相変わらず俺は、暗い暗い世界をさ迷っていた。 意識の本流が渦巻くそこで、俺は赤毛の少女に組み伏せられている。 彼女は妖艶に嗤い、胡乱に満ちた奈落より深い瞳で俺を覗き込んできた。「おめでとう、ブリジット。あなたは死なずにすんだわ」 唇の端を吊り上げて、白く薄い歯を見せながら彼女は告げる。俺は煩いと赤毛の少女を振り払おうとするが、万力のような呪縛の所為でそれがままならない。「暴れても無駄よ。あなたは私の身体――ヒルデガルトの肉体を依り代にしないと生きて生けないの。この世界ではあなたは私に逆らえない」 赤毛の少女――ヒルダの髪が俺の黒髪に混じる。彼女は組み伏せられていた俺を抱き起こしてこう告げた。「あなたはエルザという少女を一人犠牲にして生き残ったわ。残念ね、あなた自身の手でこの世界に残した唯一のものだったのにそれを亡くしてしまった」 ヒルダの笑みは魔法が掛かっていた。それが悪魔の、決して耳を傾けてはいけない類の囁きである事などとっくの昔から知っていたのに、俺は耳を塞ぐこともできず、ただただ取り込まれていくだけだった。「ねえブリジット。あなたはエルザの死に何を思う? 悲しみ、悲壮? それとも世の無常? 絶望? いやいや、あなたは人の死に悲しみを感じることの出来る全うな神経はもう無くしてしまった」 やめろ、と声を絞り出す。ヒルダはそんな俺が可笑しいのか更に笑みを深めた。 誰か、誰か俺の耳を潰してくれ。「ピノッキオが死んだときも、エルザが死んだときもあなたは悲しみを感じていないわ。あなたが感じたのは怒りだけ。それもこの世界全てに対する怒り」 ヒルダが俺の頬を撫でる。「恨みなさい、ブリジット。あなたから全てを奪っていくこの世界を。あなたが幾ら最善を尽くしても常に裏切り続けるこの世界を。そして復讐するの。この世界に、この世界を生きる全ての人間に」 魔法が掛かっていたのは笑みだけではない。 ヒルダの一声一声が俺の意識を犯し、麻薬のように全身に染み渡っていく。いくら抵抗しても無駄だった。俺はヒルダの甘美な誘惑を断ち切ることが出来ない。「殺して殺して屍の山を築きなさい。その先に何があり、世界に復讐しえたのか確かめるために」 あっ、あっ、とあたまをおさえる。 性的快楽にも似た興奮と、血と肉の匂いからなる暴力的衝動が入り込んでくる。それはヒルダの誘惑よりも遥かに鮮烈で、残酷だった。「ブリジット、殺しなさい。あなたはその権利がある。そして義務も。大丈夫、邪魔するものは全て壊せばいいわ」 衝動が全てを支配し、理性が蝕まれる。ヒルダの姿がぼやけ、全てを見失いそうになる。 とん、と世界が逆転する。 ヒルダに肩を押され、意識のそこから現実の淵に突き落される。 意識が朦朧とし、現実にある肉体に引き戻された。 悪夢というには心地よく、夢というにはおぞましい時間は、俺の心音をマークする電子音を境に終わりを告げた。 目が覚めて最初に感じたのは激痛だった。 やけどにも似たその感触の元を辿ると、右目だったところに触れた。 体液の滲んだ包帯に覆われ、最早そこから視界を得ることは出来ない。 ブリジットは右目を押さえ、全身に刺さっていた点滴を引き千切りながら身体を起こす。 そして痛みの次にやって来た凶悪な興奮と快感の波に飲まれる。 歯を食いしばり、残された左目で世界を睨む。 彼女は検査着にも似た患者服を引き裂かんばかりの勢いでで握り締めた。「ころして、やる……!」 瞳に宿るのは明確な殺意。 誰に向けられたわけでもなく、 誰にでも向けられたその憎悪は留まるところを知らない。