ピンドス山脈。
アルプス山脈最南端の分嶺であり、ギリシア本土を貫く様に存在する。
標高二千メートル級の山々が連なる延長約百八十キロに及ぶ山脈である。
ギリシアから北西部、その麓に世界遺産にも登録されているメテオラの町が広がっている。
無数の奇岩群に囲まれた静かな町である。
メテオラとはギリシア語で『宙に浮く』と言う意味があり、平地から四百メートルもの高さのある岩峰の上に建てられた修道院は、その岩肌が深い霧に包まれた時にはまるで宙に浮いている様に見えると言う。
利便性だけで考えるのならば、この様な高所に修道院を造る事など不便でしかないのだが、戦乱を疎み俗世から離れ少しでも天に近い場所、神々を感じられる場所で修業をしたいと願った修道士たちにとってはこれ以上の場所は無かった。
起立した岩峰や奇岩群に囲まれた山中にて、眼下に映るメテオラの姿に暫く足を止めてその風景を眺めていた若者が感嘆の声を漏らした。
「道も無く、便利な道具すらない時代にあの様な岩峰の上に修道院を築き上げる、か。神を感じる為に費やされた彼ら敬虔なる修道士たちの百年の努力、その行為は確かに――美しい」
黄金に輝く聖衣を纏ったこの若者の名はアフロディーテ。十二人の黄金聖闘士の一人、魚座(ピスケス)のアフロディーテ。
美の女神の名を称する彼は、その名に違わぬ美しさを持っていた。
その美しさは性別に依らぬ外見上の美しさだけでは無い。
ただ観るというその佇まいが、長い髪を掻き上げるその仕草が、ただただ美しかった。
「彼らの信念に基づいたその行為は、意図されたモノでは無いにもかかわらず、こうも私に美しいと思わせる」
まるで演劇の場に立つ役者の様に。
アフロディーテは眼下に映るその光景を、愛おしいものを抱きしめるべく、その両手を優雅に広げる。
「美とは、全く私を飽きさせる事が無い。いつまでもこの地に留まり続けたいと思わせる程に。しかし――」
しかしと、広げた両手を下ろしたアフロディーテは、その表情に憂いにも似た陰を落とす。
「それは叶わぬ願い。私には果たさねばならぬ役目がある。だからこそ、か。限られた時間であるからこそ、こうまで私の胸に強く訴え掛けるのは……」
そう呟くと、アフロディーテはゆっくりと背後へと振り返る。
その手には、いつしか一本の紅い薔薇があった。
「限りある時間の中にこそ見出せる美しさと言う物がある。その点で言えば、君達は醜いと言わざるを得ない」
アフロディーテの視線の先には、金剛衣を纏ったギガス達の姿があった。
彼らの背後には巨大な空洞がその漆黒の口を開けている。
暗闇の中から一人、また一人と現れるギガス。
「君達の時間は神話の時代に既に終わりを告げているのだ。偽りの命を宿したそこの土くれ共々大人しく地の底――タルタロスへと還りたまえ」
手にした薔薇をそう言ってギガス達へと突き付けるアフロディーテ。
先頭に立ったギガスがアフロディーテの存在に気付き、その歩みを止めた。
「終わりなど告げられてはおらぬ、此処より始まるのだ。小癪な女神の雑兵に過ぎぬ聖闘士如きが知った様な事を語るのは……実に度し難い」
そのギガスが掲げた腕を振り下ろすと、それを合図として背後にいたギガス達がアフロディーテ目掛けて襲い掛かる。
「フッ、ならば私も言わせて貰おう。神話の遺物でしかない君達ギガス、その雑兵である土くれ如きではこのアフロディーテに触れる事すら叶わぬ、と」
アフロディーテの手にした薔薇の色が変わる。紅から黒へと。
そして、彼の周りに無数の黒薔薇が姿を現す。
「この黒薔薇は、触れた物全てを噛み砕く。醜悪なる物に存在する価値など無い。灰燼と化せ――ピラニアンローズ!!」
「う、うおおおおおおおっ!?」
「な、これは!? 薔薇に触れた金剛衣に亀裂が奔る!? 馬鹿なこの金剛衣が打ち砕かれるだとぉおお!!」
舞い上げられた破壊の小宇宙を宿した無数の黒薔薇が、あたかも意志を持つかの様にアフロディーテへと迫り来るギガス達へと降り注いだ。
その身に纏った金剛衣を破壊し、むき出しとなった身体を文字通り吹き飛ばす。
あたかも砂での作られた城の様に、その身体が崩れ次々と砂塵と化して行くギガス達。
ピラニアンローズの勢いはそれだけに止まらず、この場にいる全てのギガスへと襲い掛かった。
包み込むように展開されたピラニアンローズは避ける事を許さず、弾こうにもその黒薔薇に触れた時点でダメージを負う。
アフロディーテを叩こうにも黒薔薇の壁を前にそれも出来ない。
なす術も無く倒されるギガス達。
やがて、数十人近くいたギガス達はその姿を砂と変え、風に吹かれ散って行った。
「……土くれ故に醜い死骸を残さない、その点だけは評価してあげましょう。さあ、残るは君だけです」
全てが砂と化した中、ただ一人だけ残ったギガスがいた。
まその周りには、無残に散らされた黒薔薇の花弁がある。
そのギガスは明らかに他のギガス達とは違った。
金剛衣の輝きが違った、身に纏う小宇宙が違った、瞳に宿る意思の輝きが違った、その肉体の在り様が違った。
そのギガスは土くれなどでは無く――人の身であった。
「成程、教皇の仰られた通りですか。ヒトの器を得て現世に蘇ったギガスの力は強大であるから注意せよ、と。どうやらピラニアンローズを耐えるだけの力はある様ですね」
「……何者だ貴様は?」
「覚えておきなさい、私はピスケスのアフロディーテ。ああ、君は名乗る必要はありません。美しく無い者を記憶に留める等、私にとっては……苦痛でしか無い」
ギガスに対して向けられたアフロディーテの手には、再び紅い薔薇があった。
それを口元に運び静かに銜える。
その仕草はただ優雅。
それに一瞬足りとは言え見とれてしまったギガスは、頭を振って目の前の敵を睨みつける。
「このギガス十将パラスを前に、よくもほざいた。よかろう、ならばお前にはもっとも醜く惨たらしい形での死を与えてくれるッ!」
立ち昇る小宇宙が物理的な風となって吹き荒れる。
「神を前に大言を吐いた事、後悔するがいい」
凄味を見せるパラスを前に、アフロディーテは僅かに眉を顰めていた。
「だから君は美しく無いと言うのです。その様に感情に振り回され。戦いとはもっと優雅に美しく行われるべきものだとは思いませんか?」
それがどうしたと言わんばかりに、風によって吹き上げられた砂塵を払い落しながら告げるアフロディーテ。
「良いでしょう。特別にこの私がそれを君に教えて上げましょう。その身をもって――学びなさい」
第10話
「この聖衣――凄い」
突き出された拳をいなし、繰り出される蹴りを避ける。
四方から襲い掛かるギガス達を冷静に捌き、次々と迎え撃つ。
「カノンと戦った時とは明らかに違う。聖衣に覆われた場所が倍増しているのに、むしろあの時よりも身体が軽い」
大地を蹴り、宙へと舞い上がる。
いつしか海斗の表情には薄らと笑みが浮かんでいた。
「小宇宙のノリが違う。俺の力を増幅するだけでは無い、まるで奥底から沸き上がる様なこの感覚! 新生は伊達では無いと言う事か!!」
膝と踝程度しか保護されていなかった脚部は、まるでブーツの様に膝から下を包み込んでいた。
ベルト状であった腰には前垂が加えられ、同様に側面にも追加されている。
左胸を覆う程度であった胸部は、肩当てと一体となり胸部全体を覆う。
手甲は外側だけでは無く、肘から下を包み込み、サークレット状であった頭部はヘッドギアとも呼べる形へと変化していた。
その外観は身体の必要部分だけを覆う青銅聖衣のそれでは無く、上位である白銀聖衣と言っても過言では無い物となっていた。
跳躍した海斗が見下す先には、自分を見上げるギガス達の姿。
よく見れば、自分が吹き飛ばしたギガス達の身体が崩れ去って行くのが見えた。
「アレは……人形なのか? 原理は分らんが、ならば遠慮する必要は無い」
残るギガスは九人。
その内自分を見上げる者が三人、セラフィナの周りに三人、まるでこちらを観察する様に、離れた場所に立つ者が三人。
右脚に小宇宙を集中させて狙いを付ける。
目標はセラフィナの周りにいるギガス。
「我が脚は大地を穿ち天空を駆け抜ける――天翔疾駆(レイジングブースト)!!」
「これは!? 光か!」
「避けきれん!! うわぁああああああああ!!」
星空に流れ落ちる流星の様に、光の矢と化した海斗の蹴りがセラフィナを囲むギガス達を撃ち貫く。
砕け散り四散する金剛衣。
穿たれたクレータの中心で砂と化すギガス達。
「黙ってろ、舌を噛む」.
セラフィナの下に着地した海斗が、一瞬の出来事に反応しきれていない彼女の身体を片手で抱き寄せる。
「か、海斗さん!?」
セラフィナの動揺を無視すると、海斗は残るギガス達へとエンドセンテンスを放つ。
悲鳴を上げて吹き飛ぶギガス達。
しかし、その数は三つ。
残ったのは離れた場所からこちらの様子を窺っていた三人であった。
或いは受け、或いは避け、或いはその威力を自ら放った拳撃で相殺し。
その中にはリーダ格と思わしき者も残っていた。
「どうやらお前達は土人形、ってわけでも無さそうだな」
「……あの、海斗さん、この体勢はさすがに恥ずかしいんですが……」
海斗はこの状況でそんな呑気な事を気にしていられるセラフィナに呆れと関心を感じたが、彼女から非難めいた視線を向けてられても無視する事を決め込んだ。
大地を割って現れるというふざけた登場をした相手である。
しかも、狙いはセラフィナであると言っていた。迂闊に離れるわけにはいかない。
「ギガンテス(巨人族)だと言ったな? 確か、神話の時代にオリンポスの神々と勇者ヘラクレスの前に敗れた蛮神だった筈。その魂は神々の力で冥府の底タルタロスに封じられた」
目の前に立つ三人のギガスに注意を払いつつ、海斗は自分の拳を見た。
先程、エンドセンテンスを放った際に気が付いた事だが、新生された聖衣の手甲には三又の鉾と思わしき装飾が施されていた。
子馬座の由来を考えればおかしくは無い装飾だが、狙ってやったのだとすればムウは随分とイイ性格をしていると、海斗は苦笑してしまう。
「そう言えば、その戦いでは女神アテナや海皇ポセイドン、冥王ハーデスですら共闘したらしいな。まあ、どうでもいい話だが」
そう言って肩を竦めてみせる海斗に、問答無用とばかりにギガス達が迫る。
海斗に対して当初見せていた侮る様な雰囲気は無い。
立ち塞がる敵として、ギガス達はその認識を改めていた。
「我はグラティオン」
「アグリオス」
「トオウン」
「――我らギガス十将なり」
「エクレウスの海斗。青銅聖闘士だ。」
名乗りを上げると同時に散開し、海斗の正面からグラティオンが、アグリオスとトオウンが側面から襲い掛かる。
その攻撃は、これまで海斗が倒したギガス達とは根本から異なっていた。
速さも、重さも、一撃に込められた小宇宙さえも。
「……チッ!」
「きゃあッ!?」
海斗はセラフィナを強く抱き寄せると、そのまま攻撃に応じた。
グラティオンの拳撃を空いた右拳で打ち払い、右側から迫るアグリオスにはその反動のまま拳をバックブローの様に振り抜く。
「むおぅ、貴様!」
「ぐっ!?」
衝撃波がアグリオスの勢いを阻止してその動きを止めると、海斗はセラフィナを抱き抱えてアグリオスの身体を踏み台としてその場から大きく跳ぶ。
「逃がさん!」
「逃げるかよ、レイジングブースト!」
左側から迫っていたトオウンが、背後を見せる形となった海斗目掛けて攻撃を仕掛けるが、上空で反転した海斗が放った光の矢に撃たれてアグリオス共々大地に叩き付けられる。
「……予想以上に硬いな。先刻までの連中なら粉々になったって言うのに」
そう言って着地した海斗が振り向けば、クレーターから何事も無かったかの様に立ち上がるアグリオスとトオウン。
身に纏った金剛衣には亀裂こそ入っていたが、完全に打ち砕くところまでには達していない。
「ダメージも大して無いのか。伊達に巨人族を名乗ってはいない、と。呆れたタフさだ」
三対一でおまけ付きと言うこの状況は、決して楽観視出来るものではなかったがそれでも海斗に焦りは無い。
「なら、徹底的に叩きのめすまでだ。仕方がない、あまり俺から離れるなよセラフィナ」
「……分りました」
どうやって神々の封印を解いたのか、どうしてセラフィナを狙うのか。
気になる事は多かったが、今の海斗に出来る事は目の前の敵を排除する事のみ。
そうして目の前の敵に集中しようとした海斗であったが、そこで目の前にグラティオンの姿が無い事に気が付いた。
「海斗さん! 後ろ!!」
海斗から離れたセラフィナの声。
海斗の背後から、再び大地を割って現れるグラティオン。
「同じ手を!」
忌々しげに吐き捨てると、海斗は全力を込めた一撃をグラティオンに打ち込んだ。
金剛衣を打ち砕き、その拳がグラディオンの腹部に突き刺さる。
ぐしゃりとした感触、骨を砕く音。
その魂が神話の時代の神のものであろうとも、その力を振るう為の肉体は違う。
「……終わりだ……」
これでは二度と立ち上がれまいと、海斗が拳を引き抜こうと力を込めたが、万力で絞めつけられたかの様にその拳を抜く事が出来ない。
「馬鹿な!?」
「嘘、そんな!?」
動ける筈が無いと、海斗とセラフィナが視線を上げればニヤリと口元を歪めて見せたグラディオン。
「フフフッ、惜しかったな。残念だがこのグラディオンに『痛み』は無い。痛み等と言うもので怯む事は無いのだ。そして我等真のギガスは己の小宇宙がある限り倒れる事は無い。再生するのだ、瞬く間にな」
海斗の一撃を意に介した様子も無く、組み合わせた両手を振り上げる。
「しかし、お前は人の身でありながら我等三人を相手に短い間とは言えよく戦ってみせた。褒美として我が最大の拳で葬ってやろう。そこの女はその後に連れて行く」
グラディオンの組み合わされた両手に集まる小宇宙。それは巨大な鉄鎚の姿を見せる。
「受けろ、人間よ。これが――破壊の鉄槌(ハンマー)だ!」
振り下ろされるグラディオンの拳。
それは、身動きの取れない海斗の身体を圧殺する死の一撃。
「――死を受け入れよ」
宣告と共に、寸分も違う事無く海斗の脳天を目掛けて振り下ろされた。
鳴り響く轟音と、大地を揺るがす震動。
周囲の岩肌が崩れ、大地が裂ける。
吹き上がる鮮血が大地を赤く染め上げていた。
「……あ、ああ……」
呆然と、その場に立ち尽くすセラフィナ。
アグリオスとトオウンも微動だにしない。
「……」
ぐらりと、その身体を揺らす――グラディオン。
纏っていた金剛衣に亀裂が奔り、やがて乾いた音を立てて崩れ去った。
「……ぐ、がぁぁあぁ……」
呻きともつかぬ声を上げて倒れ伏す。
全身に残った無数の拳の痕。
それは、海斗の放ったエンドセンテンスによる破壊の痕跡であった。
「痛みを感じず、小宇宙ある限り再生する。大した能力だが……小宇宙が消えればそれも意味を成さないか」
身じろぎ一つしなくなったグラディオンの身体を見下す海斗。
「ほう、どうやら手助けは無用だった様だな」
「いえ、助かりましたよ」
掛けられた声に視線を向ければ、そこには黄金の輝きを放つ聖衣を纏った男――黄金聖闘士の姿があった。
「あのまま振り下ろされる可能性もありましたからね。それしてしても、師から聞かされてはいましたが、さすがは聖剣と称される手刀。拳圧ですらこうも容易く……」
その海斗の言葉を合図とする様に、空からナニかが落ちてきた。
「……ッ!?」
セラフィナが息をのんだのが気配で分る。
さすがに刺激が強かったかと、海斗は彼女に近付くと僅かに震えのあるその手を取った。
セラフィナの前に落ちてきたモノ。それは組み合わされたままのグラディオンの両腕であった。
「どうやら、貴方が聖域からの迎えの様ですね。まさか黄金聖闘士が来るなんて思いもしませんでしたよ。山羊座(カプリコーン)の黄金聖闘士――シュラ」
山羊座のシュラ。
鋼の如く研ぎ澄まされた両手から放たれる手刀は、触れた物全てを切り裂く聖剣(エクスカリバー)と称される程の切れ味を誇る。
力をつらぬく事こそが正義であると、常に己を律し鍛え続けている。その生き様すら鋼であると、彼を知る者は言う。
「シャカの言う通り、本当にこの様な場に出くわすとは思いもしなかったがな。しかし、本望ではある。ギガスは我ら聖闘士にとって倒さねばならぬ――敵だ」
セラフィナを一瞥したシュラは、そのまま海斗の横に立つ。
自然と二人の背に護られる事になり、セラフィナの緊張がほぐれたのを感じた海斗はその手を離し、シュラと共に残った二人のギガスを見た。
二人の視線を受け、アグリアスとトオウンが身構える。
「海斗と言ったか、お前はそこで見ていると良い」
「……シュラ?」
「折角の機会だ、学ぶと良い。小宇宙の真髄セブンセンシズを極めた黄金聖闘士の戦いをな」