万全の状態の聖衣、それも最高位の聖衣である黄金聖衣を身に纏った海斗。
風と炎が吹き荒れる赤に染まった空間に、眩いばかりの黄金の輝きが一際異彩を放つ。
むしろ、周囲の炎がその勢いを増す程に、黄金の輝きもまたその勢いを増していた。
黄金聖衣。その聖衣が放つ黄金の輝きは決して用いられた材質だけが理由ではない。
“光を吸収し構造内に封じ込めエネルギーに変換する”という他の聖衣にはない特性故に、である。
そして、黄道十二星座を司るという事は、神話の時代より常に太陽の影響下にあったという事であり、その内には膨大なまでの光が蓄積され続けている。
つまり、黄金聖衣とは太陽の鎧であり、光の鎧であるとも言えよう。
無論、それ程の光の力を制御するには相応の高い小宇宙が必要とされ、それを実行できるだけの力を持った者が黄金聖衣を身に纏うのだ。
それが、一体どれ程の相乗効果を生むのか。
ムウの手によって新生されたエクレウスの聖衣。あの時、それを身に纏った海斗は聖衣に満ちた、迸る“生命の躍動感”に感動していた。これ程とは、と。
そして、今。
最高にして至高の聖衣である黄金聖衣。それを身に纏った海斗は、その身を包む“躍動感”を超えた“飛翔感”を感じるままに、ニヤリと口元を歪めていた。
(……これは拙いな。これは拙い)
セラフィナによって僅かながらも傷を癒されていたとはいえ、満身創痍の身である事に変わりはない。
敵は神族。それもオリンポスの神々と戦った古の巨人族の力を取り戻している。
同胞たちを贄としてかつての力を、不死を取り戻し、その身に最高位の金剛衣を纏ったポルピュリオン。
格で言うならば人と神、比べるまでもなく。
力にしてもそうだ。相手は神でありながらTyphonとガイアという二神の加護を受けており、対する自分は聖闘士一人、いや二人分か。その程度でしかない。
油断も慢心もできる相手ではない。
それが分っていてもなお、海斗は口元に浮かぶ笑みを抑える事ができなかった。聖衣から与えられる力と、己の内から湧き上がる高揚感に呑まれそうになっていた。
(落ち着けよ、抑えろ。しかし、本当に拙いな。これ程のものか、黄金聖衣。まるで……負ける気がしない)
ポルピュリオンが腕を振るう。
吹き荒ぶ大風を纏った右腕を。
「“ストームスラッシャー”!!」
――大地母神ガイアと苦界タルタロスの息子であるギガスの神Typhon
――背に生やした巨大な翼は羽ばたき一つで吹き荒ぶ嵐を巻き起こす
ただそれだけの動きで大地はめくれ上がり、噴き上げる熔岩や熱波を巻き込ながら、無数の風の刃が縦横無尽に海斗へと襲い掛かる。
目前の光景に、ジェミニのマスクに隠れて分り辛かったが、海斗が僅かに眉を顰めた事がポルピュリオンには分った。
さあどうする、と。期待を込めた眼差しで海斗を見る。この程度で終わってくれるな、と。
果たして海斗はおもむろに振り上げた右腕を、気合いの声とともに振り下ろした。
「フッ!!」
一閃。
振り下ろされた光の軌跡に沿って、向かっていた風の刃がことごとく断ち砕かれていく。
しかし、刃を砕かれた風は、ならばと衝撃の飛礫と化して次々と海斗の身体を打ち据える。
その中で、一際高い音が響き渡ると、衝撃によるものか他の要因か、仰け反った海斗の頭部からジェミニのマスクが弾き飛ばされていた。
「……チッ、やっぱり見よう見まねじゃ無理か。分っちゃいたが」
ふらついたのは一瞬。額から血を流しながらもそう呟く海斗の目には確かな力がある。
「線や点では無理だ、ってんならな!!」
砕けた刃か無数の飛礫になるのならその全てを打ち砕く。
暴論であったが間違ってもいない。それができるのであれば。今の海斗にはそれができるだけの力がある。
「おおおおおッ!! “エンドセンテンス”!!」
風を突き抜けた光弾が、光線が、ポルピュリオンの金剛衣に傷を与え、鋼の肉体に確かなダメージを与える。
「ぐっ、むうぅっ! まさか、この最強の金剛衣に傷を付けるとは!! だが、言ったはずだぞ……我は力を取り戻したと!! ガイアの加護をッ!!」
海斗の攻撃で巨躯を揺らしながらも、気迫に満ちた叫びを上げて仁王立ちするポルピュリオン。
金剛衣こそ傷が残っていたが、肉体は瞬く間に再生を果たす。
ポルピュリオンが腕を振るう。
灼熱の業火を纏った左腕を。
「ならばこれを受けてみよ! 大地の怒りを!! “フレグラスボルゲイン”!!」
――其は百の蛇の頭を持ち、その眼窩からは炎を放つ
大地が煮沸し、炎の海から荒れ狂う炎蛇がその巨大な顎を開き海斗へと襲い掛かる。
その密度、その大きさ、その異様。デルピュネの生みだした炎蛇とは比べようもない。
「“ハイドロプレッシャー”!!」
両手を突き出した海斗から放たれた水流。巨大な槍とでも形容できそうなそれが、海斗を呑みこまんと大きく口を開いた炎蛇の口腔に突き刺さる。そして、瞬く間にその頭部を四散させた。
「何? っく、そういう事か!」
あまりの手応えのなさにどういう事かといぶかしんだが、その答えは直ぐ目の前にあった。
頭部を破壊され四散した――ではなかった。
「自ら分れた、か。まるでヤマタノオロチだな」
一つの胴体に複数の頭部。
四散したはずの炎はそれぞれが頭となり、顎を開いて迫る。
さながら迫り来る炎の壁であった。
(迷っている暇はない)
多少のダメージは覚悟の上と、炎の壁を前に海斗は決断する。
「“レイジングブースト”!」
水流を身に纏い、炎の壁を蹴り穿ち飛翔する。
眼下では炎がまるで津波のように押し寄せて、先程まで自分のいた場所を炎の海へと変えていた。
「……おいおい」
最早足場と呼べそうな場所はほとんど無くなっている。
第六感、いわゆる超能力である、を超えた第七感“セブンセンシズ”に目覚めた黄金聖闘士にとってそれは些細な事であったが、今の海斗にとってはそうではない。
聖闘士は一般人の常識を超えた存在ではあるが、その聖闘士にも常識は存在する。
少なくとも「足場のない炎の海で戦う」事は海斗の常識にはない。
どうするかと僅かに逡巡する。
それが隙となる。
「呆けている場合か?」
ぞくり、と。
背後から感じるプレッシャーに、しかし空中にいる海斗に取れる手は多くない。
振り返るよりも速く、ポルピュリオンの手が海斗の頭を鷲掴みにしていた。
――其の咆哮は大地を揺るがし、何本もある手足は容易く大地を打ち砕く
身動きが取れない事で、海斗は風が全身を拘束している事に気付く。
「よくぞTyphonの力に抗った。最後は我の力で仕留めてやる」
獰猛な笑みを浮かべたポルピュリオンの手に力が込められる。
グンッ、と全身に重圧が掛かるのを感じる。
風の拘束を打ち破り、海斗がその手を掴んだ時にはもう遅い。
「“ギガントクラッシャー”!!」
空気を貫き、風を貫き、炎の海を貫き、大地を貫き。
地上に落ちる隕石のように。
二つの小宇宙が大地の底へと突き進み。
やがて、大きく弾け。
忽然と――消えた。
第22話
聖域。アテナ神殿へと繋がる十二宮、その第三の宮である双児宮に教皇――サガの姿があった。
純白の法衣に身を包み、首には――装飾過多であるとしてサガはあまり好んではいない――ロザリオをかけている。
教皇に代々受け継がれている翼竜を模した兜を被り、その素顔を隠す無表情なマスクによって教皇の正体を知る者は少ない。素顔を知ってはいても、それがサガである事を知る者はさらに極僅かである。
聖域を統べる教皇たる者が、こうして素顔を隠すという事は一見おかしな話のようだが「己という個を捨てて地上の平和のために、アテナに尽くす」という題目によって千年ほど前からの慣例となっていた。その事は、故あって正体を隠さねばならないサガにとっては好都合であったのだが。
「……いや。むしろ、だからこそ今の現状がある、とも言えるか」
素顔の分らない存在。だからこそ入れ替わる、という事ができた。
そうでなければ今のような事にはなっていない。
そう一人ごちながら、サガはかつて己が暮らした双児宮の奥へと足を踏み入れた。
海斗がデルピュネと共に聖域から姿を消して暫く。
襲撃してきたギガス達の全てを打ち倒した事で、少なくとも目先の脅威は払拭されたと皆が警戒を僅かに緩めた時にそれは起こった。
雷鳴の如き轟音が鳴り響き、双児宮から眩いばかりの輝きが、光の柱が立ち昇る。
教皇の間の前からその光景を見下していたカミュやサガ、シャカが一体何事かと反応する間もなく、そこから流星とも見紛う光が飛び立っていったのだ。
その正体がジェミニの黄金聖衣であると真っ先に気付いたのは当然の事であるがサガである。
とはいえ、それが千年前のジェミニの黄金聖闘士カストルの遺志であるなど、その光景を目にして理解できるものはいない。分るはずがない。
十二宮を守護する黄金聖闘士とはいえ、他の宮の内情を把握している訳ではない。例外があるとすれば、それは教皇かアテナか、である。
故に、サガ自身が確認のために双児宮へと向かった。
私が、と進言するカミュにあの場を任せ、教皇自身が向かう程の事でもない、と諌めるシャカには海斗の捜索を命じた。
居住区の先にある小さな一室。
鍵を開け、十年ぶりに踏み込んだその室内はサガが予想していたよりも荒れてはいなかった。
天井に空いた穴から陽の光が差し込まれ、降り注ぐ光の元には石造りの台座があり、その上には開かれたパンドラボックスがある。
薄暗い室内にあって、陽の光に照らされて黄金の輝きを放つパンドラボックスからはある種の神々しささえ感じられる。
「カノンでは……ないな。もっとも、あれが今更聖衣を求めるとは思えんが」
サガに弟がいた。その事実は聖域では知られていない。
幼き頃から心優しき誠実な男、神のような清き男として育ち、称えられていたサガとは異なり、サガに匹敵する力を持ちながら己を悪だと言い切り悪事にも手を染めていたカノン。
その力も容姿も瓜二つの双子でありながら、その本質は相反していた。
それでも、と。サガはいつかカノンが正義に目覚める事を期待していた。血を分けた兄弟を信じていた、とも言える。
しかし、それが誤りであったとサガが痛感した出来事が起こる。
それは、今から十一年前の事であった。
聖域に赤子としてアテナが降臨してから、当時の教皇から次期教皇にサガではなくアイオロスが指名されてから僅か数日後の事であった。
『馬鹿な! カノン! お前は一体自分が何を言っているのかを分っているのか!? アテナを、聖域に降臨された幼きアテナを――殺せだと!?』
『力のある者が欲しい物を手に入れようとする、それだけの事だ。幸いにしてオレ達が双子である事を知る者はいない。オレが手伝ってもいい。そうすればこの地上はオレ達兄弟の物になるんだ。
そうさ、アイオロスを次期教皇に選んだマヌケな教皇共々――アテナなぞ殺してしまえばいい』
自分の心を偽る必要はない。兄さんの本質もオレと同じ悪なのだから。
そう言ったカノンの視線を、表情をサガは忘れる事ができない。
サガとカノンは瓜二つ。従って、悪に堕ちたカノンの顔は悪に堕ちたサガが見せるであろう顔なのだ。
自身の内面すら見透かそうとするカノンの視線が、悪こそが本質だと言い切る、その事がおぞましく、サガには許せなかった。
『出せ!! サガ! オレをここから出してくれーーッ!! 弟のオレを殺す気かーーッ!!』
『お前の心から悪魔が消えてなくなるまで入っているのだ。アテナの許しが得られるまでな』
『サガ! お前のような男こそ偽善者というのだぞ! 力のある者が欲しい物を手に入れようとして何が悪い! 神の与えてくれた力を自分のために使って何故いけないというのだ!』
だからこそ、神の力を持ってしか出る事のかなわないとされるスニオン岬の岩牢にカノンを幽閉した。
『オレには分るぞサガよ! お前の正体こそ悪なのだーーッ!!』
その後、どうやってかは分らないがカノンは人の力では脱出不可能とされた岩牢から姿を消し、海闘士として再びその姿を現した。
何を目論んでいるのか。おおよその予想は付く。地上支配、おそらくはこれだろう。
アテナを害しようとしたカノンだ。おそらく海皇ポセイドンに対しても何らかの企みを持っているはず。
ふうっ、と溜息をつきサガは頭を振った。
今はカノンの事を考えている時ではない。
「五老峰の老師か? それともムウか?」
聖域から黄金聖衣を持ち出す事のできる、そうしてもおかしくない人物を思い浮かべる。
「いや、それはない。あの二人がそのような軽率な行動を取るはずがない。ならば……まさか、いや、あり得なくはない。聖衣には意思がある。
聖衣が自らの意思で動いたとするならば、あのタイミングで向かったとするならばおそらくは――戦いの場だ。ふっ、くくく。はははははははっ!!」
その可能性に至り、サガは笑った。
「そうか、海斗の元へ向かったか!」
この度のギガスの襲撃もそうならば、ジェミニの聖衣が本来の所有者たる自分の元を離れた事も想定外。
カノンが海闘士として現れた事もそうならば、海斗という力のある聖闘士が現れた事も想定外。
「はははははははははっ!!」
笑い、嗤い、哂う。
最高だ、と。“自分達”の想定を超えた出来事がこうも立て続けに起こるとは、と。
今の自分が“サガ”の主導権を握れる期間はもうさほど残されていない事は分っていた。
幸いにして今は己の中の“もう一人の自分”は眠っている。
いずれは今日の事も感付かれるであろうが、もう暫くは耐えてみせよう。
「……アベル、神であろうともこの地上を、アテナを、お前の望むようにはさせんぞ」
双児宮から出たサガは、そう呟くとゆっくりと視線を動かした。
見据えた先は、聖域において数千年に渡り禁断の地とされた場所――スターヒルのさらに奥にある“ディグニティヒル”。
その頂上には無数の宮の遺跡がある。その遺跡の名はコロナ神殿。
太陽を取り巻く無数の惑星のように存在する宮と、その主の存在から太陽宮とも呼ばれる。
その事を知る者は代々の教皇とそれを伝えられるアテナのみ。
主の名はアベル。
ゼウスの子にしてアテナの兄。
太陽を司る神。
封じられし太陽神アベル。
今より十六年前、幼きサガの運命を狂わせた神。
不意に、腕から伝わる抵抗が無くなった事にポルピュリオンが違和感を覚え、しかし構うものかと再び力を込めたその時であった。
周囲から音が消え、色が消え、熱が消える。
大地が消え、重力が消え、その身を包むガイアの加護が消えた。
「な、何ッ!? 馬鹿な、ガイアの加護が感じられ――!?」
そこでポルピュリオンの言葉が止まる。
次いで出たのは呆然とした呟きであった。
「……何だここは?」
見渡す限りの宇宙、そうとでも言うべきか。
暗闇の中に輝く星々の輝きはまさしく宇宙のそれであったが、周囲に浮かぶ岩石や形を変える事なくその場に浮かぶ炎、天地の境を示すかのように光の網目のようなものが上下に広がっている。
異界、そうとしか表現のしようが無い。
その問いに答える事ができるのはただ一人。
「“アナザーディメンション”だ。次元と次元の狭間、世界から切り離された場所」
その声はポルピュリオンの“下”から聞こえた。
「やり方は分っちゃいたが、制御しきる自信がなくてな。精々が自分の周辺に異界の入り口を開くので精一杯だ。どうやって放り込むかが問題だったんだが誘いに乗ってくれて助かった。
アレはともかく、こいつは多分もう二度と使えない。相性の問題かね? まあ、借り物の力だし今更文句はないけどな」
「……いつの間に!? この手で頭部を掴んでいたはずだ!!」
指先でこめかみをトントンと軽く叩きながらそう話す海斗の姿に、ポルピュリオンは何とも言えぬ不気味さを感じていた。
「ここには圧し付けるための大地が無いんだ。“後ろに下がれば”抜けるのは簡単だ。さて、と!」
言うや否や、小宇宙を纏って繰り出された海斗の蹴り――レイジングブーストがポルピュリオンの身体を突き上げる。
「ぐぅおおッ!?」
咄嗟に両手を突き出して攻撃を受け止めたものの、金剛衣は軋みを上げ、裂傷を受けた掌からは血が噴き出す。
それを確認した海斗は、牽制を込めた拳撃を放つと、ポルピュリオンとの距離を開けた。
追撃が来るかと警戒したポルピュリオンであったが、海斗はこちらをじっと見つめるだけで動こうとしない。
ならばと、先に動こうとしたポルピュリオンを制するように、海斗が口を開いた。
「思った通りだ。その程度の傷が“まだ”治らない。世界から切り離されたこの場所ならガイアの加護ってやつも届かない、か。ならば――」
両手を左右に大きく広げ、円を描くように動かす。
その動きに合わせるかのように、周囲に輝く星々が動いた。
海斗の身体を中心として、幾多の星々が凄まじい速さでその動きを加速する。
「肉体を破壊して消滅させる。お前の魂は次元の狭間に取り残される。ここでお前を――神を封印する」
腰だめに構えた両の拳を丹田から正中線を沿う様に胸元へ。
右手は天を、左手は地を指し示すかのように大きく広げ、そこから互いの天地を入れ替えるように回された軌跡は再び円を描く。
「これで決める」
立ち昇る小宇宙は黄金の輝きを放ち、天地を宿した両手が打ち合わされたその瞬間――
「う、うおおおおおおおおおおーーッ!!」
不死の身でありながら、いや、だからこそか。
目前に迫る死の気配にポルピュリオンの本能は恐慌し、王としての誇りが、神としての意地がそれを認めまいと肉体を突き動かした。
神が人に恐怖するなどあってはならぬ、と。
「我はポルピュリオン! ギガスの――」
「終わらせるッ!!」
――銀河が爆砕する。
「“ギャラクシアンエクスプロージョン”!!」
視界を埋め尽くす光の奔流。
その中でポルピュリオンはその最期の瞬間、ある事を思い出していた。
千年前、己を討ち倒した相手はジェミニの黄金聖闘士であったな、と。
テラスから覗く眼下の光景――一面の銀世界を見ながら、玉座にも似た装飾を施された椅子に腰掛けたドルバルは手にしたグラスをゆっくりと傾けていた。
極寒の地アスガルド。
ギリシア神話に連なる神々とは異なる神によって統べられた国である。
聖域と同じく結界によって護られたこの国を知る者は多くはない。
ワルハラ宮と呼ばれる中世の古城のような建物の最上階。そこから見渡せるこの光景がドルバルは好きだった。
思いを馳せるのはこの国の事か、この地に生きる民の事か。
そのどちらでもあり、更なる先を、この世界を思っていた。
暫くそのまま何度かグラスを口にしていたドルバルであったが、やがてグラスを持たぬ空いた手を宙に伸ばすと、そこにある何かを掴み取るように掌を握り締める。
ニヤリと笑みを浮かべ、クククと、漏れ出る声を押し殺す。
暗く、深く、ドルバルは――嗤っていた。
「いやはや、全くもって素晴らしい事だ。アテナの聖闘士は実に優秀ではないか」
握り締めたドルバルの手から紅い輝きが漏れ出していた。
輝きは、ドクンドクンと、まるで心臓の鼓動を思わせるような、不気味な明滅を繰り返している。
ゆっくりと開かれたその掌に収められたのは真紅のルビー。
それは、Typhonの魂が封じられた魔石であった。
「愚かなる神々など互いに喰らい合い殺し合えば良い。何も我らが直接手を出す必要などありはせんよ」
「教主様の御心のままに」
ドルバルの言葉に答えたのは、彼の後ろで片膝をつき頭を垂れている青年であった。
「ふふふっ、口ではそう言っておるがロキよ、お前としては戦いたいというのが本音であろう?」
「……お許し頂けるのであれば。我ら神闘士は教主様に従うのみでございます故に」
ロキと呼ばれた青年の言葉に「頼もしいな」とドルバルは笑みを浮かべる。
「ならん、ならんよロキ。放っておけば良い、我らはただ観ているだけで良いのだ。少なくとも今はまだ、な」
「……七星ですか。我々だけでは不足なのでしょうか?」
「そうは言わん。お前達の力はギガスやアテナの聖闘士に劣らぬ。しかしな、十二人の神闘士を揃えずして勝利は無い。私はそう考えておる。
フレイもそうだが、七星、あれらが真に忠誠を向けているのはこのドルバルではない。ヒルダよ。事を起こすには……まずヒルダを抑えねばならぬ」
ドルバルは手にしたグラスをテーブルに静かに置くと、椅子から立ち上がり法衣を翻してテラスを後にする。
その後ろを、付かず離れすといった微妙な距離を維持してロキが続く。
「まあ、そう長い時は必要とせん。心身掌握の秘術、あの実験は結果からすれば失敗であったが、それなりの成果を見せておる。
やはり楔となる物が必要なのだよ。仮面や首飾り、いや、指輪など良いかも知れんな」
無人となったテラスに風が流れる。
ビュウと音を立てる強い風。
その勢いに、テーブルに置かれたグラスが傾き転げ落ちると――音を立てて砕けた。
じわりと、テラスの床に紅い染みが広がる。
その事に気付いた者はいない。
CHAPTER 1 ~GIGANTOMACHIA~ The End
To Be Continued
NEXT CHAPTER 2 ~GODDESS~