ピノッキオの事件から全てを亡くした俺は、地獄の日々を生きている。 自分の居場所なんて何処にもない、空ろで胡乱な地獄の日々。 でもその日々は今から考えると、自分では気が付かなかっただけである意味では幸せだった。 それは四ヶ月前のこと。 まだペトラを初めとする二期生が一人もいなくて、アンジェリカも今よりずっと元気だったころ。 そこにあった日常はまさに泡沫の日々だった。 四ヶ月前、社会福祉公社 望まなくても朝は来る。ブリジットはアルフォドの執務室のソファーで、遮光カーテンの隙間から覗く朝日を見て今の時間帯を知った。 昨日アルフォドは帰ってこなかったのか、部屋には自分ひとりしか居た形跡がない。 彼女はのそりと起き上がると、自分を覆っていた毛布を脱ぎ、寝巻を脱ぎ、包帯で所々を巻かれた肢体を顕にした。 そして全ての包帯を床に捨てると、それらを纏めてゴミ箱に廃棄し、新しい下着とシャツを持って執務室に備え付けられたシャワールームに向かった。 薄暗い部屋の中では、絶え間ない水音だけが聞こえる。 アルフォドが残業から帰宅したのは早朝の六時過ぎだった。ベタ付くシャツを手っ取り早く脱ぎ捨て、シャワーを浴びようとするが、部屋の中には先客がいた。 バスタオルを頭から被り、ソファーの上で本を読むブリジットの姿が目に入った。「おはよう御座います」 一瞬だけこちらを見たブリジットは直ぐに本に視線を落とす。どうやら児童向けの小説のようで、時折可愛らしい挿絵が姿を覗かせていた。 アルフォドは一端シャツを脱ぐのを諦め、戸棚から救急箱を取り出すとブリジットに包帯を手渡した。「もう殆ど完治しているが、今日だけは念のためだ」 ブリジットは素直に受け取り、手馴れた様子で包帯を自身の左腕、その他足のももや、首元に巻いていく。アルフォドは冷蔵庫にあったミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。「今から一時間後にMP5を持って駐車場に来てくれ。今日はパダーニャ(五共和国派)の摘発を行う。殺す必要はないと思うが万が一もある」 服を着直したブリジットがわかりましたと告げ、部屋を出て行く。アルフォドは溜息を一つつくと、まだ湯気が漂っているシャワールームに足を踏み入れた。 ブリジットが向かった先は食堂だった。早朝のため、まだ人もまばらでメニューもそれ程揃っていない。ブリジットはピザを一切れトレーに放り込むと、手身近な席に腰掛けた。「あら、おはよう。ブリジット」 そんなブリジットに声を掛けたのはエルザだった。パンと温かいスープ、シーザーサラダをトレーに入れた彼女はブリジットの席の正面に着いた。「今日は少食なのね。ダイエット?」「……仕事があるから。それに食欲がない」 ピノッキオの件があって約二週間、ブリジットの話し相手はアルフォドとこのエルザに限定されていた。互いに離別したままのトリエラとは顔も合わせず、クラエスとも暫く会っていない。ブリジット自身、エルザにも出来るだけ会わないようにしているのだが、エルザが何処までも追いかけてくるので、然程意味はなかった。「体調が悪いなら直ぐにアルフォドさんに言わないと……。あと仕事気を付けてね」 ピザを食べ終え、席を立つブリジットにエルザはそう言った。 ブリジットは何処か罰の悪そうな顔をすると、そそくさと食堂を出て行く。 もう何度も繰り返されてきた光景がそこにあった。 「ブリジット、青いシャツの男が今回のターゲットだ。奴が駅のロッカーに荷物を入れる瞬間を取り押さえるんだ。ただ出来るだけ殺さないでくれ。こちらで拘束して、これからの検挙に繋げたい」 駅のターミナルに備え付けられたバルコニーから、プラットホームを行きかう人々を二人は見下ろしていた。ブリジットは手にフルーツジュースが入ったカップを手にしており、時折啜っては咀嚼していた。「自爆する可能性は?」「奴はあくまで運び屋だ。中身については多分知らないし、信管もまだ付いていないだろう。もし他に仲間がいて、証拠隠滅の為に吹き飛ばそうものならここでも危ないがな」 ブリジットは指定された男の挙動を見つめる。上方向へのエスカレーターに乗り、人の波に従って駅の入り口に向かっていた。「行け、ブリジット。俺も後から追う」 開始はその一声だった。 バルコニーの階段を飛び降り、エスカレーター脇の階段を駆け上がる。男が鞄を抱えたままコインロッカーが並ぶ、ターミナルからは死角になる通りに入った。 ブリジットは足音を押し殺し、男の後ろに付く。 そして肩を叩いた。「ん? 何?」 ブリジットの正体に露とも気が付かない男は、人当たりが良さそうな顔を貼り付けて振り返った。ブリジットも同じように笑顔を返すと、徐に手にしていたジュースのカップを胸元に持ってきた。 そして、勢い良く握りつぶす。「うおっ!」 不意を突かれたのは男だ。目にジュースが入り、視界を奪われた男は闇雲に暴れる。だがブリジットは軽く男の手首を捻り上げると、床にねじ伏せ膝で背中を押さえつけた。 腰から拳銃を抜き、鷲摑みにした男の頭に突きつける。「動くな。バックから手を離して大人しくしろ」 威圧を込めた声色で男の髪の毛に銃をねじ込む。すると本能的に恐怖を感じたのか、男は体を強張らせて動かなくなった。「ブリジット、良くやったぞ」 拳銃を片手に追い付いて来たアルフォドがバックを拾い上げた。注意深く中身を見てみると、何本かのプラスチック爆弾に、起爆用の有線コードが入っていた。「間違いなく最近出回っている型だな。おい、お前。これは何処で手に入れた」 ブリジットが男の髪を掴み上げ、アルフォドに向かせる。男は何も知らないと首を振った。だがそんな反応は想定済みだったのが、アルフォドはブリジットに一つ合図を送る。 彼女は男の腕を一本取り上げると、自分の足を支点にして思い切り引き抜いた。間接から引き剥がされた男の腕が軟体動物のような方向へ捻じ曲がる。「あああああああっ」 痛みに耐えかねて、男は情けない叫び声を上げた。ブリジットが表情一つ変えずにもう片方の腕を取り上げると、遂に男が口を割った。「ここ、この爆弾自体はローマのブローカーから手に入れた! でも奴の名前は知らないんだ! 信じてくれ!」 ブリジットが手に取った腕に力を込めていく。「あああ! 本当だ! 本当に知らないんだ!」 痛みと恥辱で泣き喚く男を見て、ブリジットとアルフォドは嘘を付いているようには見えなかった。どうやら公社の手に入れた情報とは違って、この男は末端もいいところらしい。 アルフォドが別に待機していた職員に連絡を取ると、その日の捕り物はそれで終了となった。 最近、政府の機関がある建物を狙った爆破テロが頻繁に報告されている。 そこに使われる爆薬は海外からの密輸物だったり、軍が横流ししたTNTだから尚太刀が悪い。 ブリジット達に回ってきた任務は、そんな爆薬がどのようなルートを使って活動家たちに流れているのか突き止めることである。 本来は軍の特殊部隊の仕事なのだが、今回は軍の一部関係者も関わっている以上、社会福祉公社しか実質的に活動できる軍事力を持った組織は存在しなかったのだ。 怪我から復帰したブリジットは自動的に、活動家の検挙の現場に動員されていた。「結局今回も駄目でしたね」 無駄足に終わった捕り物の帰り、ブリジットは買い直して貰ったジュースを飲みながら駅の駐車場で車のボンネットに腰掛けていた。 アルフォドはノートパソコンを同じくボンネットに広げて、何処かに通信している。「流出ルートが幅広いから重要人物の絞込みがイマイチ出来ていないんだ。こうなったら虱潰しにやっていくしか……」 アルフォドの台詞はそこで途切れる。 何故なら駅から見て東の方角から爆音が聞こえたかと思うと、濛々と黒煙が空に上がり始めたからだ。 直後、アルフォドの携帯電話にジャンから通話が掛かって来た。『やられた、行政機関府だ。そちらから現場は確認できるか?』「ああ。良く見えてる。……お前たちは今何処にいる?」『駅ターミナルのテラスだ。今から俺も現場に向かうから、お前も急いでくれ』 通話が切れ、アルフォドがノートパソコンをしまいだした。ブリジットもボンネットから降り、助手席に座り込む。「悪いがブリジット、帰りは少しだけ延長だ」 黒のアルファロメオが発進する。ブリジットはダッシュボードの下でMP5の薬室を引いていた。 慌しい一日が終わって、ブリジットはアルフォドの部屋に帰ってきていた。 爆発現場には犯人特定に至るものは何もなく、駆けつけただけ無駄だった。アルフォドは担当官の報告会か何かで今日も遅いという。 ブリジットはいつもそうするように、毛布を一つだけ被るとソファーに倒れこむようにして休息を取った。最近、睡眠時間が徐々に増えていて、ビアンキに相談するかしまいか迷っているのだ。「疲れてる、だけなのか」 横になっていると、どうしても抗いがたい睡魔が襲ってきて、ブリジットは直ぐに寝息を立て始める。 アルフォドが部屋に帰ってきたとき、彼女の目尻は薄っすらと濡れていた。 夢だと認識したまま見る夢がある。 自分はブリジットで、黒い髪を肩口辺りまで伸ばしている。 もともと腰に掛かるくらい長かったけど、ピノッキオに切られてしまった。 ここから、少し遠く離れた渦の向こう、赤毛の少女がこちらを見ている。 彼女との距離は夢を見るたびに近づいていて、俺の体――ブリジットの体は渦に飲まれ、だんだんぼやけて来ている。 漠然とした頭の中だけど、 もう直ぐ、何もかもが終わりの気がした。 泡沫の日々は望まなくともやって来て、そして過ぎ去っていく。