一人黙々と、エレベーターのワイヤーを登る。 外でトリエラ達が外壁を登坂しているように、アンジェリカも鐘楼の頂上部に到達するため密かに駒を進めていた。 ブリジットとエルザの反省を受け、義体運用が大幅に見直された所為で皮肉にもアンジェリカはここまで生き延びてきた。 最近は物忘れが酷く、定期的にアンプルを静脈注射しなければ生きられない身体だが、彼女もまた自分を可愛がってくれた上級生達のために、担当官であるマルコーのために戦い続ける。 誰も居ないエレベーターの経路は時折外の銃声が響き渡る。情報によればエレベーターの中に拘束された人質が閉じ込められているらしい。 彼女の任務は鐘楼への突入はもちろん、閉じ込められた人質を無事解放する役目も担っている。「はあ、はあ」 彼女の戦いは孤独な戦いだ。GISも同行すると主張したが、どのような罠が仕掛けられているか分からない以上、生身の人間が鐘楼に突入するのは無謀である。 実際義体の突入に同行した数人のGIS隊員が既に殉職している。 五共和国派の活動始まって以来の大規模な死者数に、皆が苛立っていることが無線越しに伝わってきた。 そしてトリエラと共に突入していたベアトリーチェの負傷も。 しかも彼女の負傷は四肢を欠損するほどの重傷らしい。 アンジェリカはワイヤーを掴む手に自然と力が入るのを感じながら、登坂していくペースを上げるのだった。 「銃声?」 無線は突入した二人の義体のうち、ベアトリーチェが負傷し、トリエラもスナイパーの所為で身動きが出来ないと全軍に伝えていた。 ジャコモが居る場所を探していたアレッサンドロとペトラは高足ボートの上で地図を相手に議論を繰り広げている。「はい。ここから南の方角で。しかもレミントンのような対人銃の銃声じゃありません。恐らく対物狙撃銃です」「……アンチマテリアルライフルか。だとしたらサンクレメンテ島か」「でもここから二キロは離れていますよ?」 ペトラの言うとおり二キロという距離は狙撃をするのに於いて殆ど現実的ではない数字だ。重力ばかりか地球の自転にすら弾丸は影響される。それらを考慮した上で動く人間を狙撃するなど神業に等しかった。 だが理論上は、アンチマテリアルライフルなら、弾丸自体の殺傷力を保ったまま標的を撃ち抜ける。「だとしたら厄介だな。援軍を呼んでいる暇はない。俺たちだけで始末するぞ」「そこにジャコモが潜伏している可能性は?」 殆どの人間が鐘楼にジャコモが潜伏していると考えている中、彼らフラテッロはそれに対して最初から疑問を抱いていた。十五年ほど前に別の事件で鐘楼が占拠されたとき、主犯格の人間がその場にいたため、今回の事件も同じイメージで語られている節がある。「正直何とも言えないが……、俺の感はもっと不味い奴がいると言ってるな」「不味い奴、とは?」 ペトラの疑問にアレッサンドロは苦笑しながら答えた。 それは彼がいつも見せる皮肉げな笑み。「二キロ離れた人間の腕を正確に撃ち抜けるスナイパーだよ。出来れば顔も見たくない相手だ」 ごくり、とペトラの喉が鳴る。 そして彼女はふと、昔一時期だけパートナーとして共に戦っていた、悲しい義体の少女のことを思い出していた。 「撤退?」「そうだ。今脱出用のヘリを呼んだ」 隣で観測用のスコープを片付け始めたアシクを見てブリジットが疑問の声をあげる。確かに勘の良いトリエラのことだ。こちらが何処から鐘楼を狙っているのかもう公社にばれているだろう。 そうなれば完全武装のGIS隊員達が大挙して押し押せてくる可能性もあった。よって彼の判断は正しいと言える。「でも鐘楼に残っている人間はどうするの? こっちにヘリコプターを呼んだら彼らは逃げれないよ」 彼らが用意しているヘリはたった一機。もともとは鐘楼に立てこもった活動家達が逃走するために用意したものだ。そのためのヘリを自分たちのために使用したのでは、見殺しも良いところである。 だがアシクは極めて冷静にこう返して見せた。「彼らはどのみち名誉の自爆を選ぶ。あの天井に釣られたミサイル弾頭は時限式で自爆する。時間はあと十五分ほどだ」 ブリジットの動きが止まる。確かあのミサイルは交渉用のミサイルだったはずだ。なのにアシクが言うにはあれは時限式で辺りを吹き飛ばす爆弾らしい。「なんて、こと」 彼女は再びスコープを覗き込んだ。こちらの様子を警戒しているのか身動きできなくなっているトリエラとベアトリーチェは鐘楼を脱出していない。 このままでは彼女達も五共和国派の活動家達と共に木っ端微塵だ。「……調子に乗りすぎた」 ブリジットは思考停止しそうな頭で必死に考える。時限式になっているミサイルの起爆装置を狙撃する―――却下。そもそも構造を知らない上に誤爆の可能性がある。 アシクが手にしている連絡用の無線機で自爆しないように説得する―――もっと却下。そもそも作戦として成り立つ以前の問題だ。 トリエラ達に直接連絡を取ろうにも今彼女は公社が使用している無線機を持っていない。 つまりトリエラ達に脱出を促すための手段を彼女は有していないのだ。 たとえ、自分とアルフォドの為に生きると決めていた彼女でも、仲間だった義体の少女達を見捨てることは出来ない。 いよいよこれまでか、と冷たい汗が地面に落ちたとき、皮肉にも救いの手は今は敵となった公社から差し伸べられた。「動くな!」 叫び声に振り返る。 見えたのは赤毛の少女だった。彼女はベレッタ拳銃をこちらに構えて牽制の体勢を取っていた。「ペトラ……」 そう、こちらに銃口を向けていたのは、今となってはもうまともに話したこともない、けれど少しの間だけともに戦場を駆け抜けてきた仲間の義体だった。「ブ、ブリジット? なんで君が……」 驚いたのは向こうも同じ。一瞬だけ彼女の体勢が揺らぐ。それを見逃す程ブリジットは耄碌していない。素早く腰元のホルスターからSIGを抜き出すとペトラが手にしていたベレッタを弾き飛ばした。 そして―――、「つっ!」 姿勢を低くし、地を這うようにペトラに襲いかかる。ブリジットが放ったローキックは寸でのところで止められるが、反対方向から叩き込んだ拳はぺトラの右頬にしっかりと食い込んでいった。 そして思わずよろけたぺトラを羽交い締めにし、ナイフで首元を圧迫する。「動かないで」 その瞬間、世界は確かに止まる。身動きが出来なくなったペトラを締め上げ、苦悶の声を上げさせる。そして耳元でそっと、囁くようにブリジットは問うた。「アレッサンドロはどこ? ここには何人で来たの?」 ペトラは答えない。だがその様子から、ブリジットはアレッサンドロがこの場にいないことを悟った。彼女がこのような状況に陥っても彼が一向に現れる気配がないからだ。 ブリジットはこれは好都合だとほくそ笑んで見せる。「なら少し借りるわ。トリエラとはどのチャンネルで繋がるの?」 締め上げたまま、胸元に隠されていた無線に手を伸ばす。ペトラはまたしても答えないが、ブリジットは昔自分がトリエラと共有していたチャンネルに合わせてみた。すると彼女の予想通り、鐘楼の中に釘付けにされて動けないトリエラの声が聞こえてきた。「この無線機はね、オープンチャンネル以外に義体間だけのチャンネルも存在するの。あんまりみんな知らないけどね。今回で覚えておくと良いわ」 ブリジットはナイフをペトラの首元から外し、彼女の足首に素早く突き刺した。そして足の健を切り裂いていく。「ごめんなさい。暫く動かないでね。アシク、脱出用のヘリを早く呼びなさい。それと出来ればこれからのことは他言無用で」「何をするつもりだ」「言ったでしょ。あなたたちの活動には出来るだけ協力してあげるけど、昔の仲間を見殺しにするわけにはいかないの。だから一回だけ彼女達にチャンスをあげる」 アシクは何も言わなかった。ブリジットはそれを了承と取り、無線機に語りかける。 それは哀愁も懐かしさも介在しない、淡々とした内容。「トリエラ、良く聞きなさい。あと十分足らずでそこが吹き飛ぶわ。あなたたちの探しているものはそこには存在しない。ベアトリーチェを連れて下に降りなさい。じゃあね」 わけがわからない。 ペトラは足から流れ出る血を見ながらそう思った。 何故ここにブリジットがいるのか。何故ブリジットがこちらに銃口を向けたのか。何故ブリジットがこちらを切りつけたのか。 自分は狙撃手が隠れているであろう、サンクレメンテ島の高台に踏み込んだはずなのに、どうしてここに彼女が居たのか。 ペトラは朦朧とした意識の中、激痛に歯を食いしばり、腰元に手を伸ばした。ブリジットは気づいていないのか、そこにはもう一丁小型拳銃が隠してある。 幸いブリジットはこちらに意識を向けていない。狙うなら彼女だろう。だがペトラはそれが出来なかった。 例え自らを害されても、復讐に苦しみ、自分の腕の中で泣いていたブリジットを撃つことが出来なかった。 だからブリジットと随伴していた黒人の男に銃口を向ける。静かに撃鉄を上げ、狙いを定める。 黒人がこちらに気がつく。だがもう遅い。 ペトラはブリジットに裏切られた怒りを黒人にぶつけることにした。そうだ、この男がブリジットを狂わせているんだ。 だが彼女を絶望させる出来事はまだ続く。 黒人に向けて引き金を引いたとき、あろう事かブリジットが射線に割って入ったのだ。彼女は肩を押さえてうずくまり、残された片腕に手にした拳銃でこちらの手首を撃ち抜く。「おい、しっかりしろ!」 黒人がブリジットを肩で支え、彼らが居た塔の窓際に近づく。すると窓の向こうでは横扉を開け放ったヘリコプターがホバリングしていた。 彼女達が告げていた脱出用のヘリが到着したのだ。「ごめんね。ペトラ。私はここで戦うことにしたんだ。私のために、愛する人の為に。だからもう二度と会うことのないように願っているよ」 ホバリングしているヘリコプターの中にブリジットが乗り込んでいく。 そして彼女は一言、最後にこう残していった。「さようなら」