隣でアンチマテリアルライフルを構える少女をちらりと盗み見る。 流れるような黒髪は肩胛骨より少し上まで伸び、スコープを覗いている瞳は黒。対するもう一つの瞳は義眼なのか鳶色をしていた。クリスティアーノから支給された戦闘服に身を包み、とても年相応とは言えない出で立ちで獲物を見張る。 先ほどこちらを小馬鹿にしたように見せていた少女性はとっくの昔に消え失せており、今は何かのために戦うただ一人の戦士としてそこに存在していた。 彼女の戦闘力はここ数日で嫌と言うほど見せつけられている。 訓練と称しナイフで武装した男達の中に素手で放り込まれても、何一つ慌てることなく全て無力化させて見せた。その手並みはお見事としか評することが出来ず、彼女が刷り込まれている戦術眼に畏怖したものだ。 アルフォド曰く、公社でもここまで純粋に戦闘力が高い義体は存在していないらしいので、彼女はまさに最強の戦力と言える。 特に狙撃に関しては条件付け関係なく天賦の才があったらしく、サンマルコ広場から2キロ離れたここからでも正確にターゲットを射抜けるそうだ。 彼女の撃ち抜くなら腕か足という台詞がそれを物語っている。 つまり、間違っても急所には当たらないと宣言しているようなものなのだから。「ふわっ」 作戦開始まであと一時間ほど。海風なびくヴェネチアの陽気に当てられたのか隣の少女、ブリジットが欠伸を漏らす。 本来なら緊張感がないと叱るところなのだろう。だがブリジットの保護者でもない自分では何も出来ないと、敢えて見逃すことにした。「ねえ、アシクさん」 だから突然こちらの名を呼ばれたとき、とっさに反応することが出来なかった。 沈黙のまま様子を伺ってると、返答がないことを大して気にした風もなくブリジットが続けた。「どうしてみんな戦いたがるんでしょうね。こんな風に潮風に身を任せて昼寝でもしていれば良いのに」 ブリジットの台詞に答えるべきか否か、アシクは静かに苦悩する。余り会話を続けることが良くないのは当然だ。相手は公社を裏切った義体だとしても、もともとは自分たちの天敵であり、憎むべき敵である。 化け物と活動家達は恐れ、今回の占拠作戦でも最優先撃破目標に指定されている。 彼女達を排除するためだけにロケット弾などの銃火器も持ち込まれているのだ。「わざわざ安寧を壊してまで戦う。大人しくしていれば人生こんなにも幸せなのに」 スコープから視線を外し、ブリジットはライフルの横に寝転がった。そして何処までも青い空を見上げる。「人々は殺し合い、憎み合い、そしてまた殺す。無意味な悪循環は止まることを知らず、弱者を殺し尽くす。あれかなあ、みんな殺し尽くしたら世界は平和になるんだろうか」 アシクは遂に耐えきれなくなった。彼女の古傷を抉るかのような言葉は、彼の中に静かな激情を育てるのに十分すぎるほどだった。「人間は、そこまで割り切れるほど強くない。振り上げた拳を叩きつける先が必要だ」 アシクの初めての言葉にブリジットは目を丸くする。 そして唇の端をつり上げて笑うと、明朗快活にこう告げた。「なら振り上げた拳を全部叩き潰せば争いはなくなるの? 拳を振り上げないと人は死んでしまうの?」「下らないことを言うな。いくら人は闘争する生き物と言っても限度がある。そんなことをしていればいつか自分が砕け散る」 その言葉をブリジットは笑った。決して声をあげて笑うのではなく、静かに、だがしっかりと愉快の意味を込めて。 彼女は義体にあるまじき、とても人間らしい笑みを浮かべながら口を開く。「ならジャコモが掲げる闘争の先は何処まで続くんだろうね。終わりは何処? どこまで砕け散らないで戦えるの?」 その問いに対する答えをアシクは持たない。 何故なら彼はその答えを得るためにジャコモに従うのだから。 だが己の中で、いつしか抱いていた疑念が膨らんでいることを、彼自身が気がついていなかった。 闘いは一発の銃弾から始まる。 鐘楼の窓際に立っていた活動家を、GISの隊員が狙撃したのが全ての始まりだ。 火種はあっという間に燃え広がり、灼熱の戦場をヴェネチアに提供する。 地上からはアサルトライフルの弾丸が数多と鐘楼に撃ち込まれ、鐘楼からはロケット弾を持ってその返答とする。 その中でトリエラとベアトリーチェは鐘楼の壁面に楔を打ち込み、今まさに登坂しようとしていた。「ビーチェ、どちらが先に上る?」「私が行く」 ミリタリーブーツを履き込み、ミニウージーで武装した彼女はハーネスを自身の身体に括り付けてそういった。確かにサブマシンガンで武装している彼女の方が、面制圧力において優れているので適任と言える。 だが、登坂している間はどうしても無防備になる以上、戦闘を上るということは大きな危険を意味していた。 そのことをトリエラがベアトリーチェに告げると、「でも、トリエラは会いたいんでしょう? ブリジットに。ならこんなところで死んだら意味がない。あなたは私が必ず守ってみせる」 登坂の順番が決まったのはその瞬間だった。ミニウージーを肩から下げ、彼女は訓練通りにするすると上っていく。 彼女達の頭上ではお互いの弾丸が鉄火雷風の様に往来し、ヴェネチアの海を血で染めていた。 トリエラは登坂している間、今は行方不明の元相方について考えた。 ブリジットならこの状況、どうやって切り抜けるのだろうか。公社の命令通り、素直に登坂していくのだろうか。意外と命令無視の常習犯の彼女のことだ。さらりと違った方法でたどり着こうとするのではないか。 そうやって色々と考えながら登坂していると、上からロケット弾が降ってきた。 ベアトリーチェが対応出来ないそれを私が蹴り上げて軌道を逸らす。 矢面に立っている彼女に対してせめてもの償いだ。「……ありがとう。トリエラ」「どういたしまして」 頂上部到達まで残り十メートル。「……義体が二人、鐘楼の壁をよじ登っているそうだ。確認できるか?」「こちら側からじゃ何も見えないよ」 銃声と爆音がここまで届いても、戦場の怨嗟までは届かない。スコープから覗く景色が例え戦場であっても、ブリジットの周りはまだ穏やかな水上都市だった。「GISの隊員は?」「数人見えるけど、ここから撃ったら間違いなくこちらの居場所がばれる。まだ様子見に徹するべきだ」 ブリジットのもっともらしい反論にアシクは臍を噛んだ。積極的に戦いたいとは思わないが、隣にいる少女がこうして何もせず、かといってこちらに反抗もしない今の状況が煩わしい。 意図せず内に彼女に対して執着心を抱いていることを、彼は認めざるをえなかった。「……仮に二人の義体が鐘楼に到達したら、上にいる人間はどれだけ持つ?」「40秒持てば充分褒められるよ。私が突入したら20秒」「……大した自信だな」「だからそろそろ脱出用のヘリを呼んであげなよ。どれだけ逃げられるかはわからないけど」 スコープを覗き込んだまま、ブリジットは続ける。「それに、私たちみたいな殺人人形相手に生身の人間が戦わせられるのも可愛そうだ」 戦いに望むと、いつも精神が高揚した。 いつもそうだ。義体達はみんなそういう風に作られている。 そこに動機も目的もない。 けれど私は違う。 私は生きるために戦う。 こうして戦場で生きていたら、 あなたにもう一度、どこかで会える気がするから。 だから私は戦うんだ。 トリエラとベアトリーチェが鐘楼に到達する。突入のさい、窓際にいた男をショットガンで吹き飛ばす。こちらに銃を向ける男に対しては、地を這うように接近し短剣を抜く。 男がナイフで応戦してきても、それをかわし、すれ違い様に腹を切り裂いた。 ベアトリーチェも撃ち尽くしたミニウージーの弾倉を取り替え、落ち着いた様子で活動家を始末している。 無線に耳を傾けると、下の方で同期だった二人の義体がクレイモアで死んでしまったらしい。一瞬アンジェリカが巻き込まれていないか肝を冷やすが、彼女は第二突撃部隊としてすでにエレベーターのワイヤーを伝って登ってきているそうだ。 順調に制圧が住んでいる安心感に身をゆだね、少しずつ、だが確実に鐘楼を制圧していく。 だがふとした瞬間。いいようもない不安に駆られて思わずウィンチェスターを構えた腕を引っ込めた。 そして、いままで腕があったところを吹き飛ばすように穿たれた銃痕を見て戦慄する。「スナイパー!」 ベアトリーチェに叫ぶ。彼女は頭上を見上げていた。 トリエラも釣られて上を見上げると、鐘楼の天井部に鎖でミサイルと思わしき物体が括り付けられている。 間違いなく五共和国派が用意した自決用の爆薬だ。 そしてベアトリーチェはそれを処理しようとしたのだろう。徐に手を伸ばし―――、「伏せて!」 遠くの方で発射音。 トリエラが感じた不安が再び身を焦がし、喉の奥から叫び声を上げさせる。 だが彼女の声はベアトリーチェに届かない。彼女はミサイルに伸ばした右腕を引き千切られ、くるくると回転したままトリエラの元へ堕ちてきた。 ドサクサに紛れてこちらに銃口を向けてきた男をショットガンで吹き飛ばし、中央に詰まれていた木箱の影に二人で身を隠す。 ベアトリーチェはどうして自分の腕がないのか、その意味も分からないまま、朦朧とした意識でトリエラにしがみついていた。「ごめん、なさい」 トリエラは持っていた止血バンドで、ベアトリーチェの残された肘から肩に掛けて縛り上げる。取りあえずこれで義体ならば生命の心配は無いが、楽観するには重すぎる傷だった。 何処から撃たれたのかおよその見当しか付かないが、義体の腕が吹き飛んだ以上、並の狙撃銃の性能ではない。 そして狙撃手の能力も。 だがトリエラは一人だけ、これだけの狙撃をやって見せる人間を知っていた。「まさかあなたなの」 木箱の物陰から、弾丸が飛来したであろう方角を睨み付ける。 姿形は見えずとも、確かに感じる圧力がそこにはあった。「ねえ、ブリジット」 答えは、トリエラの直近で弾けた弾丸の痕だった。