「トリエラ! ベアトリーチェ!」 封鎖されたエレベーターホールを突破して一人の少女が鐘楼に乗り込んできた。ベアトリーチェの腕が吹き飛ばされて約二分程経過しており、彼女らを取り巻く状況は悪化するばかりだった。「くそっ!」 新しく増えた義体の応援に、鐘楼に籠城していた活動家達が一斉に銃口を向ける。だが、いくら第一世代の義体の中で一番戦闘力が低くても、義体は義体。アンジェリカは危なげなくそれらを処理していく。 一人目は手にしたアサルトライフルで。二人目三人目も同じように。 四人目を相手したとき、丁度弾倉が空になり、持ち替えたサイドアームズのワルサーで駆逐していく。 アンジェリカという名がたとえ天使を模していたとしても、活動家達から見ればディアボロ、彼らが悪魔と呼ぶ義体そのものだった。「アンジェリカ!」 中央に詰まれた木箱の影からトリエラが手招きする。援護射撃するように物陰からベアトリーチェが持っていたミニウージーの弾をばらまいた。 アンジェリカはミリタリーブーツの底を滑らせながら、木箱の影に飛び込んできた。「ベアトリーチェは?」「この通り。早く連れて行かないと」 トリエラに抱きかかえられた小柄なベアトリーチェには腕がない。 狙撃手―――おそらくアンチマテリアルライフルによって吹き飛ばされた彼女の腕からはとめどなく血が溢れており、大変危険な状態となっていた。「撤退命令は出てないの?」 狙撃手に睨まれ、これ以上鐘楼で暴れることが出来なくなった以上、最早彼女らに残された道は撤退か死か。 頭上に吊されたミサイルのことも気になる。「ううん。課長はジャコモを探せって、命令してる。でも多分奴はここにいない。それにこの上のミサイルを何とかしないと」「海に投げるのは?」「ベアトリーチェがやろうとして腕がなくなった。誰かが狙撃手を片付けてくれないと身動きが出来ない」 忌々しそうにトリエラが毒づく。 外では何度かロケット弾が炸裂する振動と砲声が轟いており、激戦を物語っている。このまま活動家達が公社とGISに押されるようなことがあると、下手をすれば頭上のミサイルで自爆自決しかねなかった。「それよりアンジェリカ、人質はどうしたの?」「ワイヤーで下ろしたよ。GISの人たちが下で受け取ってる」 そう、とトリエラは息を一つ吐く。速断することは危険だが、取りあえず懸念事項として存在していた人質の解放は成し遂げられたようだ。 あとは鐘楼を制圧し、ジャコモを見つけ出すだけだがキロ級スナイパーに見張られている以上、ここから飛び出すことは出来ない。「あと何人くらい残っているんだろう」「わからない。私が四人倒したから、もうそんなに残っていないと思うけど」 死角を伺うための鏡を取り出し、木箱の影から様子を伺う。 銃弾に倒れ、痛みに苦悶を上げている人間は何人か存在しているが、二つの足でしっかりと立っている人間は見当たらなかった。「ねえ、トリエラ」 鏡をしまい、アサルトライフルの弾倉を取り替えたアンジェリカが口を開く。「どうしたの?」 対するトリエラは荒い息を吐き続けるベアトリーチェを抱え、反対側から様子を伺っていた。「私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」「うん」 驚きはない。一期生の寿命が差し迫っていることなど皆が知っている。ブリジットの意識が殺され、公社からいなくなったことも、一部の子達の間では死亡説が流れているほどだ。 まだまだ義体の技術が未熟で確立されていなかった時代の産物である彼女達は、多大な脳負担により徐々に弱りながら死んでいく。 アンジェリカはさらに続けた。「強いお薬も条件付けもそんなに受けなかったからここまで生きてこれたけど、本当なら私もっと早くに死んじゃってたと思う」 トリエラはそんなアンジェリカをそっと抱き寄せた。二人の年下を抱きしめながら、彼女は中空を見上げた。「だからブリジットがいなくなったのは私の代わりなのかもしれない。私が死ななかったからブリジットは消えたのかもしれない」 そんなことはない。 その一言がトリエラの口から出てこなかった。 何故なら彼女自身も同じようなことを考えていたから。ブリジットが全員分の不幸を背負って、一足先に消えてしまったと錯覚しているから。「私、最近犬の夢を観るの。大きな大きな白い犬。もしかしたらどこかで飼っていたのかもしれないね。……ねえ、ブリジットが飼っていた猫は元気?」「ヒルダならクラエスと遊んでいるよ」 そう、とアンジェリカが微笑む。 彼女はアサルトライフルを構えてトリエラに笑顔を向けた。「なら、私が囮になってくる。その間にベアトリーチェと撤退するなり、ジャコモ探すなり頑張って」 トリエラは何も言えない。何故ならそれが今できる最善手であると彼女の中に根付いた条件付けが囁いているのだから。 スナイパーの銃口をアンジェリカが引き受けてくれるのなら、このまま木箱の影に釘付けにされることもなくなるのだ。 それに瀕死の重傷を負ったベアトリーチェも救うことが出来る。 だがベアトリーチェを正確に狙撃し、トリエラの間近に至近弾を撃ち込んだ狙撃手の腕だ。囮になったアンジェリカの命の保証はされないばかりか、その凶弾に倒れる可能性が高い。 たったそれだけの事実が、トリエラの首をタテには振らせず、アンジェリカを抱き寄せたままその手を離すことはなかった。「……トリエラ」 アンジェリカがそっとトリエラの手を取る。彼女が掴んで離さない自らの裾をそっと解いていった。「私行くよ」 だめ、の一言がどうしても出てこない。アンジェリカがトリエラから離れる。手を伸ばせばまだ届く距離だ。 トリエラは葛藤する。 そうだ。 前は、ブリジットの時はこの距離で手を伸ばさなかったから―――、『言ったでしょ。あなたたちの活動には出来るだけ協力してあげるけど、昔の仲間を見殺しにするわけにはいかないの。だから一回だけ彼女達にチャンスをあげる』 アンジェリカが振り返った。トリエラの身体が固まる。 懐かしい、でも聞くだけで悲しくなりそうな声。それが自らの胸元から聞こえてきていることに気がつくまで、トリエラは固まったままだった。 声は続ける。 昔彼女達に対して向けていた優しい声ではない。それはもう自分たちとは違う、遠い遠い場所に行ってしまったかのような、どこか夢うつつな音。『トリエラ、良く聞きなさい』 そんなこと、言わなくても分かっている。 お前の声なんか、忘れるものか。聞き逃すものか。 あれだけ、あれだけ求めていたものなのだから。 そして声は無情にも言い放った。『あと十分足らずでそこが吹き飛ぶわ。あなたたちの探しているものはそこには存在しない。ベアトリーチェを連れて下に降りなさい。じゃあね』 アンジェリカは動かない。いつの間にか腕の中にいたベアトリーチェでさえ時を止めていた。 声は、ブリジットはこちらのことを知っている。「あんの、馬鹿!」 一言吐き捨てると、トリエラはベアトリーチェを抱きかかえたまま木箱の影から飛び出した。狙撃はもうないと確信して。アンジェリカもそれに続き、残された活動家達を地に叩き伏せていく。 やがて二人はトリエラとベアトリーチェが登ってきた南側の壁面にたどり着いた。「はあ、はあ……。くっ。残り何人くらい?」「もう無視して言い数だと思う!」 アサルトライフルのバーストを繰り返しながらアンジェリカが返す。彼女が活動家達と戦っている間、トリエラは自分たちが登ってきたワイヤーにフックを引っかける。「これ!」 アンジェリカにベアトリーチェが使っていたワイヤーを手渡し降下の準備を終了させる。 爆発までの残り時間はわからない。だが一刻も早くこの場から離れなければ全てが吹き飛んでしまう。 アンジェリカも降下の準備を終え、二人して南側の壁面に飛び出す。義体達の意図していない行動に作戦指揮部が悲鳴を上げるが二人はそれを無視した。「命令無視が自分の十八番だと思ってるのなら巫山戯ないで!」 たん、と壁面をブーツで蹴った。重力に引かれた二人は何者にも阻害されることなく下に落ちていく。「私だってやるときはやるんだ!」 ブレーキを掛けることなく、ベアトリーチェを抱きかかえてトリエラとアンジェリカは鐘楼から離れていく。地面まで残り十メートル足らず。 上の方で閃光が弾け、轟音が世界を支配する。「アンジェリカ!」 トリエラは楔が砕け散り、ワイヤーによる補助がなくなったアンジェリカを腕に抱えた。三人で残された命綱を握り締め、海面へ接近する。「もう少しだから!」 音に遅れて到達する熱風と破片が三人を傷つける。だがまだ終わっていない。 だが三人を支えていた命綱も焼き切れた。「ああああああああああああっ!!!!!」 ヴェネチアの海にトリエラの叫びが木霊する。彼女は腕にアンジェリカとベアトリーチェを抱きしめたまま海面に叩きつけられた。 「アシク、お願い」 彼の目の前にはその美しい上半身を惜しげもなく晒したブリジットがいた。だが彼女の雪のように白い肌には、―――正確には右肩には痛々しい銃創が刻まれている。 そこから流れ出た血は彼女の雪原を赤々と汚していた。「いいのか?」「早く」 有無を言わせずブリジットが身体をアシクに差し出す。 彼は手にしたナイフを持っていたライターで炙り、そっとそれを傷口にあてがった。そしてナイフが銃創に沈んでいく。「うぐっ」 ブリジットは歯を食いしばるためタオルを噛んでいた。痛みに意識が飛びそうになるが、喧しいヘリのローター音に意識を傾け気絶しないようにする。「もう少しだ」 アシクはナイフの先に何か堅いものを見つけた。傷口を筋肉などを傷つけないように切り広げ、そっと人差し指と中指をねじ込む。 ブリジットが声にならない叫びを上げた。「―――――――っ!」「すまない! もう少しなんだ!」 堅い何かをつまみ上げ、素早く傷口から取り出す。それはペトラによって撃ち込まれた9ミリの弾丸だった。 からん、とブリジットの粘つく血を纏って弾丸が床に棄てられる。 アシクは再びナイフをライターで熱すると、それをブリジットの傷口にあてがった。「熱い!」 肉が焼ける匂いと共に、ブリジットの傷口が塞がれていく。随分と手荒な治療だが、ブリジットがアシクに依頼したことでもある。「終わったぞ……」 全身から脂汗を吹き出しながら、アシクは息を吐く。医療品として持っていた消毒液をブリジットの焼いた傷口にぶっかけ、静かにシートへ身を預ける。「ありがとう。でももっと優しくしてよ」 脱いでいた下着と上着を着直し、ブリジットが愚痴を垂れる。彼女は床に落ちていた弾丸を拾い上げるとしげしげとそれを見つめた。「今まで何度も弾丸の摘出手術はしたけど、こんな手荒なのは初めてだ」「アジトに戻るまで我慢する方法はなかったのか?」「撃たれた場所が場所だからね。それに骨までは達してなかったから抜けると思ったんだよ。まさかこんなに痛いとは」 傷口を押さえながらブリジットもシートに身を沈める。すると遠くの方で機体を揺らすほどの爆発音が聞こえた。「……トリエラ達逃げ切れたのかなあ」 無線で逃げろとは警告した。だがあの短時間、果たして鐘楼から脱出する方法はあったのだろうか。「―――今回のことはジャコモにもクリスティアーノにも報告はしない」 ぼおっと窓の外を見ていたブリジットにジャコモが声を掛ける。するとブリジットは意外そうな表情をしてアシクを覗き込んだ。「何で?」 敵である義体達の命を助けたことについて、厳罰が下ると思っていたブリジットは疑問符を浮かべながら問う。その様子を見たアシクはブリジットの傷口があるであろう右肩を指さしてこう答えた。「これで貸し借り無しだ」 そしてそれっきり言葉を発することはなくなった。 どうやら彼を庇って射線に立ったことがプラスに働いたようだった。殆ど義体の本能で行動したようなものだったが。 もうアシクと会話することは出来ないと判断したのか、ブリジットはアシクとは反対方向、ヴェネチアの海が広がる外の景色を見やる。「あーあ、早くアルフォドさんに会いたいなー」 シートに身を預けたブリジットはそっと瞳を閉じる。 彼女が悪夢を見ることはもうなくなった。だが同時に、自分の一番の理解者であったヒルダの夢を見ることもない。 それについて一抹の寂しさを抱きながらも、これが自分の選んだ道だとブリジットは自らを納得させる。 外では西日が傾き、ヴェネチアの海をいつものように照らしていた。 と……え……らっ! とり……えらっ! トリ、エラ! トリエラ! 自分を呼ぶ声に目を開けた。視界に広がったのはこちらを見下ろしているヒルシャーの顔だった。「あっ……」 彼の顔を見て、体中を襲う痛みに眉をしかめながら起き上がった。 私は担架の上に乗せられていて全身ずぶ濡れだ。だが大した怪我は見えず、五感にも以上はない。「……アンジェリカとベアトリーチェは?」 彼女達を抱えてたまま海面に叩きつけられてたことは覚えている。おぼろげな記憶を頼りに鐘楼を見上げてみれば、自分たちが戦っていた頂上部分が丸ごと吹き飛んでいた。「アンジェリカは元気だ。現場の収集に当たっている。ベアトリーチェは公社の医療施設に運ばれた。君の処置のお陰で命は助かったよ」「そうですか……」 安心感からか一気に体中から力が抜け、担架の上に再び横になる。 ヒルシャーには悪いが、しばらく起き上がれそうにもない。 彼もそれをどうにかしようとは思わないのか、そのまま私の傍らに立った。「だがペトラが負傷した。何でも狙撃手の女にやられたそうだ」 それを聞いて私は納得した。そうか、秘匿回線で私たちに語りかけてきたのはやっぱり彼女だ。 私は大きなため息を一つ吐き、夕日が傾くヴェネチアの空を見上げた。「絶対にその首根っこ捕まえて叱ってやる。あの気まぐれ猫め」 自分でも清々しいくらい良く通った声色に、驚いたヒルシャーがたたらを踏んだ。 ヴェネチアの一番長い一日 了