「酷い有様だな。ブリジット」 二階に上がってきたアルフォドが開口一番こんなことを言った。どうしたものかと自分の姿を見て見れば上半身は返り血で、両手と腹周りは男を尋問した時についた鼻血やら前歯やら肉片やらで真っ赤に染まっていた。「ほら、これで拭きなさい」 アルフォドが差し出してきたのは白いハンカチーフだった。俺は頬が赤くなるのを感じながらそのハンカチーフを受け取ろうとして手を伸ばす。だが視界に映った赤黒い左手を見て動きが止まった。「ん? どうした」 俺はそのハンカチーフに伸ばした手をそっと引っ込める。アルフォドは気分でも悪いのか? とか、怪我でもしたのか? と心配そうに近寄ってきた。俺は首を小さく振ると一歩だけアルフォドから離れた。「アルフォド、かわいい君の娘は綺麗なハンカチを汚したくないんだよ」 本部に連絡を終えたヒルシャーが軽口を叩く。生真面目そうなドイツ人のこの男はトリエラの考えている事は何もわかっていない癖に、俺の考えている事は的確に指摘してきた。「何だ、そんなこと気にするな。それよりほら、綺麗な顔が台無しだ」 基本的にリーチはアルフォドのほうが長い。あっという間にアルフォドに肩を掴まれると、そのまま抱き寄せられて顔をハンカチーフで乱暴に拭かれた。 男の時ならそれこそ吐き気を催すような光景なのに、義体となって条件付けをされた今では嬉しさと愛情しか浮かんでこない。「アルフォドさんて女誑しなんですね。ほら、ブリジットたら顔が赤くなってる」 トリエラが指をさして笑った。俺はいつか仕返ししてやると心に誓いながら顔を背ける。肩にかけたMP5がゆさゆさと揺れる。「今のうちに甘えときなよ。また直ぐに仕事が始まって忙しくなるんだから」 トリエラの台詞に俺はこれからのことを考えた。もう五分も経たないうちにもう一つのアジトでヘンリエッタやリコ達の突入が始まるのだろう。原作通りに事が運び、皆が無事に帰ってくることを考える。 クリスマスも近い冬のある日、俺は改めて自分のいる世界というものを実感した。「ヘンリエッタ!」 トリエラと並んで歩いていたらとぼとぼと一人歩くヘンリエッタを見つけた。ボブカットのこの小さな女の子はジョゼという担当官の義体だ。 面倒見の良いトリエラはヘンリエッタの様子がおかしいことを悟って駆け足で近付いていく。「リコから聞いたぞ。また大暴れしたんだって?」「うー……うん。ちょっとかっとなっちゃって」 どうやらヘンリエッタは、担当官のジョゼが五共和国派の人間に手荒に扱われたことに腹を立てて銃撃戦を始めてしまったらしい。トリエラは少しだけ驚いたような顔を見せたが、俺はその話を聞いても原作通りに事が進んだのかと安心するだけで、姉妹のように肩を並べて歩くトリエラとヘンリエッタを後ろから眺めていた。ジェラートを咥えて。「トリエラ、どうしよう。ジョゼさんに嫌われちゃった」 ヘンリエッタが不安げに呟く。トリエラはそんなヘンリエッタの肩に手を置き、そんなことはないと励ます。「よし、なら私の部屋で一杯やろうか」 トリエラの突然の提案にヘンリエッタが驚く。「一杯?」「そう。紅茶とケーキには幸せの魔法が掛っているの。それにブリジットがたんまり貯め込んだクッキーやらチョコレートがあるからちょっとしたお茶会になるよ」「え? でもブリジットが良いと言わないと……」 トリエラとヘンリエッタ、二人して俺に振り向く。レモン味のジェラートをぺろぺろ舐めていた俺は二人の視線を真っ向から受け止めた。「ごめんね。駄目なら別にいいから……」 ヘンリエッタが困ったような顔で笑った。俺は外見こそ表情を変えていないように見えるが、内心は元男でオタクだったころの性癖が災いして、今にも飛びかかりたいやら抱きしめてやりたいやらで大変なことになっていた。「ブリジットー、たまには良いんじゃない?」 トリエラがウィンクをし片手を挙げて俺に頼み込んでくる。ああもう、この溢れんばかりの少女愛も条件付きで封印されれば良かったのに。 まあ、貯め込んでいる菓子も俺が買ってきたものではないし、アルフォドが差し入れてくれた物なので彼女らに分け与えること自体にはそれ程抵抗はない。 だから俺は数秒間を空けてこう言った。「わかった。チョコでもクッキーでもビスケットでも好きなの食べていいよ」 ため息をつきながらの一言だったが、二人は大層喜んで、そのまま俺とトリエラの部屋まで先に向かって行った。義体といえどもやはり彼女らは少女であることを酷く感じさせる光景に俺は頬が緩むのを感じる。出来ればこのまま穏やかなる日常が永遠に続けばいいのにと空に願った。 茶会の時間はあっという間に過ぎて行った。 ただ、ヘンリエッタは味覚が鈍り始めているのか矢鱈と紅茶に砂糖を足しているのが気になった。 自分もいつかはああなるのかと思うと、少しだけ将来を考えるのが億劫になった。 そろそろ眠りに就こうかとベッドに腰掛けた時、俺たちの部屋をアルフォドが訪ねてきた。ちなみにトリエラはシャワーを浴びに行っているのか部屋にはいない。「どうしたんですか? アルフォドさん」 俺が毛布を抱えながら問うと、アルフォドは外着に着替えて宿泊棟の裏庭に来なさいと答えた。どうやら星を見るようで彼は星座の位置や惑星の軌道が書かれた空地図を持っていた。 俺は了解の意を告げると、彼に初めて買ってもらった黒いフェルトのコートを羽織って裏庭に出て行った。 ジョゼが天体望遠鏡を屋上に運んでいるのを見たのが、全ての始まりだ。 彼に理由を問うと、ヘンリエッタが責任を感じて落ち込んでいるので天体観測でもして気を紛らわせようとしているらしい。俺はその話を聞いて、自分が担当する義体――ブリジットのことをすぐに思い出した。 生憎ジョゼのような立派な天体望遠鏡は用意できないが、せめてハイスクール時代に学んだ星座の知識で彼女を喜ばせようと考えた。 俺が彼女とトリエラの部屋を訪れるとトリエラはおらず、ブリジットも毛布を抱えて寝る準備をしていた。今から外に連れ出すのを一瞬躊躇いかけたが、どうしても彼女に星を見せたいという願望を拭い去ることは出来ず、結局裏庭に出てくるよう彼女に告げた。「寒いから早くこちらに来なさい」 俺はブリジットが裏庭に現れたのを見つけ、こちらにくるように手招きした。簡易テーブルを広げたそこには彼女の大好きな温かいミルクコーヒーとシナモンの利いたクッキーが並べてある。「ほら、オリオンだ」 暗闇の中、彼女にマグカップを手渡した俺は夜空を指差した。指先に広がる大きな黒はまるでブリジットの長い髪のようだった。「こうして星を見るのは初めてだな」 俺の台詞に彼女は首を縦に振るだけで答えた。マグカップを決して大きくない手で覆いながらブリジットは俺に身を寄せてくる。「なあブリジット、トリエラとは仲良くしているか?」 彼女は何も話さない。ただ俺が一人で彼女に語りかけているだけだ。 ブリジットがそっと、俺のそばを離れる。 カップを足元に置いて、彼女は両手を夜空に伸ばした。「アルフォドさん」 初めて彼女の口から聞いた言葉は俺の名前だ。 彼女は夜空に手を伸ばしたまま続ける。「今日はありがとうございます」 俺は彼女の後姿を見て笑った。長い髪が少しだけ風に靡き、夜の世界に溶け込んでいる。 二人で見上げた星空をブリジットは何時まで覚えていられるのかはわからない。 でも今はそれでいいような気がしていた。