支給された電子端末の画面が割れていた。黒い液晶が漏れ出して、いくらタッチしても反応は帰ってこない。地形図や連絡手段として重宝する筈だった物を無くしてしまって途方に暮れてしまう。 たぶん、先ほどエスカレーターを転げ落ちていったときに割れたのだろう。義体であるこの身がそうとう痛いと感じた衝撃だ。精密機器なんてひとたまりもない。 そんなエスカレーターの踊り場から視線を上に向けると、空気より重たい気体であるスモークグレネードの煙が上階から吹き下ろしてきていた。ゴリラのような特殊部隊、GISがばらまいたものだ。暗視スコープのような赤外線装置を持っていない今、あの煙にもう一度巻かれてしまったら今度こそ蜂の巣になりかねない。 またM4の代わりに渡されたMASADAのグリップが血に濡れている。普段使い慣れていない装備の上にコンディションは最悪だ。ライフルの丈夫さ自体には随分と助けられたものの、やはり狙撃を得意とする性分からか、普段と違う装備という物は何処か心許ない。そして予備マガジンは残り1つ。現在MASADAにくっついているマガジンには約十発程。サイドアームとして用意していたシグにはまだまだ弾が残っているが、九ミリの拳銃弾では敵のボディアーマーを貫通させることはできない。 どう足掻いても八方塞がりな状況に出てきたのはもちろん悪態だった。「くそっ、こんなことなら、格好付けずに四の五いわず逃げれば良かった」 グリップに付いた血を乱暴に拭い去りながら、ブリジットはエスカレーターの踊り場から這いずるように離れていく。右肩から血を滴らせる彼女は左手で患部を抑えながら、少しずつ少しずつ歩みを進めていた。傷自体はそれ程重傷ではなかったが、八メートルほどの高低差を転げ落ちてきた所為か意識がはっきりとしていない。 さらに義体としての寿命が近づいている現実が、そのバットステイタスを加速させている。「なん、とか、遮蔽物に」 やっとの思いで彼女は近場にあった大理石の白い柱の陰に回り込んだ。そして柱に身を預けながら上から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。 1つ、2つ、3つと徐々に足音は近づいてくる。しかも複数。 軍靴の癖に防音仕様の不気味な足音はまさに死の行進のようだった。「次の撤退時間まで残り五分。それまで裏口の資材搬入路にたどり着かないとゲームオーバー、正直きついよ、これは、ねえ、アシク」 とっくの昔に撤退した黒人の顔を思い浮かべながらブリジットは笑う。それは別に自暴自棄になった笑いではない。公社の義体として戦っていた頃の彼女の笑いではなかった。 ただ一匹の獣として、人を自分の意思で狩り続ける獣が笑っているのだ。「おっと、もうお出ましか」 柱の陰から上階を伺っていると、スモークグレネードの煙の中、ゆらりと影が動いた。ブリジットが間髪入れずにMASADA、アサルトライフルのトリガーを引く。セミオートで放たれたそれは寸分の狂いもなく影の頭を撃ち抜いた。 エスカレーターの上からブリジットの物とは違った血が流れ落ちてくる。「……これで少しは牽制になるか」 油断なくアサルトライフルを構えながら、ブリジットは息を吐く。 これでこちらがまだ生きていることが露見してしまった。恐らく数十秒も経たないうちに煙の中からこちらに向けて総攻撃が行われるだろう。 そんじょそこらのテロリストや暴漢相手ならば一人で圧倒できるものの、同じ戦闘訓練を受けている軍人相手にはどうしても分が悪い。「さてはて、どうしようかな……」 トリガーに掛けた指に力がこもる。煙の中から複数の殺意が発せられた。互いに姿は見えていない。それでも相手が何をしようとしているのか、相手がどこに潜んでいるのか、両者とも知り尽くしたまま弾丸は発射される。 音速を超えて飛んでいった鉛の弾は、その与えられた役割の通り、人体の組織をズタズタにして突き抜けていった。 時間は一時間ほど前に遡る。 イタリア全土に記録的な寒波が到来していた頃、半年ほど前に建設されたレッジョ・エミリア新空港では出張に赴くビジネスマンや、休暇を取って旅行をもくろむ家族連れで溢れかえっていた。大雪の為一部の路線がストップしたエミリア空港では、時折不満や不安を告げる台詞がどこかしらから発せられている。 そんな喧噪からは強制的に隔絶された、未だに建設途中の空港裏駐車場。そこでは大雪にも関わらず、多数の工事用車両が出入りしていた。 ただし工事特有の建設音は一切聞こえず、不自然な静けさが漂っていた。「……これで全員だよ。アシク」 空港裏駐車場は屋内駐車場で、外で吹き荒れている大雪もここからでは全く見ることができない。工事用照明に照らされた駐車場の中、建設員にしては小さすぎる影が何かを引き摺っていた。 引き摺られた痕には赤々と輝く血が残されている。「よくやった。これでタイムロスは解消できる」 照明から作り出される暗がりの中、複数人に指示を飛ばしていた黒人の男、アシクがこちらに振り返った。振り返った先にいるのは黒いコートに白いマフラーが眩しい、ブリジットその人だった。 彼女は建設作業員と思われる遺体を数人纏めて駐車場の片隅に積み上げている。「リストに載っていた勤務予定の人間は全員殺した。一人に気づかれたけど、逃がしてはいない。というかそちらがもっと静かに行動してよ。見つかったのはあなた達の誰かなんだから」 のど元に小さなナイフを突き立てられた作業員達に目をくれることもなく、ブリジットは淡々と続ける。その機嫌は決して良いとは言えない。 アシクはそんなブリジットの地雷を踏み抜かないように、努めて冷静に返答を告げた。「こちらの幾分かは素人も同然だ。君や君の恋人、それにフランカフランコのようにはいかない」「ふん、まあ別に良いけれど。ところでさ、アルフォドさんは上で見張りなのは分かるんだけど、フランカフランコはどうしたの?」 詰まらなさそうに鼻を鳴らすブリジットを見て、アシクは当面の地雷は解除したことを悟った。 だからこそ、もう取り繕うような言い訳はしない。「この作戦はクリスティアーノの賛同を得ていない。つまり二人は不参加だ」 その台詞を聞いて、ブリジットはまあそれもそうか、と嘯いた。今回の作戦内容は、ブリジットがジャコモ達に合流して以来、もっとも非人道的な内容となっている。もちろんサンマルコ広場でやったことが人道的であるとは微塵も思っていないが、それでも一般人を手に掛けることはなかった。 ジャコモが用意した作戦は二つ。 一つ目はバルト三国経由で手に入れた核を使い、新トリノ原発を占拠すること。 この作戦はただ今準備中であり、もう二週間もしないうちに決行されることが決まっている。 そして今回の、全ての始まりとされる作戦。「……ロベルタ検事があと二十分ほどで空港に訪れる。幸い大雪での着陸延期は今のところ確認されていない。護衛は内閣府のSPが五名。社会福祉公社はまだ噛んでいない。だが余り長引くと時間の問題だな」 アシクは懐からタッチパネル式の電子機器を取り出した。携帯電話や情報端末として扱えるそれをブリジットに手渡す。「護衛は全員速やかに排除しろ。検事は殺さなければそれでいい。だが彼女を拉致した時点で恐らく空港警察、もしくは配備されているGISが動き出す。そうなれば我々は全滅だ」 アシクの告げるとおり、昨今のイタリアではテロに対する警戒が高まっており、空港などの主要施設は必ずGISなどの戦闘部隊が配置されている。白昼堂々の空港で拉致事件を起こせばどうなるかなど明白なことだ。だから作戦に携わる人間が手早く、しかも確実に逃げ果せることのできる策が必要になる。 そしてそのことを義体であるブリジットは痛いほど理解していた。「武器はいくらでもある。だからGISを含めて多数の人間を殺傷しろ。その混乱の隙に我々は空港から脱出する」 痛いほど理解しているからこそ、こうした手段に出ざるを得ないことに虫酸が走りそうになる。 ブリジットに下された命令は二つ。一つは空港にやってくるロベルタ検事を拉致し、空港から連れ出すこと。もう一つは拉致したロベルタ検事を運び足すための時間稼ぎに、GISを空港に釘付けにすることだ。 そのためには誰もが注目するような、大規模なテロ行動を起こさなければならない。 もちろんこれは、後に続くトリノ原発を占拠するためのカモフラージュにもなる。「作戦決行は五分後。今のうちに、上にいる恋人に挨拶をしておくことだ」 数人の活動家を引き連れて、アシクは照明の届かない暗闇の中に消えていく。ブリジットは足下に置かれていた旅行用鞄を肩に担ぐと、電子端末を操作しながら工事用として設置された仮設階段を上っていった。するとその先にはアサルトライフル片手に見張りに立っているアルフォドの姿があった。「……いくのか、ブリジット」 作戦内容を聞かされているアルフォドは眉尻を下げながらブリジットの頭に手をやる。彼女は猫のように瞳を細めると、そっとアルフォドの胸板にもたれ掛かって見せた。「いいんです。こうやって生きていくと決めた以上、もう迷いません。あなた以外の人を守ろうとは思わない。あなたが生きるためにジャコモに荷担しなければならないのなら、私は戦います」 ブリジットの首には未だに爆弾を内蔵した首輪が巻かれている。それを隠すために今回マフラーを彼女は巻いていた。そこに存在している死の首輪はブリジットを活動家達の先兵として使役させているのだ。 しかしながら、ブリジット達は爆弾の恐怖によってのみ、ジャコモの活動に荷担しているわけではない。クリスティアーノが抱えている非公式の海外医療団体がブリジットの義体の管理をしている。もしも彼らから提供されている安定剤を欠いてしまったのなら、もう一ヶ月も生きられない体になってしまうだろう。 誠に皮肉なことだが、公社を抜け出した彼女達が生きていくことのできる組織は、ジャコモとクリスティアーノを擁するここ以外には存在しなかった。 ブリジットはアルフォドの背中に手を回す。「だけど一つだけ約束してください。作戦が始まったら私の命の心配ではなく、自身の命の心配をしてください。もしもあなたが私のためを思うなら、私に余計な心配をさせないでください。例え私が死にかけても、あなたは決して私の盾になってはいけません。あなたの盾は私であり、あなたの剣は私です」 こちらから見上げたアルフォドの瞳は困惑の色だった。たぶん、これだけ言っても、いざブリジットが地に倒れ込んでいたのなら彼は躊躇うことなく彼女の盾になるだろう。だが一応は釘を刺しておきたかった。それだけで、随分と心の持ちようは違うから。「では行ってきます。大丈夫、私は強いんだよ。アルフォド」 最後に一つ、頬に一つだけ口づけを落とす。 ブリジットはそれからは一切振り返らずに、空港へ繋がる連絡通路に歩いて行った。肩口から垂れ下がる旅行用鞄のストラップを強く強く握り締めながら。『目標が搭乗口から出てきた。A班とB班は裏口の確保。バンボラは至急準備しろ』 音楽プレイヤーに見せかけてた無線機の向こうから指示が飛んでくる。ブリジットに当てられたコールサインはバンボラ。彼女はコートの中でSIGのスライドを引くと、出迎えで溢れている搭乗ゲートに旅行鞄を担ぎながら近づいていった。原作ではトリエラと深い関わりがあるロベルタ検事。ブリジットとの面識はないものの、勘の良い彼女ならもしかしたらブリジットの正体を見抜くかもしれない。『護衛は予定通り5。そちらとのエンゲージまで約三十秒』 耳に付いていたイヤホンを外し、ブリジットは出迎えの人々の間をすり抜けていく。 左手にSIGを持ち、コートのポケットに隠す。搭乗口の向こうから、キャリーバックを引き摺っているメガネの女が見えた。 彼女の周りにはそれとは悟られないよう、私服に身を包んだSP達が辺りを警戒している。数は無線が伝えたとおり、五人丁度。 ブリジットが人々の波から抜け出したとき、こちらを見てきたロベルタと目線が合う。「あっ」 果たして声は誰の物か。 旅行鞄を床に落とし、姿勢を低く保ったままブリジットはロベルタに飛びかかった。即座に肘鉄を下腹部に叩き込み、拳銃を抜き始めたSPに対して盾にする。 そして、銃声が五つ。 ブリジットが持つ銃口から煙が上がり、不自然な姿勢で立ち尽くしたSP達が床に沈む。白い清潔な床に赤い血だまりが広がり、その場にいた人々が悲鳴を上げる。 さらにそれが合図となったのか、今度は四方八方から待機していた活動家たちがアサルトライフルを発砲し始めた。「ご無事ですか、ロベルタ検事」 悲鳴と血飛沫が舞う搭乗口の中心で、ブリジットに抱きかかえられたロベルタ検事が荒い息を挙げる。活動家の男の一人がブリジット達に近づき、ロベルタの身柄を渡すよう要求した。だがブリジットはそれを無視したまま、ロベルタに話しかける。「見てください。この光景を。これはあなた一人を連れ出すために我々が作り出した地獄です」 一切の抵抗が出来ない一般人は、乱射されるアサルトライフルの良い的だった。それもこれもみな、ロベルタ検事の拉致を成功させるための布石だ。「憎しみの連鎖は止まらない。我々が正しいとは微塵も思わない。ですが、もしもあなたがこれからを生きることが出来るのなら、後世にこう伝えてください。もう長く生きることの出来ない私の為に」 「これが人間だと、ディアボロでもサタンでもない、これが人間だと」 というわけで九章なのでした。いつか宣言したとおり、次が最終章。多分、次+エピローグの章でこの物語は終わりです。感想欄でご指摘いただいている誤字脱字、かなり多いと思うので、一度エンディングまで走り抜けたら少しずつ改訂を込みにして修正したいと思います。よってご指摘いただいている方々には感謝の言葉もありません。 これから少しずつ終わりに向かっていきますが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。あと、地味にもう直ぐ二周年。