宮を支える円柱の配列に沿って並べられた燭台。
そこに灯された明りがカーテンによって陽の光を遮られた教皇の間を淡く照らす。
中央に敷かれた絨毯は、数段の段差を経てその先にある教皇の椅子の元まで真っ直ぐに伸びている。
周囲に他者の気配はなく、ただ静かに椅子に座る教皇の存在だけがそこにあった。
不意に、燭台に灯された炎がゆらりと揺れた。
「……戻ったか」
教皇――サガの言葉が静かに響く。反応はない。
「フッ、それで良い。そのままで良い」
そう言って椅子から立ち上がったサガは、ゆっくりとした動作で教皇のマスクに手をかける。
まるで、そこにいるであろう何者かに見せ付けるかのように、自らその素顔を晒した。
「最早一刻の猶予も無い。おそらく、これがお前に伝えられる最後の言葉となるだろう」
ゆらりと、炎が揺れる。
「地上を、アテナを――」
1986年×月×日
×××――×××
年若い神父であった。
ブロンドの髪と瞳の、物腰は丁寧で穏やかな性質の青年であった。
彼は人の話をよく聞きそれに応えていた。
望まれれば、彼は、いつも、そこに、いた。
人々は彼を好いていたし、彼もまたそうであったのだろう。
「……それが、あなたが最期に望む光景ですか」
寂れた山村であった。
時代に取り残された、その表現が最もしっくりくる。そんな村であった。
若者たちは皆村を捨て町に出た。村に残されたのは、残ったのは老人たちだけであった。
「ならば祈り、願いなさい……その夢を。その祈りを聞きましょう、その願いをかなえましょう」
このまま時の流れに従い静かに朽ちて行く。誰もがそう思い、静かな、穏やかな終わりの時を待っていた。
「眠りなさい、心安らかに。眠りは何も傷つけない。何も壊しは――しないのだから」
ベッドに横たわる老人へ、神父は瞳を閉じて手をかざす。
神父の額にぼうっと、六芒星の紋様が浮かび上がる。
そして、この日もまた一人、穏やかに、眠るように、静かにその生を終えた。
彼がいつからこの村にいるのか。
それを知る者はいない。
彼は神父であった。しかし、誰も彼の名を知らない。
彼は神父であった。しかし、この村に教会は無い。
その事に疑問を持つ者は――いない。
この男を除いて。
「んははっ。いったいどこで暇を潰しているのかと思ったら。こりゃまた随分と“らしい”事をしていらっしゃるようで」
枯葉色の混じり始めた木々の中、何が楽しいのか男は喉を鳴らして笑っていた。
黒いシルクハットとスーツに身を包んだ男である。
その手には、はち切れんばかりに張った紙袋を持っており、そこから一つ、まだ青みの勝った林檎を取り出す。
紙袋を抱えたまま器用に袖口でそれを拭うと口に含み――
「――ッ、ペペッ。酢っぺーな、オイ。まだちょいと早かったか」
咀嚼した林檎を吐き出すと、もう一度手にした林檎を口に含む。青味の勝っていない、噛み後の残った“真っ赤に熟れた”林檎を。
「さ~てと、そろそろ役者も揃い始めそうだしな。時期としては頃合いかねぇ」
食べ終え残った芯を捨て、指先に付いた果汁を舐ながら、そう呟く男の眼には暗い光が宿っていた。
「傷つけてくれなきゃあ困る。壊してくれなきゃあ困る。さあ、憎き同胞よ。眠りを司るお前さんなら出来るだろう? 起こしてやって頂戴よ」
そう言って、男は紙袋から新たな林檎を取り出す。
「新たなる文字無きシナリオの、第二幕の開演と行こうじゃねえか」
黄金の輝きを放つ禍々しき林檎を。
「コイツが開幕のベルの代りだ。せいぜい派手に――踊ってくれや」
第26話
1986年8月31日――ギリシア。
サンクチュアリ――闘技場。
ペガサスの青銅聖闘士を決めるべく行われた候補生同士の戦い。
この日、最後の勝者を決めるべく行われた星矢とカシオスの決戦はその場に居合わせた誰もが予想だにしなかった展開を迎えていた。
「ぬぅおおおっ!」
気迫の声とともに放たれるカシオスの拳が空を引き裂き。
「おおおおおおおっ!!」
繰り出された星矢の蹴りが大地を割る。
互いに決定的な一撃を与えられぬまま繰り広げられる拳と拳、蹴りと蹴りの交差。
「……す、すごいな」
「ああ。二人とも拳にも蹴りにも見事なほどに気と力が集中している」
「カシオスもセイヤも正しく聖闘士の闘法を会得しているという事か!!」
観戦していた兵たちの、候補生たちの口から洩れる感嘆の声。
カシオス有利と。
日本人であるが故に付き纏っていた星矢への蔑視も、その成長を、資質を疑問視していた声も完全になりを潜めていた。
「ぐむぅぅうう。まさか、星矢がこれ程の成長を果たしていたとは。あの時の一撃は……偶然ではなかったと言うのか?」
胸元を押さえて呟かれたドクラテスの言葉も、試合に集中していた周囲の者たちの耳には届いてはいなかった。
聖闘士の闘法、その神髄とは、突き詰めれば“いかに小宇宙を高めるか”にある。
そこに至れば肉体的なパワーなど意味を成さない。
とはいえ、あくまでもそれは真髄を極めた者、黄金聖闘士級の者たちにとっての事であり、現時点での星矢とカシオスにでは戦闘のスタイルとしてその差が大きく表れていた。
身長二百センチを超える巨漢であるカシオスは耐久力と一撃の重さで星矢に勝り、同年代の少年よりも若干小柄な星矢はそのスピードでカシオスに勝っていた。
「どうやら昨夜の影響は無いようだな星矢!」
カシオスが吼え、
「言っただろ? 他人の心配よりも自分の心配をしろってな! これまでの六年間の借りをここで返すぜカシオス!!」
星矢が叫ぶ。
「そうだ、全力で来い星矢! お前を倒し、オレはオレの強さを証明する! そして! オレはあの人の――」
――シャイナさんの隣に立つ権利を手に入れる!!
「オレは勝つ! 勝って聖衣を手に入れる!!」
――そして日本へ戻り姉さんに会うんだ!!
強いて理由を挙げるならば“何となく”であった。ぶっちゃけるならば“暇だったから”でもよいかもしれない。海斗が闘技場に向かった理由である。
知人同士の試合であるから興味がない訳でもなかったが、何か些細な用事でもあればそちらを優先していた事だろう。
勝敗はともかく、海斗にはペガサスの聖衣が誰を選ぶのかはもう分っていたからだ。
「あの時、星矢の小宇宙にペガサスを見た。おそらくは対峙していたドクラテスも見たはずだ。聖衣は星矢を選ぶ」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。そうやって、悟ったような事を言うから嫌いなんだよアンタの事が」
「……しつこく聞くから答えたんだろうが。だから言いたくなかったってのに」
「ハン、言い訳とは男らしくないね海斗」
「……この女は……。ああ言えばこう言う……」
がりがりと頭を掻く海斗の姿にシャイナは内心でほくそ笑んでいた。
青銅でありながらその力は白銀である自分のそれを大きく超える男。
その力を侮っていたわけではなかったが、それでも自分よりも強かったという事実を認めるには抵抗があった。
一度感情を爆発させて憤りをそのままぶつけた事もある。
シャイナにとって海斗はそんな相手であったのだが、この二年間で最も良好な関係を築いている相手でもあった。
サンクチュアリでこうして軽口を叩ける相手はそうはいない。
「それで、こんなところで何をしているんだ? 応援するならもっと前に出ればいいだろうに。お、ニコル発見。サボりか?」
そう言って海斗は場内で戦っている星矢たちへと目を向けた。
海斗とシャイナ、二人が今いる場所は闘技場の外周近くであり周囲に他の観戦者はいない
「どの面下げてさ。アイツは自らわたしの元を去りドクラテスの元へ行った。そしてわたしの所にいた時よりも明らかに強くなった。これがどういう事か……」
分るだろう、とはシャイナは言わない。海斗には言わずとも分る、という確信があった。
師としての役割を失ったシャイナが得た空白の時間。それを埋めた幾つものピース、その内の一つであったのだから。
「だからさ、ここからで……って、海斗?」
気付けば隣にいたはずの海斗の姿が消えている。
僅か十数秒足らずの間に。
「あ~、まあ、いいか。わたしらしくない事を言っていたしね」
そう呟いてシャイナもまた戦いを繰り広げている二人へと視線を向けた。
どうやら徐々に均衡が破れつつあるらしい。
勢いを増しているのは――星矢。
「……頑張りなカシオス」
呟かれたその言葉がカシオスに届いたのかどうかは分らない。
シャイナは踵を返すとゆっくりとした足取りで闘技場から離れて行った。
その途中、アイオリアに首根っこを掴まれた海斗の姿を見たような気がしたが……忘れる事にした。
「見事だな魔鈴」
腕を組み、ただじっと試合を観戦していた魔鈴は聞こえた声にその意識を向けた。
「……アイオリアかい」
「今まで感じる事が出来なかった小宇宙を星矢の周りから強く感じる」
そう言って魔鈴の隣にアイオリアが並ぶ。
丈夫さ鑿を追求した訓練用の武骨で質素な衣服、雑兵たちが身に纏う物よりもさらに簡素な革製のプロテクターを付けたその姿を見て、彼こそが最強の黄金聖闘士の一人である、などとはその事を知らなければ思い付きもしないだろう。
ミロからは黄金聖闘士としての威厳も自覚も無いのかと事ある毎に責められていたが、アイオリアとしては堅苦しい正装よりも明らかに好ましい服装であったので変えるつもりはなかった。
長年続けて今更、との思いも無かった訳でもない。
「成程な、これならば“昨夜感じた”小宇宙も頷ける」
アイオリアが告げたその言葉に魔鈴が視線を向けた。
「……嫌味か?」
「嫌味、だ。これぐらいは言わせてもらうぞ」
そこには、口元に笑みを浮かべたアイオリアとばつの悪そうな海斗の姿があった。
「お前が受けた任務の事は知っている。確かに思うところがない訳ではないが、お前が適任だという事も理解しているつもりだ。
全く、そういう気の遣い方だけはそっくりだな、お前達師弟は」
「……いや、まあ、あ~~」
二人の交わす言葉は断片的すぎて何の事を言っているのか魔鈴には分らなかったが、
「……申し訳ない」
「フッ」
海斗の謝罪をアイオリアが笑って流した様子から、大した事でもあるまいと、会話を続ける二人を余所に意識と視線を試合へと戻した。
このままでは埒が明かないと考えたのか、互いに決定打を与えられない状況を打破するためか、やがて申し合わせたかのように星矢とカシオスは距離を取った。
「二人とも、次で決める気だな」
海斗の呟きにアイオリアが頷く。
星矢たちは身構えたまま動かない。しかし、明らかに両者の小宇宙は高まり始めていた。
「ああ。しかし、少し拙いかも知れん」
海斗の呟きに答えたアイオリアはその視線を魔鈴に向け、そして教皇へと向けた。
海斗が聖衣を得た時と同じく、この戦いもまた教皇の元で行われている。その全てを見届けるべく教皇自身がこの場に足を運んでいた。
「あの二人の力は想像以上だった。本来ならば喜ぶべき事だ。青銅聖闘士としての力量は十分にある。それこそどちらも認めても良い程に」
観戦している教皇に動きはない。仮面に隠された表情を、感情を読み取る事はできない。
「そんな二人が必殺の意思を込めた攻撃を繰り出そうとしている。聖闘士の攻撃力を聖衣のない生身に向けてだ。これまでの牽制の一撃とは違う。下手をすれば死人が出る。最悪――」
「――二人とも、か。どうする、ここで止めるのかアイオリア?」
やるのか、と。言葉の内にそう含ませる海斗にアイオリアは小さく頭を振った。
「いや、教皇程のお方が気付いていないとは思えん。言い出しておいてとは思うが、このまま静観すべきなのだろうな」
そう言って視線を試合へと向けたアイオリアに替わるように、海斗がその視線を教皇へと向ける。
ほんの一瞬ではあったが、教皇の視線が自分に向いた事を海斗は感じ取っていた。
「……いや、最悪の事態は想定すべきかもな。教皇が何を考えているかなど誰にも分りはしない」
ギリッ、と噛み締めた歯の音がアイオリアの耳に届く。
どこか怒りすら感じさせる海斗の、その初めて見せた表情にアイオリアは息を呑んだ。
だが、それも僅かの事。
瞬きにも満たぬ間に、海斗はアイオリアの知る海斗へと変わっていた。
視線を試合へと戻し、
「ん、動くぞ。二人とも覚悟を決めたな」
そう続けた。
「あれは……! 星矢の拳が描くあの軌跡は!?」
「そう、ペガサスの十三の星の軌跡さアイオリア。星矢の守護星座はペガサス。六年掛かってようやく目覚めたね。
さあ、わたしに見せておくれよ星矢。あんたに付き合ったこの六年間が無駄じゃなかった事の、その証明を」
魔鈴の言葉に海斗も、アイオリアも黙って試合へと意識を集中する。
そして、闘技場から音が消えた。
皆固唾をのんで見守っていた。気付いたのだ。決着の時だと。
「来い星矢ァ!!」
己の拳に全てを込めて、カシオスが星矢に向けて駆ける。
「行くぞカシオス!! これが――俺の!!」
そして、星矢の拳の軌跡がペガサスを描き切ったその瞬間、カシオスは見た。
青白きオーラとなって星矢の背後から立ち昇るペガサスのビジョンを。
ペガサスは天空へと駆け上がり――カシオスへと向かい駆け抜けた。
「ペガサス――流星拳!!」
「星矢ァああああああ!!」
それはまさしく流星であった。
一秒間に八十五発。
さしものカシオスもその全てを受けて耐えられるはずも無く。
「勝者――セイヤ! 女神はセイヤを新たなる聖闘士と認めた! アテナに代りこの教皇が聖闘士の証である聖衣を与える!!
今日この場よりセイヤよ、お前はペガサスの聖闘士。ペガサスセイヤとなったのだ!」
この教皇の宣言によって戦いは終わった。
二百四十三年の時を経て、新たなるペガサスの聖闘士が誕生した。
そして、それは新たなる戦いが幕を開けた瞬間でもあった。