもハンデを貰って勝ったとなっちゃあ、後々面白くないんでね。これならお互い対等の条件だぜ紫龍!!」
そうして、聖衣を脱ぎ捨てた生身での聖闘士同士の戦いが始まる。
同じ聖闘士である氷河達からすれば自殺行為にも等しい行為。いかに聖闘士が圧倒的な攻撃力を持っているとはいえ、その肉体は人間の物なのだから。
繰り広げられる極限状況下の戦い。
それは結果として両者の小宇宙をこれまで以上に高める事となり、これを切欠として星矢は更なる成長を遂げた。
「がはっ……。ま、まさか。また、オレの見切れない拳が!?」
一度は完全に流星拳を見切って見せた紫龍ですら捉えきれぬ拳を放ち、
「いいのか紫龍、二度も昇龍覇をうっても。お前の龍の右拳がガラ空きになるぜ」
「セ、星矢。お前は、昇龍覇を一度受けただけで……み、見抜いたのか!?」
紫龍最大の拳、廬山昇龍覇の僅かな隙を見抜いて見せる程に。
「“廬山昇龍覇”!!」
「見えた! 龍の右拳が!! “ペガサス流星拳”!!」
互いに繰り出される必殺の拳。
勝敗は、星矢の拳が龍の右拳、すなわち紫龍の心臓を捉えた事で決した。
紫龍の背に浮かび上がっていた龍の下半身が消え、頭部が消えた。残るは龍の右腕のみ。紫龍の心臓と同位置にある右拳が消えた時、紫龍の命の炎は完全に消え去る。
残された龍の右拳が消える。
「星矢!」
「だめだ、龍が消える!!」
「星矢ーッ!!」
誰もが駄目だと思った。
間に合わない、と。駄目だった、と。
“消えるな龍よ!!”
星矢が叫ぶ。
目を見開き、両足に力を込め、残された最後の力を振り絞り星矢が拳を放つ。
「うおっ!!」
その一撃は、紫龍の身体を支えていた邪武もろとも吹き飛ばし、闘技場の壁面へと叩き付ける。
コンクリート製の壁が音を立てて崩れ落ち、紫龍を庇う形となった邪武が盛大に咳込みながらもゆっくりと右腕を上げた。
「ヘッ、お前にしちゃあ上出来じゃねえか星矢。安心しろ、紫龍の心臓は動き出したぜ。うるさいぐらいにハッキリと鼓動が聞こえやがる」
親指を立てて告げた邪武の言葉に会場中が沸き上がった。
「あ、ああ……よかった……紫龍……」
しゃがみ込み安堵の涙を流す春麗。
その姿を視界に収め、星矢は意識を失った。
再び大地に刻まれる十字。
「三秒後、だ。再び貴様はこの十字に落ちて来る。この墓標に、な」
『3』
『2』
『1』
「――ゼロ、だ」
(しかし、この程度の相手と比較されていたとはな……)
確かに強くはあったのだろう。感じた小宇宙も決してこれまでの敵と比べて劣るものでもない。
それでも、結果は自分の圧勝、完勝と言ってもよいだろう。
「だが、弱い」
いや、と考え直す。
「オレが強かった。それだけの事か」
踵を返し、その場を立ち去ろうとしたアイアコスであったが、一歩踏み出したところで彼はその足を止める。
「……おかしい」
この場を中心として広がる色褪せた世界――メフィストによって仕掛けられた結界は依然として働いている。
そして、大地に刻みつけた十字の痕にも変化がない。
「逃れた? 消えたとでも言うのか? ……馬鹿なッ……」
それが示す事態はただ一つ。
「まさかっ!?」
戦いはまだ終わっていない――その事実を。
「おぉおおおっ!」
海斗の口から咆哮が上がる。
背部から展開されたエクレウスの翼が、放出された小宇宙が円環を引き千切り、その身を戒めから解き放つ。
空中で、落下の最中でありながらも、重力を無視して体勢を立て直した海斗が構えを取った。
「エクレウスッ!!」
アイアコスが空を見上げる。
そこには翼を広げて天を駆ける天馬の姿。
まるでこの空は自分のものだと、そう告げているように。
「アイアコスッ!」
拳を引いた海斗は、眼下に迫るアイアコスへと狙いを付ける。
「……如きが……ッ」
噛み締めた奥歯がギシリと音を鳴らす。
それは、屈辱であった。
全てを見下ろすべき存在なのだ、鳥の王であるガルーダとは。その自負が、自尊が汚された。
アイアコスの視界に広がる純白の光。
色彩を失った世界にあって眩く輝く天馬の翼によって。
「地ベタを這いずる……聖闘士如きがアッ!!」
湧き上がる憤怒と憎悪は果たして誰のものであったのか。
それはガルーダの冥衣を纏い、新たなるガルーダとなったアイアコスには分らない。
それでも構わないと思っていた。自分がガルーダなのだから、と
。
「“エンドセンテンス”!!」
青と白の混じり合った小宇宙の光弾がアイアコスへと降り注ぐ。
視界を埋め尽すほどの光弾。当たればただでは済まない、破壊の具現を前にして、アイアコスは――嗤った。
「エンドセンテンス――終焉の宣告とは、随分と大層な名を付けたものだが……」
そして、ギラリと、まるで獣のように瞳を光らせたアイアコスは迫り来る破壊の光弾へとその身を晒す。
「この程度の技で……。これしきの事で! 三巨頭たるこのアイアコスに終わりを告げる事など!!」
あるものは避け、あるものは逸らし。
流星の中をガルーダが飛翔する。
「こいつッ!? エンドセンテンスの中をッ!?」
避けきれぬものはその身に受けて――なお構わず。
光弾の直撃を受けて冥衣が軋みを上げる。亀裂が走り、破片が舞い散る。それは海斗へと近付けば近付くほどに激しさを増す。
「構わず突っ込んでくるだと!?」
それでもアイアコスは止まらない。
「正気かっ!?」
優勢であるはずの海斗の方がむしろ戸惑いを見せるほどに。
「なッ!?」
そして、遂には魔鳥が天馬を超えた。
純白の翼を漆黒の影が覆い尽くしたのだ。
「……オレが上、貴様が下、だ」
亀裂の入った冥衣を流れ落ちた血が赤く染める。
致命傷ではない。致命傷ではないが、その身に負ったダメージは明らかに重い。
それでもなおアイアコスの闘志は衰えることなく、より一層燃え上がっていた。
「……狂気の沙汰、だな」
この時、海斗がアイアコスに抱いた感情は、ガルーダの冥闘士がかつて相対した聖闘士達に抱いたものと同種であった。
満身創痍のアイアコスから立ち昇る闇色の小宇宙が空を覆う。
「徹底的にやるしかない、って事か」
着地した海斗はそう呟くと、空に浮かぶアイアコスを見上げた。
その視線を追う様に、大地に広がる白と青の混じり合った小宇宙が空へと昇る。
たちまちの内にお互いの視線が、小宇宙がぶつかり合った。
光と闇、反発し合う両者の力がメフィストの施した結界を内側から浸食し、破壊せんと荒れ狂う。
空間に亀裂が走り異音が鳴り響く。それは結界が効力を失いかけている事を如実に示していた。
「先の技、エンドセンテンスと言ったか。いいだろう、ならばこのオレが貴様に真のエンドセンテンスと言うものを見せてやる」
「何だと?」
アイアコスが掲げ、大きく広げた両手の先から黒い光が滲み出た。
ソレは揺らぎを纏いながら真紅の炎と化し、一瞬黒色に染まったかと思えば瞬く間に金色の光を放つ炎となって具現する。
「この炎は浄も不浄も焼き尽くす迦楼羅の炎。この炎が貴様の最期を照らすのだ!」
両手の先から立ち昇った炎が渦を描いて集束を始める。
やがて炎は球状の塊となり、時折り噴き上がる炎はさながら太陽のプロミネンスを彷彿とさせた。
「焼き尽くせ“スレーンドラジット”!!」
小さな太陽とも呼べるような、その炎の塊をアイアコスが全力を込めて撃ち放つ。
「黙って――喰らってやると思うなッ!!」
海斗もそれをただ見ていたわけではない。
いつしか流水と化した青の小宇宙が周囲の海水をも巻き込んで巨大なうねりを作り出していた。
「だったら、こいつを、その炎で焼き尽くせるか! “ハイドロプレッシャー”!!」
うねりが巨大な水の柱となって起立する。
螺旋を描いて天へと突き進む水の柱は、その過程で集束を繰り返し、その先端は全てを貫く水の槍へと姿を変える。
それは異様な光景であった。
空から大地へと落ちる太陽と、天へと昇る水の柱。
落ちるはずのない物が落ち、昇るはずのない物が天へと昇る。
常軌を逸した光景。しかし、それも僅か数瞬の内に終わりを告げた。
「うおおおおおおおおっ!!」
太陽が槍を焼き尽くし、
「ぬぅああああああああああっ!!」
槍が太陽を撃ち貫いたのだ。
(これはっ!?)
(互角か!?)
両者は即座に状況を理解し、次の一手のための行動に移る。
とは言え、必殺の意思を込めた全力の一撃の直後である。その反動で、意思に反して即座に肉体は動かない。
(……だったら)
当たれば倒せる。その様な技をお互いが持っている事が分った以上、先に動いた方が、当てた方が勝つ。
両者の思考が一致する。
(ならばっ!)
もどかしいと、そう感じられるほどに長い。実際には瞬き一つ出来るか出来ないか、その程度の時間でしかない。
それでも、両者にとっては永遠とも思える刹那の中、先に動いたのは――
「チッ!」
「またかッ!!」
神秘の輝きを放つオリハルコンと漆黒の光を放つ冥界の鉱石。打ち合わされた互いの拳が歪んだ戦場に澄んだ音を響かせる。
反応速度も――互角。
「馬鹿な!? なぜ貴様が、オレと同じ速度で動ける!」
「うぉおおおおっ!」
海斗の蹴りをアイアコスが避ける。
アイアコスの拳が海斗を掠める。
海斗の拳をアイアコスが防ぎ、アイアコスの蹴りを海斗が払う。
アイアコスの拳を海斗が払い、海斗の蹴りをアイアコスが防ぐ。
海斗の拳がアイアコスを掠め、アイアコスの蹴りを海斗が避ける。
(……ッ!? やはり速くなっている。コイツ、このオレの……ガルーダの速度を――超える気か!!)
繰り返される攻防。均衡を保っていた天秤が徐々に海斗へと傾き始める。
拳を交わす毎に着実に自分の動きを捉えて行く海斗に、笑みすら浮かべて迫り来るその姿に、アイアコスは戦慄を覚え始めていた。
(これが、愛と平和を語るアテナの聖闘士だと!? これではまるで――)
僅かな逡巡。それは確かな隙となり、海斗にとっては絶好の好機となる。
「ハッ、戦闘中に考え事か!」
その隙逃さん、と。動きを鈍らせたアイアコスへと海斗が拳を突き出す。
「これで仕留めるッ!!」
「クッ、クハハハハハッ! そうか、そうだったな。貴様もまたガルーダが選ぼうとした男だったな」
頭部を狙った海斗の一撃をアイアコスが“前に出る”事で回避する。
「貴様も本質は同じなのだ!! 楽しいのだろう戦う事が! その力を思うがままに振るう事が!!」
掠めた拳がガルーダのマスク(兜)を弾き飛ばしたが、構わんとばかりに突き進む。
「気付いているか? 己の表情に! 笑っているぞ、貴様もな。さっき貴様はオレに向かって狂気の沙汰と言ったが……オレからすれば貴様も十分狂気に満ちている」
「な……ッ!?」
アイアコスのその言葉に、迎撃を繰り出そうとした海斗の動きが止まった。
何を言われたのか分らない、という様な呆然とした表情を浮かべて。
お互いの身体がぶつかり合う程の至近距離。
突き出された海斗の腕を左手で掌握したアイアコスは動きを止めた海斗に向かって淡々と告げた。
「最初で最後の機会をくれてやる。その力、存分に揮いたくば……ハーデス様の元へ降れ。アテナの元では貴様の狂気、決して満たされんぞ」
アイアコスの右手に迦楼羅の炎が燃え上がる。
その行為は“否と答えれば殺す”という言外の意思を明確に物語っていた。
金色の炎が色褪せた世界に立つ白と黒を照らし出し、じわりとその影を揺らす。
時間にして僅か数秒程度。
俯いていた海斗がその顔を上げると、ハッキリと言った。
「断る」
「ならば死ね――“スレーンドラジット”」
解き放たれる炎。
超至近距離からの一撃。己の身すら巻き込んで燃え上がる金色の炎から逃れる術は無い。
「終わりだエクレウス」
視界を埋め尽くす金色の炎の中、自身の勝利を宣言するアイアコス。
その表情が驚愕に染まった。
直後の事であった。
金色の迦楼羅炎が内側から引き裂かれる様に弾け飛び、立ち昇る螺旋の渦が瞬く間にアイアコスの全身を呑み込んだのだ。
“ホーリーピラー”
海斗の身体から立ち昇る小宇宙のオーラが天馬から猛り狂う龍へと姿を変える。
(そうだ、奴の守護星座はエクレウスのはず。ならば、あのヴィジョンは――)
そこまでであった。
音を立てて砕け散るメフィストの結界。
彼の者の意識は結論に到達する間もなく、螺旋の渦に呑み込まれて――消えた。