もし仮に、元あった体に宿っていた本来の人格が完全に消されず、さらに別の人格が宿ってしまった場合、後から宿った人格と元からあった人格はどちらが肉体の主導権を得るのだろうか。 その問いに完全に答えられるものは恐らく存在しないだろう。 だがそういった、人類が持つ未知の領域に片足を浸してしまった哀れな少女がここにいる。 彼女は突発的にやってくる発作に苛まれながらも、自らに与えられた任を黙々とこなしていた。 その名はブリジット・フォン・グーテンベルト。 ヒルダ・フォン・ゲーテンバルトの肉体に、異邦人の魂を持つ世界にたった一人の亡霊だ。 暗がりの執務室、深夜過ぎに帰ってきたアルフォドはソファーをベッド代わりに睡眠を取るブリジットを見た。彼女の枕元には黒猫のヒルダが丸まっており、小さくにゃあと鳴いた。 ブリジットが寝苦しそうに寝返りを打つ。 アルフォドはそんなブリジットの手首を取って、脈拍を測り始めた。「発作はここ数日間見られず。バイタルも安定。薬を変えた途端にこれか」 ビアンキの説明ではブリジットの発作はある程度予期されていたものらしく、彼女の感覚神経を強化していた薬剤の投与を諦めることで一定の解決は見られた。ただし、副作用として半年以上前に彼女が訴えていた味覚異常がぶり返してしまった。このままでは味覚だけではなく聴覚や視覚などの他の五感にも影響を及ぼすため、早急な対策が必要とされている。「脈拍も一定してるし何より泣いていないのが幸いか」 それは夢を見ていない証拠。 ブリジットがここ最近訴えた症状の一つに夢の中での自己の消滅がある。他人の夢を覗き見ることは不可能であるため、あくまで推測でしかないが、公社の医師たちは発作による情緒不安定がもたらす悪夢の一種であると見ていた。 だがアルフォドはそのような戯言を何一つ信じていない。「元々の宿主をワザと殺して書き換えた人格なんだ。ビアンキが指摘した通り、もしも意識化のレベルで人格の剥離が起こっているのだとしたら、この子が見る悪夢の説明が付いてしまう……」 彼は前々からビアンキに聞かされていた仮説に頭を抱えるしかなかった。 本当にそうだとしたら、ブリジットの見る悪夢に根本的な解決手段はない。それこそブリジットという意識体の死をもってでしか悪夢を終わらせることは出来ないのだ。 だがアルフォドは思う。 そんなことはありえない。 そのようなことがあってはならないと。 アルフォドは「殺してくれ」と懇願するヒルダを見捨て、ブリジットという存在を自分たちの手で作り出してしまったその日から、彼女を最優先にして生きる道を選択した。 彼はブリジットの生に責任を持つが故、安易に彼女を死なす選択を選ぶことは出来ない。 それは極当たり前の事の筈なのだが、それでもこうやって自問自答しながら一つ一つ確認してやらないとブリジットに向き合うことの出来る自分というものは見えてこない。「……結局のところ、君は鏡なんだな。俺の犯した罪を映す鏡だ」 肩口で切りそろえられた髪を手に取り、アルフォドはゆっくりと指で梳き始めた。ブリジットがヒルダだった頃、この流れるような髪は元々燃え盛るような赤毛で、静かな美貌の顔立ちは、もっと動的で健康に溢れていた。 まさに昼と夜のようだと、アルフォドは感じていた。「んにゃ、……あれ? アルフォドさんですか?」 いつの間にか目を覚ましたブリジットが白魚のような細い指で目元を擦っている。のそのそと起き上がろうとする彼女を制すると、アルフォドはブリジットが被っていた毛布ごとその華奢な体を抱え上げ、彼がいつも休んでいる簡易ベッドに横たえた。「ソファーで、いいですよ」 まだ意識がはっきりとしないのか、とろんとした表情を見せるブリジットに苦笑する。 アルフォドは別に構わないとブリジットに告げ、ソファーに取り残されたヒルダをブリジットの枕元に運んでやった。 そして彼女が再び寝静まったのを確認して、そっと執務室に備え付けられたデスクにつく。 彼が鍵付の引き出しから取り出したのは生前のヒルダを綴った資料群。 ビアンキから受け取ったそれらをパラパラと捲り、気がついたことをページの余白に書き込んでいく。 彼が最近没頭しているのは爆弾の流通経路の推測でもなければ、五共和国派の動向調査でもない。 自分が責任を持つと決めた義体の少女の過去を少しでも学び、出来れば彼女のことを全て理解した上で共に生きていくことを願うのだ。 夜も更け、朝日が昇り始めるまで、 アルフォドはコーヒー片手に資料へ目を通し続けていた。 壁抜き、という技術がある。 ライフル弾などの貫通力が高い弾丸を使って、木材や石膏、果ては鉄板の向こう側にいる敵を狙撃する技術だ。 ブリジットが元来、この壁抜きを得意としていた。それは彼女が使用する銃が貫通力の高いアサルトライフルだったり、人一倍の射撃制度を誇っていたからだ。 だが、ここ最近の訓練では壁抜きが全くといって良いほど成功しない。 壁越しにM4をぶっ放しても、壁の強度を測り違え貫通しなかったり、貫通したとしても中に設置された的にはかすりもしていなかった。 ブリジットは自身のスコアを見て、感覚神経の鈍化がここまで作用していることに溜息を吐くしか無かった。「全然駄目かな」 バラック材とベニヤ板で構成された仮の建物から出て、教習訓練のスタート地点につく。 M4のマガジンを代え、ラックテーブルの上に置かれた閃光グレネードを補充した。胸元に掛かっているストップウォチを作動させ、室内に突入する。 バララ、と断続的な発砲音が当たりに木霊する。 ブリジットの訓練風景を、少し高いところに備え付けられた櫓からアルフォドとジョゼが監視していた。定期的に聞こえる発砲音と閃光グレネードの炸裂音に耳を傾けながら二人は会話する。「確実に影響が出ているな。今の彼女には身体が重く感じられるはずだ」「はん、技術部が色々と弄くったからだろう。元はといえば、彼女の感覚器が鈍った時点で薬の投与を止めればよかったんだ」 ジョゼはアルフォドの悪態を気にも留めずに続ける。「あの薬はクラエスで効果が実証されていた比較的安全なものだ。今回ブリジットが拒絶反応を起こしたのはもっと別の部分だと上は考えている。それか過度のストレスで彼女の体質が変化したかだ」「ピノッキオ戦で彼女の身に何があったか分かったのか?」「いや、通信機を潰した理由も、あれ程ピノッキオに固執した理由も不明だ。彼女を直接催眠状態に掛けて聞き出しても良いんだが、如何せん身体が持たないだろう。不安定な爆弾みたいなものだ」 銃声が止んで、建物からブリジットが出てきた。その顔は今日何度も見たのと同じように曇っており、直接聞き出さなくてもロースコアだったことが伺えた。「ところでブリジットが捕まえた地元マフィアの幹部――奴の証言で爆薬の流通経路が分かったのは本当か?」 アルフォドの疑問は先日捉えた活動家の話に移る。ジョゼは少し思巡した後、こう答えた。「エジプトからアレクサンドリアを抜けて海路でシチリア島、さらにベネチアに密輸されていた。元はアルジェリアの反政府組織が使っていた榴弾砲や軍用爆薬を転用したものだ。近々大きな取引がある。その現場を我々が押さえることになった」「軍は出ないのか?」「今回ばかりは軍も敵だ。内部に潜んでいる内通者はまだ完全に割り出せていない。軍に協力を要請すると内通者を伝ってパダーニャに情報が漏れる恐れがある」 テロに使われる爆薬の取引現場を取り押さえる。 口で言うには簡単なことだが、実際に遂行しようとなると難易度の高いミッションになる。当然のことながら軍が関与しているのであれば取引現場にいるのは戦闘のプロフェッショナルばかりだ。 義体の少女は大の大人に引けを取らない実力を持っているが、それでも負傷の可能性は常に付きまとう。「作戦の概要も決まっている。お前とブリジットはラウーロ、エルザ組と狙撃支援だ。仮に現場を敵のスナイパーが監視しているのならそいつらを仕留めてくれ」「狙撃ならリコでも出来るだろう。むしろ経験のあるリコを観測手に回したほうが良いんじゃないか?」「リコはヘンリエッタと組んで遊撃、現場を押さえるのはトリエラとベアトリーチェ。アンジェリカとその他は後方待機だ」「エルザラウーロ組と仕事をするのも随分と久しぶりな気がするが、ブリジットが何て言うか……」 組み合わせが変えられないことを悲観して、アルフォドが息を吐いた。「何かあるのか?」「いや、実はブリジット、最近どの義体とも仲が悪いらしくてな、少々浮いた存在になっているんだ。エルザとも喧嘩別れしてそれっきりらしい」「それは各担当官の裁量で解決しろ。命令で言う事を聞かせるんだ」「こればっかりは俺も命令しているよ。ブリジットや他の義体の命に関わるからな。まあ薬や環境が変わったことによる一時的なストレスだと良いんだけどな……」 ブリジットが再び準備を整え、訓練を開始した。 アルフォドは手元に置かれていた赤いボタンを取り上げ、ブリジットの訓練が一段落するのを待つ。 次に銃声が聞こえなくなったとき、訓練場にけたたましいブザー音が鳴り響いた。 ブザー音を聞いて、ブリジットは床に捨てかけた空のマガジンを空中で受け止めた。彼女はアサルトライフルの薬室に玉が残っていないことを確認し、ドットサイトの電源を落として近くの壁に立てかけた。 硝煙が髪に付かないように被っていたキャップもストックの部分に引っ掛けておく。「これだけは誰にも負けない自信があったのに……」 散々ロースコアを叩いたためか、彼女の声色は自嘲に満ちていた。 だから外から入ってきたアルフォドの「調子はどうだ?」という台詞にも、思わず素っ気無く答えてしまった。「見て分からないんですか」 アルフォドが「すまない」と頭を掻く。ブリジットはアサルトライフル――M4を彼に返却し、外に置いてあったスポーツドリンクを口にした。「まあ誰にでもスランプはある。今は焦る必要なんか無いさ」 アルフォドも同じボトルでドリンクを飲んだ。彼はブリジットの頭を乱暴に二、三回撫でると先に車に戻るよう指示した。「そうさ、誰だって上手くいかないことの方が多い」 ラックテーブルを片付けながら紡がれた台詞は、ブリジットの耳には届かない。 アルフォドは足元に転がっていた空薬莢を蹴っ飛ばすと、無造作に捨て置かれたブリジットに使われた的紙を見た。 的紙に穿たれた穴は全て真ん中の5センチ径の黒丸を避け、外側の黒線に集中していた。 一期生が緩やかに終焉――つまり義体化によって先延ばしにした寿命を使い果たそうとしている頃、彼女たちに使われた様々な技術の集大成である二期生の製作が実しやかに進められていた。 整形を必要とするものや、高度な精神の再構成を望まれるものは全てブリジットのデータを参考にされている。 その点においては、彼女がこの世界を生き始めて他人の役に立てた数少ない事象の一つだ。 もちろんブリジットはそのような事実を知ることなく今日を生きている。 彼女は自身の存在意義と戦い続け、亡霊の有り様を否定しようとしていた。 だが同時期。 モスクワのバレリーナ学校に、自身の足に出来た悪性腫瘍、ガンに蝕まれ亡霊の領域に踏み込もうとしている少女がいた。 将来的にはペトリシューシュカと呼ばれる赤毛の彼女が、今後ブリジットと深い関わりを持つことに誰も気が付いていない。 それはブリジット本人さえも。 IL TEATRINOと呼ばれる廻る舞台から抜け出せないままでいるブリジット。 そして舞台に縛られたブリジットを救おうと動くエルザ。 必然的に、舞台の残滓にその身を沈めるペトリューシュカ。 彼女たちによる新しい協奏曲は今まさに始まった。 ブリジットという名の少女【GUNSLINGER GIRL】 第二期 泡沫の日 終章 了 Next Episode 復讐鬼