ケプラー繊維で出来た拘束バンドで締め上げられたブリジットを、アルフォドは黙って見つめていた。彼が下した「何があってもじっとしていろ」という命令に彼女は従う。 目隠しをされ、猿轡を噛まされても不平を漏らすことは無かった。「大した忠犬ぷりだな。余程首輪の強度があると見える」 首輪、とジャコモに告げられて顔を顰めるアルフォドだが、彼が何かを返すということはなかった。ただ招かれたコテージの一室でアシクと呼ばれる黒人の男に手にしていた装備を預けていた。「……これはこれから会う人物が提示した必須条件ですので」 頭を一つ下げるアシクに連れられアルフォドは玄関から最も遠くに離れた部屋に向かった。 夏だというのにひんやりと涼しい理由は地下から流れてくる空気の所為だった。「まさかこんなところにいたのか。どうりで公社が見つけられないわけだ」「そちらでは国外逃亡となっている筈です。彼はそれの裏をかきました」 薄暗い隠し階段をアルフォドとアシクが下っていく。そしてその背後から自由を封じられたブリジットを肩に担いでジャコモが続いた。 不意に、明るく広い部屋に出る。 そこでアルフォドは過去の仇敵とも言うべき、ある人物に出会った。「ミスタークリスティアーノ、彼の人物をお連れしました」 アシクの紹介は単なる蛇足だった。アルフォドは資料で、手配書で散々目にしてきた顔がそこにはあった。背丈はそう高くは無いが、精悍な顔つきとほどよい肉付きが過去の名士の面影を残している。 彼の傍らにいる二人組の男女も同じようなものだった。 クリスティアーノと紹介された男はアルフォドを見、そしてジャコモから床に転がされたブリジットを見た。彼はその相貌を歪めると、静かにブリジットに近づいた。「成る程、この娘が我が息子を殺したのか」 彼の憎しみに満ちた声色にブリジットは困惑の色をさらに深めた。ここにいる面々は彼女も手配書として見たことがある人物達ばかりだ。それなのに何故か自分の主人は何も行動を移さない。さらに息子を殺したと言われても、何のことを言っているのか分からなかった。 だがブリジットの困惑を吹き飛ばすように、クリスティアーノの品の良い革靴の先が彼女の腹に食い込んだ。 突然の出来事に対処などしようも無かったブリジットは猿轡の端から涎を垂らし、地に触れ伏す。「……なんの真似だクリスティアーノ」 怒りを称えたアルフォドにクリスティアーノは怯えない。ただ淡々とこう答えた。「これで手打ちだ。社会福祉公社の犬よ。そして今この瞬間から君を同士と認めよう。なに、ちょっとした儀式だ」 アシクに押さえられたアルフォドは地に転がり、苦しそうに息を吐き出すブリジットを横目で見た。だがそちらに駆け寄ることは許されず、最初から用意されていたテーブルに着くことを促される。すでにそこにはクリスティアーノが腰掛け、紅茶を傾けていた。「さて、アルフォド――おっとこれは偽名だったか。では改めて……アルファルド・ジョルダーノよ、君は社会福祉公社を殺せるのか?」 クリスティアーノの問いの意味を悟ったブリジットがこちらを見た。彼女は目尻に涙を浮かべ、拘束されながらも何とかアルフォドに縋り付こうとする。だがその歩みを止めたのはジャコモでもアシクでも、クリスティアーノの傍らに佇むフランカ、フランコでも無かった。「……そのために俺はここに来た」 アルフォドの言葉は呪文だった。一瞬でブリジットの条件付けが施された感情を焼き尽くし、酷く混乱状態に堕とす。「あ、あ、」と声にならない声を上げるブリジットに見向きもせず、アルフォドはこう続けた。「私は彼女をこうした社会福祉公社を許すことは出来ない。そして私自身も。全てが終われば彼女と共に私は死ぬ」 宣告には魔力がこもっていた。それはブリジットに影響を与えるだけにとどまらず、対面に腰掛けていたクリスティアーノも驚かせた。 彼は一言、噛みしめるようにこう零した。「所詮、公社の犬も人の子か……」 こうして、全てを決める賽がようやく振られた。それは本来のブリジットが与り知らぬところで静かに、しかし激しく振られた。 ILTEATRINOから続く因縁は、ブリジットを捕らえて放すことがない。 ブリジットは酷くうなされた。ヒルダの体で寝汗をかき、朝日の中で頭を抱えて座り込んでいた。昨日、静かに一人泣き続けたのは所詮過去のことで、今は今で新たなる問題が浮上していた。「はあ、これだけうなされておいて夢の内容をこれっぽっちも覚えていないとか義体の体じゃあるまいし、どうしたんだヒルダ? もしかしたら現実の方で劣化が進んだのかな?」 これは由々しき問題だとブリジットは身震いした。 せっかくヒルダとの意識体の合体を果たしても、戻るべき肉体が死にかけでは何の意味も無い。彼女は決めたのだ。残酷な運命に抗うと、全てを救えなくてもせめて愛した男のことだけは幸せにしてみると。 そのためにはいくらでも悪魔に魂を売り渡しても構わないと、括っているがそもそも先に死んでしまっては何も出来ない。「ぐずぐずしている暇は無いな。幸いこちらの世界はヒルダが重要だと考える出来事のみしか起こらないから時間の流れは格段に速い。あとは私が頑張るだけだ」 よしっ、と己の頬を叩いたブリジットは飛び上がるようにベッドから飛び降りた。そしてとりあえずシャワーを浴びるべく、ユーリの小汚いアパートの廊下をぺたぺたと歩いた。 そとの世界で何が起こっているのか知らないままに。