結局のところ、自分がこの世界に残してやれたものは然程多くないと思う。 手元にあるこの体も、元は名前も知らない少女のものだし、頭の中にある記憶も虫食いや条件付けの改竄の所為で確実とは言えない。 あやふやなまま、あやふやに生きて、あやふやに死ぬ。 きっと俺が二度目に手に入れた人生はそういった順序を辿るように出来ているのだ。 その運命には逆らえないし、今更逆らうような気力も体力も残っていない。 俺に出来ることは甘んじてそれを受け取り、いつ死のうと決して文句を言わないことだけだ。 まあそれでも。 こんなあやふやでいい加減な俺が好きだという奇特な少女だけは、彼女が俺を許してくれている限り精一杯守ってやろうと思う。 一度は失敗して、トリエラと喧嘩別れしてしまったけど、 今度は、今度こそは、 俺のエゴで救い上げてしまったエルザ・デ・シーカだけは、 俺を愛していると告げてくれて、感謝していると言ったエルザだけは、 必ず守ってみせる。 何から? そんなの、とっくに決まっている。 彼女に降りかかる火の粉全てから。 彼女が敵と認める全ての対象から。 何があろうと。 GUNSLINGER GIRL ブリジットという名の少女 【復讐】 前から思っていたことだけれど、ブリジットはなんだかんだ言って、仕事道具の狙撃用ライフルがいたく気にいってるみたいだ。 私たちは港に設置された貨物用クレーンのフレーム部分に二人で腰掛けて、今夜行われるであろう武器や爆薬の密輸現場を監視していた。ブリジットはマガジンの抜かれたライフルをしっかりと抱きしめて、義体特有の強力な視力を持ってコンテナの群れを見つめている。「さっきから作業用車両に紛れて、不審なトラックが二、三台走っているね。あれかな」 私は手にした通信機にブリジットの台詞をそのまま伝えた。すると可能性大として、暫く待機するように告げられた。「どのコンテナに入っているかはまだ分からないから、奴らが開けるのを待てだって」「他のみんなは?」「トリエラたちは貨物に紛れて様子を伺ってる。リコたちはまだ後ろで待機」 ふーん、とブリジットは余り興味がなさそうだ。 彼女からしてみれば狙撃手という立場上、気を張り詰めていても良いことなど何もないらしい。まあ、密輸犯の検挙を邪魔する狙撃手をカウンターする役目を負わされているのだから、もう少し緊張感を抱いて欲しいが。「ところでブリジット、いつも思うんだけれどどうやったら狙撃が上手くなるの? 射撃は大分上手になったのだけれど、狙撃だけはどうしても駄目なの」 会話の内容はお互いに取り留めの無いこと。テロリスト無力化のコツや、美味しいケーキ、苦手な職員エトセトラ。「それはやっぱ練習かなー。アルフォドさんに付き合ってもらってずっとペットボトルのキャップを狙ってたから。後は体を機械? みたいに考えること。頭の中で未来を予測する」「未来?」「そう、風向きや湿度は当たり前だけれど、目標がどういった行動を取るか目標の気分になって考えるの。それをやるには身体がスパコンか何かになったと暗示を掛けるんだ。そうすれば大抵当たる」「……何か天才の感性に無理やり理屈をこじつけた感じね。ところでスパコンて何?」「スーパーコンピューター。略してスパコン」 いくら夏真っ盛りの7月とはいえ、海風が厳しいクレーンの上は上着無しで過ごすことは出来ない。私とブリジットはお揃いの黒いパーカーに顔を埋めながら話を続ける。「情けないけど、私最近になってようやっとブリジットの性格が読めてきたわ。意外と物知りなのね」「それって性格関係あるの? ……まあ、物知りというか雑学はあるかな。クラエス先生のお陰だね」「クラエスとはどうなの? トリエラみたいに顔も合わせない?」「残念ながら、いつも逃げ回ってるよ。大体公社にいるときはアルフォドさんの執務室に引きこもってる」 私はそれ以上とやかく言うことなく、何も持っていないブリジットの手を握った。それは私だけはここにいるという伝達でもあったし、温もりを伝え合う親近の意味もあった。「でもさ、今はこれでいいと思うんだ。ある意味自分の立場の再確認というか新しい船出みたいな意味で。色々と参ってしまっている故の安全策なんだけど」 海風に煽られて、ブリジットの肩口まで伸びた髪がゆらゆらと揺れていた。彼女の鼻筋の通った顔に埋め込まれた、黒曜石みたいな深淵の瞳が下界を見下ろしている。「いつか、仲直りはするの?」 きゅっと、ライフルを抱えた腕に力が込められた。それは怯えというより、もっと別の違った感情の発露に思われた。「まだその答えはわからないよ。そもそもどうして離別してしまったのかさえ忘れてしまいそうになるんだ。私が悪かったのか、トリエラが間違えたのか、或いは両方か。本当、何でこんな事になったんだろう」 にゃはは、と冗談めかしてブリジットが笑う。その姿でさえかなり様になっているのだから、彼女が相当の美人であることを私は再認識した。「おっと、少し雑談が過ぎたかな。自重しないと。……もしかして無線で向こうに聞こえていたかな」「多分聞こえないわよ。こんなに海風が強いし、私が懐に納めているんだもの。元々感度もそんなに良くないのもあるわね。まあ、余り役に立っていないか」 私も冗談めかして答えると、ブリジットは何処か気まずそうに目線を逸らした。 そこで私はここ最近彼女が毎回のように無線機を壊していたことを思い出す。 追求しようとは思わないが、ひょっとすると全てブリジットが故意に壊していたのかもしれない。「本当、不思議な人」 私の呟きがブリジットに届いたのかは分からない。 でも、私と握り合った白い手の平に少しだけ力が込められたのは、はっきりと感じていた。 ボルトアクション式ライフルのボルトを引く感触が好きだ。心地良い抵抗を解きほぐす様に引いてやると、機械独特の作動音と共に空になった長い薬莢が飛び出してくる。 隣で観察望遠鏡を覗くエルザが俺に指示を出してくる。 方位、風向き、風速等、狙撃に必要なあらゆる情報を口答で伝える。 カラン、とクレーンのフレームから眼下に広がる暗闇に落ちていった。 夜風が二人を洗っている。 ぶるる、と手元に巻いていた腕時計が震えた。バイブ式のアラームが作動したのだ。それは作戦開始の合図を伝えるものでもある。『各自フラテッロに伝える。F‐13にて複数台の不審なトラックを発見。ブリジット、エルザ組は検挙を妨害する狙撃手を仕留めろ。トリエラ、ビーチェは通達どおりトラックの強襲。ヘンリエッタ、リコは遊撃としてやや後方に待機。残りは全てバックアップだ』 エルザがブリジットの耳に通信機のイヤホンを当てた。ブリジットは一つ頷くと、抱えていたライフルのハイポットを展開し、スコープ倍率の調整を始める。「さて、エルザさん。君が軍人なら何処から狙撃してくる?」「理想は対岸のクレーンなんでしょうけど、大の大人が構えるには目立ちすぎるわね。あっちはこちらと違って人の出入りが多いわ」「なら?」「今朝から動く気配の無いあのタンカーかしら。今調べてもらっているけど、恐らく明日まではあのまま停泊している筈」 エルザが指差した先には比較的小型のタンカーが停泊していた。デッキには大小さまざまなコンテナが積まれており、狙撃手が紛れるには都合が良い。「私たちの場所移動の必要は?」「多分大丈夫。これでも上手く隠れられているつもりだし、このトラス構造上、下からの確認は困難だわ」「了解、それでは午後八時十七分現在、カウンタースナイピングを開始します」 赤外線暗視装置を起動し、スコープを覗き込む。エルザも望遠鏡を使ってタンカーのデッキを観測し始めた。 薄緑のレンズ越しに、目標を見つけるまで20秒と掛からなかった。「アルフォドさん、トラックを伺っている人影を二つ確認しました。武装は見えません」 エルザに目配せして、今度は通信機のマイク部分を口元に当ててもらう。チャンネルはアルフォドの持っている無線と同じ周波数に合わせた。 少しくぐもった返答がイヤホンから聞こえる。『民間人か?』 ブリジットはスコープ越しにもう一度二人組みを見た。息を潜めるように全く動かないので、その可能性は極めて低い。「いえ、動きが民間人のそれではありません。恐らく事前に探りを入れた空挺部隊の特殊部隊員かと思われます」『よし、狙撃手と観測手の区別が付くまでは絶対待機だ。観測手を殺しても狙撃手が生きていれば君達が反撃されかねない。落ち着いて事に当たれ』「分かりました」 がしゃん、とマガジンを差し込み、ボルトを引いた。引き金には指を掛けず、緑のレンズの中心に穿たれた赤い点を二人の男の真ん中に合わせる。 そして一呼吸置いたとき、眼窩に広がる暗闇から複数人の叫び声と銃声が轟いた。 始まった、とブリジットが呟く。 見ればトラックを守るようにして、武装した男たちがコンテナの陰に銃撃を続けていた。トリエラたちの強襲は成功とは言えなかったようだ。 私はブリジットの肩を叩き、タンカーの上にいる男たちから視線を外すなと告げた。ブリジットは引き金に指を掛けることで答える。「! 右側の男がライフルらしきものを所持、あれはM82バレット!」 男が足元から準備した得物に思わず声を上げる。ブリジットも度胆を抜かれたのか、うわっと声を吐いた。「不味い! あれはコンテナなんか簡単に貫通するよ! ブリジット早く!」 男たちが用意していたのはブリジットが使うレミントンみたいな対人用ライフルではなく、装甲車等を狙撃する対物ライフルだった。いくら義体と言えどもあれの直撃は即死を意味する。 ブリジットが風を読み、ターゲットポインタを狙撃手の男に合わせた。男はまだこちらに気が付かず、下の騒動に視線を奪われている。「ヘッドショットは不可、ハートショット、スタンバイ……スタンバイ――」 かたん、と引き金が半分だけねじ込まれる。 そして弾丸に内蔵された撃鉄が振り下ろされ――、 ドン! 一瞬、クレーンが揺れたように感じたのは錯覚ではなかった。 ブリジットとエルザの聴覚が捉えたその音は現実のものだったから。 突風による耳鳴り音が世界を塗りつぶした。「ブリジット!」 悲鳴に近い叫びを上げたのはエルザだ。クレーン周辺に吹いた突風は恐らく昼間の揺り戻しだ。 この状況下では狙撃は愚か、ライフルの発砲ですら間々ならない。 しかも不幸なことに対岸のタンカーには差ほど影響が無い風向きだった。 ブリジットは翻る前髪を押さえ、狙撃手の男たちを見る。彼らは既に狙撃のセッティングを終え、目標を吟味する作業に戻っていた。もちろん狙われているのはコンテナの影で責めあぐねているトリエラたちだ。「ブリジット!」 風に飛ばされぬよう、腰に巻かれた命綱を握り締めたエルザがもう一度叫んだ。それはブリジットが垂直に切り立ったクレーンのフレームにしがみ付き、再びライフルを構えたからだ。 ブリジットの体から伸びた命綱が風で揺れている。私はそれを手に取ると、彼女をクレーンのフレームに縛りつけた。 ブリジットが引き金を引いたのはほぼ同時だ。「エルザ、観測!」 弾着の様子まで確かめられないのかブリジットが私に観測を依頼した。私はしっかりと抱きしめていた望遠鏡を覗き込み様子を探る。「弾着確認、右1メートル!」 男たちの近くに開いた穴がそれの証明だ。男たちも突然の狙撃に浮き足立っている。 ブリジットがボルトを引き、次の弾を装てんした。そして直ぐに発砲する。「まだ! 右五十センチ!」 乱れる気流の所為で、ブリジットの弾着が定まらない。男たちも私たちの居場所を特定したのか、ブリジットが三発目を放つ前にこちらへ撃ってきた。「当たるか、そんなもの!」 向こうの弾丸はクレーンにかすりもしなかった。ブリジットがお返しに再び撃つ。しかし今度も弾際が逸れて命中弾にならなかった。「落ち着いて!」 ブリジットが四発目を装てんし、再び構える。向こうもこちらを殺すのに躍起になっているのか一向に引こうとはしなかった。こうなればどっちが先に当てるかのサドンデスルール。 ブリジットが引き金に指を掛ける。私は咄嗟にそれを声で制した。「待ってブリジット!」 ブリジットがぴたりと動きを止める。彼女はこちらを見ることなく「なに!」と問うて来た。「風が止むの!」 兆候はあった。がたがたと揺れている隣のクレーンに引っ掛けた観測用の布きれが大分落ち着いている。 そして耳鳴りのような音も無くなっていた。 刹那の瞬間は直ぐそこ。 凪と言えば良いのだろうか。 エルザの告げたとおり、全くの無風の状態が世界を変えてしまった。 音も何もなく、時ですら止まってしまったような錯覚を覚える。 狙撃に最も適したこの状況、 風向きは完全にイーブン。 高低さもライフルの性能でほぼイーブンとなる。 男たちも無風に気が付き、ブリジットの胴体に照準を合わせた。 ただ勝利はブリジットにある。 まだ彼女は引き金を絞っていない。それでも彼女の勝ちは確定していた。 技量とか性能差とかそんなものを飛び越えて、無風になることを知っていたブリジットとタンカーの男では如何せん、差がありすぎた。 狙撃手の義体が笑う。 銃声は二つ。 ブリジットの耳に、直ぐ左を抜けていく何かの音が届いた。 そして聞こえるはずのない、男の脳幹を爆散させたヒットの音も届いていた。 カラン、と排出された薬莢が足元へ消えていく。 エルザが静かに、命中と零した。 ダン! ともう一つ銃声が轟き、完全に狙撃チームを無力化した。柱に括り付けられたブリジットがふうと息を吐き、額の汗を拭っている。 エルザはその様子を視界に捉えると、弾けたようにブリジットへ抱きついた。「うわっ! うわわわわ!」「凄い! 凄いよブリジット! とってもかっこよかったわ!」 動けないブリジットに口付けの嵐を叩き込み、エルザは自身の頭をブリジットに擦り付けた。数時間前にお互い話した、何とも微妙なブリジットの狙撃論の意味がようやっと解った気がする 暫くエルザの熱い抱擁が続く。やがて、少し落ち着いた彼女は静かに口を開いた。「本当、凄いのね」 下から見上げてくるエルザがおもむろにブリジットの頭を抱えた。 ブリジットはこの後、自分が何をされるのか想像して、でも今回ばかりは逆らう気になれず、そのままされるままにしようと思った。 エルザが抱え込んだブリジットの後頭部に力を込め、二人の顔が近づいてく。 そっと、ブリジットが目を閉じる。 エルザとブリジットの影が一瞬だけ重なった。 こつん、 合わせられた額から、熱が体中に広がっていく。 ブリジットは間抜けな声を上げて目を開けた。そこには悪戯っぽく笑うエルザの姿があった。「あはは、キスすると思った? もしかしてブリジットってあれ?」「えっ、ちがっ、え!」 うろたえるブリジットを見て、エルザがさらに笑った。そして真っ赤中をしたブリジットの頭をもう一度抱き寄せてこう言った。「やっと、笑ってくれたね。やっと、私を見てくれた。あなたは、私の大好きなあなたのままだった」「あっ」 エルザがブリジットを縛り付けていた命綱を解く。開放されたブリジットはへたへたとその場に座り込んだ。「別にブリジットは足掻く必要なんてないんだと思う。だってブリジットはブリジットだもの。私の心を解き放ったように、あなたはいつも誰かに心を開いているわ。それはあなたにしか出来ない凄いことなの」 下ではまだ、銃撃戦が続いている。だがここでは静かな安らぎの空気が二人を待っていた。 ブリジットがエルザと向かい合って、口を開いた。「ねえ、エルザ。もしさ、君が好いてくれているこのブリジットがこの世界の人間じゃ無かったらどうする?」 無線で聞かれる心配は無い。そんなもの、さっきの突風で予備のマガジンごと下に落ちている。 その事実と、そしてエルザの慈母のような笑みがブリジットを大胆にしていた。 エルザはほんの少しだけその綺麗な双眸を歪めるが、直ぐに微笑みに表情を戻して、「そんなもの、こうするわ」 ブリジットの体を殊更強く抱きしめた。