CFS症候群を患い、四肢が麻痺していた少女は両親が17枚の書類にサインしたことによって救われた。 彼女が11歳の誕生日に手に入れたのは自由に動く手足。 リコは今日も己の四肢が動く喜びを感じている。 端から見たらそれはきっと些細なことなんだろうけど、本人にとっては生きることよりも大切なこと。 俺は射撃場の隅で担当官に罵倒されている彼女を見る。 自分の四肢を見てみればそれは確かに動き、この手でもう何人も殺してきたことを実感する。 日本では考えられなかった日常に埋没していく自分を、何処か諦めた風に俺は眺めていた。「よくやったな。ブリジット。今日も満点だ」 今日の射撃訓練ではいつも使用しているMP5を使わずに、M4A1というアサルトライフルを使った。最初は9ミリ弾より大きい5.56ミリ弾の反動に戸惑ったものの、すぐにコツを掴み今では静止した的なら百発百中だ。「次にバーストで10秒間だ。見ているからやってみなさい」 言われてセミオートからフルオートに切り替える。後は的に銃口を向けて引き金を引くだけ。連続した銃声は聴覚保護のヘッドセットを付けていないと非常にやかましい。「どうやらそっちの義体は射撃については完璧らしいな」 いつの間にそこにいたのか、アルフォドの背後にジャンが立っていた。ジョゼの兄である彼はリコの担当官であり、義体を使った実働部隊のリーダー的存在でもある。俺は原作の彼も好きじゃなかったし、この世界で実際に見た彼も余り好きじゃない。「彼女の努力のおかげさ。ここに来た頃はハンドガンひとつ扱うのに苦労していたからな」 そしてアルフォドも彼のことを快く思ってないらしく、返事の仕方も他に比べてぞんざいだ。後から聞いた話だが、二人はもともと軍人時代の同僚らしく、その時から中々険悪な関係だったらしい。「そうか。ならその才能を少しでもリコに分けて貰いたいものだな」 俺の前に立ったジャンは少し眉根を寄せて俺を見下ろしてきた。俺は睨み返すわけにいかず、いかにも戸惑っているという感じに表情を形作った。「まあいい。それよりアルフォド、次の作戦の日取りが決まった。訓練は中止だ。直ぐにブリーフィングルームに来い」 ジャンの台詞に俺は思わず声を上げそうになった。正確な日にちが書かれていなかったから特定出来なかった原作イベントに、リコが政治家を暗殺するイベントがある。俺はアルフォドと星を見た翌日からそのことばかり考えていた。そう。転生モノでよくある原作イベントに介入するべきかしないべきかの選択だ。 俺は基本的に原作がスタートするまでは成り行きに身を任せ毎日を過ごしてきた。だが原作が始まりこれからの未来を知っている俺はそのままで良いのだろうかと思案していたわけだ。「ブリジット、先に帰って休んでいなさい。M4の分解清掃は今度教えるから、それは管理部に返却しておいてくれ」 わかりました、と俺はアルフォドに手を振る。ヒルシャーと別れてこちらに歩いてくるトリエラが視界に映った。介入すべきかしないべきか、そのことは今日一日を使ってじっくり考えることにした。「ねえ、ブリジット。君の好きなシフォンケーキなのに、全然減ってないね」 俺は部屋に置かれた丸机にトリエラと腰掛け、午後の茶会を催していた。確かに目の前に並べられた紅茶とシフォンケーキは俺の好物だが、今は黙々と食べていられる心境じゃなかった。「ブリジットは偏食だから、今食べておかないと後々お腹が空いたら大変だよ」 トリエラはほら、と私にケーキの欠片を突き刺したフォークを突き出してきた。俺は無視しようかとも考えたが、それではトリエラが可哀想なので黙ってケーキを頂くことにした。「体調でも悪いの? それとも何か悩みでもあるの? 何なら相談に乗ろうか?」 もぐもぐと口を動かしながら目の前に座るトリエラを見る。俺は彼女にどの辺りまで話してよいものだろうかと10秒ほど考えた。確かに彼女は信頼に足るから、かなり踏み込んだところまで相談することが出来るだろう。だが、公社の人間が条件付を悪用して個人の記憶を覗くという芸当が可能だとしたらそれは非常に危ない橋となる。「ねえ、トリエラ。もし自分が知っている未来があってその未来をもしかしたら自分の力で変えられるのだとしたらあなたは変える?」 結局俺は何でもない話題に見せかけて彼女に相談することにした。当たり前だが、自分が転生者ですと彼女にカミングアウトしても再び薬漬けにされて記憶を書き換えるだけなのでそのことには絶対に触れない。「未来を変える? うーん、変えた先の未来がより良い未来なら変えてもいいのかなぁ」「でも変えた先の未来が今より良いとは限らないわ」 そう、もし仮に俺がこれからの未来を変えたとしてもそれが皆にとって幸せな未来であるとは限らないのだ。もしかしたら原作よりハッピーな展開になるかもしれないし、逆に救いようのない、どうしようもない展開になる可能性もある。「そうだなあ、結局自分が知っている未来に自分が納得しているかどうかだと思うね。納得しているのなら放って置けばいいし、納得してないのなら変えようと努力してもいいんじゃないかな」 トリエラがそう言うのを聞いてやはりそんなものか、と俺はため息をついた。自分がこれからの未来に納得しているのかしていないのか、今度はそれを一日中考える必要がありそうだった。 彼女は私には無いものを皆持っている。それは黒の長い綺麗な髪だったり、身長だったり、或いは人を殺す技術だったりする。「ブリジット」 食堂に向かう廊下で前を歩いていた彼女に声をかけた。足を止めたブリジットはゆっくりとこちらを振り返り、私を髪と同じ色の瞳で見た。「何、リコ」 今思えばブリジットと二人きりで話したのは初めてのことだった。 食堂で食事を取っている二人は普段見ない組み合わせだ。一期生の義体の中でも一番大人びているブリジットと一番幼い雰囲気を残すリコ、身長差もあってか二人はまるで姉妹のようだ。「ブリジットはサラダやパスタは食べないの?」 リコはブリジットの前に置かれているトレーを一瞥してこう言った。確かにブリジットのトレーにはシチリア風の簡易ピザが乗っているだけで、リコからしてみればそれで足りるのか少し心配になってきた。「私は偏食だから。食べられるのはお菓子とシチリア風ピザ、あとはピラフだけ。私たち義体は食事なんて補助的なものだから別にそれでもいいの」 ブリジットが余りにもぶっきらぼうに言うのでリコはそんなものなのかな、と一人納得していた。こうして改めて二人で食事するとお互いの新しい面が見えてきてとても面白い。「ねえリコ」 次に口を開いたのはブリジットだった。彼女は口元についたケチャップを布巾で拭うと、そのまま自身が使った布巾でリコの口周りを拭いた。「リコは今、楽しい?」「え、楽しいけど」 リコにとって公社は11歳まで閉じ込められていた病室と違って、何でも与えられ何でも手に入る素晴らしい施設だ。言われたとおりにさえしていれば皆は優しく、何より自分の体があると実感できる。楽しくないわけがない。だが不思議なことに目の前でコーヒーを啜る年上の義体はどこか不満げな顔でこちらを見ている。「じゃあさ、もしリコを好いてくれる人がいたらそれは楽しい?」 ブリジットの質問の意味がリコには理解出来なかった。でも、ジャンに好かれることはリコにとっても大変喜ばしいことなので彼女はこう答えていた。「そういうのってよくわからないけれど……もし私なんかを好いてくれる人がいたら幸せだな」 リコの返答にブリジットは何も言わなかった。ただ彼女は懐から小さなチョコレートの包みを取り出すと、それをリコの前に置いた。「ご馳走様。楽しかったよ。またね」 トレーを抱え、席から去っていくブリジットをリコはずっと目で追っていた。 手元には甘いミルクチョコレート。「これ、どういう意味なんだろ?」 食後のジュースの変わりにチョコレートを口に含んだ彼女は暫く席を立つことはなかった。 ベッドの上で、トリエラがブリジットの髪をすいている。 最近トリエラはブリジットの黒い長髪がお気に入りだった。「ねえトリエラ」「ん、なに?」 ブリジットは背後にいるトリエラにそっともたれ掛った。トリエラはそれをしっかりと抱きとめると、そのままブリジットの頭を撫で始めた。「私、たぶん納得していないと思う」「そう」 トリエラの胸に顔を埋め、ブリジットは言葉を続ける。「私頑張る。これからも幸せなように」 トリエラはブリジットの頭を抱きしめることによって答えを返した。 夜が更けていく。 深夜を3時ほど回った頃だろうか。俺はトリエラと同じベッドに寝ていることに気がついた。 これがいつもなら手を出すべきか、触るだけに留めるべきかとひたすら悶々としながら時間を潰すわけなのだが今日は違っていた。「決めたからな」 決意は固まった。介入するにしろしないにしろ、俺は俺の出来ることをやって未来を作っていこうと思う。変えるのではない。1から作り出していくのだ。それはアルフォドもトリエラも、ヘンリエッタやリコも毎日のように行っていることで、この世界に生きる人々全てに平等に与えられた権利と義務だ。「生きていくと決めたから」 俺はトリエラに毛布をかけ直し、自分は空いているもう一つのベッドに潜り込んだ。ひんやりとしたシーツと毛布からはどこかしらトリエラの匂いがする。 明日のことを頭のどこかで考えながら、俺は眠りについていった。 ブリジットが再び寝付いたのを見て、私は彼女が潜り込んだベッドに近づいた。 月明かりの下、彼女の寝顔を覗きこむ。「何の夢を見ているんだろうね」 彼女は未だに過去の自分の夢を見たことが無いという。私はそんな彼女が羨ましくもあり、またそれはそれで悲しいことだと思った。「良い夢見られるといいね」 彼女の髪が寝癖にならないよう毛布の外に出してやる。 トリエラはその日、夜が明けるまでブリジットが眠るベッドに腰掛けていた。