「朝日ってこんなに染みるものだったんだなあ」 一人が横たわるにしては大きすぎるベッドの上で少女は起き上がった。特徴的な赤毛が朝日に照らされて一つの絵画のような美しさを伴っている。 彼女は血色のよい両手を静かに抱きしめると、声も上げずに涙した。 もう二度と味わうことの出来ない感触だった筈なのにそこにある生という歓喜。たとえそれが同じ体を共有する同居人が見せている記憶の世界だとしても素直に嬉しかった。「どうしよう、幸せで死んでしまいそうだよヒルダ」 にへら、と笑って見せた彼女に答える者はいない。それでもブリジットは新しい物語の始まりを告げる音を聞いていた。 一度は死に瀕した精神がここまで生を欲しているとは思わなかった。 彼女は血も銃弾も無縁の記憶の世界でもう一度微睡みに身を任せてみた。 ヒルダは一人の食卓が好きな少女だった。彼女はゆっくりと、深く深く何かについて考えるのが生き甲斐だった。そのため誰にも邪魔されることのない食事中に思考を続けるのが趣味だったようだ。 ナイフとフォークを動かし、朝食を口にするブリジットも己の頭が自然と政治や哲学、またここ最近の父との問題を考えていることに気がついていた。 どうやら地元マフィアと懇意にし、政敵を抹殺し続けている父の所行はどこからともなく彼女の耳に入っていたようだ。「本当に気苦労が絶えなかったんだね、君は」 食事を終えた後、スクールの準備を背負って彼女は広い広い屋敷を出た。さすが大御所政治家の娘というか、使用人に見送られながらの登校。 これはこれで息苦しいな、と苦笑していたブリジットの足は自然と学校では無く、街の広場に向かっていた。 どうして彼女がそちらに向かっているのか大方の予想は付く。 それはそれで少し辛く悲しいことだったけれど、ヒルダの過去に挑むと決めた以上避けては通れない道だ。 これからヒルダにとって人生で一番幸せな時間が始まる。でもブリジットは知っている。その幸せのすぐ隣には終わらない絶望がこちらを見ていることに。 彼女は静かに息を吐いた。 必ず絶望を克服してみせる。 それが罪に塗れ地獄に落とされた自分に出来る唯一のことなのだ。 最後ぐらい、誰かを殺すのでは無くて誰かを救ってみよう。 散々誰かを、大切な人を死なせ続けてきた第二の人生だが終わりくらいは全うに生きてみよう。 彼女は今は会えぬ愛しい担当官のことを忘れることにした。 これはヒルダの人生。 ブリジットになるまえの、彼女の追憶。「生きて生きて生き抜いてやる。その先にあるのが何かは知らないけれど負けるもんか」 こうして、彼女の戦いが始まった。 ブリジットという名の少女 義体は赤毛少女の夢を見るか。 広場に向かったあと、ジェラートを一つ購入した俺はそこから北に向かって路地裏を進んでいた。何処か探検めいた行動に足取りが軽くなりそうになるが、これから起こることを少しばかり知っているうちはそういった気分にはなれない。いや、なってはいけないのだと思う。 路地の片隅で寝そべっている男を確認したとき、俺は息を呑んだ。 無精ひげを生やし、薄汚れてはいるがその顔はよく知った者だった。 始めに出会ったのはライフルのスコープ越しだった。互いに狙撃を繰り広げ、最後は俺が仕留めた凄腕のスナイパー。だが、この体の主であるヒルダにとっては何者にも代えがたい、彼女が最期まで愛し続けた男。「ユーリ……」 幸い、俺の呟きは彼には聞こえなかったようだ。こんなに近くに立っても顔の一つもあげようとはしない。 何処かくすぐったい、それでも少し悲しい感情をもて余しながら俺は記憶の通りこう告げた。「ねえ、あなた。どうして昼間からこんなところで寝ているの?」 俺の台詞にユーリはやっと顔を上げる。その表情は明らかに怒りに染まっていたが、もともと持ち合わせているヒルダの胆力と、死線をくぐり抜けてきた俺の精神が怯むはずも無い。 ユーリと目が合い、互いに沈黙が流れる。 この時彼が何を考えていたのかはわからない。それでも俺は内から沸き起こる愛しい感情に驚いていた。 ああ、そうなのか。 やっと腑に落ちたと言わんばかりに、俺の心の中で全てのピースがはまっていく。 ここまで彼を愛していたんだ、君は。 この世界を提供し続ける彼女に会う術など最早何処にも無い。それでもこの感情が彼女の持つものであることなど容易に想像が付く。 ブリジットはユーリを殺してしまった罪悪感よりも、今彼女の代わりに恋に落ちてしまった自分が憎かった。 ここは己の場所では無いはずなのに、確かに自分が生きてきた記憶として存在してしまっている。 そしてこの感情を奪ってしまうことを許してくれたヒルダはもしかしたらブリジットのことを本当に恨んでなかったのかもしれない。彼女はただ知って欲しかっただけなのだろう。人形に作り替えられ、殺されてしまう自分の末路を。そして彼女が過ごしてきた尊い日々の記憶を。 場面が飛んだ。 気がつけばユーリに俺は首を絞められていた。バーで暗殺の仕事を受け持った彼を尾行してみたらこの様だった。どうやらこの肉体は義体だったときのようにはいかないらしい。それほどまで気配を消すのが下手くそだった。 こちらの首を絞めてくるユーリの瞳は何かに怯えているようだった。 そしてそれとは対照的に俺は恐怖を微塵も感じず、ただ彼がまた殺人に手を染めてしまうことに悲しんでいた。 本当、なんて滑稽なことなんだろう。 散々人を殺して血に塗れていた俺が、愛しい人が手を染めることを疎ましく思っている。本当はここにいてはいけない存在なのに、ずうずうしくここにいて、尚且つこの身は汚れていて……。 ユーリが俺から手を離した。彼は二、三歩後ずさると怯えたように俺を見た。 そしてそのまま崩れ落ちるように床に腰掛けた。彼は俺を殺すことが出来なかった。「本当、なんでこんな」 それからは彼の独白が続いた。国民を守るために軍警察に入隊したこと、けれど国民に銃を向け続ける現状に耐えられなくなったこと、そして少しでも社会を良くしようと活動家の暗殺を始めたこと。 俺の知らなかったユーリの過去、そして内心がつらつらと語られていく。 俺は何も言わず、ただ静かに彼の声に耳を傾けていた。 彼を良かれと思ってヒルダは尾行したのだろう。そして彼女の選択は恐らく正解だった。ここで出会えるユーリという人間にここまでも愛情を注げるのだから。 一度射殺してしまった男と寄り添う夜が続く。 この心はアルフォドを愛していると知っているはずなのに、今だけはユーリの腕の中で身を任せてしまっても良いと思っていた。 俺と彼女の境界が近づく。 最初からそうなることはわかっていた筈なのに、何か大切な者を少しずつ失ってる気がして、俺は怖かった。 人は結局、何処まで残酷になれるのだろう。「本当、朝日って綺麗」 シャワーを一つ浴びて、見事朝帰りと化した俺は赤い空を広場で独り見上げていた。確かに感じた生の実感と、徐々に曖昧になっていく「俺」だった時の人格に戸惑いを覚えていた。 いや、戸惑いを覚えるのはきっとまだ覚悟が足りていないからだと思う。 ヒルダと一つになると決めた。一つになって肉体の主導権を取り戻し、アルフォドに会うと決めた。少しでも世界に抗って行く末を救うと決めた。 でも怖かった。 徐々に自分じゃ無くなっていく今が怖かった。 幸せで、濃密で、それでいて絶望を感じてしまう今が恐ろしい。 俺は広場のベンチに腰掛け、膝をそっと抱えた。この世界のどこかで俺を見ているであろう「彼女」に語りかけるつもりでこう言った。「自分が自分じゃなくなるって、こんなにも辛いことなんだね、ヒルダ」 返事は無かった。ただ己の眼から涙がこぼれ落ちるだけだった。「今だけ、ほんの少しだけでいいから泣いてもいいかな」 それからしばらくブリジットは泣いた。ヒルダの肉体で泣いた。すっかり泣き虫になってしまった自分に嫌気が指しながらも、こうして泣いている自分が本当の自分のようで少しだけ安心した。 世界は辛い。物語は悲しい。 それでも、諦めること無く、もう少しだけこの世界で生きてみようと思った。 アルフォドはベッドの上で涙するブリジットを見た。夢を見る義体はこうして涙する。 彼は昔のブリジットが戻ってきたような錯覚にとらわれて、久しぶりに笑みがこぼれるのを感じた。 意外と泣き虫だった、愛しいパートナーを気遣いながら。