サンマルコ広場が占拠される一週間前、ブリジットが目覚めて二日が経過した日。 その日、アルフォドに呼び出されていた彼女は色々と混乱した頭を抱えながら大人しく彼の話に耳を傾けていた。曰く、「私は、社会福祉公社に復讐するつもりだ」 突然の台詞にブリジットの混乱はピークに到達する。返す言葉が告げない彼女にアルフォドは続けた。「ブリジット、聞いてくれ。私は君を自由にしてやりたい。君を縛り付ける全ての鎖を断ち切りたい。だから君を追い続けるであろう社会福祉公社を許すわけにはいかないんだ」 まさか目が覚めてそうそう、そのような話をされるとは思わなかったと、ブリジットは小さく息を吐いた。もう公社による条件付けもなくなっている彼女はアルフォドに反抗するワードを発しても苦しむことはない。だからはっきりと彼女はこう口にした。「馬鹿なんですか。あなたは。公社がそんなことでなくなるわけないでしょう。無駄に命を磨り減らすだけです」 全くの本心を伝えて見せたブリジットにアルフォドは驚愕の目を向ける。そりゃそうだ。つい先日まで人形のように命令を聞いていたブリジットはもういない。彼女はアルフォドに対して極めて対等に、敬語を使いながらも担当官と義体という垣根を越えて話しかけてくる。「確かにあなたが公社から連れ出してくれたからこそ、私はこのように義体としてではなく人間として振る舞うことが出来るのでしょう。でも、リスクが大きすぎました。彼らは必ず血眼になって私たちを探しているはず。それに、ジャコモ達に協力したところで先は見えません。所詮はテロリスト崩れの活動家達。破滅は目に見えています」 そこまで言って、ブリジットは少しだけ後悔する。 非常に危ない橋を渡ってブリジットと共に逃げ出してくれたアルフォドの気持ちも考えずに、彼女は彼を批判してしまった。 ただの人形として生きていた自分は何もしなかった癖に、何を偉そうなことをいっているのだ、と。 しかしながらアルフォドはブリジットを叱るわけでもなく、少し眉根を下げながら、とても柔和な笑みでブリジットに語り掛けた。「もちろん君がジャコモ達と戦う必要は無い。私が彼らに差し出したのは君ではなく公社が持っていたあらゆる情報だ。彼らも義体の君を戦力に引き入れるかでは随分もめている。君が彼らに危害を加えないと確約しないのならば手立てはある」 そう言って、アルフォドは懐から何か封筒を取り出した。中々分厚いそれは少し力を掛けたくらいでは曲がりそうにはない。「この中には現金が十万ユーロ、ドイツにある僕の口座番号、さらにパスワードが入っている。他にも連絡先と住所だ。これを使って君は私の実家に身を寄せなさい。大丈夫、公社はドイツ国内にある僕の実家には手が出せない。何たって、母は向こうの軍の高官と再婚しているからね」 ブリジットはアルフォドの言葉の意味を咀嚼して、思わず目を見開く。つまりユーロ圏であることを良いように、亡命しろと言っているのだ。「その先の人生はすまないが君が決めてくれ。安全については母と妹が最大限保証してくれる。もう然程時間が残されていない君の人生だが、普通の女の子として生きていくことも出来る」 アルフォドがそっとブリジットの頭を撫でた。そしてブリジットの手に封筒を握らせる。そこで初めて彼女は理解する。アルフォドは自分を残して、一人戦うつもりなのだと。 そこまで考えて、ブリジットはアルフォドを見据えた。 そして―――、 ぱんっ 平手がアルフォドの頬に吸い込まれていく。全力は出していない。充分手加減した平手だ。だがブリジットは己の中に渦巻く煮え切らない怒りを正直にぶつけた。「巫山戯ないでください。なにが一人で生きろですか。無責任だとは思わないんですか」 静かに零すブリジットをアルフォドは呆然と見つめる。彼の頬は赤く腫れていた。「ここまで私をぐちゃぐちゃにしておいて、今更逃げ切ろうなんて最低です。責任取ってください」 ブリジットがアルフォドの胸ぐらを掴み上げる。対するアルフォドは何も反抗できない。ただ気まずそうに顔を逸らす。そしてこう漏らした。「それに関しては謝罪の言葉もない。もし不服なら、君が亡命するとき私を殺してくれても良い。私に出来る贖罪はそれだけなんだ」 そうだ。公社の義体として訓練し、今まで人殺しを直接させていたのはアルフォド本人だ。彼はブリジットが目覚めたとき、彼女が自身に復讐を望むのなら、その手に掛かることを覚悟していた。だからこそ、今この場でブリジットにバラバラにされても文句などあろう筈がない。 だがブリジットはそれが一番気にくわなかった。 何故なら、「口で言っても分からないんですか。この朴念仁の馬鹿担当官は……」 前世が男であることなどどうでもいい。もうブリジットとして生きることを決めた。それが消えたヒルダとの約束であり、今ここにいる自分に対する自戒だ。ブリジットはアルフォドの頬を掴む。そして思い切り自分に引き寄せた。「っ!」 アルフォドが驚きの声を挙げる。そして己の唇を塞いでくるブリジットの小さな顔を凝視していた。やがてされるがままブリジットに押し倒される。ぷはっ、と唇が離れたとき、上から涙が降ってきた。「私はあなたを担当官として恨んだことなど一度もありません。愛する人としては例外ですが」 こちらを見下ろしてくるブリジットは泣いている。それは悲しみの涙と言うより、己の心が他人に伝わらないもどかしさにイライラしているような涙だった。「ともに生きてください。アルフォド。私とともに最期まで。そのためなら千の敵を殺す剣にもなりましょう。万の敵をとどめる盾にもなりましょう。それが、私の望みです」 アルフォドは何も言えない。ただブリジットに無精髭が生えた頬を撫でられていた。「だから自分を責めないで。私の愛しい人」 ブリジットがアルフォドの上から降りる。そして来ていたガウンの袖で乱暴に涙を拭ってみせると、こう笑った。「あ、これも条件付けの所為とかデリカシーのないこと言ったらいよいよ殺しますから」 彼女の屈託のない笑みに、アルフォドは大人しく頷いて見せた。 信じていたものに手痛い敗北と裏切りを受けたとき、人はどうするのだろうか。 信じていた相手を恨むのだろうか。 それとも静かに嘆き悲しむのだろうか。 少なくとも、赤毛のペトラはそのどちらでもなかった。 彼女はこちらに銃口を向けたブリジットを思い出す。ペトラが覚えているブリジットは復讐に身を焦がし、条件付けの副作用に苦しみ悶える可愛そうな少女だった。ペトラの腕の中で血反吐を吐き、必死にしがみついてくるブリジットに保護欲が沸いていなかったと言えば嘘になる。 それが担当官と共に突然の失踪。ジャコモの活動再開と時期が重なったこともあって、公社もそれほど全力で足取りを追うことが出来ていなかった。一部では任務途中に担当官共々殉職したとされ、死亡説まで流れた程である。 かく言うペトラも直近に見ていたブリジットの様子から、半ば死亡説を信じていたのだった。 だからこそ、あの日見た光景が未だに夢のようで、地に足が付いた感触がしない。「ねえ、アレッサンドロ」 日課である射撃訓練を終えた彼女は、汗をタオルで拭きながらこちらを見守っていたアレッサンドロに問いかける。「あなたの観察眼から見て、ブリジットってどんな娘?」 ペトラの問いにアレッサンドロが顎に手をやりながら考える。彼はペトラとブリジットが直接戦った場面を見ていない。だが自分が担当する義体でもあり恋人でもあるペトラが痛めつけられたことは知っていた。彼は過去に少しだけ見たブリジットの戦闘能力とスタイルに思いを巡らしこう答える。「少なくとも人間ではないな」 その答えに驚いたのはペトラだ。人間観察を得意とし、その背景を探ることに長けたアレッサンドロがブリジットをどう評するか。それを聞いたはずなのに帰って来た答えは「人間ではない」という彼の特技を真っ向から否定するような言葉。「義体は元々人物像を特定しにくいように作られている。だがそれでも隠し通せない素性という物はある。ブリジットという人物も例外なくな。だが彼女はそこから読み取れる素性が今の人物像に直結していない。これがどういうことかわかるか?」 ペトラは首を横に振る。「俺が読み取った彼女の人物像を挙げてみよう。これは容姿や今の彼女の現状を無視した――――本当に読み取る部分だけで作り上げたブリジットの人物像だ。まず年齢は間違いなく成人している。だが若いな」 アレッサンドロの分析。その一つ目はブリジットが成人と同等の精神を宿しているというものだ。これに関してペトラは大して驚きはしない。ブリジットの元になった人物がもともと十五歳前後だった場合、既に成人近いだけの年齢を重ねていても何ら不思議ではないからだ。 よって黙ってアレッサンドロの台詞を待つ。「次に彼女の性別だが――――これが意外なことにあやふやだ。少なくともブリジットは女と言い切るには難しい」 これには正直面食らった。性別があやふや? 馬鹿な。彼女がれっきとした女であることは公社の誰もが認めている。生理だって確認されてるし、ペトラが一度裸体を見たときも違和感など無かった。それに今現在、適合の問題で義体は女性体しか存在していないはず。 そのペトラの驚きを感じたのか、アレッサンドロはすかさずフォローを入れてきた。「ああ、もちろん肉体は紛れもなく女性体だよ。だが精神面はそれにあらず。あの子の考え方は過去の報告書を見る限り酷く男性的なところがある。まあそれも公社が戦闘用に有利な男性的意識を植え付けていると考えれば辻褄はあう。けれどな、それでは解決できない矛盾があと一つだけ残っているのさ」 ペトラが息を呑む。ブリジットが抱える矛盾。もしかしたらそこに彼女が自分を裏切った答えがあるのではないだろうか。「正直に言おう。彼女は自我を持っている。二期生のお前もそれなりの自我を有しているが、あの子はそれ以上だ。前に報告を聞いてぞっとしたぜ? ブリジットは機嫌が悪いと担当官と目を合わせなかったらしい。じゃじゃ馬で有名なトリエラでさえそんなことはない。いいか? アルフォドさんは担当官として良くやっていたと思うが、ブリジットの制御を全く出来ていないんだよ。彼女は余りにも独断専行が多すぎた。それこそ義体化に失敗した可能性を示唆するくらいには」 自我がある。 当たり前に聞こえることかもしれないが、基本的に義体には自我が認められていない。最低限の、人間として必要な試行的プロセスは残されていても、担当官に刃向かったり、作戦内容に疑問を持てるようになったのはマイルドな条件付けを施された二期生以降だけだ。一期生の中でも最古参に近いブリジットがそんなもの持っているはずがない。一期生はそれこそ誰かが言ったとおり、殺人機械としての側面が余りにも強いのだ。「ブリジットは一期生の中でもかなり強い部類の条件付けを施されてきた。だが実際は他の義体とは比べものにならないくらい自己というものを確立している。恐ろしく高い戦闘力もそれを土壌にしているからだ。いいかペトラ。これは重大な矛盾だ。あの子は人間性を最も否定されていながらもっとも人間らしいんだ。こんな矛盾を抱えて生きていけるのは人間ではありえない」 当初の結論を確認するかのような声色でアレッサンドロが告げる。そのショックな内容にペトラは言葉を失っていた。そして急にブリジットという名の少女が怖くなってきた。 何故なら昨日まで自分たちと同じ義体と思っていた少女が、実は自分たちの存在をすべて否定しかねない恐ろしいものだから。「ああいった奴は本当に危険だペトラ。だから今度遭遇したら全力で逃げろ。最早義体の常識は通用しない。お偉方は未だにそのことをわかっていないが、いずれ手痛いしっぺ返しを喰らうことになるぞ」 怯んだペトラは黙って己の手を見る。数ヶ月前にはか弱い少女を抱きしめていた己の腕。だが彼女の腕に眠っていた少女はいまや、全義体を脅かす怪物になっている。ブリジットがそうなってしまった一翼を自身が担っているような気がしてしかたがなかった。 しかし同時に、もうだいぶんと昔だが、クラエスという義体に怒鳴られた台詞が脳内に渦巻いていた。どうせ私たちは最後にブリジットから全部奪っていくしかないの! 友人も愛する人も愛した物も! あなただってきっとそうするわ!全てを奪われ続けて、或いは最初からそうだったから奪われてしまった怪物ブリジット。彼女の手元には今何が残っているのだろう。自分より短い寿命の中で何を生き急ぐのか。ペトラの瞳に徐々に力が戻る。そして彼女は拳を握り締めた。あなただってきっとそうするわ!今ならクラエスの台詞の意味が分かった気がした。ブリジットからみんな奪い続けた。ならばこれからはブリジットに全てを返してやるべきではないのか。そして自分は多分それが出来る。怖くないと言えば大嘘だ。とても怖い。死ぬことが怖いし、怪物と化した復讐鬼よりも厄介になったブリジットが恐ろしい。けれどもそれ以上に悲しい。このまま何も返されずに奪われたまま死んでいくブリジットが。誰かに何かを与え続けたまま死んでいくブリジットが。今度はペトラがブリジットに何かを捧げる番だ。いや、公社にいる全員が彼女に全てを一つ一つ返していかなければならないのだ。ならば自分はその先陣を切って見せよう。自分でも知らない間に笑顔が零れた。「アレッサンドロ」 アレッサンドロがこちらを見る。その表情はペトラが何を告げるのか予想しているかのようなものだった。だからこそここまで困ったように苦笑しているのだろう。 ペトラはそれを見越して、己の愛しい人にこう告げた。「私、ブリジットに勝ちたい」 星と雪が綺麗だと思った。 ブリジットはコートを肩に掛けながらとある建物の屋上にいる。今なら思い出せる。昔、こうしてアルフォドと共に星を見上げた。まさかこうしてその記憶を思い出すことになろうとは。 傍らに立つアルフォドがそっとブリジットの肩を抱いた。「……もう直ぐ戦いがはじまる。恐らく最後の戦いが近い」 ジャコモやクリスティアーノはつい先日バルト三国経由で核を手に入れていた。その爆弾が何処に使われるのか、組織に信用されていないブリジットとアルフォドは知らない。だが恐らく標的は社会福祉公社だろう。「沢山人が死ぬだろう。私も君も沢山人を殺すだろう」 だから、と続ける。 白い息で星を見上げたまま続ける。「共に地獄に堕ちよう。もう君には謝らない」 ブリジットがアルフォドに身を寄せた。彼女は赤みを増した表情で彼を見上げる。「よろこんで」